最終更新日(Update)'12.10.01

白魚火 平成24年10月号 抜粋

(通巻第686号)
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 10月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
季節の一句   吉村 道子
「初 心」(近詠)  仁尾正文
曙集鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
挾間  敏子 、齋藤  都  ほか    
白光秀句  白岩敏秀
句会報 硯墨句会(中津川)  井上 科子
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          小村 絹子 、後藤  政春  ほか
白魚火秀句 仁尾正文


季節の一句

(中津川) 吉村 道子

  
消ゆるまで見てゐる秋の二重虹  石川 純子
(平成二十三年十二月号 白光集より)

 先日、久しぶりに同級会があり別れを惜しみ解散する時、故郷の恵那山の方に出た二重虹を見た。皆で消えるまで飽かず眺めてから再会を約束して帰路についた。
 秋の虹は夏に出る虹より淡く消えやすいという。作者は一人で見ていたのだろうか。
 二重の虹に出会った時の高揚感、そしてその後、跡形も無くなってしまう空を見つめる一抹の寂しさ。
 共感した一句である。

村人にひとりも会はず曼珠沙華  田久保峰香
(平成二十三年十二月号 白光集より)

 曼珠沙華はどんな気象の年でも秋の彼岸の頃になると決まって土手や畦に群生して咲く。
 美しいと思うが沢山ある別名はどれも暗いイメージである。
 この句について今風に言うと「ある、ある、こういう所」となるだろう。
 かつては休耕田も無く働き手がいて、その中に咲いていた曼珠沙華。
 それが今は村と付く名も町村合併によって無くなり、そこに働く人にも会わない。
 現在を活写している句である。

稲熟るる風香ばしくなりてゐし  大野 静枝
(平成二十三年十二月号 白魚火集より)

 作者は宇都宮の方なので平野の続く田んぼだろうか。
 一面に広がる田んぼが黄金色に輝き、からりとした季節。
 秋晴れの空の下、今まさに頭を垂れて刈られる前の稲に風が吹いている。日本の秋は美しい。
 風まで香ばしいという表現に秋の喜びを感じる。



曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   

  滝  安食彰彦
国造庭の滝に静かに近づきぬ
滝拝し八千矛の神拝しけり
滝落つるほどよき飛沫あびにけり
蜘蛛の囲に息を吹きかけ脅しけり
大輪の向日葵を背に愚痴ひとつ
夏柳青年僧の声澄みて
夏草の丈逞しく伸びにけり
ひつそりと黄泉の洞窟釣鐘草

 水キムチ  青木華都子
紫陽花の毬打つ雨の容赦なく
ハングルで交はす挨拶氷売
夏の虹韓半島を下に見て
窓といふ窓全開に夏座敷
土産にも夏限定の水キムチ
水キムチ辛し辛しと暑気払
千本の並木涼しき杉襖
樹下にゐて蟬しぐれまた蟬しぐれ

 遠 き 星  白岩敏秀
堰板に仕切る流れや夏つばめ
冷し酒グラスに遠き星透けて
手に測る田水の温度サングラス
向日葵の道を抜けゆく使ひの子
眉唾の話聞きをり団扇風
コピー機はA四サイズ雲の峰
口笛の近づいて来る夏野かな
流木に潮の香残る原爆忌

 浮いてこい  坂本タカ女
老鶯やひと間の笹小屋の窓三つ
うしろまで夜の来てをりぬジギタリス
夏の雨土がおしやべりしてをりぬ
素通りの水からくりに足戻す
身体髪膚父母に享くシャワー浴ぶ
鯖をよみたる年齢や浮いてこい
いつまでの片目の達磨泥鰌鍋
取り替へてゆく時の日の腕時計

