最終更新日(Update)'06.10.30 | ||||||||||||
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・しらをびのうた 栗林こうじ | とびら | |||||||||||
・季節の一句 白岩敏秀 | 3 | |||||||||||
雨安居(主宰近詠)仁尾正文 | 5 | |||||||||||
・ 社告 | 6 | |||||||||||
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか | 7 | |||||||||||
白光集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載) 星田一草、大村泰子 ほか |
14 | |||||||||||
・白魚火作品月評 水野征男 | 41 | |||||||||||
・現代俳句を読む 渥美絹代 | 44 | |||||||||||
百花寸評 今井星女 | 47 | |||||||||||
・俳誌拝見(りんどう) 森山暢子 | 50 | |||||||||||
・こみち(俳句の入口) 山高悦子 | 51 | |||||||||||
句会報 「三栗句会 (静岡)」 |
52 | |||||||||||
・後鳥羽んさん 顕彰全国俳句大会 安食彰彦 | 53 | |||||||||||
ニュージーランド滞在記 長島敬子 | 57 | |||||||||||
・今月読んだ本 中山雅史 | 59 | |||||||||||
・今月読んだ本 影山香織 | 60 | |||||||||||
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載) 奥田 積、竹内芳子 ほか |
61 | |||||||||||
白魚火秀句 仁尾正文 | 110 | |||||||||||
・窓・編集手帳・余滴 | ||||||||||||
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鳥雲集 | |
〔無鑑査同人 作品〕 | |
一部のみ。 順次掲載 | |
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荒 神 谷 安食彰彦 銅剣の出土の谷の若葉風 銅剣のレプリカ並ぶ木下闇 銅剣の谷に散りたるえごの花 なにもかも謎の銅剣草茂る 夏草に佇ち銅剣の森望む 上の間に燭台二つ若楓 竹の子の兜を飾る夏座敷 母 の 日 鈴木三都夫 母の日の曝して長き母の文 牡丹の崩るる吐息吐きにけり 茶刈幾を捌く阿吽の夫婦かな 運び来し茶の芽を車ごと計る 今年竹諸肌脱ぎし男ぶり 楠大樹三百年の青嵐 更 衣 青木華都子 どちらかと言へば辛党よもぎ餅 何も彼も忘れたき夜の遠蛙 鉄線花蔓の右巻きばかりなる 橡の花散らばる県庁前通り 更衣期限切れなる入湯券 生みたての玉子のとどく走り梅雨 |
梅 雨 関口都亦絵 梅雨の傘たたみ師の碑にふれもして 師の句碑をぐるり人の輪濃紫陽花 白靴の土を払ひて句碑に佇つ 夏つばめ日矢一閃の出世城 明易の玻璃に髪梳くとほたふみ 遠州の言の葉涼し再会す 緑 雨 寺澤朝子 銀明水井戸も乾びし梅雨の隙 青嵐や城に出世のものがたり 万緑に天守載せたり浜松城 山門に鳥居の隣る梅雨の坊 大寺に三尊在はす緑雨かな 青梅雨やタカ女を泣かす主宰句碑 雲 母 虫 野口一秋 夏霧の詰まる墜道山法師 噴き昇る間欠泉の涼しかり 雲母虫虚子歳時記のぼろぼろに 一湾の膨るる卯の花腐しかな 釣宿の馳走のひとつ河鹿笛 捕虫網立てかけてあり露天風呂 方 広 寺 笛木峨堂 姿態自由苔衣の五百羅漢かな 尺蠖の羅漢の顔を計りをり 方広寺大本堂に蟻地獄 虫運ぶ蟻に応援来たりけり 草刈つて草の中より忘れ鎌 竹の子を猪に掘られてしまひけり |
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白光集 | ||
〔同人作品〕 巻頭句 | ||
仁尾正文選 | ||
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星田一草 田植機を休ませて人休みをり 籐椅子に亡き父の在り母の在り 息深く胸に薫風仕舞ひ込む 山若葉神橋の朱のあざやかに たんぽぽの絮の半球づつ欠くる 大村泰子 高僧の燭足して去る朴の花 青葉冷え子犬の耳の透きとほる 桐の花通ひなれたる朝の道 はつなつやレタスの水は振りきつて 黒南風やひらひら匂ふ鉋屑 |
