最終更新日(Updated)'08.08.23 

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第600号)
H17.1月号へH17.2月号へ
H17.3月号へ
H17.4月号へ
H17.5月号へ
H17.6月号へ
H17.7月号へ
H17.9月号へ
通巻第600号記念特集
 
    (太字文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
・しらをびのうた (とびら)
・季節の一句    白 岩 敏 秀 
白魚火創刊600号を迎えて 仁尾正文
船箪笥(主宰近詠) 仁尾正文 
思いがけぬ幸運  仁尾正文
・招待作品
   有馬朗人  
   伊藤通明  
   茨木和生  
   岡本 眸  
   鈴木貞雄  
   鷹羽狩行 
   原田青児 
   宮津昭彦 
   山崎ひさを 

10
11
11
12
12
13
13
14
14 
・仁尾正文主宰近影 
・西本一都主宰写真 
・荒木古川主宰写真 
・西本一都百句   
・荒木古川百句   
・西本一都・人と作品 仁尾正文 
・荒木古川の俳句 仁尾正文   
仁尾正文論 小浜史都女   
・鳥雲集作家特集 安食彰彦ほか  
・白魚火賞・みづうみ賞作家特集 大沼重雄ほか
・仁尾作品「山泉」「歳々」鑑賞 青木華都子
15
16
17
19
23
27
33
38
47
90
99   
鳥雲集(一部掲載) 108
白光集 (仁尾正文 選)(巻頭句のみ)
    二宮てつ郎、森山暢子ほか
116
・白魚火作品月評    水野征男 143
・現代俳句を読む    渥美絹代  146
・こみち(母)  篠崎厚美 149
百 花 寸 評  今井星女 150
・俳誌拝見(四葩)   吉岡房代 153
句 会 報 広島土曜句会 154
浜松白魚火会吟行会 155
・「出雲」転載 157
・山陰のしおり 転載 158
・評論賞発表 159
・随筆賞発表 182
・各地句会紹介 224
・白魚火年譜 250
・ 校正余滴 260
・今月読んだ本  中山雅史       263
・今月読んだ本  佐藤升子     264
白 魚 火 集(仁尾正文 選)(巻頭句のみ)
   渥美絹代、安田青葉  ほか 
265
白魚火秀句 仁尾正文 314
・白魚火600号記念基金寄附者御芳名 115
・窓・編集手帳・余滴
       

 船箪笥  仁尾正文

魚の目にしろがねの縁のあり
山焼の炎が呼べる旋風
獄門の跡の畷の草青む
逆時計廻りに降れる牡丹雪
木の芽まだ固けれど末色めける
春嶺の方に離陸機向き変ふる
はくれんに五日遅れて紫木蓮
春雪のワイパー忍び手の形
烽山かすむ寝仏山もまた
春場所の初日の大画面テレビ
見はるかす菜の花畑の岬かな
腰伸す度に山見え風光る
窯元の三百年の藪椿
春禽の綺羅の抜け羽を石の上
燕くる廃煙突の赤煉瓦
御一新前の青空囀れり
石垣も舗道も陶や諸葛菜
裏側にも人ゐて垣を繕へり
遠足の一団と遭ふ土管坂
春ふかき蔵に銭枡船箪笥

思いがけぬ幸運 仁尾正文

 昭和六十年八月号から翌年一月号まで俳誌「海坂」に連載寄稿した私の「『楽土』鑑賞」が今同誌に再掲載されている。『楽土』は百合山羽公元「海坂」主宰(蛇笏賞作家)の第四句集である。二十年も前のこととて稚拙な文章は汗顔の至りであるが、反面一途な執筆だったことが懐しくもあった。中でも左の一句の印象は今も強い。
 遠すぎる入鹿の寃よ耕耘機 羽公 
 「歳月が経ち過ぎて蘇我入鹿の寃罪を晴らす手立てはもうない」という句。季語の「耕耘機」が破天荒でおもしろい。だが、入鹿の寃罪とはどういう史実なのか、それが分らない。
 当時私は香川県の小さな漁村に単身赴任していた。近辺には図書館がなく町役場の図書室にも大きな隣町の図書室や本屋にも手がかりは全くなかった。羽公先生に電話して伺うと「入鹿首塚を何百年もの間村人が手厚く守っていることから入鹿は悪人ではない、これは僕の勘だ。」と言う。もう諦めようかと思いつつも、この町に一軒だけある本屋へ寄ってみた。期待は殆んどしていなかったのであるが、何と、新刊コーナーに黒岩重吾著『落日の王子 蘇我入鹿』があるではないか。手に取ってみると十二刷目、四三八ページのこの小説は一晩で読破した。 黒岩重吾の筆によると大臣蘇我太郎入鹿は当時三十歳半ば、聡明で学問の造詣も深い偉丈夫であった。この時代大唐が近隣の諸国を次々と侵略し、朝鮮半島でも国家存亡の危機意識が強く、国を挙げて備えていた。入鹿は朝鮮の次はわが国が狙われる、利個に走って抗争を続ける諸氏族を束ねなければならぬと主張した。これに最も強く反対した山背大兄王一族を殱滅してしまった。このことが大王家の怨みを買い謀殺されるに至った、と小説は言っている。
 羽公先生の直感は的を射ていた。私にとっても、強く希求し続けていると、思いがけぬ幸運に恵まれることを実感させられた。


 鳥雲集 〔白魚火 幹部作品〕            
                                            一部のみ。 順次掲載


  
  
古 刹 安食彰彦

木洩れ日を縫うて若葉の仁王門
仁王門夏鴬に迎へられ
結界の闇深ければ青葉木菟
夏草の妖し礎石に腰掛けば
石垣の上の結界草茂る
廃坊の庭に伸びたる今年竹
御手洗の柄杓に止まれ糸蜻蛉


  花は葉に 宮野一磴

リラ冷えや常より長き聴診器
直定規三角定規燕来る
反り橋の池に影反り夏はじめ
母の日や母より継ぎし御文章
褪せきたる蔵の杉玉薬降る
師の硯娘の苞の墨花は葉に

  麦の秋 富田郁子

空港にちようちん横丁夏きざす
ゴンドラの下は万緑愛知博
海から宇宙へ鰹がとべり日本館
夏の日のまばゆき巨大万華鏡
竹かごの繭てふ涼しき日本館
愛地球博島根の日てふ麦の秋

  薫 風 栗林こうじ

薫風や法衣に著き真田紋
葱坊主諸手掴みに余りけり
新緑の木曽に棚田の五枚ほど
薫風や居館址一井闇遺す
ぼうたんによべの雨風憎みけり
借畑の寸土も親し夏の草

  さくら咲く 佐藤光汀

連翹のかく咲き狭庭まだ覚めず
芽落葉松雨後の彩ます雑木山
雨あとの雲ひかり出す山桜
花明り小鳥の恋に和しにけり
散る辛夷含羞の紅花びらに
園児等の唄の不揃ひつくしんぼ

    
 
  白 糸 草 鶴見一石子
 
青梅雨や一刀彫の鑿を研ぐ
白糸草糸の百本涼しかり
落し文わたくし宛に置かれあり
鮎を焼く振り塩よろし炭火また
尺蠖や測り直して日もすがら
青胡桃呼べど戻らぬ木霊かな