 梅 花 藻  鈴木三都夫
蓮の葉の揺れ戻しては花を見せ
揺れ易く咲いて蓮の散り堪へ
一片の舟とし散れる蓮かな
睡蓮の花の淨土はかくならむ
梅花藻の花の躍れる早瀬かな
梅花藻の流れの帯に花の綺羅
作り滝その滴りも適ひたる
作り滝午後へめりはり付けにけり
 秋 の 燕  山根仙花
町一つふくらんでくる祭かな
祭には祭の匂ひなつかしむ
桶一つころがし洗ふ青嵐
風重く渡る青田となりにけり
青田にも沖あり風の果てありぬ
峰雲の真下暮しの煙立つ
星飛ぶや地に働く灯眠たき灯
もう秋の燕となりしか高く飛ぶ

 夏 越 祭  小浜史都女
天山に積乱雲の立ちあがる
重箱の飯をいただく夏越祭
滝の音耳を離るるまで歩く
おし黙る嘴太からす南風吹く
撫子の白や一穢もなきこころ
肩巾は子の子も広し青山椒
盆菓子の淡きがうれし白はなほ
刃こぼれの包丁を研ぐ厄日かな

 嬰  児  小林梨花
すずやかに笑まふ嬰児夏座敷
嬰児の黒き瞳の涼しさよ
朝涼やみどり児手足よく動き
朝顔や嬰児の目鼻うるはしく
湖上より宙へ打ち上ぐる花火かな
半月に届けとばかり揚げ花火
大空も湖も煌めく大花火
大花火果てて虚しき湖の黙

 現  世  鶴見一石子
世の隅にそつと息づく古代蓮
蓮咲きし極楽の風いづこより
紅白の蓮を頒ちし渉り板
蓮池の千の蕾の攻めぎ合ふ
濁り水気泡一つに蓮ひらく
天界の風いにしへの王子蓮
現世を暫し忘れん白はちす
安らぎは家族の絆蓮の花

 八  月  渡邉春枝
せせらぎの音を集めて水芭蕉
雪渓の風の研ぎゆく岳樺
木道のすでにほほけしちんぐるま
十二湖の中の青池山滴る
がま池の蝦蟇鳴くたびに夕ざるる
八月の水うらがへる被爆川
芭蕉布を吹きくる風の浅葱色
浴衣の子綿菓子の手を高く上げ


鳥雲集
一部のみ。 順次掲載  

 足  尾  加茂都紀女
白骨の立木を曝す旱ダム
合歓咲くや立松和平の鎮魂碑
甦る足尾の鉱山の青しぐれ
原石に水打ちて彫る観世音
日盛の発電所跡遺蹟めく
渡良瀬のトロッコ電車に乗り涼し

 半 夏 生  二宮てつ郎
地にひとり詩病みありて梅雨ながし
蔓草の蔓の行方や半夏生
万緑の視界を雨の降り出せり
昼ひとりカレーを食へば梅雨上る
戻り梅雨薬忘るる日の無かり
蛞蝓に見られて朝の顔洗ふ

 夏 の 萩  野沢建代
井戸蓋に苔の花咲く壇那寺
神木の謂れを読めり夏の萩
山門を抜くる風あり白桔梗
蜜蜂の蓮から蓮へ忙しき
手筒花火の硝煙に巻かれけり
幔幕も葵の紋や大念仏

 青  柿   星田一草
僧の下駄きちんと揃ふ梅雨の寺
郭公の鳴く尾を立てて首立てて
青柿や辻に明治の道しるべ
青柿の柿の形となり太る
木道の足裏に弾み涼しかり
近づきて青鷺の目に射られけり

 藻 の 花  奥田 積
七月の朝一杯の水を飲み
鐘楼へ階のぼる沙羅の花
夾竹桃階下に運ぶ大太鼓
藻の花に日暮迫りてをりにけり
地上には地上の逢瀬天の川
夕かなかな飛行機雲の染まりゐる

 蓮 棚 田  梶川裕子
一枚の空千年の蓮棚田
流るるとなき蓮田より金気水
茫々と峽の空あり女郎蜘蛛
肩ひぢを張ることもなし草の笛
風入るる夫の行李に千人針
梅雨晴や研師は砥石まづ濡らし


