最終更新日(Update)'10.06.30

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第659号)
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3月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
季節の一句   浅野数方
「和三盆」(近詠) 仁尾正文  
曙集鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
      
小村絹子、大城信昭 ほか    
句会報 白魚火天神句会
白光秀句  白岩敏秀
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          鈴木百合子、青木いく代 ほか
白魚火秀句 仁尾正文

季節の一句

(苫小牧) 浅野数方

セルを着て余生の風を懐に 阿部晴江
(平成二十一年九月号 白光集より)

 「セル」…とても懐かしい響きである。夏の単衣の着物地。モスリンやポーラも思い出した。丁度母の着物の整理をしていた所なので尚なつかしさが込み上げてくる。
 掲句は作者自身のこと?それともお母さまのこと?どちらでも良い気がする。客観写生である。初夏の風を受けながら作者は何を思っていたのだろう。思いは膨らむ。
 「セル」の着物は薄地の普段着なので、擦り切れて古着屋に出回ることもないらしい。そしてもう織られては居ないと思う。無くなっていく運命にある季語を詠み継ぐ努力が必要なのかも知れない。「セル」の季語を借りて時間を乗り越えた作者の技量に感服した。


軽鳧の子の縦一列やささ濁り 大城信昭
(平成二十一年九月号 白光集より)

 札幌でも初夏に、あちこちで鴨の子育てが見られる。特に北海道庁の池での子育ては、毎年ニュースに取り上げられ、初夏の風物詩のひとつである。池の雪や氷が溶けての開放感の中、鴨がヒナを連れてのお散歩や塒移動には、沢山の人が大騒ぎで見守る。鴉や鴎に追われながら成長していくが一羽二羽と居なくなっていく鴨の子。自然は厳しいが、それを知っているのか知らないのか、鴨の子は元気に母鴨について行く。
 掲句は、素直に飾らず丁寧な描写を「ささ濁り」にしっかり景を託して景を大きくしている。鴨の子の七羽八羽の仕種が目に浮かび初夏の安らぎを感じた句である。


曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   



     蛙    安食彰彦

ピーポーの音はたと止む夕蛙
神籬に大きな蛇注連竹の秋
紅させり鎮守の森の楓の芽
山峡の捨田に鳴きし昼蛙
観月庵猫と鴉と蟇
ががんぼや観月庵の貴人口
病葉や片隅にある欠灯籠
青芒右袖壁の刀掛


 春ショール 青木華都子

ま青なる空水色の春ショール
消してまだくすぶつてゐる堤焼
髪乱すほどもなき風さくらの夜
午後九時で消ゆる外灯花の山
まはしのむ大きな朱盃花の下
花散らす風速二メートルの風
油さし始動してゐる耕耘機
早苗田の水きらきらとてらてらと


 万 の 石   白岩敏秀

はくれんになれと埋めたる小鳥の死
万愚節生木ぶすぶす燃えしぶる
膝つきし跡ありありと蓬摘む
桜咲く城址支ふる万の石
ひこばえの高さに山の夕日来る
開拓地夜は白々と梨の花
春の空まだ見つからぬかくれんぼ
目借どき能面鬼女となりにけり


 般若心経   坂本タカ女

春吹雪男の太き眉に雪
つちふるや鉛筆書きの葉書くる
ななかまど句碑呼んでゐる木の根明く
蕗の薹や天地鎮まり返りける
春の星光るを数へをれば増ゆ
春日射す埴輪の頬のゆるみけり
低誦の般若心経春蚊出づ
春愁や切手の四隅舐めて貼る


  躑 躅    鈴木三都夫
句碑寧し躑躅が咲けば其に染まり
苞弾き弾き躑躅の咲き盛る
一山の花とし燃ゆる躑躅かな
池の面へ万朶を翳する桜かな
鯉がばと跳ねて毀せし花筏
残る鴨今日は落花の中にかな
春笋の襟元固く重ねけり
牡丹の芽ほむら立ちしてほぐれけり
  夏 鶯   水鳥川弘宇
猫二匹あるじのごとしつつじ茶屋
からかさを貰ひ牡丹の王者ぶり
焼け跡のまだ手付かずに戻り寒
鵲の巣の早や落されてしまひけり
夕闇に夏鶯の声続く
道一つ隔てし火事の静けさよ
五月晴卒寿の兄が訪ね来し
春夕べ眼の衰へをひしひしと

