最終更新日(Update)'19.04.01

白魚火 平成31年4月号 抜粋

 
(通巻第764号)
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 4月号目次
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季節の一句    弓場 忠義
「こふのとり」 (作品) 白岩 敏秀
曙集鳥雲集(巻頭6句のみ掲載)
白光集(村上尚子選)(巻頭句のみ掲載)
       
西村ゆうき、渥美 尚作    
白光秀句  村上 尚子
白魚火集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
    坂田 吉康、富田 育子
白魚火秀句 白岩 敏秀


季節の一句

(浜 松) 弓場 忠義   


病室の昼のおむすび山笑ふ  大澤のり子
(平成三十年六月号 白光集より)

 作者は長野県下伊那郡に住む。身内の人であろうか、見舞いに行く。あれこれしている間に昼となり、患者は病院食である。作者は持参のおむすびを一緒に戴く。病室に一時の笑い声が聞こえてくる景が浮かぶ。
 掲句は中七の「昼のおむすび」としたことで時間の経過と患者の関係と「山笑ふ」で患者の様態が快方に向かっていることが分かる。
 「俳句は物を通して語る」正に、それを実行した句である。子規の「故郷やどちらを見ても山笑ふ」を思う。作者は十分に地元の山を熟知している。石川啄木『一握の砂』の「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」である。
 昨今は病室にてお見舞いに行き、自前のおむすびを食べる事は少ない。患者に対する暖かい気持ちが出ている。きっと退院の近い事を確信して帰途についたことであろう。
 無駄なく言葉を繋ぎ十七文字に納め、省略を効かす作品に仕上げている。

竜天に登る日となり髪くくる  前川 幹子
(平成三十年六月号 白魚火集より)

 掲句は「竜天に登る日となり」と決めつけて詠んでいる。作者は何故この日を決めたのか、それは下五「髪くくる」が全てを表現している。大きな季語を堂々と詠み、そして決意をさりげなく詠む。「竜天に」と「髪くくる」は取合せの妙である。
 山口誓子は取合せとは「物と物の衝撃」と言う。「正と正」「正と負」「負と負」この取合せで言えば、掲句は「正と正」である。読者にいつそう心に激しく打つ句である。「髪くくる」は勿論、作者の決意の表れである。何に対してか余分な説明は省略をし、春本番「さあー今から」と決心した。女性アスリート達のように一つのルーティンであろうか。秋から冬そして春にいよいよ竜が天に登る日が来た。わくわくする気持ちが良く分かる句である。
 中国の古代伝説より竜は春分にして天に登り雲を起こして雨を降らせる。秋にして淵に潜むと言う。勿論「竜」は想像上の動物である。「二物衝撃」を最小限の下五文字が成功させている句である。



曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   

 水 の 音 (旭 川)坂本タカ女
新酒出づ蔵の新調紺のれん
川底のゑさをさぐりし真鴨かな
栞紐ささくれ一葉忌なりけり
除雪車と身を小さくしてすれ違ふ
雪を搔き上ぐるに声の力借り
消えてゆく雪を追ひかけ福寿草
退屈な風の廻せる風車
光らせてゆく水の音春の川

 牡丹の芽 (静 岡)鈴木三都夫
鴉まで目出度がられてお元日
散策の足向く方を恵方とす
人の輪をはだけどんどの燃え猛る
兎波跳んで遠州灘の冬
音を秘め潺々として冬の水
梅蕾の一粒づつの詳らか
切り詰めし一枝するどき鉢の梅
既にして枯牡丹に命の芽

 枯 木 星 (出 雲)山根 仙花
目薬の一滴鵙の高音かな
行く雲は空の旅人鳥渡る
今日よりは冬となる日の空仰ぐ
大冬木やや傾くを遠くより
枯木星ひと粒一峡眠りけり
思ひ出は皆遥かなり雪降れり
大寒の水に沈みし束子かな
大寒の筆立に筆二、三本

 寒  鴉 (出 雲)安食 彰彦
庭に来ていち瞥もせぬ寒鴉
阿呆とも鳴かずとび去る寒鴉
地に掟あるとも知らず寒鴉
風花の流るる如く地にとどく
うらやましまどろみてゐし番鴨
湖に黒衣づくめの鴨の陣
降る雪や墓は陸軍少佐殿
受験子の部屋に住み着く風邪の神