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白魚火集 |
〔同人・会員作品〕 巻頭句 |
仁尾正文選 |
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東広島 奥田 積 三姉妹みんな母似の五月かな みどりさす百の鳥居に百の影 滴りの小さきこだま投入堂 上げ潮にのりくる瀬戸の海月かな 日は海に傾くところ花梯梧 群馬 竹内芳子 水玉のころころ光る浮葉かな 手毬花ゆさゆさ風をさそひけり 炊き上がるご飯のにほひ明易し まほろばの水が培ふ青田かな 白丁に茶髪も氷室桶の渡御 |
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白魚火秀句 |
仁尾正文 |
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三姉妹みんな母似の五月かな 奥田 積 「親に似ぬ子は鬼子」というのは、子の容姿は大抵親に似ているという譬え。従って掲句の、三人の姉妹が皆母似であるということはさしたることではない。が、「五月かな」と取り合わされると想像の輪が拡がる。 五月の第二日曜日は母の日であるからこの「五月かな」はほぼ母の日と解してもよい。三姉妹の子やそれぞれの夫が毎年連れ立って母の許を訪れるのだが、今年は都合で一週間早めたりしたのかもしれない。福寿の母にとって子達が恙なく暮していることが一番幸せなのである。三人の姉妹やその家族と会って話することは更にうれしいのである。「きやうだいに母はかすがひ単帯 西嶋あさ子」の如く母が健在の今が三姉妹にとってもこの家族にとっても幸せの最たる時といえよう。 たんぽぽの絮の半球づつ欠くる 星田一草 (白光集) たんぽぽのまん丸い絮がそのまま飛ばずにじっとしていることは誰にも気になるところ。何時どんな風にして飛び去るのだろうかとその時は思うが、次に見たときはもう跡形もなく無くなっている。そして詠みたいと思ったことすら忘れている。 この作者は機会に恵まれてその景を見「半球づつ欠くる」と潔よく一刀両断に詠んだ。半球とは、地球なら赤道の面で北半球と南半球を切ったもの。たんぽぽの絮の上半球が風の強さで上端からスライスされたかもしれぬし、斜めにちまちまと飛び去ったかもしれぬが、作者の心眼は半球ずつ飛び去って行くのをしかと見たのである。俳句はVTRではなくて詩歌であるから実景以上のものが見えることがあるのだ。 有名な川端茅舎の「朴散華即ちしれぬ行方かな」の「朴散華」は実景ではない。(朴の花は桜や木蓮のごとく散らない)茅舎の「朴散華」は茅舎の「いのちの散華」である。虚子として「花鳥諷詠真骨頂漢」と言わしめた茅舎の命終の真際の写生句は散華しない朴の花を散華させたのだ。頭掲句より「朴散華」を想起したのである。 白丁に茶髪も氷室桶の渡御 竹内芳子 氷室は冬期山陰などに穴を掘り雪や氷を詰め、断熱材で覆って夏まで貯えたもの。江戸時代には旧暦六月一日を「氷室の節句」として宮中では献上された夏氷を臣下に下賜され、民間でも行事をしてこの日を祝った。 草津白根山(二一七一米)の氷谷の風穴には万年氷と称する天然の氷室があり昔から氷室節句が行われていたが永い間途絶えていた。それを二十数年前復活し、町を挙げて新暦六月一日に氷室祭を行っている。 掲句。麓で行われるいろいろな節句行事の中で最も厳粛なのは祭壇に氷室の氷を祭ることである。氷室の氷は白丁が三人万年氷谷へ登って鉞で氷を割り桶に納めて麓へ担ってくる。白烏帽子の長が鉞を担いで二人が桶を担いで衆人環視の中に帰ってくる。祭りの花形の役である。 一句は白烏帽子の隙に茶髪が覗いていることを見逃さなかった。若者が氷室まつりの花形になったこの行事は間違いなく永続きするだろう。 はつなつやレタスの水は振りきつて 大村泰子 (白光集) 地球温暖化の影響であろうか。今年の気候、天文は少し狂っていて地理にまでそれが及んでいる。中夏である六月の下旬であるにかかわらず朝は長袖シャツが欲しい日がある。一年の内でも最も活力のあるこの時季、薫風や青嵐あるいは夕焼や夕立に筆者はまだお目にかかっていない。 だが、この若い作者。暦の上で初夏となると心も体も自然に機能して華ぐようだ。「はつなつや」というかな書きからそのことが垣間見られる。「レタスの水は振りきつて」も同じくである。若いということは活発である。 会葬の主語なき会話沙羅の花 池谷貴彦 俳句は殆んどが「私は」という主語を省いて書かれている一人称の文芸である。