最終更新日(Update)'10.07.31

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第660号)
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3月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
季節の一句   出口廣志
「矜持」(近詠) 仁尾正文  
曙集鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
      
   阿部晴江、大石益江 ほか    
句会報 宇都宮公民館白魚火句会
白光秀句  白岩敏秀
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          鳥越千波、阿部芙美子 ほか
白魚火秀句 仁尾正文

季節の一句

(江田島)出口廣志 

墓の子と言葉を交はす晩夏かな 荒井孝子
(平成二十一年十月号 白光集より)

 何時まで経っても、逆縁の母にとってわが子への切ない思いは尽きることがない。
 「晩夏かな」が糸口となって、さまざまな想像の世界へと読者を誘ってくれる。
・真っ先に、真っ黒く日焼けをし、野山を元気に駆け回っていた頃のあの少年時代の姿が浮かんで来る。聡明で腕白な少年だったのであろう。
・女の子であれば、母との会話は饒舌に弾むことだろう。しかし、いくら話しかけても、少年からは「あゝ」とか「うん」など素っ気ない言葉しか返って来ない。
・いつも墓前で交わす言葉も少年時代と同様に、「会話」とは程遠い断片的な「言葉の交換」に終始するのであろうか。
 行間がしっかり空いている墓前での「対話」であることが想像される。それだけに、母の思いはより一層募り深まることである。

天空は我らのものよ秋あかね 成田幸子
(平成二十一年十月号 白魚火集より)

 澄み渡った初秋の夕映えのもと、無数の「秋あかね」が乱舞する光景を大胆かつ単刀直入に詠い上げており、その鮮やかさに感心させられる。
 「赤とんぼ」といえば、三木露風作詞、山田耕筰作曲の『日本の名歌』が真っ先に脳裏を過ぎる。これに代表されるように「赤とんぼ」や「秋あかね」は、日本の原風景や日本人の叙情の点景として、絵画や文芸の世界で広く描かれて来ている。
 しかし、この句は丸っきり違う。「赤とんぼ」そのものを主人公に仕立て、「天空」一杯に闊達に舞っている雄渾の世界を描く。「天空は我らのものよ」という素晴らしい断定によって、「秋あかね」が天空をわがもの顔に占拠し、嬉々として舞う姿を連想させてくれる。そして、「秋あかね」の晴れやかで嬉しい気持ちが読者に感情移入されて、私たちを心豊かな情感の世界へ誘ってくれることである。


曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   


  緑 陰  安食彰彦

みの虫庵の緑陰無口となり歩く
古池は茂りの中に鎮もれり
はせを生家五月の風を通しけり
黴にほふ味噌甕並ぶ通し土間
花芭蕉そのほかなにもなけれども
数馬茶屋去る時拾ふ落し文
どこよりも緑陰の濃し首洗池
日盛りや忍のTシャツ二着買ふ


 五 月 晴  青木華都子

濃すみれや寝墓に刻むロシア文字
病室は六階けふも五月晴れ
春雷に天地ひつくり返りさう
新樹光眩しガラスのやうな湖
この降りは梅雨入りの兆かもしれぬ
片付けは先づ捨つること更衣
鼻眼鏡越しのあいさつ昼寝覚め
大好きな色は水色かき氷


  柿 若 葉  白岩敏秀

山女釣雨の吊り橋渡りけり
傘雨忌や雨の水輪の神田川
柿若葉屋根の大きな百姓家
溝浚へ終へたる水に顔映す
美しく生まれて毛虫焼かれけり
ふるさとは雨降る森の蝸牛
折り返す田植機海を遠くする
同情をされゐて氷菓すぐ溶くる


 蒟 蒻  坂本タカ女

白樺の樹液八十八夜かな
水漬きたる熊笹蝦夷山椒魚の卵
猫柳むかし吊橋なりし橋
熊笹に経読み鳥の法法華経
薪の上の赤き手袋名残の炉
不揃ひの手作り蒟蒻春の山
お通しは間八のかま夕永し
帰宅する野球少年春の月


