最終更新日(Updated)'06.05.25 |
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・しらをびのうた 栗林こうじ | とびら | |||||||||||
・季節の一句 前田清方 | 3 | |||||||||||
持つてけと(主宰近詠)仁尾正文 | 5 | |||||||||||
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか | 6 | |||||||||||
白光集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載) 森 淳子、横田じゅんこ ほか |
14 | |||||||||||
・白魚火作品月評 水野征男 | 41 | |||||||||||
・現代俳句を読む 渥美絹代 | 44 | |||||||||||
百花寸評 青木華都子 | 47 | |||||||||||
・シチリア旅行 坂本タカ女 | 50 | |||||||||||
・「山陰のしおり」山陰合銀発行 '06,4月号転載 | 52 | |||||||||||
・俳誌拝見 (青海波) 森山暢子 | 53 | |||||||||||
・こみち(もつたいない) 小川恵子 | 54 | |||||||||||
句会報「静岡白魚火 遊歩句会」 | 55 | |||||||||||
・「絵硝子俳句」三月号転載 | 56 | |||||||||||
・柳まつり全国大会 | 57 | |||||||||||
・今月読んだ本 中山雅史 | 58 | |||||||||||
・今月読んだ本 佐藤升子 | 59 | |||||||||||
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載) 金井秀穂、野沢建代 ほか |
60 | |||||||||||
白魚火秀句 仁尾正文 | 110 | |||||||||||
・窓・編集手帳・余滴 | ||||||||||||
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鳥雲集 | |
〔無鑑査同人 作品〕 | |
一部のみ。 順次掲載 | |
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梅 の 宮 安食彰彦 探梅行枡酒一杯いただいて 奉納の柄杓新しいぬふぐり 社務所より覗きてをりぬ泥天神 眉の濃き宮司絵馬売る梅の宮 御礼の絵馬春風に鳴りにけり 満杯の絵馬の上に絵馬梅の宮 揚雲雀声に力のこもりゐて 雪 解 滝 鈴木三都夫 奉る一燭仄と涅槃像 竹炭の燠の息づく涅槃通夜 借景に霊峰を置く野梅かな 用心の一枚羽織る梅見かな 雪解滝ぶつかり合つてしぶきけり 捨て積みの榾より春子犇めける 日脚伸ぶ 田村萠尖 薄墨の滲みゆくほど日脚伸ぶ 音たてて水舐める猫日脚伸ぶ 用水の声あげ走る雨水かな 公園に輪投げ教室うららけし 韋駄天の野火に疲れの見えにけり 校名の変りしばかり卆業す |
凍ゆるむ 能美百合子 凍ゆるむ嶺々の吐息の朝の靄 河に立つ靄のむらさき凍ゆるむ 春めくや上潮の襞まろやかに 春めくや靄籠めに合ふ海と河 凍てゆるむ廃虚の空の広さかな 旧町の飾り格子戸春の霧 お 降 橋場きよ 冬萌や窓いつぱいの日の光 新調の靴お降りに濡らしけり 告げることあるがに揺るる水仙花 人生の岐路の重みや二月尽 野焼く火の車窓を過ぎる旅愁かな 吾と向ふ無言の行や春の風邪 二 月 盡 大久保瑞枝 興じつつ作業療法暖かし 二月盡立ち上がるさへ儘ならず 中庭の鉢に上げたる四葩の芽 四葩の芽力を抜かぬ拳かな 鉢ものに生命を注ぐ春しぐれ 春燈や娘に顔を剃らせゐつ |
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白光集 | ||
〔同人作品〕 巻頭句 | ||
仁尾正文選 | ||
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森 淳子 多喜二忌や二月の海の荒れてをり 海峡を渡り高値の寒蜆 除雪車の通り過ぎたる二度寝かな 鮟鱇のシャツ脱ぐごとく皮を剥ぐ 雛の市ゆつくり廻る二人かな 横田じゅんこ 薄氷の下をうすらひ流れをり 字三つ繋ぐ堤の野梅かな 春雨傘三回振つて畳みけり 濯ぎ物干す竿高し桃の花 菜の花や一輛電車浮いて来る |