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選


 挾間 敏子

炎天や市電のきしむ被爆橋
滴りを汲むや踏み石ぐらつかせ
朝顔や子の鉢にある学校名
魚売りのまづ朝顔を褒めてより
秋暑し陰の信号すぐ青に



 齋藤  都

夏休み百葉箱を塗り直す
省略の利きし仲なり大昼寝
夏見舞届く切手はわが星座
大粒のぶだう重心定まらず
記念樹をめぐる樹木医初嵐



白光秀句
白岩敏秀


炎天や市電のきしむ被爆橋  挾間 敏子

 その日の広島は快晴であった。空襲警報が解除され、市民が安堵のうちに遅い朝食の準備にかかった頃、原爆が炸裂した。その日から被爆者の長い苦しみと広島の懸命の復興が始まった。あれから六十七年…。
 被爆した日の三日後には電車が走ったという。二つの川に架かる六つの橋も被爆したという。掲句の市電がきしみつつ渡っている橋はそのうちの一つなのであろうか。
 真の悲しみは、決して声高な言葉にはならないだろう。ものを通して、ものが語りかけてこそ胸に響くものである。炎天のなかでの一瞬のきしみが、永遠の悲しみや苦しみを伝えている。
  秋暑し陰の信号すぐ青に
 隣のバラは赤いとは、よく言ったものだ。天は平等にものや時間を与えているはずであるが、どうしても気になるのはお隣さんや日陰にある信号機のこと。
 じりじりと日に焦がされて待つ赤信号の長いこと。それに比べ日陰にある信号機はすぐ青になる。日陰に入ってやれやれと思った途端に信号が青となって、ふたたび残暑の中へ押し出されることに。世の中はうまく行かないものである。

省略の利きし仲なり大昼寝  齋藤  都

 藤田湘子は「眉間の皺を解きほぐし、肩の力をぐっと抜いて、すこしズッコケたくらいの気持で作句してみること」(『俳句作法入門』 角川選書)をすすめている。
 意思の疎通に言葉や動作を省略して、ツーカーで通じるベテラン夫婦の大昼寝。「省略の利きし」とはウイットに富んだ表現である。しかも、「夫婦」と言わず「仲なり」として句に一層の艶を持たせている。
 ベテラン夫婦のどことなく疲れた昼寝姿を健康で明るい姿に変えてしまった。これが熟練した俳人の技というものだろう。同じ夢を見ている二人に、団扇風を優しく送りたい作品。

真向に受くる日の濃し沖縄忌  山岸美恵子

 八月―日本人にとって忘れることができない、そして忘れてはならない月である。しかし、その二ヶ月前の六月二十三日も決して忘れてはならない。「沖縄忌」或いは「慰霊の日」。二十三万人もの犠牲者を出して沖縄の日本軍が壊滅した日。これで沖縄戦が終わった。島民の四分の一が亡くなったという。
 沖縄は今、基地を抱えながらも島への艦砲射撃も機銃掃射の音もない。あるのは真っ青な空からのかっとした濃い日射しだけである。日の濃さは沖縄の背負う重い歴史であり、平和を希う作者の強い気持ちでもあろう。きのこ雲も砲煙もない日本の空はあくまでも青く広い。

夕焼けや盲導犬の遠ざかる  小玉みづえ

 夕焼けに長い影を曳きながら遠ざかって行く盲導犬と同伴者。映画のラストシーンを見るような句である。
 盲導犬と一緒に創りあげた、今日という貴重な一日が静かに暮れていく。目は見えなくとも心の視野を大きく広げた充実した一日。そんな豊かな思いが作品から伝わって来る。
 夕焼けの町で出合った光景を、淡々と叙していながら一句に弛みがない。

ポスターの角の剥れし晩夏かな  徳増眞由美

 売り出しのポスターなのか映画のポスターなのか。剥がれた角がぱたぱたと風に鳴っている。さまざまなメディアがあるなかで、今時ポスターなどを振り向く人はいない。それでも夏の百日を健気に頑張ってきた。そして、今は晩夏。ポスターの角は秋風にもきっと鳴り続けることだろう。
 その存在さえ無視されるような、小さなものへ向けた作者の視線が鋭い。

