最終更新日(Update)'12.11.01

白魚火 平成24年10月号 抜粋

(通巻第687号)
H24.8月号へ
H24.9月号へ
H24.10月号へ
H24.12月号へ


 10月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
季節の一句   山根 仙花
「夕化粧」(近詠)  仁尾正文
曙集鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
渡部美知子 、三上美知子  ほか    
白光秀句  白岩敏秀
句会報 実桜総会・吟行句会記  奥野津矢子
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          谷山 瑞枝 、佐藤 升子  ほか
白魚火秀句 仁尾正文


季節の一句

(出 雲) 山根 仙花

  
舟音を遠ちに渚の秋惜しむ  久家 希世
(平成二十四年一月号白魚火集より)

 ゆく秋を惜しむ宍道湖畔での作品。
 斐伊川が宍道湖へ注ぐ河口一帯は、中州や葦原が広がり出雲平野の広大な水田がそれをとり囲んでいる。四季を通じてそれぞれ趣があるが、秋から冬にかけては日本でも最大級の野鳥の宝庫となる。代表する渡り鳥はやはりマガン(雁)とコハクチョウであろう。中でもマガンは西日本では斐伊川水系が唯一の渡来地である。宍道湖の湖心部や中州をねぐらとして夜明けと共に河口周辺の水田に集団で飛来して落穂などを採食する。
 築地松に囲まれた家々の空を竿になりかぎになりして渡るマガンの姿は冬の風物詩である。
 一方コハクチョウも日本列島における渡来南限地で宍道湖一帯は太古からの渡来地であり「出雲風土記」にも「くぐひ」として、その存在が記されている。

千の磴あと百段の秋暑かな  竹元 抽彩
(平成二十四年一月号白光集より)

 目の薬師として知られている一畑寺での作品。
 一畑寺は出雲神話の国引で名高い島根半島の中心部標高三百米の一畑山上にあり、宍道湖が一望される。
 平安時代、ふもとに住む漁師与市が海中より引上げた薬師如来を祀ったところ、母親の目が開いたり、子供の病気が治ったことなどから目の薬師、子供の無事成長の仏様として広く信仰されたのが医王山一畑寺の始まりである。爾来千百年余り、お百度を踏む信者や多くの参拝客でにぎわっている。
 参拝するには、かつては千三百段余の長い石段を登らねばならなかったが、今では自動車道が開通して、石段を登るのは、ここで開催される「一畑マラソン」以外では使われなくなった。
 信心のため登り降りした石段は磨り減っていて昔が偲ばれる



曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   

 秋 暑 し  安食彰彦
一葉落ついはく因縁ある墓石
秋暑し先師の墓石見当らず
髭剃器忘れ秋暑の日なりけり
アイスコーヒー頼み文庫を読む女
四脚門の乳鋲撫づる巫女二人
和蝋燭ともし黄菊につつまれて
秋暑し抗生物質歯の中に
秋暑し奥歯を二本抜かれたる

 稲 光 り  青木華都子
辻褄の合はぬ会話や秋暑し
秋風に押されつ登る男坂
ここからはみちのく稲は穂となれり
水打つや甘味処に男客
稲光りぶ厚き雲を切り裂いて
怪獣のやうな雲湧く山の秋
草茂る飯門店の無人ビル
紫陽花を切つてくれたる坊の妻

 街 の 灯  白岩敏秀
潮の香の子とすれ違ふ夕焼雲
夕立にはづれて花に水を遣る
街の灯の煌々として終戦日
ひぐらしの声に雨降る日曜日
稲の花堰を落ちゆく水の音
新豆腐沈みて水のあふれけり
桐一葉風をひきずり裏返る
図書館の返却ポスト小鳥くる

 葛ざくら  坂本タカ女
そよりともせぬ鬼百合の真昼かな
翅余すなき鷺草や忌日来る
下ろしたてなる男衆の祭足袋
祭獅子見る切株にあがりけり
タクシーに声ほめらるる大暑かな
邯鄲やひとの気配につく明かり
邯鄲や看板なりし店を出づ
久濶の彼のひとを訪ふ葛ざくら