  走り梅雨 青木華都子

蛇の衣お持ちなさいと渡さるる
どの路地も行き止りなる棕櫚の花
はんかちの木にハンカチを結びもし
"ご"と"お"の字消して返信走り梅雨
梅雨の無き韓国よりの梅雨見舞
若僧の下ろしたてなる夏草履

   真 清 水 小林梨花

真清水に沈む豆腐の白さかな
金鳳花青き実をつけ間歩の口
万緑の底ひに廃れ間歩の闇
曼荼羅堂開けて涼しき山の風
緑風を入れて曼荼羅堂に座す
影つれて銀山川の鮠涼し

   藩廟月照寺 田口一桜

こまやかに松の芯立つ月照寺
竹の葉の散るやはろかな風生まれ
音弾み夏の落葉のかさみけり
草刈りしあとの匂へる石畳
御霊舎の蕗の葉ゆるる日の斑かな
梅は実に上段の間のうす明り

    松の芯 三浦香都子

海見ゆる小学校や松の芯
青鷺のゆりかごほどの巣組みかな
囀りやことことと煮る離乳食
夏つばめ舌噛みさうな神社の名
リフオームの母の単衣の作務衣かな
夏落葉腰に力を入れ掃きぬ

白光集 〔同人作品〕 巻頭句   
                                                           仁尾正文選


  二宮てつ郎

よく水を吸ふ砥石なり立夏なり
丸く丸く夏の月ありみな寝ねぬ
通院の助手席に母花卯木
初夏や自転車の子のヘルメット
六月の小銭を受くる掌

  森山 暢子

つばくらの来しばかりなり白馬村
連峰は雪のせてをり種案山子
青葉冷鴉が嘴を鳴らしをり
噴煙の朝より高し袋掛
神仏に供ふるだけの粽結ふ



白魚火集 〔同人・会員作品〕 巻頭句 
 
                                                        仁尾正文選

 浜 松  渥美絹代

母の日の母といせみち歩きけり
籠に入れ茶器運び来る麦の秋
高からぬ山に囲まれ更衣
蛍狩大き土蔵の前通り
二煎目の玉露夕立のあがりけり


 東 京 安田青葉

日本語をきれいに話す夏衣
単線の青田風から潮風へ
籐椅子や太平洋の風の音
雨脚を真つ直ぐ映すみどりかな
傘さして玉解く芭蕉仰ぎけり


 白魚火秀句  
仁尾正文
当月の英語ページへ

 白魚火創刊六〇〇号を慶祝してごらんの通り今月号は記念号とした。だが、白魚火にとって六〇〇号は一通過点に過ぎない。又コツコツと一号一号発刊をし続けてゆかねばならない。 二煎目の玉露夕立のあがりけり  渥美絹代

 玉露は、甘味のある香りのよい高級の煎茶で日覆いをした茶畑から摘み取られる。明治の初年宇治の茶業者が開発したもので今も玉露といえば宇治という名が返ってくる。
 掲句は茶葉や湯の具合などがよく吟味された玉露の一煎目をいただいた。二煎目は又別の味があるとされているので淹れようとしたら折りからの夕立がからりと上った。
 掲句の切れ味がよいのは、玉露の二煎目の味を予測させておいて「夕立のあがりけり」と少し時間を外して場面転換をさせたところ。作者も、読者も垂涎の口を開けたまま一寸待たされた。一句には軽いユーモアがある。

 初夏や自転車の子のヘルメット  二宮てつ郎
                (白光集)
 この作者の俳句はいよいよ無口になってきた。十七音の俳句が長すぎると思っているふしがある。掲句も「初夏や」で一句が完結しているのでないかとされ思える。「初夏や」と口に出して季節感を満喫していたら、自転車の子のヘルメットが目に入ってきたのだ。
 饒舌や胴間声には自ずと耳を塞ぐ。対して口数が少なく、声も低い物言いには耳を澄まして聴こうとする。そのようにして聞き取った「初夏や」は大らかで「自転車の子のヘルメット」も即物的ながらきらきらとしていることに改めて気付くのである。
 この作者は独自の俳境を悠々と歩いて行っている。

 籐椅子や太平洋の風の音  安田青葉

 この作者の所属する通信句会「実桜句会」はある時期奇抜な言葉を使って俳句を斬新なものにしようと試みたことがあったが、今は極めてオーソドックスとなっている。一九八七年に出た俵万智氏の歌集『サラダ記念日』は短歌界に革命を起すのではないかと思われたがそうはならなかったようだ。ピチピチした新鮮な口語短歌が支持され歌集は爆発的に売れたのであったが。「深は新」という重い言葉があるが『サラダ記念日』にはこの「深」がなかったのではないかと私はひそかに思っている。
 さて掲句。用言が少く何も物を言っていないがしきりに沈思を誘う。籐椅子に身を沈めて太平洋の荒い風に耳をゆだねている。羨ましいばかりの静心だ。何かが起きる予兆のようなものを感じた。

 噴煙の朝より高し袋掛  森山暢子
            (白光集)
 毎日見る噴煙は地の人にとっては生まれてこの方全く変わっていない。普段の如く噴煙が上がっていることに何の不思議も感じていない。だが、地球は長い歴史の中で激しい天変地異を繰り返してきた。最近の地震、台風、洪水の如きものはまだ序の口に過ぎないのかもしれぬ。
 朝から高く上る噴煙は地中のマグマからの異常なしの知らせ。そうした明け暮れの中の「袋掛」は平穏の象徴といってよい。

 引戸みな天の磐戸や梅雨の入り 山高悦子

 日本神話で天照大神が須佐之男の暴状に怒り天の岩戸に籠りぴたりと戸を閉めたので天地が常闇となった。諸神が相談して策を施しやっと磐戸が開いて日光を取り戻した、ことは知られる通り。 掲句は、梅雨に湿った引戸が皆天の磐戸の如くびくともしなかったというもの。一級品の比喩俳句だ。

 蛇踏んで天地裂けたる如き声  海老原季誉

 この句も比喩が面白い。夏の草原を歩いていて誤って蛇を踏んだのである。その悲鳴は天地が裂けたごとくだという。誇張もここまでくれば山河が崩れたように思えてくる。

 ジーパンの乾く高さに夏つばめ 江見作風
               (白光集)
 「ジーパン」「高さ」「夏つばめ」の言葉が一句を若々しくしている。作者の心身が健やかで、俳句に前向きになっているから、こうゆう景や言葉が飛び込んでくるのだ。

 荒るる日の灸すゑてゐる鮑海女  安部弘範

 素潜りで深い所の鮑を一剥ぎで取ってこなければならぬので鮑海女は超重労働である。海が荒れた日は丁度よい骨休め。家事の片付けが終った後は灸を据えて貰っているのである。まさに命の洗濯の小半日である。

 ご持参の新茶いただく旅の宿  田村ぬい子

 静岡で住むようになって感じるのは、他地方のホテルのお茶のまずいこと。茶筒に入った葉の見かけは静岡のものと変らなくても味はからっきし駄目である。だから静岡勢は自家用の茶を持参してお茶の味を楽しなまければ落ち着かぬのである。