心地良き疲れを残し夜濯す  谷田部シツイ
 
 夜濯は一日の最後の一仕事。疲れた身体に鞭打ってやり遂げた達成感と満足感がある。日常の些細な繰り返しが家族の幸せを支えているのである。家族のために流した汗と心地よい疲れは夜風が優しく癒してくれる。
 明日も洗濯したてのシャツを着て、家族が爽やかに職場や学校に出かけて行く。

七夕や大き願ひは高く吊り  大山 清笑

 かつて、仁尾先生が言われたことがある。〈『白魚火』で自分の句を探すときは三句欄から探すな。五句欄から探せ〉と。
 自分の句は自信を持って胸を張って探せということだ。大きな願いもまた然り。だから高く吊る。願いは必ず届くものである。

子蟷螂挑む鎌への身を反らす  橋本志げの

 蟷螂は闘争心を性に生まれてきているようだ。一寸に満たない子蟷螂が、小癪にも斧を振り上げて構えている。勝てない相手と分かっていても挑んでくる。そんな蟷螂でも最後は子孫の為に雌の餌食となってその一生を終える。生き継ぎ死に継いでいく循環のなかで、子蟷螂のひとときの挑戦が悲しい。


    その他の感銘句
朴の花開山堂に燭一つ
法善寺横丁水の打たれけり
夕立やをんな座りの足の裏
梅雨深し古窯の森の杉木立
この夏を凌げば母の齢越す
女子寮の螺旋階段大西日
昂然と泰山木の一花かな
千切りのキャベツに媚薬ひとつまみ
菩提樹の花青空に香りけり
炎天下キャッシュカードの逆もどり
山越えて隣の村の白雨かな
熱きざす舌に氷菓の甘く溶け
御手洗の漣涼し掬ひけり
蓮池や反り美しき堂庇
海開き仕出し弁当配らるる

上武 峰雪
斎藤 文子
田中ゆうき
篠原 凉子
古川 松枝
根本 敦子
柳川シゲ子
計田 美保
西田美木子
米沢  操
鈴木 利久
柴田 佳江
脇山 石菖
坂東 紀子
飯塚富士子



白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

 牧之原  小村 絹子

現世の風に吹かれし古代蓮
閼伽桶に溝萩の紅零れけり
形代に一人一人の名を記す
盆僧にぬるめのお茶を勧めけり
門火焚く尉となるまで見届けて

 
 高 松  後藤 政春

早苗饗の餅を配りに大家来る
おだやかな暮しがしたく毛虫焼く
寄港せる島オリーブの花の頃
翡翠や川底透ける小歩危峡
田水沸く五重塔の遠く見ゆ



白魚火秀句
仁尾正文

門火焚く尉となるまで見届けて  小村 絹子

 門火は、盂蘭盆に入る七月十三日の夕刻帰ってくる精霊を迎える迎火である。多くは苧殻を焚くが、掲句は肥松束のようである。脂にすぐ火が付いてよく燃えるが苧殻の何倍もの時間がかかる。帰り遅れた精霊が居ないかじっくり門火を焚き続けるのである。燠に尉が出来る迄見届けている。
 盆行事はそれぞれの家が、それぞれの家例に由っている。筆者の生家にも色々あったが、新屋となった今は、その気でよく見て来なかったので忘れてしまったものが多い。それでも展墓と迎火、送り火だけは行っているが簡素になって行くことは否めない。掲句の如く心の込った門火を是非末永く継承して欲しいものだ。

翡翠や川底透ける小歩危峡  後藤 政春

 五町二村が合併して誕生した徳島県三好市は県の西端にあり高知、香川両県と境を接している。掲句の小歩危峡は大歩危峡と共に合併前の西祖谷山村(平家谷)にある。吉野川が四国山脉を横断した唯一つの所で深く険しいV字谷を形成している。断崖の高い所は百メートルにも及び両岸の山道は地名の如く一大難路であった。
 日本列島の最古の地層は三波川変成帯で各所にあるが、紀伊半島から四国山脉を経て九州山地に至る七百粁の地層が最も規模が大きい。大歩危ではこの地層が露出しているので地質学関係者必見の場所とされている。この地層の生成は二億年から一億四千万年前のジュラ紀で恐竜の生息した時代であるが、掲句は、翡翠が川底の魚を狙っている景だけを呈示して水清き故郷をなつかしんでいるのである。