 流  灯  鈴木三都夫
海の日の書架に連絡船史かな
命愛し命惜しめと蝉時雨
割り込んできてみんみんのひとくだり
静かにも人影混める流灯会
流灯の灯の瞬くは淋しめる
流灯の瞬き消ゆる河口かな
流灯の一人ぼつちの灯の消えし
たまゆらの流灯の灯を止め惜しむ
 星 流 る  山根仙花
炎天の重さ支へてゆく日傘
水打つて大地の素顔とり戻す
海かけて一雨ありし茄子の紺
風鈴に風のやさしき夕べかな
百日紅空青ければ空に咲く
星飛ぶや孤島に生きし過去ありぬ
夜も乾く洗ひしものに星飛べり
寄する波引く波の間を星流る

 花  野  小浜史都女
午後からは雨てふへくそかづらかな
からすうりすずめうり未だ青かりし
杉の木は杉葉を落とし野分去る
秋の蝉十割蕎麦屋がらんどう
湿原は沼の底より末枯るる
山萩にけふ風もなく雲もなく
霊峰に仲秋の雲流れけり
むらさきにももいろがちに花野かな

 盆 の 頃  小林梨花
盆棚のにぎはふ如来幡掲げ
迎へ火や老いの後に皆屈み
少年少女仏間はみ出す盆供養
秋風に吹かれからから音転ぶ
秋蝉の声のふくるる浮浪山
山裾に腰を下ろして秋を聴く
山深き古刹の道や秋の声
青蜜柑先師の姿眼裏に

 月 夜 茸  鶴見一石子
風紋は風のいたづら天高し
九十九里涛にただよふ盆の月
隠れ里おしろい花の咲き乱れ
六道に戊辰の役碑虫の声
前田領百万石の銀河の尾
長き夜や夢の端々つながらず
平家塚すでに暮れたり月夜茸
少しづつ忘るる齢夕化粧

 鵙 の 声  渡邉春枝
今朝秋と思ふ厨の予定表
きのふより今日の明るき星月夜
百幹の竹真青なる鵙の声
坪庭に色鳥の来て羽たたむ
一世紀前の文読む夜半の秋
ここだけの話のつづき小鳥来る
七十路の遊び足らざる秋日傘
対話なき一日暮れたり木歩の忌


鳥雲集
一部のみ。 順次掲載  

  旱  金井秀穂
大旱喘ぎに喘ぐ芋畑
己が葉を落し酷暑に耐ふる木々
穂揃ひの稲田展けり終戦日
予後の妻傷ぶる残暑つづきをり
大根蒔きためらふ日照りつづきかな
一雨が一気に秋をもたらせり

 流  灯  坂下昇子
迎火の風が小草を揺らしけり
だんだんに膨れてきたる踊の輪
流灯や川の向かうはまだ暮れず
西の空真つ赤に焼くる流灯会
肩車して流灯を見送りぬ
手花火の匂ひ残れる庭の隅

 新  涼  池田都瑠女
石鼎の句碑に夏蝶紋たたむ
天空の色深まりぬ百日紅
少し書き少し休みて暑に耐ふる
裏山の木々の騒めき夕立くる
贔屓目の児らに声援宮相撲
新涼や出土埴輪にある乳房

 大 花 火  大石ひろ女
塩鯖の塩のほど良き晩夏かな
その後の闇を深むる大花火
二百十日きれいな月の上がりけり
折鶴の角合はせゐる良夜かな
つくつくし鳴きに来てゐる遺髪塚
語りたき人みな遠し鳳仙花
  空中遊泳   奥木温子
紫陽花の雨に烟らふマリア像
合歓散りぬ空中遊泳する間なく
もう誰も振り向きもせぬねぢり花
釣糸の瞬時光れり鮎の川
鳴けるだけ鳴ける木のあり蝉時雨
残照が雲を縁取る夕ひぐらし

  夏 の 雨  清水和子
トンネルに通し番号青胡桃
緑蔭の遺跡発掘説明会
アスファルトの埃の匂ふ夏の雨
月涼し地球の時差を知りし日も
夜の秋発車のベルの響きくる
色鳥の来てをり図鑑持ち出せり