 ベランダの花散らしたる氷雨かな  澤本千代子

 大事にしているベランダの鉢物の花が突然の雹に打たれて見る影もない程に打ちのめされた。雹は積乱雲の発達による激しい雷雨にともなって降る氷の固まり。氷雨として夏の季語になっているのだが、この頃新聞用語などで冬の雪まじりの冷い雨を氷雨といっている。本来は間違いなのであるが、だんだん一般化されつつある。春の季語の凧が正月の行事で詠まれて歳時記の例句にもなってきているように、「季語も世に連れ」の面がないではない。

 苺ジャム煮上るころに電話鳴る  井上春苑

 手間暇をかけて苺ジャムを煮て後ほんの僅かで火を切ろうとしたとき電話が鳴った。電話まで行って応答して帰ると煮過ぎになるし、悩ましい、腹立たしい電話である。
 こういう間のわるいことは折々ある。そして出た電話が間違い電話だったりすることもある。 杉箸の柾目美し木の芽和へ  佐野智恵

 料理屋で手にした杉箸は美しい柾目であった。木の芽和へにだけ用いるのには勿体ない程であった。
 木材の乱伐やそれに伴う地球温暖化の問題で割箸が俎上に載ることがあるが、割箸は日本料理に取っては欠かせぬもの、日本の文化でもある。これだけは無くして欲しくない。

 父母在りて田植仕舞の宴など  長谷川千代子

 古来田植は稲作の一大事、豊凶は死活の問題であった。田植機が出現して田植の様相は大きく変ったが大事であることは今も変りない。
 掲句の「父母在りて」の時代は、すべて手作業で、田植の日取りを決め結の依頼を決め親類からの手伝いも決まると、準備万端整えてその日を待ったものだ。苗運び、苗配り、田植紐張りなどの男衆、田植の女衆が力を合わせ予定通り田植を終える。その夜は豊作予祝と慰労の早苗饗が夜遅く迄行われる。掲句では「宴など」の「など」が目を引いた。膳部を取りしきる母の大役を思っているのだ。
   

その他の感銘句
白魚火集より
雪渓に近づく明けの列車かな
貰ひ手の都合にあはせ梅をもぐ
がふがふと声にぎやかに帰る鳥
梅漬くる去年のメモの塩加減
母の日や母あることの有難き
厩出しの葦毛栗毛の親子かな
ビー玉のきらりと光り夏兆す
峰入の裸足行碑に足合す
板前のへいと応へぬ初鰹
マネキンの最も早き更衣
黄芯樹の花の散り敷く茶筅塚
買ひ溜めし本積み上げて夏に入る
脚立に乗り鳥の高さに袋掛
牡丹園五万人目の賞賜ふ
生きてゐることに乾杯生ビール
さくらんぼみんないい顔して並ぶ

伊藤巴江
大石伊佐子
高橋圭子

青木八重子
中島啓子
森 淳子

林 浩世
川島昭子
村上尚子
飯田三千枝
稲村貞子
原 和子
黒崎すみれ
高久都久江
山口俊治
桑名 邦

白光集より
代掻の水一方へ畳み寄す
病院の喫煙室の薄暑かな
ここへ来て木苺摘むを日課とし
月輪の入りて螢の夜となりぬ
クーラーの試運転して会議終ふ
麦秋や小言幸兵衛もてあます
耳塚をしばらく洗ふ大夕立
一花二花咲き初めたる夏椿
クレパスのま近に見ゆる昼餉宿
歩に続くおはぐろ蜻蛉業平寺

知久比呂子
丸谷寿美子

長谷川文子
久家希世
谷山瑞枝
石川詩都世
小玉みづえ
大塚悦子

藤田佐奈江
原 道忠

  浜松白魚火会吟行句会
  ―本栖湖と山中湖・風生庵を訪ねて―
平成17年6月5日実施 

早川俊久

 今日(六月五日)は浜松白魚火会の吟行句会。仁尾主宰、上村浜松白魚火会会長を含め総勢四十二名。本栖湖と山中湖畔の「文学の森」で吟行後、森の中の情報創造館で句会というスケジュール。森には富安風生句碑や風生庵がある。
 浜松出発後バスの中で会長挨拶に続いて、仁尾主宰から富安風生と白魚火との関係に就いて概説があった後、今日の投句三句に就いて「人が句帖に書いているのを見ると気分的に焦ってしまうが、最初の二句はボロ句でも駄句でも良いから気楽に作っておけば後は一句だけと心にも余裕が出る」との話にどっと沸いて、緊張感も一度に解けて一段と話が弾む。
 本栖湖畔は十二時四十分から三十分間の吟行。湖と対岸の山の色が溶け合って美しい。ただ人出はいまいちで貸しボート屋も手持ち無沙汰。人馴れした鴨が二羽寄って来る。スキューバ・ダイバー達が潜水準備をしていた。岸には大きな熔岩が一つでんと坐っている。
 本栖湖から山中湖畔の文学の森へ行く途中で雨となる。しかし大した降りではなく着いた頃には既に止んでいた。そう言えば、富士の裾野を一巡しながら終日、富士を見ることの出来なかったのは残念だった。
 文学の森には、徳富蘇峰記念館や三島由紀夫文学館と共に、俳人・歌人など多くの句碑・歌碑が点在し、特に富安風生句碑は七つを数え、「俳句の館 風生庵」は万緑の中にひっそりと佇んでいた。せせらぎの音やホトトギス・郭公・鶯の鳴き声が聞え、朴の花、草むらには美しい花が顔を覗かせている。山気も充満し、木間から山中湖が散見出来る。
 そんな中を十二時から一時間、思い思いに吟行し昼食をとり、十三時までに各自三句投句。時間的にあまり余裕はない。環境が良すぎて却って苦吟したようだ。
 続いて句会に入り互選五句。互選結果と仁尾主宰・上村会長の作品及び特選句等の披講・講評があり、緊張感の中、十五時十五分に終了。兎に角慌ただしい句会だったが、素晴らしい句が多く流石と思った。

   選者作品と特選句―

 
仁尾正文
  
 富士山の夏霧払ふ呪術欲し
 家苞にほうとうを買ふ旧端午
 郭公の連弾しかと甲斐の国

 上村 均

 郭公やだらだら坂が雨に濡れ
 稜線の緩く曲りて貸ボート
 老鶯や湖面を渡る風柔き

 仁尾正文特選(番号順)

 老鶯やささ濁りして山の湖 矢野智惠子
 万緑や帆船風を孕みゐる 牧沢純江
 せせらぎの側に憩へばほととぎす 平山陽子
 雨雲を払ふ高さに朴の花 矢野智惠子
 遅咲きの朴咲く富士の裾野かな 安澤啓子
 ダイバーの七つ道具や雲の峰 牧沢純江
 六月や五湖を巡りて富士を見ず 今村 務
 どやどやと来てダイバーの黒づくめ 清水和子
 木下闇通り抜くれば甲斐の国 福田 勇
 熔岩に蝿バイクの男降り来たり 中山雅史

 上村 均特選(番号順)

 ダイバーの漲る若さ風光る 高井弘子
 朝凉や渚に熔岩を踏みゆきて 渥美絹代
 ほととぎす木立の中の水の音 鎌倉和子
 万緑や風生庵の屋根厚き 阿部芙美子
 新緑にパラグライダー風掴む 弓場忠義


