最終更新日(Updated)'05.12.13
 

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第604号)
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・しらをびのうた  栗林こうじ (とびら)
・季節の一句    梶川裕子
一成就(主宰近詠)仁尾正文  
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(仁尾正文選)(巻頭句のみ)
       
小川惠子、横田じゅんこ ほか    
14
・白魚火作品月評    水野征男 40
・現代俳句を読む    渥美絹代  43
百花寸評    今井星女 46
・俳誌拝見(岳)    吉岡房代  49
・こみち(柿の木)   辻すみよ 50
・ウエップ俳句通信転載  51
・隼           上村 均  52

句会報 風交会(群馬県)

53
・エッセイ(随筆)    松田千世子    62
・今月読んだ本        中山雅史       54
・ 今月読んだ本      佐藤升子      55
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ)
     西田美木子、安部弘範 ほか
56
白魚火秀句 仁尾正文 106
・窓・編集手帳・余滴
       


 鳥雲集 〔白魚火 幹部作品〕       

一部のみ。 順次掲載

 


   椿 山 荘   安食彰彦

朱の橋をこつこつ渡る秋思かな
護美箱も社造りや秋黴雨
秋黴雨鯉の背鰭の波立つる
さはやかに鯉のくるりと向きを替へ
明日咲くか池のほとりの曼珠沙華
椎の実を二つ見つけし散策路
素戔鳴尊に叱られ逃ぐる野分かな  


  

 曼珠沙華     鈴木三都夫

鞘払ひ風の芒となりにけり
灘鎭め月泰然と昇りきし
彼岸寺白仏心の曼珠沙華
コスモスの話掛けくる風の中
山城の水堀涸れて昼の虫
栗の毬栗の色して弾けそむ


  信  州     関口都亦絵

秋夕日鴉ねぐらに帰るころ
紅淡く古城のほとりこぼれ萩
里山の空を十字に去ぬ燕
色変へぬ松霊廟の五輪塔
山の子のくれし通草のほの甘し
稲刈るや畦の日なたにねまる猫


 関口芭蕉庵寺  澤 朝子

神田川親し秋蝶岸に飛び
シスターへ返す会釈やいわし雲
破れ芭蕉破れて塀越す芭蕉庵
ふる池の句碑を隠してしだれ萩
木の実落つ胸突坂を登り来て
不忍の池にも雁の渡るころ

  



  草 虱  野口一秋

十六夜の篠突く雨となりにけり
竿胼胝の十指が疼く鮎の秋
霧降のリフト秋草薙ぎて着く
返り咲く河骨嬰の拳ほど
つまみとる会津旅塵の草虱
乱心のごとぶつかれる鬼やんま


 とげ抜き地蔵  笛木峨堂

鎌原に林火の句碑や秋澄めり
一位の実真赤に熟れし観音堂
御手植の松に空蝉しがみつく
一茶館より持つて来し秋思かな
小鳥来るとげ抜き地蔵の大銀杏
台風の余波の巣鴨をたもとほる


  曼珠沙華  福村ミサ子

秋夕べ祝賀の楽に酔うてをり
東京はビルの樹海や鳥渡る
ひよろひよろとせる東京の曼珠沙華
ビルの間を日の倒れ来しねこじやらし
宝前の虫に五感のほぐれゆく
夕鵙や巫女賽箱を下げ戻る


  秋ざくら 松田千世子
都庁前すつくすつくと彼岸花
再会を喜び合ふも萩の頃
コスモスに近づいてくる鼓笛隊
コスモスや地球はいつも騒がしき
風の中踊らざるなし秋ざくら
くちなはの一瞬の性見たりけり
 
 

白光集 〔同人作品〕 巻頭句

 
 仁尾正文選


小川惠子

威銃雀がゐてもゐなくとも
音消して明かりを消して良夜かな
誰も来ぬ一日ありけり秋風鈴
七七忌家紋の桔梗活けてあり
蜩や藩主の墓は寺の奥


  横田じゅんこ

鈴虫の息の長さを競ひ合ふ
舫ひ綱軋みては張る月夜かな
秋風の中の雀と子の墓と
東司より不意に飛び出す飛蝗かな
目玉だけ定かに残る鵙の贄


白魚火集〔同人・会員作品〕 巻頭句 

           仁尾正文選
  
     
  