  春惜しむ   山根仙花
今日終へし鍵束鳴らし雁送る
たんぽぽの絮とぶ夕日の真中へ
夜蛙の声の揃ひし裏戸閉づ
巣燕に声かけ裏戸閉ざしけり
どの道も坂となる道金鳳華
一峡にひびく一水金鳳華
そこらまで歩きて春を惜しみけり
蛇穴を出て生臭き身を晒す

 パスポート   小浜史都女
坊守の手造りの菓子あたたかし
歯を屋根に投げたることも朧かな
夜桜やものの怪通つたかも知れず
惜春や期限の切れしパスポート
嘴と脚水平に鷺夏隣
筍を掘るといふより倒しけり
空青きまま夜に入る新樹かな
毛先まで力の見えて毛虫這ふ

 忌 日    小林梨花
韓竈てふ一社に集ふ遅桜
芽吹雨峡の十戸に音もなく
幼き茶の芽に触れてみたりけり
里山の里埋め尽す茶畝かな
青畳敷き詰め忌日来る五月
老鶯と共に目覚めて忌日かな
さみどりの楓天蓋なす墓域
父の忌の空の真青に白牡丹

  冷 奴   鶴見一石子
人の世はいつもごつごつ石鹸玉
蘖やふと死後のこと句座のこと
蛤の沫に潮の香元気の香
逃げ水を追ひ思ひきりけふ生くる
てんとむし死んだふりして転げ落つ
古茶新茶あらがふことは生くること
冷奴唐変木になりきれず
晩年と雖負けん気渋団扇

 夏きざす   渡邉春枝
寄るほどに桜大樹の息づかひ
かぶと煮を温め直してゐる暮春
三面鏡たたんでよりの春愁ひ
春惜しむ結城紬の手ざはりに
犬の餌に雀来てゐるみどりの日
夏きざすワイングラスを満たすとき
子の脛のすり傷一つ二つ夏
生れし児の手型足型聖五月


鳥雲集
〔上席同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

  雲 雀  上村 均
真つ先に開きし赤のチューリップ
熱い茶に添へて出さるる桜餅
浅蜊狩遠くの橋を列車過ぎ
鉄柱を吊るすクレーン沖霞む
連山の夕づく雲雀落ちにけり
奥宮に歩のとどきけり花吹雪

 薫 風   加茂都紀女
里山の度肝を抜きし春吹雪
終雪を確かめに山登りけり
雉が飛ぶへうたん池のくびれより
昇天の白龍に似し雪解瀧
薫風を入れ一服を点て申す
掘り上げし筍が水噴きにけり

 母 の 日   桐谷綾子
母の日や母の匂ひの割烹着
母の日や青き畳で枇杷をむく
母の日も母には母の学びごと
もう何も欲しきものなし母の日も
そらまめをむくやいのちのひしめきて
向き変り風を呑みこむ鯉幟

 五 月 晴   鈴木 夢
餌を引く蟻に手をかす小半刻
雲水とはたと出合へり花ぐもり
洋式の玄関に立つ山法師
新緑や三十分の足馴らし
次々と友のへりゆく夏落葉
双子らし小犬をつれて五月晴
 初 夏   関口都亦絵
いとけなき初蝶にして睦みけり
掌中の蛙大事に下校の子
牧うらら雀が牛の尾にあそぶ
初夏や時計まはりの鳶親子
母の日やははの位牌の塵掃ふ
しなやかに金魚の尾鰭水に透く

 隅田川界隈  寺澤朝子
落花舞ふ言問橋を舟下る
水戸屋敷跡てふ庭や鳥交る
ふり向いて黒猫消ゆる暮春かな
川面より朧に昏れて隅田川
路地ごとにお囃子さらふ祭前
神輿倉にみこし燦然三社祭