 句会終了後、直ちに帰路につく。車内で仁尾先生より本日の吟行句に就いて色々ご指導を頂き、慌しかったが有意義な一日を過ごす事が出来た。
 企画・運営に当たられた幹事さん有難う御座いました。

 

富安風生句碑
馬に敷く褥草にも萩桔梗 

風生庵(情報創造館提供)

風生庵(当日風景)


山中湖情報創造館にて参加者全員



   百 花 寸 評     (平成十七年五月号より)
 今井星女 

 四十五回除夜鼓打ち終へ職を退く  岡崎健風

 作者は長い間旭川市にある北海道護国神社の宮司さんを務められた方。
 ご存知のように除夜の鐘を打つのは寺院であるが、神社ではこの時間に大太鼓を打つのである。岡崎健風氏は昭和三十一年から、除夜の太鼓を打つ任に当たり、平成三年退職するまでの四十五年間、毎年欠かすことなく、この大事なお役目を果たされてきたそうだ。
 掲句の四十五回というのは四十五年間という意味で、作者七十五歳の時と伺った。
 さぞかし神官冥利につきる思いだったに違いない。作者ならではの佳句に拍手を贈りたいと思う。 ちなみに、北海道護国神社の境内には沖縄で戦死した多くの北海道出身の兵士の慰霊碑と、白魚火同人集選者だった亡き藤川碧魚先生の句碑が建立されている。
  みをつくし幾度も雁渡りけり 碧魚

 まむかうは寝釈迦山なり初句会  坪井幸子

 この作品を拝見したとき、私はすぐ、阿波野青畝先生の代表句『葛城の山懐に寝釈迦かな』を思い浮べた。
 この句は奈良県の葛城山の山中の寺に掛かる涅槃図の中の寝釈迦のことだが、山腹に直かに寝釈迦が横たわっている印象を受けることで知られている。
 御当地浜松には寝釈迦山という名の山があるのか、目の前の山の容が寝釈迦のように見えたのか、いずれにしても、閑静なすてきなお宿で初句会が開かれたことは、うらやましい限り、さぞかし名句が披露されたことでしょう。

 赤ん坊を膝からひざへ雛の間  宮崎鳳仙花

 初孫は女の子。その子のために妻の実家から、お雛様がとどいた。
 さっそくお雛様を飾り、みなさんを御招待。おじいちゃんも、おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも次々と赤ちゃんをだっこする。はいはいと赤ちゃんのリレーだっこ。
 なんという倖せなひととき。うらやましい。この句、赤ん坊をと言ったところがユニークで、良い。

 雛に部屋ゆづり仏間に同居かな  加茂川かつ

 いつも寝室にしている部屋を今日はお雛様を飾る部屋に提供した。大きな雛段は一部屋を占領してしまう程場所を取る。
 そんなわけで、今日からは仏間を寝室にすることにした。仏間に同居すとは、なんとほほえましいことよ。ご先祖様もきっと喜んでおられることでしょう。

 土くれに声かけてより鍬始  吉澤みわ

 ようやく春になって固くなった土を耕す。土くれに声をかけるとは、何というやさしさ。母なる大地というが、感謝をこめて、一くわ、一くわ、空気を入れて、土をやわらかくしてゆく。さて、何を蒔くのでしょうか。
 春耕の句として俳句の原点といわれる「愛」を教えてくれている佳句。

 風の息見つつ花種蒔きにけり  橋本志げの

 待ちに待った春。そろそろ花の種を蒔くことにしたが、花の種は羽根のように軽いので、風のない日を選ぶことにした。
 風の吹き方を風の息と表現され、風が呼吸をしているととらえた作者の感性に敬服する。愛情をこめて花種をまくのだから、きっときれいな花が咲くことだろう。

 まんさくの花便り来る絵を添へて  石原登美乃

 金縷梅は山に自生する落葉灌木。黄色い花が若葉より先に咲くので「先ず咲く」の意だと歳時記にある。
 掲句はお庭の花かもしれない。花だよりは絵手紙でしょうか。絵手紙は「ヘタでいいヘタがいい」といわれて気軽にハガキに書けるので今大流行となっている。
 絵を添えた俳句などちょっと趣があっていいものだ。
 まんさくの花だより リズム感があっていい句ですね。

 全身で歌ふ幼子クロッカス  服部遊子

 卒園式でしょうか、子供たちの合唱。
 子供たちが口を大きくあけて、体中でリズムをとりながら一生懸命歌を唄っている。
 元気で育った子供たちのこんな姿をみて、親たちも、保育士たちも、嬉しくて、涙が出る程感動しているのだ。クロッカスの季語がいいですね。

 青饅の酢加減これぞ妻の味  松澤 桂

 青ぬたは春の季節料理。この酢加減が決め手と作者は妻の料理を賞めたたえているのだ。料理上手な奥さんで、ご主人は倖せですこと。たまに、こんなに賞められると奥さんも嬉しくなって、又、腕をふるおうという気にもなるというもの。賞め上手は世渡り上手に連がる。円満なご夫婦の生活ぶりが佳句になりました。

 納豆に今朝は卵を入れにけり  荒木 茂

 卵は最も栄養のある食物。私たちの子供の頃は貴重品で、値段も高かったので、卵は遠足か運動会でなければ口に入らなかったものだ。あの頃のゆでたまごのおいしかったこと。
 納豆は安くて滋養のある食べ物。冬の季語になっているから、卵も寒の卵であろう。
 寒さに耐えるためには栄養満点の納豆に、さらに力がつくようにと卵を入れての食事とした。さあ、今日も元気に働くぞという作者の姿が目に浮かぶ。

 病名の癌と言ふ字の朧めく  高橋由美子

 函館白魚火会で長い間活躍してきた高橋由美子さんが去る四月六日入院先の病院で亡くなられた。 日頃から健康で、行動派だった彼女がまさか病魔に襲われていたとは、信じられないことだった。「食欲がない」といって検査をしてもらったら、悪性の病気と知らされ、気丈な彼女は、朧めくどころではなく、目の前が眞暗になったに違いない。
 三月の白魚火例会には出席していたのに、その後わずか三週間の入院で亡くなられた。
 私が御見舞に伺ったのは亡くなる四日前の四月二日、「腸の手術をするかもしれない」といいながらもお話のできる状態だったのに、残念で残念でならない。いまはただ心から御冥福を祈るのみである。

 逆立ちて白鳥肩まで潜りをり  松島江治

 白鳥が逆立ちになると、その姿は三角形になる。あれ!これ
はおもしろい、なにしているんだろう、餌を食べているのかな。
 三角形になったままややしばらく。
 白鳥のこんな姿におどろいている作者がそこに居る。視点の良さ、発見のおもしろさ、が俳句には必要。
 写生句は良いですね。

  

      