江別 西田美木子   

ただ眠る父の爪切る葉月かな
さやけしや農一筋の生涯を
親族の多き父なり望の月
父のこと語り明さむ月今宵
野送りの大人数や秋気澄む


         松江 安部弘範

神在はす峡を覆ひし朝の霧
出雲晴れ石見は霧の底にあり
山霧の風より迅く流れゆく
朝霧に村は溺れてゐたりけり
むかしから霧にも馴染む暮しあり



 白魚火秀句
仁尾正文

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ただ眠る父の爪切る葉月かな  西田美木子

 病床などで静かに眠っている父の爪を切って上げている句かと最初は思った。ところが読み進むうちに、これは死装束の足袋を付けるためであることが分った。
 私たちの殆どは肉親と死別の経験を持っている。そうした俳句も随分と見てきたが、トーンの高低に係らず、自らの身に引き寄せて読むので作者の悲痛がしみじみとする。
 今回の一連の五句はいずれも低声である。父死去の悲しみを抑えに抑えているからだ。だが、どの一句にも抑え切れないものが滲み出て読者の胸にこたえてくる。亡くなられた父君は穏やかな人柄で、よい生涯を送られたような印象が残る。用言が少なく静かな詠みぶりによるからであろう。

 威銃雀がゐてもゐなくとも  小川惠子
          (白光集)
 私共が子供の頃の威銃は、長さ一・五メートル程の孟宗竹の節を抜いて、底の節にカーバイトを入れ水を注いでアセチレンガスを発生させ、竹筒に穿った穴から点火すると轟音が鳴った。稲雀の跳梁する所へ向け撃つので雀はふためいて逃げ去り暫くは稲田に近寄らなかったものだ。
 だが、現在は掲句のような威銃の景である。ガスボンベを据え、定量のガスを流し、タイマーにより電気点火をする。無人化されているが正確な間隔で時間が来る狂いなく鳴る。「雀がゐてもゐなくとも」だ。機械的な威銃に稲雀の方も馴れてドンと一発鳴ると、ぱっとお愛想に飛び立つ。が、すぐに稲に下りてくる。
 鳥追人や鳴子は見られなくなったが、威銃や案山子や各種の鳥威しは今も多く見られる。人々と稲雀とのひしぎ合いは稲作が続く間は果てそうにない。

 神在す峡を覆ひし朝の霧 安部弘範

 一連五句の季語はすべて霧である。習作過程の未完成作を並べられたような気がして、本来は嫌いである。が、この五句はよく練られていて一句一句の味わいがそれぞれであったのでこの位置に推した。
 掲句は「神在す峡」というから出雲大社や佐太神社は想いの外にある。「八雲立つ」と詠まれた大東町や三百五十八本の銅剣が出土した荒神谷、三十九箇の銅鐸が出た岩倉などが真先に浮ぶが、神話の国出雲であるから「神在す峡」はどこにでもある。朝霧に覆われた山峡は出雲国すべてを言っているのかもしれぬ。「高山の御霧、低山の御霧」は出雲の山河をすべて清浄にしているかのようだ。

 目玉だけ定かに残す鵙の贄  横田じゅんこ

 肉食の鵙は昆虫や蛙、とかげ等を食う。これらを捕えて木の枝などに刺して後で食う積りが忘れてしまったものが鵙の贄。高い木の枝先などを想像していたが、わが家の槙垣に見つけて驚いたことがある。目線の高さで贄はとかげ、口を鰐のように開いていた。
 掲句は忘れ去られて久しい鵙の贄。目玉が定かである外は骨と皮だけになっていた。 
  逆らへばまだ恐ろしき生身霊  鈴木千恵子

 女性の平均寿命が八十五歳半ばとなったというから心身健やかなお年寄りは多い。傘寿を越えても敬老会にあえて出ない人も結構居る。掲句の主人公である生身霊も意気軒昂で、逆らうとこっぴどくやられる位怖い存在である。だが、言葉とは裏腹に作者とこの生身霊は遠慮のない親しい間柄なのである。

 枝折戸の静かにもどる萩の雨  飯塚比呂子

 白魚火六百号記念俳句大会は東京の椿山荘で盛会裡に催された。都心とは思えぬ、静かで緑の豊かな庭園がこの荘にはあった。掲句も園内の茶室であろう。開いた枝折戸が萩の雨の中音もなく閉まろうとしている。いかにも日本的な雅趣を日本人である作者はしっかりと受け止めたのである。

 ケータイで謝つてをり夕月夜  藤元基子

 「携帯」を携帯電話の意味に使った俳句は採らなかった。何れ国語に認知されるであろうが今は未だ認められていない。だが、掲句の「ケータイ」というのは随分と目につき万人に分るようになったので保守的な選者も認めることにした。「ケータイ」という新しい日本語が出現したといえる。