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白魚火集 |
〔同人・会員作品〕 巻頭句 |
仁尾正文選 |
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群馬 金井秀穂 畦焼きの煙大利根川越えて来し 二タ村の畦焼く煙重なれり 置き去りの案山子巻き込む畦火かな 啓蟄の座敷を歩く夜の蜘蛛 幾度もお茶入れ替ふる春炬燵 浜松 野沢建代 雪解水走りぼつとり休みをり 集落へ続く細道雪間草 軋みゐる合掌造りの春障子 垂り雪落ちて煙を上げにけり 五箇山の雪解雫に濡れにけり |
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白魚火秀句 |
仁尾正文 |
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幾度もお茶入れ替ふる春炬燵 金井秀穂 戦前戦中の農家に比し、現在の農家の暮しの一齣が窺われて感慨を催した。八十年も経っているのだから当り前のことではあるが、農家生れの筆者には在郷村時代の農家の記憶しか残っていない。だから掲句の平穏が嬉しかったのだ。 中百姓であった父は大家族を養うために実によく働いた。稲作、麦作、甘藷作りの間に蚕を飼い、葉煙草の納付が終ると夜なべに炉端で炭俵を編んでいた。冬中炭焼きをするためである。炬燵に居た父の思い出はない。 対して掲句。役所も銀行も学校も週休二日が定着した現在、日本人の働き過ぎを批判されることはなくなった。農夫症も見られず、ゲートボールやグランドゴルフ、ツアー旅行を楽しむ老人が増えた。 幾度もお茶を入れ替えて春炬燵で夕食後をくつろぐ農家が何のてらいもなく描き出されていていい時代になったと思う。父たちは一時代早く生れて一時代早く死去したのだ。 除雪車の通り過ぎたる二度寝かな 森 淳子 (白光集) 雪国で暮したことがないので豪雪地の人々の本当の労苦は分らない。気象庁の暖冬予報は大外れして凄い寒波が繰り返し列島を襲い各地に大雪を降らせた。中越の四メートルに達する積雪は何回もテレビが報じ、雪下し中の事故死者も百二十名を上廻った。雪国の人々には同情するばかりだ。 掲句。夜をこめて降り続く雪に、寝てはいても熟睡はできていないのである。だから除雪車が除雪を終って通り過ぎた後「二度寝」が出来た。この二度寝は四肢を伸し、ストレスもなくなった熟睡であったのにちがいない。雪のない国の者にも安らぎを伝えてくれた一句。 垂り雪落ちて煙を上げにけり 野沢建代 一連の作品から掲句の「垂り雪」は奥飛騨のもののようだ。積った雪の重さに耐えられなくなった太枝が一震いしてしずり落ちた瞬間である。地上の積雪がその衝撃により雪煙をもうもうと上げたのである。まさに壮観。 前句が大雪の中で得た安らぎに対し、掲句は自然の猛威をまざまざと見せてくれたのである。 菜の花や一輌電車浮いて来る 横田じゅんこ (白光集) 浜松の近くに第三セクターの天竜浜名湖線という鉄道がある。風光明媚な湖辺や牧歌的な地が拡がり、時間に余裕のある人は愉しい旅を満足してくれる筈だ。通勤、通学時間帯の外は一時間に二本程一輌電車が運行されている。 掲句は、菜の花畑の中を行き交う一輌車。正面から見ると陽炎も立って浮き上ったように見える。 駘蕩とした春真っ盛りの一景である。 先生の大きマスクと大きな目 飯塚富士子 マスクしてどちらともなく目の笑ふ 稲村貞子 両句ともマスクと目の取り合せである。 前句は、歯科医師ではなかろうか。いつも四角の大きなマスクを掛けているので永い間つき合っている筆者の主治医も顔は見たことがない。大きな目が澄んでいるのできっとハンサムなのだろう。 後句のマスクは友人のようだ。マスクをしていても相手の顔も心も詳さに見えているのである。 牛乳の紙の蓋取る啄木忌 中山雅史 歌に情熱を傾け尽したが病気と貧困の内に夭折した石川啄木。忌日俳句には批判的な筆者も啄木忌は虚子忌や西行忌とともに好きな季語の一つである。 啄木忌いくたび職を替へてもや 安住 敦 が代表するように啄木忌詠には、どこか陰翳を帯びたものが多い。