       筆者は 函館市在住 


  白魚火創刊六百号を迎えて
仁尾正文

 本年八月号で白魚火は創刊五十年六百号に達しました。先達の諸先生や会員の皆さん並びに白魚火にあたたかい御支援を下さっている関係各位に深く感謝申し上げます。
 白魚火は、昭和三十年九月、郵政省松江地方貯金局の俳句会を母体として荒木古川先生が創刊しました。選者は「若葉」同人の中村春逸先生、投句者は三十二名でありました。
 昭和三十三年中村先生が選者を辞任され「若葉」同人の西本一都先生が白魚火選者(後主宰に推薦)に就かれました。初めての一都選となった昭和三十四年三月号には「若葉」主宰富安風生先生が白魚火を詠んだ三句を餞に寄せられております。
 一都先生は、逓信省(昭和二十九年郵政省になる)大阪地方貯金局を振出しに徳島、東京(本省)旭川、函館、盛岡、宇都宮、長野の各地方貯金局の要職を歴任し、それぞれの地に俳縁を作ってきました。先生が白魚火の主宰選者に就かれたので、これら有縁の俳人が白魚火に馳せ参じてきました。現在北海道から九州に至る三十数都道府県に白魚火会員が分布しているのはそのような縁由によります。
 創刊者の古川先生は、逝去された平成十三年迄、四十五年にわたって発行・編集に執念と燃やし続けてこられました。選者と発行所はいつも遠隔にありながら、五十年間に一号の欠号もなかったということは大変な偉業であります。
 ならば、五十年間は順風満帆、何も問題はなかったのかというと、実は何回か危機がありました。中村先生が選者を辞退された昭和三十三年から三十四年にかけて村尾菩薩子先生が選者を勤め、後任の一都先生に決まるまで時間をとることができ、最高の結果を得ました。昭和六十年一都先生が脳梗塞で倒れられたときは栗間耿史副主宰が選を担当しました。平成三年一都先生が急逝されたときが白魚火では最大のピンチでありましたが、同人会長藤原杏池先生が白魚火代表に就き波一つ立てることなく、この難局を乗り越えました。又藤川碧魚先生、古川先生や私が次々とバトンタッチし選者の任に当りました。このような危機があった時、司令塔にはいつも古川先生が居りました。
 平成三年七月、飯田市における白魚火全国俳句大会に一都先生は車椅子で臨席し、主宰の仕事を果されましたが、その僅か一ヶ月後の八月十五日に急逝されました。平成十一年九月より五ヶ月間荒木古川主宰は、安食彰彦氏(現副主宰)を毎日白魚火社に呼んで発行編集のノウハウを伝授しました。翌平成十二年二月号の白魚火に、発行・編集者を安食彰彦氏に代える、と告示が出ましたが、古川先生はその月に入院し四月十四日に逝去されました。
 白魚火の牽引車であった両先生は共に最後の最後まで結社に力を尽くされました。まさに壮烈な殉職といえましょう。両先生共に白魚火の末永い続刊を望んでおりました。これが白魚火の結社風土、伝統といえましょう。
 最近俳誌の終刊を耳にします。創刊主宰が力を尽して俳誌を興隆させ、作家を育て、俳句界に貢献してきたのですから、自らの美学により俳誌を終刊することは自由、納得肯定できます。しかし、継承主宰にその自由はないと考えます。殊に白魚火の社風を考えるとき主宰は、駅伝走者の如く襷を次の走者につないでゆかなければなりません。そのように私は考えますので一層の御支援御協力をお願い申し上げます。
 仁尾正文 論  
小浜史都女
   はじめに
 「白魚火」が創刊六百号に達したということは誠に素晴しいことで,五十年,半世紀を閲したことになる。
 白魚火は,昭和三十年九月,島根県松江地方貯金局という一つの職場から産声をあげたもので,現在会員千名を越える結社となり,この間一号の遅刊も欠刊もなく六百号を迎えることが出来たのは,歴代の主宰,諸選者をはじめ関係各位のご尽力の賜で心より感謝申しあげたい。
 今回,浅学菲才を顧みず「仁尾正文論」を書かせてもらうことになった。行き届かない事が多々あると思われるがお許しいただきたい。(また多くの方の敬称を略させていただいた。)

一、 頑丈に生んでくれたる柚子湯かな 正 文 
 先生は,昭和三年,徳島県池田町に農家の四男として生まれた。同十五年四月,徳島県立池田中学校に入学,「日のあるうちは家事(農作業)を手伝う」という父との約束があり,欠かさずこれを実行したので,家での予習,復習は殆んど出来ず学校での授業に集中したという。
 池田中学四年の時,先生は海軍兵学校を受験し,ストレートで合格した。先ず身体検査に合格しなければならない。学科試験は,国語,漢文,数学,英語などの八科目を四日に分けて実施され,毎日欠点者は赤線で受験番号が消されていき,全科目受験が合格には必須であった。戦中この時期では最も難関の受験であった。
 昭和十九年十月,海軍兵学校,江田島本校に入学したが,二十年八月終戦を迎え全員「免生徒」となる。政府の指示でこの秋高等学校,経専,工専などの二年生に編入が出来たのであるが、これを見送った。将来に対する希望を失っていたのであるが友人に叱咤されて翌年旧制新居浜工業専門学校(採鉱科)に入学し二十四年卒業,四国通産局鉱山部へ入局した。その後昭和二十六年,昭和鉱業(株)へ転職した。
天懸かる露天切羽に花の雨 正 文 
熱燗や遁れ来し事故誰もいはず
昇坑湯に並ぶる臀や春闘後
渡り抗夫ここに眠れり額の花
 入社してより愛媛県の鉱山を皮切りに長野県,島根県,岩手県,再び愛媛県の鉱山へ転勤。最後の鉱山が閉山退職するまで二十年間坑内に勤め,その後,鉱山で得た鉱山保安技術員資格を生かし,ゼネコンに再就職した。
水澄んで美しこの地に墓定む 正 文 
 先生は浜松勤務を機に第二の故郷を水の美しい浜松に選び,昭和五十年に本籍を移し,家を建てられた。この間十回転勤し,八回住いを変えられている。この後も鉱山一筋に過され,平成四年現役を退かれる。

二、 昭和三十年,転勤により,島根県平田市(現在の出雲市)にある鰐淵鉱山勤務となった。
 先生と俳句との出会いは,昭和三十六年,社内報に石田波郷選の俳句欄が出来たことにはじまる。平成九年の白魚火五百号に先生が執筆した「荒木古川論」の中に次のような文章がある。
 「筆者は,鉱山技師で昭和三十六年当時は平田市内の鉱山に勤めていた。社長の吉見泰二は熱心な「鶴」同人で,その関係から,この年,社内報に石田波郷選の俳句欄が出来た。社内報の地方編集委員であった本誌同人,故原正,故錦織敬樹(プロの漫画家西沢周平)や筆者に対し,社長直々に「一流の選者に失礼にならぬよう大勢投句させて欲しい。」との指示があった。第一回は十三名の投句があったが二回目は五名,早速社長から督励があった。三人は額を集めて相談し,これは俳句グループを作って励まし合って作句しないととても毎月の投句はむずかしい,ということになり,同好者を募った。八名集ったので指導者を探した。平田市中心部からの通勤者の情報によると「市内の荒木清(古川),浜幸雄(秋海棠)という人が先生格のようだ,という。両氏の住所を聞いて早速次の日曜日に筆者が依頼に出掛けた。俳句界のことも,俳誌のことも知らぬ筆者は,荒木清であっても,浜幸雄であってもどちらでもよいと思っていた。バス終点の一畑電鉄平田駅に近くて地理の分かりやすい古川宅を先に尋ねてみた。幸い在宅されており,句会指導を承諾してくれた。もしも不在であったならば或いは浜秋海棠(ホトトギス・城)に指導頂いたかもしれない。今にして思うと俳句の縁にも不可思議なものがあることを痛切に思う。
 かくて毎月第一土曜の夕刻句会を持ち,古川は松江貯金局の半ドンの勤務を終えた後,平田市から十キロ離れた鉱山へ足を運び,初心者ばかりのこの句会に「坑道句会」と命名し,指導を続けてくれた。昭和三十七年九月の社内報を見ると坑道句会員は十六名になっていた。」
 俳句を始める動機というのは人様々である。周りの先輩達から勧められて始めたというのが一番多いと思う。又もともと短詩型文学が好きで「俳句を作ってみようか」と自ら進んで作句するようになった人もいるだろう。「友達がやっているからやってみようか」といった気持等が通常であるが,先生の俳句のスタートは職制の指示によるといってもおかしくない。
 昭和三十六年六月,前主宰荒木古川(当時は白魚火編集長)の指導を受けた坑道句会員は揃って白魚火へ入会し,西本一都の選を受けることになる。