 祝 ひ 凧  鈴木三都夫

凧逸る遠州灘の風まとも
祝ひ凧出世の勢ひもて揚がる
風の凧糸引つ張つて昇りけり
雉の声うつつに聞ける目覚めかな
おろそかに出来ぬ一日としてのどか
馥郁と湯にほぐれゆく新茶かな
甘いもの添へて仏へ新茶注ぐ
氷旗吊れば事足る砂丘茶屋
 花 樗  水鳥川弘宇
晴天を曇らせてゐる花樗
お籠り堂固く閉ざされ花樗
本殿の床拭き込まれ新樹晴
ひとうねりまたひとうねり花樗
裏鳥居一歩に匂ふ花樗
花終へし小暗さにあり菖蒲池
抱擁の樹の抱擁や夏盛ん
博多弁とびかふ地引網終る

 伊賀、上野  山根仙花
蓑虫庵一木一草涼しかり
句碑の字を大方隠す苔の花
青竹を編みて涼しき井戸の蓋
師と交はす握手みどり滴れり
六月の空深閑と俳聖殿
仇討の跡とや競ふ夏木立
沙羅咲くや旅の夕べの手を洗ふ
口開けしまま短夜の旅鞄

  五月来る  小浜史都女
水苔のふはつと五月来りけり
あはあはとうはずみざくら五月来る
父子草もどきも長けて夏に入る
桃色のかたばみ上場台地かな
山藤や木隠れの渕とよもせる
玉葱を引きたる土を休まする
右植田ひだり水田の村に入る
独活茂りうどの産毛も固くなる

 芭 蕉 堂  小林梨花
木天蓼の花や伊賀への旅半ば
芭蕉堂青葉若葉に鎮もりて
子燕や蕉翁生家の表口
式台の黒きに座して若葉風
釣月軒空よりぐいと芭蕉咲く
若葉光俳聖殿の燦然と
松落葉鍵屋の辻の茶屋閉ざし
田を植ゑて忍者の里の夕づける

 一 本 気  鶴見一石子
亀鳴くや鍵屋の辻の濁り池
青胡桃仏の道と神の道
白玉をあきなふ京の細格子
高石垣水脈を守り菖蒲守る
竹皮を脱ぐや風韻忍者めく
我が俳句遊芸に非ず花芭蕉
太郎杉仰ぐ反り身に日雷
いかづちの国に生まれて一本気

 山羊の鬚  渡邉春枝
新緑の風の梳きゆく山羊の鬚
無心なるひとときありぬ夕牡丹
血縁のうすれゆく里濃紫陽花
坊守の懐姙に湧く柿若葉
あと戻りして拾ひたる落し文
空よりも青き湖夏つばめ
流木の半ば埋れて雷走る
意のままにならぬ髪型梅雨に入る


鳥雲集
〔上席同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

  蛍 の 国   松田千世子
空港へ道の岐るる蛍狩り
ほうたるの国に繋がる丸木橋
遙かより呼ぶ声のして蛍狩り
魂の行き交ふやうに舞ふ蛍
何故に一つ離れてゆく蛍
姫沙羅の咲くと見えねど散つてをり

  梅雨兆す  三島玉絵
蛇穴を出づこれ位といふ長さ
抱卵の鴉を許し築地松
たたまれし袱紗の折目みどりさす
梅雨兆す佛に白き花を切る
離農して四囲の植田の中に住む
委託せし父祖の一町田植どき

 亀鳴けり  森山比呂志
見えて来し晩年の坂亀鳴けり
てのひらに遊ばせて蒔く花の種
鳥雲に己の入る墓造る
老斑をかくすすべなし更衣
日本海今日晴れにけり烏賊焼屋
民宿に着くや栄螺を焼く匂ひ

 大 阪 城  今井星女
青葉風吹きぬけてゆく御堂筋
鐘おぼろ終焉の地に芭蕉の碑
緑陰に誓子、青畝とおきなの碑
天守閣燃ゆるごとくに躑躅咲く
石垣に刻印のあり城の春
外濠はただ草萌えて大阪城
 小学唱歌  織田美智子
七日ぶんほどの朝寝をしたりけり
鬼瓦に水の一字や松の花
くちずさむ小学唱歌風薫る
子鴉の飛翔練習雨意兆す
猫の眼の琥珀色なる麦の秋
ふれてみたしおゆびほどなる青蛙