百 日 紅  辻すみよ
饒舌は元気の証百日紅
水を蹴りホップステップあめんばう
夏帽子今日はふりるの付きし黒
風蘭の還らぬ人を待ち匂ふ
真黒な雲連れて来る夕立かな
潮の香の風に乗り来る花火の夜

良  夜  源 伸枝
廻廊へさざ波幾重今朝の秋
ふる里の山なつかしく稲の花
つまべにや三味の音洩るる奈良格子
黒山羊の瞳つぶらに稲穂波
かなかなや指にからまる刺繍糸
藁の香に眠る仔山羊や月のぼる


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選


 渡部美知子

曲がるたび変はる色なき風の音
椿の実拾ひ瀬音に別れけり
ここよりは札打ちの道秋日濃し
秋蝉に取り囲まれてひとりかな
鬼胡桃揺れて瀬音の高まりぬ



 三上美知子

雷鳴の一直線に攻め来る
整列の球児に秋の澄みにけり
木道を行く靴先の秋の風
新藁の夜も匂へる門田かな
空稲架に少し遊んで登校す



白光秀句
白岩敏秀


椿の実拾ひ瀬音に別れけり  渡部美知子

 一連の作品から登山のような大げさなものではなく、ごく親しい里山への行楽ようだ。色彩が明色でテンポも軽快だ。
 渓流に沿って登って来た道が岐れるところで椿の実を拾った。つややかな椿の実と潺潺と流れる瀬の音が深まりゆく秋を感じさせる。やがて来る冬を前にして「瀬音に別れけり」は行く秋を惜しむ作者の気持ち。瀬音に有情あるごとくである。
鬼胡桃揺れて瀬音の高まりぬ
 『枕草子』(一四七段)に見た目には平凡だが、漢字で書くと仰山なものとして十種類があげられている。その中に「胡桃」がある。胡桃が仰山なら、鬼胡桃はきっと腰を抜かすほど仰山に違いない。
 その仰山な漢字の鬼胡桃が大揺れに揺れ、瀬音がごーごーと高鳴っている。秋との別れのセレモニーのようだ。

空稲架に少し遊んで登校す  三上美知子

 集団登校の列を離れた子どもが空稲架を鉄棒代わりにしてぶら下がった。ランドセルを背負ったままの遊び。それが「少し遊んで」。子どもはすぐにカバンをかたかた鳴らしながら登校の列へ戻っていった。
 広い空間に何か一つ加えることによって、その空間がより広くなることがある。子どもが遊んで消えたということだけで、刈田の景が前よりも一層広く感じられる。子どもの小さな動が刈田の大きな静を引き出してスケールが大きくなった。

秋めくやふつと燐寸の火の消えて  阿部芙美子

 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かされぬ」。よく引き合いに出される藤原敏行の歌である。この歌の秋は風が知らせてくれた。
 揚句は燐寸の火が知らせてくれた。燃えていた燐寸が消えることによって、つまり何かが何かに瞬間に変化するときに秋らしさを感じたのである。
 一瞬を掴み取るとは簡単に言えてもなかなか難しこと。普段から俳句のアンテナを四方八方に張って、柔軟な感性を養っていることが肝要である。この作者だからできたことである。

涼新た天国よりの余り風  渡部 幸子

 秋の涼しさは天国からの余り風のせいだという。なんと美しい発想なのだろう。だから爽やかに頬を吹く風も木々や秋草を靡かせていく風もみな天国からの余り風の恩恵ということなのだ。
 日々の平安のなかに、心の豊かさがあるからこそ感謝の気持ちが生まれるのであろう。作者の心中の想いを大事にしたい一句である。

男郎花咲きたる里の水汲場  福田  勇

 「秋の野に今こそ行かめもののふのをとこをみなの花匂ひ見に」(大伴家持)。男郎花は女郎花の仲間でよく似ているが、茎や葉が大きく毛が密集している。女郎花は濯ぎ場に似合い、男郎花は水汲み場が似合う、と思う。
 この水汲み場は水道が完備した今でも使われているのだろう。夏は冷たく、冬は暖かい水を里人はたっぷりと使わせて貰っている。大事な水汲み場を守るように咲いた男郎花。その男っぽさがいい。

