最終更新日(Update)'11.07.31

白魚火 平成23年6月号 抜粋

(通巻第671号)
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 6月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
季節の一句    坂本タカ女
「花水木」(近詠) 仁尾正文  
曙集鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
星 揚子、佐藤升子 ほか    
白光秀句  白岩敏秀
句会報 静岡白魚火「穂波句会」 田部井いつ子
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          奥野津矢子、大城信昭 ほか
白魚火秀句 仁尾正文


季節の一句

(旭川) 坂本タカ女

 白日傘舞ふやうに坂下りて来し 村上尚子
(平成二十二年九月号 白光集より)
 夏の日差しの強いとき女性には欠かせない日傘。最近の夏といえば、地球温暖化の影響で都会の真夏日は想像を絶する暑さのようである。掲句は何か良いことがあったのか、「舞ふやうに」は多分作者の気持ちが弾んでいたのであろう。その心が伝わってくるようである。また日傘の白が坂を下ってくる景が青空に映えて、大変明るく美しい句である。

風死すやスクランブルの交差点 奥野津矢子
(平成二十二年九月号 白光集より)
 スクランブル交差点は、歩行者が青信号で横断する時、車の通行が全て停止し、どんな方向にも歩行者が望む方へ渡っていける交差点で、都会の中心部にはよく見られる。以前見知らぬ土地の三叉路で戸惑った記憶がある。最近では旭川のような小都市でも、交通量の多い中心街ではこの交差点が出来た。掲句は「スクランブル交差点」以外何も言っていない。信号が変わると、あのスクランブルの空間を渡る様々な人間模様が見えてくる。「風死すや」が多くを物語っている。

向日葵を植ゑてブログを立ち上ぐる 大作佳範
(平成二十二年九月号 白光集より)
 時代の移り変りは目まぐるしい。パソコンや電子書籍など、横文字や電子機器に弱い私など解らない言葉ばかり。電子辞書を叩いてみても、解説にも横文字が登場するので理解に苦しむ。「ブログ」も大まかに理解しているが正確な意味は怪しい。ここで電子辞書を。「コンピューターのプログラム」と出てきたが、どうもそれだけではなさそう。新しい用語に時には胃が痛くなる。「向日葵」は新しいブログを立ち上げた作者の心持であろう。新しい言葉で五・七・五と俳句に立ち上げていくことも又俳句冥利である。


曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   

      昼 蛙   安食彰彦

田植する畦の草刈急がねば
田植機を止めて煙草を吸ふ男
田を植ゑて土蔵の家紋写しけり
二千年の蓮田に騒ぐ昼蛙
昼蛙荒神谷の丸ポスト
すさまじき雨雷を連れて去る
川鵜二羽城代家老の舟着場
蓬長く漁網と碇捨てられて


  余 震   青木華都子

一泊をして日光の若葉冷
ひつきりなし続く余震や地虫出づ
春潮の引き残したる桜貝
田水張るそこにビル建つ話など
麦青む一反五畝の寺領畑
夜蛙に雨あとの闇ふくらめり
地球儀の小さな日本五月晴
こぽと湧く東照宮の草清水


 弥 生 村   白岩敏秀

花冷えの街に帽子をひとつ買ふ
母を知る人と話して春炬燵
春宵の時計の鳴りぬ巫女溜り
貰はれて名前のつきし子猫かな
真つ直ぐに伸び大根の白十字
親鳥の視線のなかに巣立ちけり
子雀の風に追はれて戻りけり
火をつくる遊び立夏の弥生村


  大正の定   坂本タカ女
 
雪吊の取り払はれし虫柱
蝶生る窓の小さき御輿庫
境内の大正の定おぼろなる
かつて蝶鮫あがりし沢や涅槃西風
お形見の色紙短冊雪解星
D51の囲ひ解きをり黄沙降る
少年のバットの素振り下萌ゆる
やつてるよと木札や自転車店遅日


  蝌 蚪   鈴木三都夫

ここだ咲きここだ散り敷く藪椿
仰向けに落ちて椿の悪怯れず
風生の句のごとしだれ桜かな
散る花を今日の一句として詠まな
新しき句を詠めと散る桜かな
残る鴨花に浮かれて翔ちにけり
水底に日向のありて蝌蚪遊ぶ
蝌蚪に足明日のことは皆知らず
 夏に入る   山根仙花

たんぽぽの絮飛ぶを待つ茜雲
朝掘りの筍坊守より届く
風が日を散らす葉桜並木かな
築地松四角に刈られ夏に入る
堰落つる水しろがねに夏来たる
風軽く野を渡りゆく五月かな
廃屋の高き石垣虎耳草
みどりなす青葉の影を纒ひゆく