山の湯のごはつく浴衣夕河鹿  寺本 喜徳

 高名な作家が宿浴衣を季語にしている例をしばしば目にするが賛成できない。宿浴衣は春夏秋冬常に用いられているので、無季とは言わぬが全く季感がない。掲句には、わが意を得た。「夕河鹿」という季語を配し、糊のよく利いた宿浴衣を清冽な一句にして見せてくれた。

吊橋を大念仏が渡り来る  山下 勝康

 遠州大念仏は西遠地区で新暦七月十三日又は十四日に、帰ってきている精霊を弔って行われる。三方原合戦で大敗した家康が、武田、徳川両軍の戦死者を慰霊したことに起源する。
 大念仏の一団は三十余名で主役は太鼓切りという若者。ピンクの長襦袢に手甲、脚絆、赤だすきに笠を目深かに被り躍動しながら太鼓を打ち鳴らし初盆の霊を慰める。初盆の家では仏壇を飾り、親族縁者が打ち揃って大念仏衆を待つ。長老が二人家紋入りの提灯を持ち夏羽織で威儀を正し数百メートル出向いて丁重に迎える。
 大念仏の踊りが終り一息入れるとき施主から酒やビールが振る舞われるが、観衆もお相伴にあずかったりする。
 ひよつとことおかめの出番大念仏  牧沢 純江
そのうちにひょっとことおかめが出て来てセクシュアルな踊りで観衆を湧かせる。一方では死者を悼み、一方では性の所作に喝采するという一見矛盾しているようであるが
 生きかはり死にかはりして打つ田かな  村上 鬼城
の如く日本民族は連綿と命を繋いで来た。

園灯のいつしか点り夏料理  小玉みづえ

 高級料亭であろう。整備された日本庭園の向こうにいつの間にか園灯が点っていたのである。この背景を見せられると眼前の夏料理が一層豪華に見えてくる。「園灯のいつしか点り」の写生がみごとだ。

夏花摘む標高千の入会に  宮澤  薫
 
 夏花は夏安居の供花。入会は、ある区域の草木や魚貝を入会権を持った地域の人々が採取すること。
 讃岐山脉の最高峰は標高約千メートルの雲辺寺山(四国八十八ヶ所六十六番札所の雲辺寺がある)である。この東側のゆるやかな草地は両県に入会権があり、主に肥料用の萱刈りが行われた。手動式の索道で刈った萱は集落に運ばれ、干され、牛屋で踏ませて堆肥にした。掲句もこういう所で笹百合や撫子が夏花に摘まれたのであろう。高地なので吾亦紅や女郎花もあったかもしれない。一時代前の集落の固い連帯や信心が思われて、ほの懐しい。

新盆を迎ふる畳替へにけり  水島 光江

 畳替へは年用意の季語であるが、嫁取りとか法要などで随時行われてきた。新盆を迎えるための畳替えとは、大切な人の供養だったのであろう。しらべのよい秀句である。


    その他触れたかった秀句     
波打つて風転がれる青田かな
土塊に鍬の峰打ち秋耕す
榛名嶺の伏流水に冷し瓜
種飛ばす場所を選びて西瓜食ぶ
廻り来し晩夏の頃の平人忌
良く締り歯応へよろし洗鯉
秋立つや宝石箱の夫の文
女房の尻磐石や二輪草
一日一句守れぬままや蝉時雨
朝顔を数へて一日始まりぬ
水無月や脛の三里に灸すうる
祭くる車椅子押すボランティア
百姓に勲章あらば玉の汗
ガッツポーズしてゐるやうな雲の峰
もてなしは海一望の夏座敷
加茂 康一
中組美喜枝
荻原 富江
浜崎 尋子
檜垣 扁理
小松みち女
廣川 惠子
清水 孝を
神田 穂風
岩崎とし恵
福本 國愛
有田きく子
橋本 快枝
太田尾利恵
川本すみ江

禁無断転載