夏帽子さらりと齢隠すなり  池田 都貴

 若い頃は、女性とすれ違うとき電光石火の早さで相手の年齢、スタイル、服装など点検したものだ。歳を重ねるにつけて他人との比較はしなくなったものの、気になるところはやはり気になる。その気になるところを夏帽子でさらりと隠す。この屈託のなさが楽しい。

梅漬けて日記一行増えにけり  吉田 智子

 増えた一行は今日漬けた梅のことだろう。俳句は日常の一齣を切り取ればいい。その一齣に作者の思いが反映されているからだ。増えた一行のなかには、梅が上手に漬かってくれること、美味しい梅干しができることの願いが込められている。そこに詩が生まれる。

梳る髪の軽さや今朝の秋  水出もとめ

 立秋と聞けば、何となく心が浮き立つのを覚える。それが暦の上だけのことであっても…。見るもの聞くもの触れるもの、全てが新鮮に感じられる。女性にとっては、さしづめ毎朝の身だしなみに感じられるのだろう。
 秋立つという爽やかな気持ちを、梳く髪の軽さでしっかりと言い止めた。


    その他の感銘句
秋暑し旅の荷にある奇応丸
咲く前の形に閉ぢて槿散る
草は穂を月にかかげて試歩の道
おしやれ着を吊れば秋蝶来て止る
巻き上ぐる火照りの残る夕簾
萩咲かせ野々花医院休診日
片陰や左ばかりの行き帰り
句の中に母を迎へて盆灯
秋涼し旅の途中の吉みくじ
蜩の声降りそそぐ光堂
秋の滝荒き音して落ちにけり
一徹に伸びたる山の青芒
秋来ると大きくなりしにぎりめし
落つる時一気に滝のふくらめる
海の香をたつぷり浴びし髪洗ふ

花木 研二
星  揚子
荒井 孝子
陶山 京子
原  和子
秋穂 幸恵
大久保喜風
広瀬むつき
田口三千女
横田美佐子
諸岡ひとし
影山みよ子
佐野 栄子
大石登美恵
加藤 数子



白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

 唐 津  谷山 瑞枝

牛の鼻涙で濡るる半夏生
コーヒーで冴えたる眼いなびかり
ドクターに様で呼ばるる花木槿
積んどくの本を抜き出す夜長かな
廃屋に屋根なかりけり葛の花

 
 浜 松  佐藤  升

濡れてきしグラスの表氷水
サングラス頭へずらし地図を見る
滝壺を少し離れて水休む
髪束ねて簡単服に身を入るる
渡し場の身巾の板や鰯雲



白魚火秀句
仁尾正文


ドクターに様で呼ばるる花木槿  谷山 瑞枝

 NHKの朝のテレビ小説を見ているが、色々な性格の医師が居るものだ。名誉教授にこだわる医師が居る反面そんなものに興味のない者。研究はすばらしいが恋愛や結婚にはウブというより無智な「医者馬鹿」といわれる者もいる。プロ野球の名選手の多くは五歳から十歳も年上の女性と結婚している者が多い。中学、高校、大学や社会人野球あるいはプロ野球に入って来た者は、明けても暮れても野球漬けで世間のことにうとい。世情に通じた年上の女性と結婚するのは賢明だと思う。
 さて、この作者は市立老人施設の専属看護師である。入所者の医療は勿論介護や健康相談やその外の相談にも対応している。世間のことを熟知しているのである。気心の通じた上司に当るドクターからは「瑞枝サマ」と呼ばれている。茶目ッ気を出した呼び方であるが信頼しているよという気持の表明でもある。
 「事俳句」の成否は季語で決まると始終申し上げているが、この「花木槿」がよい。両者の間柄だけでなく施設の雰囲気迄見える。