 雪 見 桜  野口一秋
虚子忌かな久女の謎のいまもなほ
ゆくりなく雪見桜となりにけり
花きぶし金精峠開通す
鯉幟羨しと思ふ女系かな
青嵐吊橋渡る弥次郎兵衛
一位咲く家光廟の御開帳

 春惜しむ   福村ミサ子
大銀杏芽吹く気息の色見せて
朝つばめ雨の茶山をすつて翔ぶ
廃鉱の鉄扉を固く桜冷
地に還る色得つつあり桜蕊
山仰ぎ川を覗きて春惜しむ
太りつつ鮎は神話の川のぼる   

白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

      群馬  鈴木百合子

老い母と影をひとつに青き踏む
般若会の僧の小走りつばくらめ
転読の六百巻に木の芽風
合掌でくくる挨拶花の昼
一幅の遺墨の軸や松の芯


     浜松  青木いく代

葺替の瓦に夫の名記さるる
アルプスも入れ高遠の桜かな
牡丹の花びらの数蕊の数
万緑の中父親の肩車
青嵐岩にまつすぐ当たりけり


白魚火秀句
仁尾正文
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一幅の遺墨の軸や松の芯 鈴木百合子

 この作者の父は平成九年七十二歳で逝去した鈴木吾亦紅氏である。氏は昭和四十五年西本一都主宰と一夜群馬の温泉で会い意気投合し、忽ちにして会員一〇〇名の群馬白魚火を立ち上げたのであった。
 掲句は、吾亦紅氏の遺墨であろう。氏は豪放磊落であったが書は字体が細く小さく、色紙や短冊の余白も美しい見事なものであった。好んで揮亳した「四万道の女郎花橋てふ露ふかき」などの遺墨を条幅にして掛け、折につけ父を懐かしがっているのである。
 作者は父の没後、父が執着してやまなかった俳句の世界を覗いてみたくて白魚火へ入ってきた。以来十三年、ひたむきに俳句に取り組んできた。ようやく自在さを身につけたと思われるのが掲句の座五に据えた「松の芯」。上句をしっかりと受け止め、この句にはこの季語しかない、と思わせたのである。

青嵐岩にまつすぐ当たりけり 青木いく代
 
 山田みづえ氏に「桐の花剣ヶ岳切つ先出しにけり」という佳什がある。剣ヶ岳の鋭い山頂を「出しにけり」と簡明に写実したところに感じ入った。打坐即刻何の苦労もなく詠んだように見えるが仲々こうはいかないのである。
 頭掲句も、みづえ作の如く青嵐が「岩にまつすぐ当りけり」と楽々と詠んで、推敲の彫琢の跡を完全に消し去っている。青嵐の力感が十分に出たのはその表現によるのである。

二次会に母とデュエット春深し 西田美木子
 
 心おきない人々との二次会。カラオケのマイクを握ってデュエットしているのは「齢の離れた姉妹」と紛うような母とであった。随分と楽しかったことが伝わってくる。なお、カラオケは親しい人と歌うから楽しいので、大きな宴会でノンプロ級の上手な歌であっても全く知らない人のものでは少しも面白くない。

春筍を皮ごと焦げるまで焼けり 加茂康一
 
 取り立ての筍の柔らかい部分を皮ごと焼いて、その場で皮を剥ぎ塩をふりかける等して食うと、えぐみもなく格別の味だそうだ。野趣に溢れたこのような料理には食欲を誘われる。この作者は九十歳。俳句を生甲斐にしてよく研鑽していて私共にも勇気を与えてくれている。

豌豆の莢に空部屋ありにけり 曽根すゞゑ

 有名な「胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋 狩行」があり、その類想だといわれればそうだろうと思う。が類句とはいえない。類句は後発が先例より秀れていなければ取り消すべきだが、余りこだわっていては俳句は作れなくなる。その可否は選者が捌く。