三、 その後,「鶴」にも入会している。社内報俳句欄の波郷選は石田波郷の死が昭和四十四年十一月二十一日であるから,昭和三十六年三月より四十三年(波郷逝去一年前)五月まで七年余続いたことになる。
 この間,先生は波郷に実に細かい指導を受けられた。波郷は「鶴」では個人の添削指導を一切しなかったそうだが,先生は落選五句を含めて七十八句の評を受けている。
 手許にある当時の社内報の俳句欄を原文のまま二,三紹介する。
 「昭和三十九年十二月十日付社報
   「昭和俳壇」  波郷選
     鰐淵 仁尾 正文 
花石蕗や昃りやすき坑夫墓地
坑夫墓地花石蕗に雨淋漓たり
落盤死あるな燦たる柿仰ぎ
   選後に
 先日,鰐淵の仁尾正文君が上京して,錦織君(社報編集長)の案内で小居を訪ねてくれた。若く,たくましく,かつ純粋な好漢で,鉱山の生活をいろいろ話してくれた。帰りに鰐淵へぜひ一度来て皆に会ってくれと注文した。叶うことかどうかわからないが,私も山陰に行ってみたいと思った。若い精気を吹きこまれたような爽やかな一夜だった。今月の三句をみても一,二句の坑夫墓地の句は,単に墓地の風景を詠んだだけではない。坑夫として,死んだ者に対する熱い思いがこういう句を詠ませたのである。第三句の祈りも柿の生命的なかがやきで具体感を帯びている」
 「昭和四十年二月二十日付社報
   「昭和俳壇」  波郷選
     鰐淵 仁尾 正文 
茜雲一筋除白昏るるなり
年酒酌む頬やはらぎし坑仲間
冬の虹海は太初の色となる
   選後に
 仁尾正文君の句に
湯豆腐の結婚記念日星満てり
というのがあったが採らなかった。結婚記念日の夜の食卓に湯豆腐鍋が湯気を立てているのは,つつましく心豊かでよい。星が空いっぱいにかがやいているのも記念日を祝福されるようでこれもよい。然し,あれもよい,これもよいで統一なく一句の中にとりこんでよいかどうか。灯下の食卓と,屋外の星とに感銘が分散してしまって読者の共感は得られないのである。」
 「昭和四十一年三月十日付社報
   「昭和俳壇」  波郷選
     野田玉川 仁尾 正文 
汐風に息づきとんどの火尽きをり
とんど過ぎ海苔礁に蜑こぞり出づ
照り昃り海苔礁に風吹き通し
   選後に
 今月の仁尾正文君の句稿をみると,いつもの鰐淵ではなくて野田玉川となっている。句は海苔かきの句ばかりで今月に限って身辺詠がないのでその事情はわからない。然し,鰐淵の他の諸君の句稿に「仁尾君を送る」とか「赴任の友見送りし夜の初蛙」などの前書や句があって最近仁尾君が鰐淵から野田玉川へ転任したことがわかる。然し野田玉川とはどこだろう。鰐淵から仁尾智恵子という人が句を出しているが,仁尾君の奥さんだろうか。そうだとすると仁尾君は単身赴任したんだな。「節分や句会育てし君去るか」という句を作っている人もいるが,たしかに仁尾君は熱血の人のようだから,レッカーのように鰐淵の人をひっぱって進んだにちがいない。鰐淵は質量ともに昭和俳壇の主流の力をもってきた。もう仁尾君がいなくても,この力がくずれることはあるまい。それよりも,仁尾君は,新しく野田玉川に同好の士を発見し,グループを作りたちまち鰐淵,大久喜につぐ第三勢力をきづきあげるかもしれない。いや確実にそうなるにちがいないだろう。」
 昭和四十三年五月十日付社報
   「昭和俳壇」  波郷選
     玉川 仁尾 正文 
翔びちがふ鵜よ年毎に鱒減りて
舳を上げて鱒船大漁旗鳴らせをり
頬かぶりゆるぶ轆轤に婆傾ぎ
轆轤押す婆の痩腹鱒揚る
長尿して鱒漁夫立ち去りぬ
   選後に
 仁尾君がようやく自在な表現力をもってきた。これで強引な字余りや破調がなければ大いに称讃したいのだが,そうはいかない。たとえば
舳を上げて鱒船大漁旗鳴らせをり
の句は普通のヨミ方なら
 ミヨシを上げてマスぶねたいりょうき鳴らせおり
 二十二音,舳をへとよませても,中七を「マスぶねたいりょうき」で「大漁旗」を三音によませなければならない。大変な無理である。音調上の無理を別にしても第一句の「年毎に鱒減りて」は散文的説明的な叙法である。説明は俳句のもっとも忌むところである。第五句,鱒は全く出て来ないが鱒漁夫が躍如と出てくる。力強い秀句だ。」(この選が波郷選の最後,波郷逝去より一年半前である。)
 以上,四つを紹介したが,「落選句について波郷からこんな指導を受けた者は誰もいないであろう。当時は俳壇のことは分からなかったが,今読み返すと,天下の波郷にこのような指導を受けたことは幸運としかいえない。」と先生は述懐している。