滝壺を少し離れて水休む  佐藤 升子
 滝壺を溢れ出た水が少し下流で水勢を弱めたことを「水休む」と表現した。一句の要となる座五で、肝胆を砕いたことであろう。「桐の花剣ケ岳切つ先出しにけり 山田みづえ」も下五に腐心したであろうが簡明に「出しにけり」として私共を唸らせた。「腐心したときはあっさりと表現する」のが骨法のようだ。頭掲句の「水休む」は切れ味の鋭い、厚手の写生である。

雲海の夜明けに青き点の富士  五十嵐藤重

 眼下の山河は深い雲海に沈んでいるが、遠くに富士山が青き点として望めた。「青き点の富士」が幻想的な描写。夜が明けて朝日が差すと赤富士になったりするが、掲句はそこに至る迄の景。夜明けの光線が微妙に動き富士山が青一点に捉えられたのは天与のというべきものだ。

風鈴の時に励ます如く鳴る  石川 寿樹

 風鈴は、同じ音色であっても聞く者の心象によりどのようにも響く。弔いの家では歔欷のように聞え、祝宴の時は賑やかに。掲句は作者の心身が充実したときの音色であろう。叱咤激励されているよう感じ取られたのである。

虫干や大役終へしモーニング  萩原 峯子

 この大役を終えたモーニングは媒酌を務め上げたものであろう。収納の前に風を入れているのであろうが、夫と一緒した裾模様も隣に干されている。大役を終えた夫婦のくつろぎを省略に省略を重ねて単純化した。が、省略したものは読者が十分に読み取ってくれる。

白桃をすする眼鏡は外し置き  高橋 圭子
 
 この句も肝心の一処を克明に描いて、みごとな白桃をすすっている作者の堪能ぶりを遺憾なく表現した。一物仕立て、取り合せ、事俳句において具象こそが大事ということを示している。

どの脚もきれいに畳み蝉死せり  小村 絹代

 落蝉は色々な角度から随分と詠まれているが仰向けの落蝉の脚がきれいに畳まれていると詠んだのは見掛けなかった。地上へ出て何日しか生きていない、はかない命を惜しむ目が捉えた景である。

鈴花のみな出揃ひし畦に立つ  豊田 孝介

 日本国語大辞典によると鈴花は遠州、東三河に使われる方言だという。稲の花のことであるが、この美しい呼び方は三遠地方だけでなく広く各地で使って欲しい。

四男はシェフの見習ひ稲の花  中村 國司

 二十年余り前、鹿沼市生子神社の「泣角力」を見に行ったとき作者の嬰児が出た。掲句の四男だろうと思う。立派に成人しシェフの見習いになったということに感慨を覚えている。

縦の物横にもせずに夫昼寝  良知由喜子

 「縦の物を横にもしない」のは不精者を言うが、「さだまさし」の「俺より先に死んではいけない」という「関白宣言」の関白亭主かもしれない。働き者であるが、一風呂浴びて一杯やると、「縦の物も横にしない」のだ。だが、妻である作者がよく気配りをしていて甘えているのである。善哉、善哉、ほほえましい。
 なお投句の中には「猫昼寝」「猫の日向ぼこ」の類が出るが、昼寝も日向ぼこも人間さまの季語。「猫昼寝」は無季なので採らぬ。


    その他触れたかった秀句     
父母の知らぬ齢を心天
小豆煮る匂ひしてをり盆用意
秋暑し蹴上げの高き寺の道
大き翳纏うて一葉落ちにけり
拍子木の奈落に届く秋気かな
鬼やんま向かう三軒見廻りに
写経して硯を洗ふ白露かな
平凡に終はりし日なり釣忍
山の坊夏炉にたぎる大茶釜
くれぎはの峡の蜩鳴き急ぐ
三人と一匹帰省我が家族
初物の黄金に焼けし秋刀魚かな
緑蔭の深きベンチに長居して
再会を喜び合つて穴子飯
干し梅を甕に眠らす九月かな
三井欽四郎
小玉みづえ
舛岡美恵子
河森 利子
吉村 道子
奥野津矢子
松原  甫
安達美和子
海老原季誉
中林 延子
平塚世都子
矢本  明
大橋 瑞之
平野 健子
角田しづ代

禁無断転載