厨房に男の入る立夏かな 鷹羽克子
 
 「男子厨房に入らず」という教育を受けた戦中派には、スーパーで買物篭を持って食品売場をうろうろするのは嫌いである。だが、時代が変わって今は老若の男子も食品売場でショッピングを楽しんでいるのである。しかし掲句の作者は「男子厨房に入らず」側である。「立夏かな」の声調は叱咤しているように剛直である。

桜貝拾ふ浜辺に昔あり 市川泰恵

 桜貝を探して歩いている浜辺。この浜辺を歩くと昔のことがしきりに思い出される。その内容は読者に確とは分らぬが「桜貝」なる季語が清純なもの、更に言えば初恋の思い出でないかと思わせる。

忘れ雪明日を信じて暮しをり 前川きみ代
 
 句稿の年齢欄に95と記入してあったので一句に足が止まった。「明日を信じて」は、「明日も今日と同じように恙なく暮せるであろう」という思い。若い者には考えもしない境地である。一日一日を大事に大事に暮しているのである。なお、この年齢欄に年齢を記入していない者が結構居る。特に六十歳代、七十歳代の女性に多い。投句とは句を捨てて選者に拾ってもらうものである。その選者に年齢を隠して見栄を張る、そういう、おちゃらけたことでは上位進出はむつかしかろう。

光より幹の光れる花かんば 浜野まや子
 
 白樺は樹高三十メートルにも及ぶが、新芽の出る前に黄褐色の地味な花を垂らす。白樺は幹の白いことが愛でられるので花は付け足しの如きもの。温暖な静岡県にも標高の高い所には見られる。どのようにして寒冷地から伝搬するのだろうか。

    その他触れたかった秀句     
葉桜のトンネルぬけて法学部
母の顔見るだけに寄る立夏かな
大銀杏倒れて仕舞ひ実朝忌
両隣良き人ばかり豆の花
塩加減焼加減よき石斑魚かな
新聞紙一枚しきて花筵
蝸牛道分石を登り切る
しやぼんだまひよこ組よりとび出せり
山茱萸の花芽を映す潦
寄り添うて谷に五六戸山桜
いたどりの赤き芽五つ並びをり
髭剃りて男盛りや松の芯
揚雲雀雲に届くか届かぬか
一本の棒と思ひき青大將
春暁や船名で呼び合ふ漁師
松原 甫
稗田秋美
中村國司
後藤よし子
植田美佐子
森井章恵
上武峰雪
齋藤 都
増田一灯
小玉みづえ
大久保尚子
本田咲子
石川寿樹
平田くみよ
守屋ヒサ


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

    小村絹子

空青し海なほ青し草競馬
蹄鉄の外れしままに浜競馬
馬の名を覚えて親し草競馬
勝馬の往事を偲ぶ草競馬
浜競馬見て来し髪を洗ひけり


    大城信昭

紫雲英田に花摘む娘飛鳥川
雲雀より高く揚げたり五帖凧
老桜幾多の画架に囲まれて
筍を糠で茹でをり庭竈
はたた神邑を一喝して去ぬる


白光秀句
白岩敏秀

空青し海なほ青し草競馬 小村絹子

 草競馬が面白いのは、勝負に打算のないことやストーリーがアドリブに満ちているからだろう。
 作者の今月の投句は全て「草競馬」であった。同一の季語の場合は、ややもすれば内容が単調になりがちであるが、この作品は違った。草競馬の場所、様子などがワンポイントに絞られていて、知らない者にもその雰囲気が伝わる。
 掲句から草競馬が砂浜を利用して行われたことが分かる。そして昂揚した句調から作者の期待の大きさも分かる。しかし、最も興奮していたのは騎手であり競走馬だったかも…。間もなくスタートだ。
馬の名を覚えて親し草競馬
 馬の貌はどれも同じように見えるし、名前も結構難しい。名前を覚え、顔を知れば親しさも増して応援にも一層の力が入る。いよいよ佳境に入った草競馬である。
 草競馬の一連を詠みながら、前後の句に凭れ合いがない。それぞれの句が独立していることが魅力だ。