四、 前にも述べたように先生は昭和三十六年「坑道句会」誕生と同時に白魚火へ入会し,投句を始めた。
爆心の廃墟を秋の風とあり 正 文 
爆心地に佇つ秋風のおのづから
爆心地露草なべて露をもつ
「平和の泉」溢る少女が髪を梳く
瞑れる原爆の子の像に霧
 白魚火,昭和三十七年十一月号で広島平和公園五句が巻頭
になっている。投句を始めて一年半足らずなので驚かされる。
 一都は句評で「被爆地ヒロシマの悲しさは日本人とすれば誰しも共通のものであるが,しかし,あらわに憤怒や悲痛感を投げ出してみたところで佳い作品になるとは限らない。この作者のように,実際その地点に佇ち,静かに悲想の中に身を置くほかないのかも知れない…中略。霧や秋風にさえ,何か絶叫を投げつけたい痛心を深く蔵し,それを圧さえに圧さえて,控え目に表現し,懸命にこの素材と取り組んでいる作者の真剣さには好感が持てる。」と称讃されている。
 又この十一月号には特別作品二十句(現在のみづうみ賞)が発表されていて,先生は「廃坑周辺」で二席に入賞している。
鉱毒が一溪を染め油照り 正 文 
草茂るだけの廃坑事務所跡
花苔の廃坑べりの墓一つ
辣韭掘る人らに今は鉱山亡び
しんしんと廃坑周辺銀河更く
 「素朴でまじめに廃坑周辺の風物と取り組んで自分のもてる力のかぎり踏み込んで行ったその意気は賞讃すべき」と西本一都は正文俳句を激励されている。
 石田波郷と西本一都の指導のもとに先生はいよいよ俳句に没頭され,昭和四十三年「鶴」の波郷選の巻頭にもなった。
 白魚火でも昭和三十七年,三十九年,四十二年,四十四年に一都選の巻頭に輝き,四十六年には巻頭を二回獲得した。
 昭和四十六年十二月号の二回目の巻頭句に
蘂撥ねて後れ毛もなし曼珠沙華
があり,「…前略。この作家,仁尾正文君は自分なりの表現技法を創り出している人である―。“後れ毛もなし…”というユニークな表現は,曼珠沙華のあえかな妖気をつよく印象させる描破である…。この句にかぎらず,この作家は,磨きぬかれた―という感がある―。」と、この時の一都の句評にも先生を大いに励ましている。
 昭和四十七年,白魚火創刊二百号のめでたい年に先生はみごと白魚火賞を受賞された。
 白魚火賞は,白魚火集の一年間の成績を集計し,それを参考にして各選考委員の意見を求め,一都主宰が決定されるものであるが,ここに四十七年度,白魚火賞候補成績集計表(三十位まで)がある。昭和四十六年度の先生の入選四十八句の順位は二十一位,しかも同人集には一回も投句していない。この頃の雑詠には元副主宰の栗間耿史をはじめ前主宰荒木古川らすべての同人,誌友が巻頭を競った。昭和四十六年度の成績表三十位の中には白魚火賞選考委員の伊藤風楼,豊川湘風,藤川碧魚,尾添静由,矢野都多女の名が何故か出ていない。それ程に激しい競詠であった。選考委員の多くからムラがあること,同人集に出句がない,という批評が先生に投げかけられている。しかし,この年五句入選四回の内二回が巻頭であり,一年に二回の巻頭は白魚火にはこれまでなかったということ等,先生の努力が光っていて,一都主宰が実力作家として白魚火賞を授与された。先生が如何に特異の作家であるかがわかる。
 この時の選考委員の一人である荒木古川は第一候補として先生を推薦されている。その理由として,「仁尾正文は少壮気鋭の作家であり,その作句態度は正に熱心の一語に尽きる。また彼の俳句への研究は,大きな視野に立っていて偏向がない。四十六年中,二度の巻頭は彼の実力を如実に証明するものである。同人集は投句していないが,白魚火賞は白魚火集が対象であるから問題とならない。」と大いに推奨されている。
 その頃から先生は評論をよく執筆され,一都句集『景色』研究を白魚火に十回にわたって連載執筆する等『景色』以後の一都句集のすべてに鑑賞執筆している。
 昭和六十一年,一都主宰が病気のため同人集の選のみになったので,先生は二月号より同人集へ投句(それ迄は怠けて投句していなかったといわれている。)し,この年白光集の巻頭三回と抜群の成績であったが,この一年で一都選は終りとなった。(その後,同人作品は藤川碧魚選となる。)
 昭和六十二年,白魚火に無鑑査同人制が敷かれ,鳥雲集作家となっている。

五、  木の葉髪わが坑帽に疵いくつ 正 文 
 仕事上先生は転勤が多かったので赴任先の多くの俳人と交流を深められた。
 昭和四十一年,岩手へ居を移され,ここで村上しゅらと会う。しゅらは「鶴」賞作家で角川俳句賞を受賞していた。しゅらの率いる超結社同人誌「北鈴」に誘われ,プロの作家魂というべきものを叩き込まれたという。「北鈴」の仲間は「鶴」「浜」「万緑」「風」「寒雷」等々の錚々たる作家ばかりで,この誌より六人の角川俳句賞受賞者を出している。
 「北鈴」入会間もなく,誘われて吟行会に参加した。その時全員が登山装だったことにまず驚かされたそうである。吟行地に着くと一時間後に十句の句会をするという。こんな所で句会は無理だと思っていたが付近に積まれていたコンクリートパネルを囲んで句会が始まった。しゅらは「なにい,六句しか出来なかったってえ,秀作を十句とは言ってない,十句と決めたら十句出さねばダメだ。」と手厳しかった。しかも一日吟行で十句句会を三回位は常識であった。
 岩手では句会を作られたが,間もなく転勤になり,句会は生みっぱなしになるため,その後は転勤先の地元の句会に飛び込んで勉強された。愛媛県では「せきれい」(山田文鳥主宰)の句会に,広島市では「茶殻火」(橋本世紀夫)の句会に,香川県では「ホトトギス」(梅川春陽)の句会といった具合に,どこででも積極的に飛び込んだのでよき指導者、よき先輩にめぐり合えたのである。

六、 昭和四十七年,浜松に来てから「海坂」主宰の百合山羽公指導の句会に同座を許された。羽公(昭和四十九年蛇笏賞受賞)は部外者も分け隔てなく指導した。羽公の浜松句会,天竜句会は日曜であったため,第一土曜日夜の「海坂」磐田句会に参加した。鉱山は日曜出勤が多いためだった。勤務地から磐田市まで三十五キロを七十分かけて通ったのであるがこの磐田通いは思ってもみなかった恩寵に浴された。句会が終り,磐田から羽公宅まで先生の車で送ることになり,三十五分間は羽公を独占する時間を得ることが出来た。殆んど俳句に係る会話だが,俳句だけでなく人生万般について教わったという。吟行にも十年間で六十回以上お伴をしたそうだ。
 羽公には句会指導は受けられたが,「海坂」へは投句しなかったので羽公には余り遠慮がなく話が出来,互いに気楽な付合いだったようだ。(好漢や生まれは阿波の踊の手 羽公)の主人公は先生で羽公第四句集『楽土』に収録されている。先生も「楽土鑑賞」「羽公俳句私註」等々を「海坂」に連載で執筆され,羽公作品の顕彰に努められた。白魚火三百号記念応募論文の「百合山羽公論」は原稿用紙二十七枚の力作であった。
 昭和五十三年より静岡県西部在住の俳人で結成された超結社句会「撥の会」にも参加された。「撥の会」は「俳壇」平成十六年十月号の「句会訪問」にも掲載されているが,「海坂」同人の外に「沖」「木語」「鶴」「白魚火」等の同人の「八人の会」から「撥の会」と名付けられたようだ。現在の会員は十二結社の十三名で現在まで二十六年間も続いている。「白魚火作品月評」を執筆いただいている現在の古橋成光氏,以前に執筆いただいた臼井無窓子,黒崎治夫,平野摩周子,和久田隆子,和田孝子,松島不二夫氏らは何れもこの句会のメンバーである。