対して頭掲句。胸中とは別に重くれていない。上句の何でもないフレーズが啄木忌と取り合わされるとやるせなさが滲み出ていることに気付く。 口下手はいつも聞き役毛糸編む 斎藤かつみ 明石家さんまや島田紳助らは、まるで口から生れ出てきたような芸人である。瞬時に言葉が飛び出してきて、喋っている間に視聴者を納得させる言葉と結びつける。すばらしい頭脳の持主で、至芸の話術だといつも感心している。 対してこの作者も筆者と同じで、二、三秒言葉が出るのが遅くて、折角のウイットも喝采を得るに至らない。おのずから寡黙になる。作者は「口下手はいつも聞き役」と割り切ってその間毛糸を編んでいる。ふてくされているのではないので、掲句に共感する向きは多かろうと思う。 桜漬舞姫のごとほぐれけり 名波綾子 桜漬が湯の中でほぐれてうす紅の裳裾をひるがえしている様を「舞姫のごと」としたのがうまい。比喩は、読者が一読してその景が瞬時に頭に描けないと失敗である。成功作の掲句をじっくり味わって欲しい。 梅見茶屋手提げの籠に犬の顔 川崎ゆかり 犬嫌いの筆者は、耳にリボンをつけたり、きれいな胴着を着せたりした犬の種類などは勿論知らない。朝の散歩で小犬を抱いて歩いている友人に訳を尋ねると、今日は少し疲れているからだという。掲句の主人公もその種の人。観梅の手提げのバスケットに何と犬を入れて連れて歩いているのである。 かつて遠野の南部曲家を見たとき「猫えじこ」というのが炉端に置かれてあった。猫は居なかったがほほえましいものだった。岩手や宮城など東北では乳幼児を入れておく藁製の籠をえじき(方言)という。猫と人間の関係は古代エジプト時代前からだという。犬も同じ頃から人にかわいがられたのであろう。 一年のいろいろが過ぎさくら咲く 古田キヌヨ 歳月矢の如し、去年見た桜から今年の初桜の間もあっという間であった。この間には親しくしていた人が亡くなったり、孫が結婚したり、慶弔も結構多かった。 この句は「さくら咲く」に魅かれた。宋之問の「年々歳々花あひ似たり 歳々年々人同じからず」を思っているからだ。この詩句は『和漢朗詠集』に収録され古来日本人に親しまれてきた。 拙句集『歳々』の帯文にこの詩句の作者を宋之問としたところ、これは宋之問の娘婿の劉延芝の作として『唐詩選』にあるので誤っていないかと指摘されたことがある。「折々のうた」でこの詩句を採り上げた大岡信は「この詩の原作者を劉希志とする説もあり、これにからんで真偽不明の妙な逸話がある……」と書かれている。『和漢朗詠集』に収録されたのは宋之問で日本人に好まれた。唐詩選の作者が劉延芝となっているならそれも誤りではなかろう。一詩に作者二人という特異なものと認識しておけばそれでよい。 初暦壁の一等地に掛くる 山田敬子 初暦を掛けるときは、来る年の無限の可能性に期待をかけるものだ。そのために、壁の中で一番目立つよい場所を選んだのである。「壁の一等地」が秀抜な表現である。 |
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百花寸評 | |
(平成十八年二月号より) | |
青木華都子 | |
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短日や信号赤になりやすく 大石ます江 信号機は交通量や道巾によって、何秒か、一分、一分三十秒など決められているのです。一度赤信号につかまると、次の信号もまた赤反対側の青信号が長く感じるのです。 「短日」であるからこそ、急がずに青になる迄待ちましょう。青から黄に変った時、無理をせず“イエローストップ”歩行者ばかりでなく、ハンドルを握る一人一人が、待つゆとりを心掛けるようにと、交通安全を願っての一句なのです。 牡蠣剥き女世間話に余念なく 中村信吾 物言ふも脇目は振らず牡蠣割女 西田 稔 平成十三年度宮島で行われた全国大会をふと思い出しました。路地に一歩入ると、あちこちで牡蠣を剥いでいる姿がありました。掲句二句、前句は上五に牡蠣剥き女と、後句は座五に牡蠣割り女、同じ所を見て出来た句と受け止めます。物言いながら、世間話をしながら、剥く手割る手を休めることなく、軍手の太い指が自然のリズムで、ベテランの仕事振りが、観光客の足を止めるのです。「剥く」は、はがす、はがし取るで、「割る」は、くだく、こわすことであり、いずれも固い牡蠣の殻の中から取り出すことです。