 幌馬車で十五分なる花野かな  早坂あい女

 作者は札幌在住。西部劇に出てくるような幌馬車がまだあることがうれしい。そして馬車に一鞭当てると僅か十五分で花野に到着するということが更にうれしい。掲句、あるいは思い出の中の一齣かもしれないが、表現された作品は現在只今のもの。創作の過程は発表作品には何の関係もない。

 二十年通ひ詰めたる風の盆  土屋 允

 昨年の京都大会懇親会の余興でこの作者は黒の法被、綾藺笠等完全ないで立ちで見事に風の盆の踊りを披露した。選者も感銘を久しくしたが、二十年間中津川から越中八尾へ通い詰めであったという。まさに「うべなるかな」だ。

 いなびかり彼方は越か上州か  陸川直則

 作者の住む善光寺平の北東に始終稲光がする。だんだんに激しくなってくるので気象変動により大荒れになっているのは越後なのか上州北部なのかが気になり始めた。どちらも有縁の地でなつかしい人が住んでいるからだ。

 流鏑馬の的宙に舞ふ秋祭  茂田井正三

 流鏑馬は元々端午の日に宮中で尚武のための競べ馬であったが、今は各地の春、夏、秋の祭にも行われている。馬術弓術がうまくなくてはならぬので地区の青年達が猛練習をしてこの日に備える。
 掲句の的をみごと宙に舞わした騎手は地区ではヒーロー、女の子にももてたことであろう。なお、この作者は九十二歳、毎日一句以上を作っているという。

 花蕎麦や半日村は疾うに消え  菅沼公造
              (白光集)
 選者の生地の近くに平家谷、祖谷山村がある。V字渓谷の両斜面にへばりついて人が住み、急勾配の畑を耕した。日照時間は半日位しかないので半日村、半作村といわれた。作物は蕎麦や里芋、稗が主なものであった。これらは日照がよい所では三ヶ月もあれば収穫できるものであるがここでは一夏を要し、労力も平地の倍もかかった。名産の「祖谷そば」や有名な民謡「稗つき節」があることはうら悲しいことでもある。 掲句の半日村も如上のような村であろう。「疾うに消え」はもう農業が成り立たず、出稼ぎに出たり、字の端々まで道路が付いて他地区への通勤が可能になったからだ。「半日村」という自虐的な呼称は疾うになくなっていた。

 

その他の感銘句

白魚火集より
どんぶりに萩活けてあり芭蕉庵 野沢建代
都心にも祠ありけり曼珠沙華 前田清方
去にがての御苑に拾ふ馬刀葉椎 水鳥川栄子
舟音を絞りて戻る良夜かな 森山暢子
厄日過ぎ健康診断予約せり 松本光子
幾曲りしても芒の風にあふ 竹田環枝
土地勘の夫を頼りに茸狩 岩崎昌子
秋扇たたみし後の頼み事 井上科子
蕎麦を刈る膝もて束を締めてをり 瀬川都起
夕野分水車の箱の水飛ばす 高野房子
稲架かけを終りてやつとよき疲れ 柴田純子
菊人形菊の生命をもらひけり 加藤美保
しろがねの芒野湖へなだれけり 田中藍子
金泥の海の眩しき良夜かな 中山雅子
ビルの間の鋭角に差す秋日かな 井上春苑
旅に寝て既望の雨をききゐたり 上武峰雪

白光集より
秋惜しむ無人の駅の大時計 浅野数方
早稲刈れば玄海の島近づきぬ 清水静石
ちちろ鳴くまだ細々とほそぼそと 本田咲子
穂の解けし芒に見頃ありにけり 久保田久代
葛咲いてかくれ里への道尽きし 森井杏雨
浮く雲の白し九月のカレンダー 木下緋都女
大空にも礁あるらし鰯雲 岡本せつ子
芒原行く手に鬼女のをりさうな 宇賀神尚雄
秋の魚びつしり詰めて隠岐だより 川島昭子
秋簾月跨りの葉書来る 石井玲子
            


   百 花 寸 評     
(平成十七年九月号より)   
  今井星女


落城の本丸跡の落し文  荒川政子

 落し文は栗、欅などの葉を小さな筒状に巻いたものが落ちているのを言うが、何というしゃれた呼名であろうかと思う。戦国時代落城の悲運に遭遇した城主はその無念の思いをいろいろ言い残したかったに違いない。その思いがこの落し文なのかもしれないと作者は想像した。俳句は詩であり、作者も又詩人である。