対して掲句の会葬者同志の話にも「故人は」という主語が省かれていて十二分に通じる。「何歳でしたか。」「何処が悪かったですか。」「御遺族は。」等々。言われてみると一々納得がゆくのである。 季語の紗羅の花は夏椿のこと。インドの紗羅樹と間違えられたことからきている。平家物語の「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」があり、「夏椿」よりもこの季語の方が無常感があって適っている。 初生りの胡瓜しつぽに花つけて 長谷川文子 秀句群の中に掲句のようなほほえましい句も一くつろぎを与えてくれていい。みどり児の蒙古斑の如く胡瓜の尻に花がまだくっついていてのどやか。「初生りの胡瓜」を手放しで喜んでいるのだ。 俎板に凹み泰山木の花 中山雅史 掲句はあるいは分り難い向きもあろうかと思うが筆者は鋭い切れ味に感心した。「俎板の凹み」と「泰山木の花」との距りは大きいが、涼風の如く胸の中に飛び込んできた。詩情濃い一作である。 早苗田に風よけの水張られけり 水出もとめ 実際に米作りしている者でないと出来ない句だ。言われてみて、早苗が定着する迄倒れたり浮いたりするのを防ぐために深く水を張っている意味が分かった。土の匂いのする句はなつかしい。日本人はすべて農耕民族の末裔だからだ。 卒業の椅子の数だけ夢のあり 大作佳範 この句から故土江意宇児の「千人の子の千の夢草青む」が思われた。両句共に無限の可能性のある少年少女の未来を祝福する善意が溢れているからだ。 茶摘み下手話し上手を買はれけり 藤田ふみ子 口は八丁であるが手はその半分の茶摘女である。単調で長時間の茶摘みは重労働であるので、こういう始終人を笑わせてくれる人は貴重である。笑いは、心身の癒しに大きな効能があるとTVで精神科の教授が語っていた。 闇の夜はほうたるたちにまかせとこ 有田俊子 こういう佳い句であれば口語俳句を採るにやぶさかでない。「ほうたる」は文語であるが「ほたる ほうたる ほうたらう」等は口語調。下五の「まかせとこ」は完全な口語である。口語も採るがこの句のようにうまくなくてはならぬ。 さくらんぼ鴉に読めぬ禁止札 萩原峯子 「さくらんぼ取るべからず」の札を立てているのに臆面もなく鴉が来て啄んでしまう。「この札が目に入らぬか」と怒ってみても鴉は言葉も文字も通じぬので黄門さんの印籠のようにはゆかない。 |
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百花寸評 | |
(平成十八年五月号より) | |
今井星女 | |
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地上より声掛け屋根の雪卸 赤城節子 北海道の冬は雪で悩まされる。特に昨年の大雪は格別で、手に負えない位大変な除雪作業に追われた。屋根の雪卸しをしなければ屋根が落ちたり、軒下を歩く人に怪我をさせかねないのだ。 掲句、夫が命綱を巻いて梯子で屋根に上り、雪を豆腐切りのようにしながら、地上に投げ落す。地上では妻が安全を確めながら、夫に声を掛けている。そんな雪卸の情景を臨場感あふれる表現で佳句にした。 火の山の見下す湖に氷挽く 佐藤美津雄 函館近郊の大沼公園の採氷風景。 この湖は活火山駒ケ岳の噴火で出来たもので、冬は一面に凍る。昔から良質の氷なので魚貝類の保存には欠かされないものだった。 活火山駒ケ岳を火の山と云い、その裾野にひろがる凍湖では採氷が行われている。この二つの対照的なとりあわせがよい。 大笑ひして死ぬ話日向ぼこ 中山雅子 自分たちの死の話を底ぬけに明るく話題にしている幸せなお二人さん。 「死ぬ時はコロッといきたいね。」 「長わずらいして家族に迷惑かけたくないねー」 みんなそう思っているけれど、こればっかりは解りませんよ。 「あんたは後生がいいから願いが適うかもしれないよ」 「アハハハハ」 そんな会話がきこえてくるような句だ。 縁側での日向ぼこをたのしんでいる健康で幸せなお二人さん。きっと長生きしますよ。 豆撒きて赤青鬼のお酒盛り 曽我津也子 産土神社の節分。豆撒きの行事が終り、「ごくろうさん、ごくろうさん」と世話役の皆さんの接待が始まる。赤鬼役もお面をぬぎ、青鬼役もお面をはずして、やれやれといいながらにこにこしてお神酒をいただく。 こんなたのしい行事を大事にしている日本の習慣はうれしい。皆が健康で倖せであることを願いつつ。 豆撒や犬の小屋にも年の数 中間芙沙 大事な愛犬の小屋にも、節分の豆を撒いた。それも犬の年齢に合せて数を数えて。お宅の犬は何歳ですか?。きっと老犬でしょう。 