  滝  笠原沢江
一山の紫陽花のまだうすみどり
尻餅をつきし渚で水遊び
夏柑を捥いで三時の茣蓙筵
威勢よく飛沫く航跡夏来る
意気投合魚籠は空つぽビール呑む
万緑に音を籠らせ滝飛沫く

 句 碑  金田野歩女
苗木市言ひ値付け値を掛け合うて
探鳥会を逸れて甘菜の群落へ
親雀出入り自由の牛舎かな
山頂に先客のあり若楓
十薬や貼り紙のなき掲示板
師の句碑の風格いよよ苔の花

 臍 の 緒  上川みゆき
臍の緒に泣きし芭蕉や京鹿子
旅に生き旅に逝きたり花芭蕉
鴨居低き芭蕉の生家土間涼し
記念館の白極まりし未草
明易の城より明くる忍者邑
未だ開かぬ忍者の城やさくらの実

白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

      唐津  鳥越千波 

アカシアの花の真下に猫眠る
栴檀の花むらさきの雨けぶる
茱萸熟るる頃に現はる渡り猿
ほととぎす聞き耳たてて次を待つ
山頂に湖二つほととぎす


      浜松  阿部芙美子

春耕の背中合はせの会話かな
日の丸の黄ばめる憲法記念の日
家系図に女とありぬ花擬宝珠
鮎掛けの一人一瀬や解禁日
蔦茂る十一段の登り窯


白魚火秀句
仁尾正文
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栴檀の花むらさきの雨けぶる 鳥越千波

 この句は、「栴檀の花」で切れ「むらさきの雨けぶる」の一物仕立ての写生句である。「むらさきの雨」は勿論栴檀の花の美しいむらさきを褒めたものであるが「むらさきの雨」が秀抜。実物の花楝よりも美しい雨に仕立てている。
 これを「栴檀の花むらさきに」「雨けぶる」と読むと一句のたおやかさは殆どない。「むらさきの雨」に並々ならぬ技を読み取ったが、大方の読者もそうであろう、と思う。

家系図に女とありぬ花擬宝珠 阿部芙美子

 古代歴史小説家の第一人者であった黒岩重吾は小説に登場する人物の系統が分かるように家系図が添付されている。例えば、『女龍王・神功皇后』には「古代天皇家系図」があり、景行帝の正室、側室が沢山見えるがすべて「妃」と記されている。景行と妃の間に生れた「ヤマトタケル」。タケルと三番目の妃の間に生れた「タラシナカツヒコ王子」(仲哀帝)がある。一方近江の豪族息長宿称王の娘に息長姫(神功皇后)が示され、これと仲哀との間に応神帝が生れている。この家系図は小説の主人公が神功皇后であるから女性の名が出ていて特異。男社会であったので女性は名を残せなかったのであろう。
 伊賀上野における白魚火の鍛練吟行会で私どもは先ず柳生の里を訪れた。江戸時代初期剣の新陰流の達人、柳生宗矩が将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなし、加増されて一万二千五百石の柳生藩がここにあった。私どもが訪れたのは、その国家老の退隠した屋敷。
 作者は、句材が沢山ある中で柳生家の家系図を見付けて掲出の句にしたのが手柄だ。宗矩には十数名の兄弟があり、男は実名が記されているが女は「女」とだけしか書かれていない。このことに作者は心を動かされたのだ。

聖五月息やすらかな産子抱く 大山清笑

 鳩踏む地かたくすこやか聖五月 平畑静塔
を『キリスト教俳句の世界』で新堀邦治は「五月は自然界の生命がみずみずしく光り輝く美しい季節である。この季節にもっともふさわしい季語の一つが「聖五月」である。カトリック俳人平畑静塔の考寄になるもので、もともとは「五月は聖母マリアにささげる月」から作った季語である」と述べている。
 頭掲句の、新しい生命を祝福する現役の助産婦の作者の感動を言い尽したのが右の一文である。作者は八十八歳。みづうみ賞の秀作賞『天蚕の里』も頭掲句も老齢ながら心身が充実し切っている証しと思われる。