七、 昭和六十三年,白魚火は選者交替という大きな転機を迎えることになり,先生に白羽の矢が立った。筆者には当時のことはわからないが,選者として最適任者として推薦されたのである。選者はまず俳句がうまくなくてはならない。その上にゆるぎない俳句観を具えていなくてはならない。俳句に対する姿勢がよく,指導力があること,眼識や評論が的を射ていること等選者としての条件が揃っているということで推薦されたのである。
 昭和六十三年九月から白魚火集の仁尾正文選が始まった。先生は白魚火集選者就任について「一都先生ならびに耿史,古川両先生の御選の方向を引き継いでゆく所存である。
 片々,十七音でしかものが言えない短い詩型の俳句であるが,季語と五・七・五という韻律の武器がある。有季定型という俳句の土俵は勿論広くはないが,先人達はこの土俵を使いこなして散文では書きつくせない広い世界も描いてみせてくれた。諸兄姉におかれてもこの土俵の中で大いに暴れていただきたいと思う。失敗を恐れず挑戦してほしい。挑戦なくして進歩は望めないからだ。成否の捌きは僭越ながら選によって示させていただきたい。」と力強く挨拶し,選者としての意気込みを感じさせてくれた。

八、 待望久しい第一句集『山泉』がようやく平成六年に上梓された。
 山泉あるときこゑを発しけり  正文
 句集名「山泉」は一都先生の最後の全国大会となった信州飯田での特選句から付けられたものである。大自然からの恩寵の一句であるが,波郷と一都の指導が凝縮されたような句と思えてならない。「処女句集には作家のすべてがある。」といわれるが,先生の処女句集「山泉」を読んでその感を深くした。「山泉」は平成五年までの三十三年間の三八七句で,余りにも厳選されていて多くの秀句が割愛されており,先生の秀吟を知る者にとって惜しまれてならない。先生の提唱されている具象性を重視し,抒情を抑えた作品のみを残されたのである。
稲妻を背に坑帽を鎧ふなり   正 文 
膝に額預け地底の三尺寝
白息の吐き処なしケージ混む
総身にシャボン勤労感謝の日
 初期作品の底流をなす「鉱山俳句」は坑内作業者と仕事を共にしつつ労働者の生きることの厳しさを気迫のこもった作品に仕上げ,男俳句の真髄を示されている。
蘂撥ねて後れ毛もなし曼珠沙華
天道虫畳み損ねし翅余す
恋の鳶空失って墜ちにけり
紅梅や佛の千手たをやかに
 なんと繊細でたおやかなことであろうか。動植物の命の輝きを凝視した写生で,磨きのかかった言葉の幹施,表現のうまさ,面白さを切れ味よく詠いあげている。
 石田勝彦は「恋の鳶…」の句に「水際立った芸」と称えている。
暁紅の岬横たへ初氷
むらさきの苞をゆるめず蕗の薹
蔵王見ゆ林檎にすこし色の出て
裸木に一変したる甲斐に入る
八月の紫陽花紺をゆるめざる
金婚に少うし間あり菊を焚く
酒うまきことも勤労感謝の日
 「山泉」から六年後,平成十三年,第二句集『歳々』が刊行された。先生は「歌人上田三四二の“心は物を通さなければ伝えられない”という言葉に強く共感し,自らの作句の根底に据えている。ここにいわれる「物」とは,具象的,具体的にということ。この手法として写生の技を磨かねばならぬと,日頃から自戒しているのである。」とあとがきに述べている。一つ一つ納得出来る言葉で即私どもの学ぶべき道でもある。
 『歳々』集中にも徹底した写生の眼があり,読む人の心を楽しませてくれる豊かな安らぎと懐の深さがある。
春筍に介錯の鍬振り下す 正 文 
あたたかし首が先ゆく烏骨鶏
羊刈る四方固めに抑へ込み
穴まどひをりをり縄になりにけり
水澄むや木沓を出船形に脱ぎ
等秀吟を挙げればきりがないが「物」に対する細やかな心づかい,瑞々しさ,肩の力を抜いた面白さ,古典的な美しさ等余人の真似の出来ない作品がぎっしり詰っている。
 『歳々』以降にも
毛衣の冬芽鏃の冬芽かな 平成十三年作
花散るや杉皮入りの吉野和紙
江商の家訓こまごま釣忍
 厳しい観察の目,確かな表現力に感じ入るのである。
山上湖にも渚あり青胡桃 平成十四年作
空海のくに冬耕の行き届き
大鰡の跳んで腹より落ちにけり
 堂々たる詠み振りで句姿も端正で抜群に面白い。
男体の全容見する黄菅かな 平成十五年作
すずしかりムックル神のこゑ出して
千枚田積んで涯に秋の雲
 写生の効いた的確な措辞,明るい色調の中に深い味わいがある。どの作品からも共通していることは,詠みぶりが自在で際だって新鮮なのに驚く,又先生自身の文体で詠んでおり,緊張の中にも余裕が感じられる。
 先生はもともと温和で篤実,笑顔を満面に浮かべて,大きく手を広げて人を迎え入れてくれる。こうした大きな愛こそが余裕のある作品を生み,読む人の心を楽しませてくれるのである。
青き踏む永き昭和を生きてきて 平成十六年作
古稀疾うに過ぎをり枇杷に色の出て
永き日の主治医と酒の話など
 人に親近感を与えるお酒は,嬉しいときも淋しいときも,腹が立つときも心和ませてくれる。先生はお酒が好きであるが,最近少し控えている。主治医との約束があるからだ。或る時,こんなことを聞いた。「主治医からお酒は控えなさい。と言われたが,焼酎やビールは控えなさいとは言わなかったよ。」と,楽しい先生だ。
 「歳々」以降も先生の俳句はいよいよ円熟し,作句意欲は以前にも増して旺盛,面白味の度を加え,先生独自の世界が拓かれている。だがよく見ると一都の写生俳句が土台となっていることに気付くのである。

九、 平成十六年九月,京都で開催された白魚火全国大会の折に「全投句者は巻頭を狙え,自信作を出せ。」といわれたことが胸に響き,忘れられない言葉となってしまった。やっと数を揃えて投句するのではなく,巻頭を狙うべく自信作を出句するよう心掛けねばならぬのだ。
 各地区での鍛錬会や勉強会,大会出席の折また毎号の選後評「白魚火秀句」の中から等常々指導されている先生の言葉を二,三挙げて参考にしたいと思う。
○五句投句の白魚火集巻頭作品は野球に例えると打率十割でないといけない。大ホームランがあっても後二打席三振ではこの座に就けない。
○構成,配列も採点時の大きな要素
○白魚火は文語,歴史的かなづかいとしている。難しくとも習熟しなければ上位にはなれない。等
 白魚火は平成三年,一都主宰の急逝に遭い、平成十二年には古川主宰を失ったが先生は,一都,古川の遺志を継いで舵とりをされ,順風満帆に突き進んでいる。安食編集長,鈴木同人会長との息はぴったりと合っている。もちろん諸先輩方や会員の協力も大であった。
 伝統の白魚火を継承され,千人を越える大世帯を統べて「俳
壇」内外での活躍もみごとであり,たのもしい限りである。
 この先生に師事し,勉強出来ることに感謝し,六百号を迎えることが出来たことを共に喜びとしたい。この後も白魚火発展のため折角の尽力をお願いしたい。
 筆力の及ばなかった点,触れるべき多くの作品やご活躍ぶり等に筆が及ばなかったことをお赦しいただきたい。先生のご加餐を心から祈念し拙い筆を擱くことにする。

禁無断転載