 日脚伸ぶ (浜 松)村上 尚子
町ぢゆうの鳥の来てゐる冬木かな
夕山の芯に力や冬の雁
冬の梅いちにち富士を引き絞り
裏山にしばし日の差す藪柑子
砂浜の潮吸ふ音も寒の内
やはらかき椅子の背もたれ日脚伸ぶ
ふる里の檜山杉山ぼたん雪
水注の一滴に寒戻りけり

 さざれ石 (唐 津)小浜史都女
鷹放つ島に小さき船着場
咲き群れてゐても水仙さびしき色
寒鯉の水うごかさず動きけり
三寒の礁に波の立ちあがる
熊笹の葉のつやつやと日脚伸ぶ
大鈴のがらんごろんと寒の明
紅梅やめりはりつけて娘と歩む
梅東風や諏訪の大社のさざれ石

 津軽富士 (宇都宮)鶴見一石子
湯の神に小雪大雪入り乱れ
雪繞く殺生石の渉り石
雪明り渓底にある湯治宿
笹鳴きの聞こゆる会津津軽富士
山彦を呼べど応へぬ春の月
生かされて生きて津軽の匂鳥
磯節の聞こゆる太鼓春の海
我が庭に日向たつぷり黄水仙

 立  春 (東広島)渡邉 春枝
好きな本好きに開きて春を待つ
立春の五分遅れの電車来る
寒明けの車内に子等の笑ひ声
未知数は未知数のまま春立てり
美術館までの近径梅香る
うららかや会場の椅子ゆづり合ひ
北窓を開き端布の色合せ
黄水仙同じ家敷に子の家居

 七  草 (浜 松)渥美 絹代
農小屋に大年の日のあふれをり
まづ赤子のぞき御慶を述べにけり
雉鳩の声聞きなづな粥を吹く
七草や日のぬくみある文机
白鳥のゐるみづうみの夕日かな
濡れ縁を雀の歩く女正月
鳶鳴いて寒釣座り直しをり
鶏小屋に渡す木の枝春まぢか

 寒の入り (函 館)今井 星女
青き空よりちらちらと雪が降る
初みくじ結ぶ小枝の先の先
書初めや大中小と筆選び
三日月の如き太陽寒の入り
神木は真綿のやうな雪被ぐ
天気図は今日も明日も雪だるま
日に幾度雪搔きといふ大仕事
大雪も覚悟の上と北に住む

 切  手 (北 見)金田野歩女
新雪と戯むる子等の赤い頬
深雪晴まう付いてゐる獣跡
通院の傾斜の著き雪の坂
岬の鼻海風浦風空つ風
寒見舞葉書の切手楕円形
風花の綺羅西の窓額にして
砕氷船の客もクルーも手を振りぬ
日脚伸ぶ前歯二本の笑顔かな

 湯島天神 (東 京)寺澤 朝子
寒梅のいまが見頃や男坂
梅早し巫女にいただく塩番茶
またとなき四温日和を連衆と
参道を狭しと露店日脚伸ぶ
日溜りに何を啄む寒雀
寒紅梅入れて写しぬ嫁御寮
たまさかのみくじ「大吉」春隣
文字躍る御礼絵馬あり梅二月



鳥雲集
巻頭1位から6位のみ

 柱 の 影 (宇都宮)星  揚子
笹鳴や池面静かに揺れゐたり
凍滝のところどころに水の音
鬼やらひ力士一行町に来て
反り返るやうな狛犬春立ちぬ
早春の血管浮きし仁王像
回廊の柱の影の二月かな

 立  春 (松 江)西村 松子
一月の里山ぐんと迫り来る
大寒の山水にある鈴の音
冬芽はや命はぐくむ色となる
凍つる夜のまたたく星に語りかく
師の句碑のしなやかな文字笹子鳴く
立春と呟き嬰のものを干す

 春ショール (東広島)源  伸枝
寒卵こつんと一日始まれり
撥ねたるは撥ねたるままや草氷柱
手袋を無くしてよりの旅疲れ
春近き夜や雨音のこまやかに
春立つや庭に雀のかしましく
開演のざわめきに解く春ショール