作者のやさしい心づかいが読者にも伝ってくる。私の家で飼っていた柴犬は、十八歳と三ヵ月で死んだ。老衰といわれたが、お宅の家の犬も長生きしてほしいですね。私は今、どこの家の犬をみても声をかけたくなる心境だ。 歳時記をひらきて閉ぢて犬ふぐり 池田 都貴 『わが俳句足をもて作る犬ふぐり 西本一都』 とあるように、犬ふぐりは吟行の代名詞のようなものだ。この句、作者の俳句づくりに懸命な姿が伺われる。 「歳時記をひらきて閉ぢて」と、リズムもよく犬ふぐりの季語が効いている。どうぞ足のむくまま自然に触れて良い句をたくさん作ってください。 干布団天地ひつくり返しけり 斉藤文子 歳時記をみると、蒲団、干蒲団は冬の季語になっている。夏であれば夏蒲団といわなくてはならないとある。干蒲団は年中生活の中で行われていることではあるのだがー。 掲句、「天地ひっくり返しけり」がおもしろい表現。なるほどと共感した。 天は上、地は下のことなので、重い蒲団を日光に当てるため、よっこらしょと上下をひっくり返して干している主婦の姿がそこにある。 喜寿過ぎて忘れ上手や春炬燵 西岡久子 忘れ上手とはおもしろく云ったものですね。人間、誰れでも年を重ねると忘れぽくなるものだ。まあちょっとした事なら、すぐカバーできるが、大事に至らないように注意したいものだ。 忘れ上手、嫌なことは忘れるのが一番だ。結構なことではありませんか。 掲句、季語の春炬燵で幸せそうな作者の生活ぶりが伺い知れる。 鯉いづこ池の氷の張りづめに 山岸幸生 去年の冬は、全国的に寒波に襲われ特別零下の日が長く続いた。池の水が凍り、鯉が酸欠になるのではないかと心配になった作者。 ちなみに 私の住んでいる函館の五稜郭城の濠に飼われていた三百匹余りの大きな鯉も酸欠で皆今年死んでしまったのである。 管理人に尋ねるとこんな説明が返ってきた。「昨年の十二月から雪が降って濠の水が凍ったのだが、一部分凍らないところがあって、鯉が皆その場に集ってきたので酸欠になって死んだようだ。鯉は濠の水面が全部凍ると仮死状態になって眠り、春になると元気になるのだが、今年はそれが出来ず死んだらしい。 十五年前にもこんなことがありました」と。 可愛そうな鯉。 急逝のまさかの電話冴返る 冨澤洋子 ある日、お知り合いの方が急逝されたという電話が入り、エエッ? と一瞬絶句した。信じられない訃報だった。冴返るは春の季語でそろそろ暖くなりかけたと思うとまた寒さが戻ってくるのをいう。掲句、季語がその心情をも表わしていて秀句。 ちなみに、一九九一(平成三)年、第四回村上鬼城賞を受賞した伊藤鯰子氏の受賞作「まさかの死」五十句の中から、 まさかの死告げに橇で来泣きて去る ひたに詫びつつ凍酒を骨に吹く 最近よんだ句集の一つです。 旅を来て駒子の国の雪椿 栗田幸雄 駒子は川端康成の小説『雪国』の主人公のことだと思う。 有名なこの小説の書き出しは「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった――」で始り、舞台は群馬県から新潟県へ入る清水トンネルであろうか。越後湯沢温泉は今から八百年前に発見された鄙びた温泉地である。 角巻に身をつつんだ雪国の芸者駒子を映画では岸恵子が演じていた。ずい分昔の話だが。 赤い椿の花が咲く頃なのに、雪国では春の雪がちらつくこともある。白い雪と赤い椿、色白の駒子のイメージとも重なる。 『雪国』といえば、私には忘れない思い出がある。余談になるが、ちょっと聞いて下さい。 平成十二年の秋、親交のあった俳優の、松村達雄さんから、突然電話が来た。 『今、北海道の札幌で舞台に出ています。演目は「雪国」。高橋恵子が主役で、僕は宿屋の主人の役で、ちょっと出ています。 僕も年ですから(八十五歳)もう舞台は最後になるかもしれませんよ。よかったら観にきて下さい』 せっかく連絡いただいたのに私は都合がつかず、とうとう観に行けなかった。 去年(平成十七年)六月十八日、松村達雄さんが心不全で亡くなったと新聞で知った。九十歳とあった。 映画監督山田洋次氏の談話が載っていた。『寅さんシリーズで二代目おいちゃんを演じていた松村さん。酒脱という言葉がぴったり当てはまるシャイナ都会人のこの人を、僕は心から尊敬していました。こんな素晴らしい俳優は二度と出てこないと思います』 あの時、札幌に行かなかったことを私は悔いています。 松村さん、今ごろ天国で法政大ラグビー部の後輩だった私の夫と、ラグビーの話に花を咲かせているんでしょうね。 筆者は函館市在住 |
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