紫雲英田に花摘む娘飛鳥川 大城信昭

 飛鳥川―古代ロマンに誘われる川だ。万葉集には飛鳥川(明日香川)に関する歌が二十五首あるという。飛鳥人がいかにこの川に心をよせていたかよく分かる。飛鳥文化は飛鳥川に密着して成熟していったのだろう。
 かっては飛鳥川のほとりで若菜摘みをしていたであろう飛鳥乙女たち。それを作者は飛鳥川を軸に紫雲英を積む娘として現代に登場させた。飛鳥川の変わらぬ流れが古代飛鳥と現代の飛鳥をしっかりと繋いでいることを、作者は見据えている。固有名詞の生きた使い方だ。

雪解水雪の中より音のして 奥山美智子

 雪国の人にとっては、どんな小さな春の兆候でも嬉しい。特に雪解けは嬉しい。
 何か月も土に触れなかった生活。今も積もっている雪の量に変化はないが、雪の下ではすでに春が動き始めている。雪の中を流れる幽かな水音に春をキャッチしている感覚が繊細だ。水音は冬を送り出し、春を迎え入れる音なのだ。

どの木からともなく桜散つて来し 藤田ふみ子

 桜には開花を待つ楽しみがあり、初花を見た喜びそして満開の嬉しさがある。
 日本人は桜のそれぞれの時期に合わせて花を楽しんできた。散ってゆく桜さえ終末の美しさを見出している。どの木からともなく、どこからともなく散って来る花びらはやがて始まる花吹雪への前奏曲。
 小さなものから大きな図柄へとイメージを広げていく構図がみごとである。  

桜蕊しきりに降れる木歩の碑 鷹羽克子

 富田木歩(一八九七~一九二三)は本名を一(はじめ)という。幼い頃に歩行の自由を失っていたため、俳号を木歩(もっぽ)とした。関東大震災(一九二三年)の時、友人の新井声風に背負われて避難したが、隅田川堤で離別。そこに木歩の終焉の標識がある。
 人に頼らなければ外出や花見も出来なかった木歩であるが、今はこうして桜蕊を浴びている。歩行不能、結核、貧困の三重苦の木歩にとって、「しきり降る」桜蕊は最大の贈り物であったろう。

囀りやいつもの道のいつもの樹 谷田部シツイ

 いつも変わらぬ散歩のコース。囀りに合わせて歩の運びにも自ずとテンポが生まれる。そして、歩のテンポに合わせたハミングのような句のリズムが心地良い。  
 囀りを聞けば口ずさみたくなる句である。

仕上りを試すひと吹き風車 井上科子

 紙を切って、折って、車軸を作って、仕上がった風車。仕上りの試し吹きに軽やかに回ってくれた風車。誰でもすることが十七音のリズムにこともなく乗せられてしまった。
 作者の一息で回った風車は、今度は春風を受けて勢いよく回ることだろう。風車を手にした子どもの嬉しそうな顔が見える句だ。

ビル街の花屋の香り春となる 大作佳範

 アスファルトとコンクリートの高層建築ばかりのビル街では、なかなか季節の変化には気付きにくいものだ。季節の変化が最初に訪れる花屋。カタカナや季節外れの花の中に春の花が幽かな香りを漂わせている。
 「春となる」の断定に作者の喜びが籠もる。

    その他の感銘句
蝌蚪掬ふ口笛習ふ少年と
田の神の下りて棚田は夏となる
水桶に砥石つけ置く花の冷え
フィナーレの喝采のごと桜散る
千枚田千の形の代を掻く
幸せの数だけ求むチューリップ
若葉風吹くたび空の新しき
飛花落花白井の宿の釣瓶井戸
春祭雨を見てをり刃物売
分校の前は激つ瀬鮎上る
雉啼いて防潮林の夜明けかな
閂の一本外す牧開き
産みたての風初夏の野点席
花山葵沢水引いて一軒家
昭和の日夫ネクタイを選びをり
山岸美重子
渡部昌石
石田博人
曽根すゞゑ
江連江女
川島昭子
横手一江
荻原富江
小村絹代
後藤政春
橋本志げの
花木研二
高橋陽子
山田しげる
久保美津女

禁無断転載