その姿を「余念なく」「脇目も降らず」と目の付けどころは同じでも、このように微妙な表現の違いが、俳句なのです。 何事も良きに解釈冬うらら 福田としを 何事にも前向きで、プラス思考で事に当たれば、少々の難問であっても良い方へ転じていくのです。また幸せを呼び込む力まで湧いてくるのです。季語の冬うらら、平仮名で「うらら」としたことによって、上五、中七の固さをなめらかにしているのです。 老体に鞭のリハビリ秋深し 山岸幸生 「老体に」と謙そんをしている作者、体調を崩して何日か寝込んだのでしょうか?元気な自分に戻るために、自分で自分に言い聞かせるように、それにしても「鞭のリハビリ」とは、その意志の強さに驚かされます。順調に回復しつつある体調に、もう一歩と、きついリハビリを乗り越えて、日一日と深まる秋を惜しみながら取り戻した健康に拍手を送ります。 夕べ掃き朝にまた掃く落葉どき 星野きよ 朝に夕べに落葉掃きもひと仕事です。散った葉も、また残っている葉も風情があっていいものです。掃きながら作者は句材を拾っているのですから……。 大盛や男料理の茸飯 沢柳 勝 この茸飯は女性では考えられない程の具沢山で、見た目より味なのです。大判振る舞いに食卓もにぎわって、明るい笑い声が聞こえてくるようです。 吸ひ込まれさうな青空木守柿 稲垣よし子 快晴で真青な空は気分も爽快になります。梯子を掛けても届かない高さの木守柿に、二羽三羽と集まってくる小鳥の声が聞こえませんか?木守柿、明日は“へた”が残っているだけかも知れません。 車庫入れを冬満月に見られけり 中田秀子 冬満月の明りに、いつもとは違って意外に手古摺っていて、バックをしたり、前進をしたり、何度もハンドルを切り返しながら、「見られけり」とユーモアを効かせた一句。 短日や朝から気合入れ込んで 加藤 梢 「短日や」と上五でしっかりと切って「朝から気合い」と周囲の人達にもやる気を起こさせてしまう、人の心を引きつける力があるのです。句そのものに気合が入っています。 子と話す暦果てたることなども 川上けいし 「子と話す」親子の会話、ほのぼのとした情が伝わってきます。「暦果てたる」年も詰まった十二月、今年も一枚となってしまった暦の話など、何気ない会話で振り返る一年、親子の会話の弾む師走の貴重な一日。 杭一つ一つを占めて鴨休む 江角綾子 なぜか杭に休む鴨は同じ向きで……。 熱あつの石焼ビビンバ冬ぬくし 脇山石菖 掲句は韓国で作った旅吟の一句なのです。成田空港から約二時間で、韓国の仁川空港に降り立ち、日本から一番近い外国です。気候もほぼ日本と同じで、おすすめしたい吟行地です。本場の石焼ビビンバの味は寒い冬に最高です。味も日本人の口に合っています。 「チャルマツシツソヨ」(とてもおいしい)と言えば、おまけの一品が出されること受け合いです。 スキツプし鴉横切る刈田道 中間芙沙 刈田道は小学生の通学路でもあり、スキップしている子供達を見て、人真似上手な鴉のスキップをしている姿を見て、ユーモアのある即吟。 小春日や母の大きな肩を揉む 太田尾利恵 子供は親の背中を見て育つと言われますが掲句は正にその通りで「母の大きな肩」は肩巾の広さではなく、お母さんは、母親のお手本のような“賢母”であり、またやさしく、あたたかい人なのです。いままでの様ざまな思い出を語り合いながら、肩を揉んでさしあげられる幸せなひと時なのです。いつ迄も大切にしてあげて下さい。肩を揉んでいる姿を作者のお子さんも見ていることでしょう。 |
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触れ得なかった感銘句 | |
木の実落つそれぞれ別の音のして 枯尾花括りし紐をゆるやかに 辻褄の合はぬ夢なり冬の汗 笹鳴きをふと聞き止むる朝の道 丁寧に牡丹の冬芽囲ひをり 風邪癒えて腕白坊主に戻りたり ほうの葉に香り豊かな秋しめじ アルプスを朱一色に秋落暉 柿二つ残し今年の取り納め 錦秋の山が近づく遠めがね |
名波綾子 岩崎昌子 五嶋休光 横田みよの 赤城節子 知久比呂子 黒子ツタ子 原よしゑ 久保美代子 澄田みち |
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筆者は宇都宮市在住 |
禁無断転載 |