 探  梅 (浜 松)阿部芙美子
日向ぼこ藁苞にさす飴細工
若水汲むをとこ無言を通しけり
門松の梅ほころびてをりにけり
探梅や人より少し距離をとり
待春のシチューの鍋を焦がしたり
春めくや賽銭箱の中が見え

 日脚伸ぶ (牧之原)辻 すみよ
福耳の巫女より受くる破魔矢かな
笹子鳴く竹林に日の移り来し
日向ぼこ屋号で話通じ合ふ
霜柱弛みて寒の神傾ぐ
寒鯉の影の集まるひとところ
日脚伸ぶ茶原に肥料ふり始む

 寒 の 水 (出 雲)三島 玉絵
床の間の花に水足す四日かな
北山を雲の影ゆく寒四郎
かさかさに裏白乾く末社かな
大寒の水に浸して刃物研ぐ
寒の水ごくりと喉を貫けり
鈴一つ転がる村のとんど跡



白光集
〔同人作品〕 巻頭句
村上尚子選

 西村ゆうき(鳥 取)

初雀日向に声を散らしけり
福寿草三代通ふ理髪店   
風花やポニー引く子の野球帽
グランドの声の絡まる枯木立
待春や子ども胸から走り出す


 渥美 尚作(浜 松)

枯芭蕉日を受け風をやり過ごす
鴛鴦を見る四寸ののぞき窓
霜踏んで潜る鎮守の鳥居かな
日を返し成人の日の海平ら
白鳥の来てより池に人寄りぬ



白光秀句
村上尚子


待春や子ども胸から走り出す  西村ゆうき(鳥 取)

 俳句は目に見えるものに限らず、季節の移り変りに敏感でなくてはならない。同じ頃の季語に〝日脚伸ぶ〟、〝春近し〟などがあるが、「待春」は、より主情的な思いが込められている。特に雪国にとっては春を待ちわびる思いは強い。実際にはまだ寒い日が続く中で、子供達は元気一杯である。「胸から走り出す」には、その動きとはち切れんばかりのエネルギー迄見えてくる。
  福寿草三代通ふ理髪店
 この句の注目すべきところは「三代」にある。男の子も年頃になると髪型にこだわり、友達同士の情報に惑わされたりする。しかし、この「理髪店」はみんなの思いを汲んでくれるらしい。
 健康的な家族と、気の良さそうな店主の姿が「福寿草」によって代弁されている。

枯芭蕉日を受け風をやり過ごす  渥美 尚作(浜 松)

 芭蕉は春以外の全ての季語にある。夏は〝玉巻く芭蕉〟を主題に、副題には〝玉解く芭蕉〟〝青芭蕉〟等々……。秋には〝芭蕉〟、そして冬の「枯芭蕉」となる。いずれにしても見るからに存在感がある。冬の枯れ果てた姿は決して美しいものではなく、つい通り過ぎてしまいがちである。
 この句の良さは、観察のみに留まらず、そこに自分を投じているところにある。
  霜踏んで潜る鎮守の鳥居かな
 「鎮守」というからには、いつも行き馴れた神社であり、いつもの「鳥居」を潜ったというだけである。しかし「霜踏んで」により俄に生き生きとしてくる。掲出句も含め、ごく日常的な中に視点を置いているが、その場に立つ作者の姿がよく見えるのも佳句の条件である。

女正月和菓子洋菓子皿に載せ  大石美千代(牧之原)

 甘いものは食後のデザートとしてもその役割は大きいが、この句の「和菓子洋菓子」はそのものがメインのようである。「女正月」ならではの賑やかな様子が、リズム良く詠われている。

読初や柱時計の鳴つてをり  鈴木 敦子(浜 松)

 昔「読初」は儀式としての性格が強かったというが、今では新年に初めて書物を読むことを言う。この書物の内容は分からないが、かなり没頭していることは察することが出来る。俳句ならではの表現である。

風花や沓脱ぎ石に小さき靴  竹内 芳子(群 馬)

 一読しただけでその場の風景がよく見える。「風花」と「小さき靴」により、読者はそれぞれのイメージを膨らめることが出来る。新しい物語が生まれそうである。

茜雲遥かに雪の伯耆富士  ⻆田 和子(出 雲)