ひつぱつて祭りの法被奴干し 松下葉子
 洗濯をした祭りの法被を竿に通し、引っぱって皺を伸ばしているのだが「奴干し」が抜群に面白い。この一語が一句をユニークな秀句にした。恩寵を授かったごとき語。この語はこの作者の特許といえよう。安易に他の者が用いてはならぬ。

更衣時序の狂ひてままならぬ 柴田佳江

 時序は、時節の順序。四季の順序である。今年は満開の桜が花冷えにより十日も持ったり、東京に春雪が積もったりして季節の順序はまさに狂い放し。更衣で半袖シャツにするのはためらわれたのである。

武者絵師の筆の止まる火神鳴 五十嵐藤重

 武者絵師の絵筆が止まる程の日雷が轟いた。この句は「火神鳴」と表記したが、雷神の怒りが見える如く強い。人類は火を使うようになって飛躍的に文化が発達した。「火神鳴」からは、落雷による自然火災で焼山農耕を知った原初の時代にまで思いが及ぶ。

たてがみに化粧してをり草競馬 長尾喜代

 牧之原市相良の春祭には町を挙げてのイベントとして草競馬(浜競馬ともいう)が行われている。広辞苑によると草競馬は「公認競馬に対して、農村などで行われる小規模の競馬」と国語として認められているが、歳時記には収録されていない。昨年浜松白魚火会、静岡白魚火会の有志が吟行して秀句を得るべく大いに吟行しようと選者は以後春の季語として認めると言った。歳時記に収録されれば掲句は例句になり得る。

源流を訪ね新樹の山へ入る 田中ゆうき

 明治になって苗字が許された筆者の家系は六代迄しか分らずもう少し先のルーツが知りたい思いはある。掲句も町内を流れる川の源流を知りたく新緑の山へ分け入った。誰もが抱く遥かなものへの希求である。

    その他触れたかった秀句     
グライダー飛ばして夏の空となる
をとがひの紅緒きりりと花田植
老鶯の男ざかりを鳴き上げて
笹の子や勝負のつかぬ指相撲
看板に完成図あり草茂る
青蜥蜴尻尾を丸め蚯蚓食ふ
若葉冷えラップの端を見失ふ
薄暑光遠くの船の動かざる
挿し藷に命継ぎし日もありし
今植ゑし早苗の腰のおぼつかぬ
青嵐時計回りの水車かな
青き実をつけニュートンのりんごの木
平泳ぎ背およぎもせり鯉幟
夕焼けや日没十九時二十分
家族中の茶碗を並べ新茶注ぐ
小林布佐子
田久保柊泉
弓場忠義
内田景子
山口あきを
安澤啓子
佐野栄子
浜野まや子
加藤美保
水出もとめ
金原恵子
前川美千代
篠原凉子
伊藤和代
桜井泰子


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

     阿部晴江

黒揚羽ふかれ来て黒沈めたる
古井戸の水の響や著莪の花
水底の砂きらきらと夏兆す
いつも風棲みゐる樟の大茂り
こつこつと風鎮揺るる夏座敷


     大石益江

小手毬の撓りゆるやかなりしかな
山法師雨に明るさありにけり
突然に訳なく崩れ牡丹かな
万緑や湖深く沈みをり
手の甲の先より日焼けする農婦 


白光秀句
白岩敏秀


こつこつと風鎮揺るる夏座敷 阿部晴江

 夏座敷の涼しさが、風に揺れる風鎮が壁を打つ音に表れている。
 湿気の多い日本では暑い夏を快適に過ごすために、さまざまな工夫がされている。取り外しの出来る襖や障子そして涼しげな家具調度品など。
 この夏座敷はそんな一切の装置を消し去っている。しかし、掛け軸の風鎮から床の間や違い棚更には座敷の広さまで想像できる。こつこつという音から風通しのよさや座敷の静けさ、明るさが伝わってくる。音を生かして夏座敷の涼しさを演出した句だ。
黒揚羽ふかれ来て黒沈めたる
 風に吹かれ来て夏草に翅を隠した揚羽蝶。花を見つけたのか、翅を休めるためなのか。自慢の黒翅を抓んでみたいようないたずら心が湧く。自然はひとを童心に還らせ、詩人の心にする。