泣きごとは止めたひまはり咲いたから  鈴木千恵子

 人生、辛いこと悲しいこといろいろありますよね。泣きたくなることもこの辺であきらめて、気持ちを切り変えようと決意した作者。「ひまはり咲いたから」ともってきた詩心に拍手を贈る。ひまわりは太陽に向って咲き、人間に元気を与えてくれる花。

入れる度新茶新茶と言ひながら  岡田万由美

 新茶の出る頃になると、きまって産地直送のおいしいお茶が知人から届くのであろう。
 作者の嬉しそうな笑顔が、その仕草から、読者にも伝わってくる。リズム感もあって、若々しい佳句。

叱られて母の背中に草矢かな  長岡みよ

 子供の頃、いたずらをしてよく叱られた。自分が悪いのだが、何かくやしくて母の背中にむけて草矢を打ってみた。自分に注目してほしくて、親に甘えたい心も少し。そんな子供の心情が上手に表現されている佳句。

柿の花娘は自立すると言ふ  田口啓子

 いつまでも子供だと思っていた娘が、学校を出て、就職もきまると家を出て自活しますと宣言した。親にとってはちょっと心配で、子離れできない複雑な気持。いいじゃないですか、大人になった子供は自由にはばたきたいのだ、たのもしい娘さんですね。おろおろしている親の方が古いのか。

十薬の花を小瓶に五、六本  菊地タイ子
 十薬は毒だみのこと。白い十字の芭は花ではないのだが、花のようにも見える独特の臭みのある薬草である。
 小瓶にさりげなく活けられた白い十薬は楚々として美しい。作者のお人柄が伺えるようだ。
 過日、筆者は旭川市の三浦綾子記念館を訪ねたが、そのコーナーの隅々に小瓶に挿した十薬の花を見た。クリスチャンだった綾子のイメージと重なって、とても印象的だった。
 掲句、五、六本がいいですね。

父の日に贈る作業衣選びをり  竹渕志宇

 父の日は六月の第三日曜日。父の慈愛と労苦に感謝を捧げる日なのだが母の日に比べて例句が少ない。父の日に作業衣を贈るとは、意表をついた句でおもしろいと思った。
 「お父さんいつまでも元気で働いて下さい」ということか、元気なお父さんに万歳!

軍隊の写真も並べ曝書かな  松村智美

 大事な本などを虫や黴がつかぬよう土用の頃にひろげてお日様に当てる。軍隊時代の若き頃の夫の写真が出てきた。戦後六十年、光陰矢の如しというが我々戦中派にとっては生涯忘れることのできない辛い戦争時代であった。セピア色の軍隊時代の写真を見て感懐にふけっている作者である。二度と戦争は嫌だ。

OB会先づ黙祷し夏の宿  大菅喬子

 OB会は「同じ釜の飯を食った仲間」という意識があって特別な人間関係がある。
 今日はOB会の集り。定年退職した後、あの世に逝かれた先輩も何人か居る。先ず黙祷を捧げてから、宴会が始った。浴衣姿のくつろいだ仲間たちが思い出話と近況報告に話をはずませ、親睦を深める。夏の宿がいいですね。開放された雰囲気がよく出ている。

西瓜切る包丁迷ふ頭数  水出もとめ

 夏休になって急に大家族になった我が家。子供たちの見ている前で冷えた大きな西瓜を切る。さて公平に切るにはと思案げに頭を使っている作者がそこにいる。包丁が迷うとはおもしろい表現。思はずフフフ……と笑いたくなる。いいところに目をつけましたね。
拍手。

梅漬くる一升に塩二合半  峯野啓子

 青梅がやや熟してくると梅干用として丁度よくなる。梅一升に塩二合半とはベテラン主婦の経験からか、祖母から母へとひきつがれた塩加減なのか  。料理教室で習うよりも、この句を覚えておけば、いいですね。「梅一升に塩二合半」なるほどいい勉強になった。リズムも整って、おもしろい句になった。さぞかしおいしい梅干ができることだろう。

人毎に交す挨拶喜雨のこと  多久田豊子

 旱つづきで、農作物の出来を心配していたが、ようやく雨が降ってきた。ありがたい、ありがたい喜びの雨である。会う人会う人に「いい雨ですね」と先ず一と言。挨拶がそれである。その気持は皆同じ。共感を与えてくれる秀句である。

バケツ一杯ただ百円の胡瓜かな   中西晃子

 今年は胡瓜の出来が好いとか―。それにしてもバケツ一杯の胡瓜がたったの百円とは。農家泣かせですよね。豊作貧乏は、何とかならないものでしょうか。作者の嘆きが聞こえてくるようだ。ただ百円といったところで作者の気持が読者にも伝ってくる。

   筆者は函館市在住

禁無断転載