 遥かに見えるのは、中国地方第一の高峰である大山。またの名を「伯耆富士」という。作者にとっても馴染の山に違いないが、周囲の自然は日々変わる。今見えているその姿に新たな思いを抱いているのである。

前のめりに漕ぐ自転車や雪もよひ  砂間 達也(浜 松)

 「自転車」は自動車と違い、大気を直接身に受ける。この日は俄に「雪催」となってきた。その焦りが自ずと体勢を変えることとなった。「前のめり」という具体的な表現は、この時の作者の心境そのものである。

新調の眼鏡二月が跳んで来る  大村キヌ子(札 幌)

 誰でも新しい物への期待は大きい。「眼鏡」を変えることにより、今迄見えなかったもの迄見えるようになるかも知れない。「二月が跳んでくる」は春への期待だけではなく、精神的なものが多分に含まれている。

スニーカーの右に癖あり春隣  稗田 秋美(福 岡)

 春になると足元が気になる。きっと履き馴れた靴であろう。左右の傷み方の違いに気付いただけの些細な事だが、「春隣」の季語により詩となった。ハイヒールではなく、「スニーカー」であることも良かった。

躓きし石に物云ふ枯野道  篠原 米女(群 馬)

 たまには石に躓くことがある。それを見逃さなかったのも手柄であり、その石に物を言ったというのが面白い。「枯野道」は淋しさを前提として詠われることが多いが、それを逆手に取ったユニークな作品である。

三ヶ日ウルトラマンの好きな児と  三関ソノ江(北海道)

 「ウルトラマン」の人気からかなり年月が経っている。この句の背景も今ではないかも知れないが、今のように詠むのも俳句である。「三ケ日」がよく効いている。作者は九十歳。私達が見習うべきところはたくさんある。


    その他の感銘句
玄海に春一番の波頭
検札は大雪原を抜けてより
蜷の道見入りめまひを覚えけり
町名は鯨一文字山眠る
しもつかれ分家に届き一の午
鏡餅据ゑて道場気合満つ
石段はいまも遊び場冬つばき
どの波も背中で受けて海苔を掻く
初日の出昭和平成生き抜けり
葉牡丹の渦に疲れの見えにけり
高千穂の旅夜神楽で終ひけり
春ショールふいに大きな風一つ
春立つや石見土産の「いも代官」
千両を飾りて歳を殖やしけり
辻地蔵供華をもらひて暖かし
脇山 石菖
田島みつい
相澤よし子
本倉 裕子
若林 光一
山田 哲夫
永島のりお
山田ヨシコ
山田しげる
加藤 芳江
上松 陽子
松尾 純子
伊藤 政江
鶴田 幸子
荒木 友子


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

 浜 松 坂田 吉康

冬耕にをりをり雲の影通る
梁に褪せたる護符や雪催
七日粥熱さ掬ひて啜りけり
鳥かごに止まり木ふたつ日脚伸ぶ
薬缶よりやはらかき湯気日脚伸ぶ

 
 浜 松 富田 育子

白鳥の来てさざ波の光りけり
若菜摘む池のほとりの日差しかな
福寿草蕾に日差し集めをり
をりをりは風に吹かるる寒牡丹
大寒や張子の虎の首を振り



白魚火秀句
白岩敏秀


鳥かごに止まり木ふたつ日脚伸ぶ  坂田 吉康(浜 松)

 日が永くなったと実感できるのは一月半ばを過ぎた頃。そんな頃を見計らって、室内の鳥籠を縁側に移した。鳥籠には二羽の小鳥がいて、止まり木は二本。謂わば、ツインタイプである。小鳥たちはそれぞれの止まり木で鳴き合いながら恋の予行練習をしている。日脚が伸びていく中で、鳥の鳴き声に春の近づく足音を聞いている作者。
  冬耕にをりをり雲の影通る
 稲の取り入れが終わった後に、田を鋤き返す。広い圃場の耕人とトラクターに覆い被さるように雲の影が過ぎて行く。やがて来る本格的な冬の前触れ。淡々と叙されているが、寒風に耐えて働く、農作業の厳しさが伝わってくる。

若菜摘む池のほとりの日差しかな  富田 育子(浜 松)