山法師雨に明るさありにけり 大石益江
 山法師は庭木にも植えられているが、若葉の山に白く咲いているのは美しい。清楚な花である。梅雨時の鬱陶しさを払うように咲いている山法師。山法師に降る雨に明るさを感じ取っているのが俳人の感性だろう。 
 明るく発音するア音を重ねていることで句全体に清々しさが生まれ、リズムのよい句になっている。

羽一つ拾ふ五月の小径かな 星 揚子

 どんな鳥の羽を拾ったのだろう。きっと美しい羽だったに違いない。野の小径を歩きながら拾った鳥の羽。誰もが日常にすることが軽快なタッチで詠まれている。
 五月という爽快感のある季語、小径という言葉の選択。作者の感性によって選び抜かれた詞が響き合って、洗練された一句となった。

耕人に夕日とどまる麦の秋 原 菊枝

 麦刈りは立春より百二十日あとにするのが良いと聞いたことがある。しかし、黄金色に波打つ麦畑の景も、体中がむず痒くなった経験も今は昔の話。周辺に麦畑を見ることがなくなった。
 掲句は夕暮れまで農にいそしむ耕人。山の端にかかった夕日が熟れた麦穂を美しく染め、耕人の影を長くしている。
 種を蒔き育て収穫する。ひたすら農に生きる姿が麦秋を背景として、夕日のスポットライトに尊く浮かび上がる。

新緑や少し風ある畑にをり 竹内芳子

 難しい言葉も気負いもない清々しい句である。
 新緑を背負った畑なのであろう。吹く風が新緑を揺らし畦の青草を揺らす。「風吹く」でも「風出る」でもない。現に今「風ある」畑なのである。風の捉え方が柔軟だ。
 現場に居て初めて分かる「少し風ある」の表現だと思う。この風は俳句の現場を大事にする作者だけの新緑の風である。

バラ活けてだれも気づかぬ誕生日 海老原季誉

 人生僅か五十年と言われたはとうの昔。今は平均寿命が男性八十歳、女性八十六歳の時代である。これだけ歳を重ねると誕生日は忘れられても仕方がないかも知れない。よしんば、花を活けてサインを送ったとしても…。
 誕生日に活けたバラが自祝の花になってしまった。吐息のように置かれた「誕生日」に、作者の「やれやれ」といった苦笑が見えるようだ。

揺るぎなき青田の色となりにけり 村田相子

 力強い句である。田植えを終わった苗は二、三日で根を下ろし始める。やがて、根を張り、葉が青々と色づいてくる。この頃の青田には元服前の若武者を思わせる凛々しいところがある。
 早苗の頃から見守ってきた苗の成長である。「揺るぎなき」の措辞に苗への信頼と秋の収穫への期待が込められていよう。

青竹の太き干竿夏来たる 郷原和子

 干竿と夏が来ることとは関係ないが、こうして並べられてみると納得できる。
 鉄パイプの干竿でもコンクリートの土台の物干台でもない、まさに青竹。青の塗り立てのような干竿に初夏の爽快さがある。
 句調がスカッとしているのも夏らしい。

    その他の感銘句
夕暮は煙の匂ひ麦の秋
囀りの中に香華を手向けけり
山蕗の長け渓流の水煙
膝の蚊を叩きと金を進めけり
遠山の雪痩せをりぬ風五月
千枚の植田に千の水の音
棚田植う吉野へ開く峡の空
スーパーの水の綺麗な熱帯魚
九輪草幼なじみのごと咲けり
浜小屋に煮炊きの煙立葵
てふてふや段段畑均しゆく
蜂とんでゑごの花散る夕べかな
こだはりの一匹を追ふ蝿叩き
更衣ポケットにある領収証
田久保柊泉
牧野邦子
井上科子
坂田吉康
高橋圭子
塚本美知子
森井章恵
高野房子
大澤のり子
高間 葉
吉川紀子
星野きよ
山田ヨシコ
高橋陽子

禁無断転載