 温かい日和に誘われて、池のほとりで若菜を摘む人たちがいる。家族なのだろうか、友達同士なのだろうか。池はあらたまの日差しを受けてきらきらと輝いている。明るい笑い声が人たちの間からする。新しい年を迎えた喜びが、池のほとりに溢れている。
  白鳥の来てさざ波の光りけり
 静かな湖に白鳥が飛来してきた。白鳥の着水の波が静かになると、さざ波に変わって光っている。「さざ波の光りけり」が白鳥の飛来を喜んでいるようでもあり、さざ波が白鳥を招き寄せているようでもある。

復旧の鉄路煙らすとんどかな  舛岡美恵子(福 島)

 この鉄路は東広島市を通るJR山陽本線。昨年の豪雨で線路に土砂が流入した。それが復旧したのである。
 燃え盛るとんどの大きな火が、大きな煙りを作り、復旧した線路を煙らしたという。とんど火の大きさは鉄路復旧の喜びの大きさである。そして、作者には親しんできた鉄路への惜別の気持ちが籠められている。作者は福島へ居を移すという。

少しづつ忘るる母や名草の芽  廣川 惠子(東広島)

 かつて、女湯を空にさせたという連続ラジオドラマ「君の名は」(菊田一夫原作)にこんなナレーションがあった。「忘却とは忘れ去ることなり…」。そして、旺文社の英語の参考書に「人間は忘れる動物である」とあったことを記憶している。とは言え、記憶が失われていくことは悲しいことである。それが母親であれば尚更のこと。記憶の回復への願いが毎年忘れずに萌え出して来る名草の芽に託されている。

病窓のいつしか暮れて冬深し  篠原  亮(群 馬)

 点滴の最中なのであろうか。或いは予定の治療を終えて、ベットに横たわっているときであろうか。気がつけば、外には夕闇が迫っている。音もなく忍び寄る夜。病を持つ身のやるせなさが「いつしか」に籠もる。

畦道に禰宜の自転車どんど焼  野田 美子(愛 知)

 揚句はどんどの行事に産土の禰宜が駆けつけたところ。自転車を降りて乱れた衣服を正すと、朗々と祝詞が始まる。畦道を自転車で来たことで、どんど焼の場所や産土からの距離が分かる。そして終わった後の酒の席までが想像出来る句である。純朴な人たちによる正月の行事。

おしやべりの輪の中にあるみかんかな  町田由美子(群 馬)

 蜜柑はお喋りと相性のよい果物である。それも炬燵の上にあれば、なお最高。
今も蜜柑を真ん中にして、楽しいお喋りの真つ最中。お喋りが長くなれば、それに比例して、蜜柑の数が減っていく。あたかも蜜柑がお喋りを誘っているよう。女性達が夕食の支度に気づくのは何時のことだろうか。

初社巫女になりきる女学生  小杉 好恵(札 幌)

 正月休みを利用して、女学生が巫女となった。着慣れない白衣や緋袴、足袋に身を縛られて窮屈そうだ。それでも、微笑みを絶やさずに神籤や破魔矢を売っている。初めて経験する女学生の懸命な姿を「巫女になりきる」と活写。

花街に細道多し春の宵  金原 敬子(福 岡)

 どこかの花街を歩いた時の印象であろうか。かつては賑わった花街。そこではこっそりと細道を伝って、隠れ遊びもあったことだろう。今は静かな細道が花街の家々をつないでいる。つややかで、なまめかしくもある花街の春の宵である。


    その他触れたかった秀句     
梅の香や膝やはらかく磴登る
暮れなづむ波音湖の十二月
元旦の寺門に赤き三輪車
風花の軽さの融けてたなごころ
水仙や風に向き合ふ少女像
雪掃くや誰れかたづねてくれさうな
着水の白鳥羽根に力込め
マニュキアの色明るめに新年会
地下足袋を新しくして山始め
どの枝も春待つ力ありにけり
剃刀を研いで床屋の初仕事
買ひ足しの年賀はがきの余りけり
丸太剥く鉋の音の凍ててをり
初旅や薬手帳と保険証
春立つや橋のたもとの常夜燈
大江 孝子
原  和子
田原 桂子
福本 國愛
吉村 道子
中西 晃子
山本 絹子
大原千賀子
加藤 芳江
橋本 晶子
飯塚富士子
柳楽マサミ
佐藤 琴美
金子きよ子
若林いわみ

禁無断転載