 花 の 頃   小浜史都女

貝寄せやももいろの貝拾ひたる
桜湯のさくらほぐれて浮き上る
青空のちからを借りてさくら散る
雨押して水汲みにゆく仏生会
人見知りする仔牛ゐて豆の花
鳰の子にして周到な息なりし
きのふけふ一句もなさず蕗を剥く
草引かぬ日数のあとの怖ろしき


  忌 日   小林梨花

くれなゐの牡丹ふくらむ忌日かな
立て掛くる丈余の卒塔婆白牡丹
百五十回忌を修す薄衣
声明の澄むや忌日の白牡丹
薫風と遊ぶ少女の一人かな
夕焼に染まる海坂忌日終ふ
豆を剥く遠き日の母近付けて
帰省子の佛間はみだす笑ひ声


  甚 平   鶴見一石子

饑じさは生涯の粮諸葛菜
末黒野の獣の匂ひ地の匂ひ
夜桜の紫の空白き空
鯛釣草鯛百匹の花明り
晩節の力賜はる新茶かな
冷汁や胃の腑腸の腑とまどへり
甚平の洗ひ晒しの生活好き
草笛や人は地に生き地に還る


 花は葉に   渡邉春枝

たんぽぽの絮いつせいに道よぎる
アネモネや半ば挫折の英会話
耳門より猫の出てくる朧月
うららかや寄木細工のオルゴール
方位盤おし上げてゐる芽吹山
面談のざつくばらんに五月来る
使ふほど艶もつ木椅子夏立てり
坐するによき石のありけり花は葉に


鳥雲集
〔上席同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

   春 暁   池田都瑠女
芽柳や城下を走る人力車
糸桜かいくぐり読む耿史句碑
うららかや浮蝋燭に火を灯す
桜蕊髪にとどめてバスの客
潮の香の路地に一本遅ざくら
春暁の夢に父居て母も居て

  落 し 蓋   大石ひろ女
永き日の音立ててゐる落し蓋
花屑や踵より着くスニーカー
寺の名を刻む煎餅桜東風
いにしへの色もて十二単かな
楤の芽の棘の思はぬ力かな
麦の穂にドミノ倒しの風走る

  地震襲ふ   奥木温子
春宵や一人暮しに地震襲ふ
飛べば追ひ鳴けばつれ鳴く恋の鳥
揚雲雀飛行機雲に乗りたくて
山峡を韋駄天走り春の雷
セーターの袖ばかり伸び木の芽寒
春愁や一夜に褪せし昨日の句

  桜    清水和子
新社員信号待ちの一たむろ
緩やかにひろがる水輪花曇
木の芽さはに加へ伽羅蕗炊き上ぐる
花筵番大の字に眠りをり
昨夜の雨宿す万朶の桜かな
木道の隙間隙間の蘆の角
   百年の藤   辻 すみよ
色に出て藤の花芽のつまびらか
百年の藤百年のかをりかな
山路行く楽しさのありすみれ草
号令をかけたき数のチューリップ
色ごとに微笑みかくるチューリップ
恋猫の庭にしばらくゐて騒ぐ

 夏 近 し    源 伸枝
子雀に苔ふかぶかと国分寺
城山へ至る木の橋花しぐれ
弥撒をへて帰る穀雨の石畳
春光や母となる子の束ね髪
潮騒へなだるる畝や牛蒡蒔く
すれ違ふ人に潮の香夏近し

 泰山木の花   横田じゅんこ
風呂敷をたたんで座る花莚
まんまるなレモン石鹸みどりの日
床の間をはみ出す兜飾りかな
一枚の空あり泰山木の花
青梅の籠に溢れて美しき
薫風の押してゆきけり乳母車

  鯉のぼり   浅野数方
幸せの見付かりさうな草若葉
栗鼠跳ねて日雀山雀四十雀
惚れ惚れと一渓ひらく水芭蕉
緑さす馬房に帰る馬の尻
古茶の香や卓に一輪差しの壺
鯉のぼり力一杯泣く子かな


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

  札幌  奥野津矢子

薄氷やからからとゆく旅鞄
恋猫とふいに目の合ふ裏通り
俎板となりし手の平水温む
桜東風野菜スープに銀の匙
囀を聴く雨傘を傾けて


  浜松  大城信昭

耕して時折仰ぐ聖岳
山吹の九十九折抜け甲斐に入る
尖塔や勿忘草は騎士の花
妙齢の人ばかりなり花筵
アカシアの花の彼方に祭凧


白魚火秀句
仁尾正文

俎板となりし手の平水温む 奥野津矢子

 この手の平で切っているのは豆腐。手の平で切った豆腐人りの昧噌汁がとてもうまそうに思わせるのは「水温む」という季語の力である。北海道にも遅い春が漸く訪れたよろこびが一句全体に溢れているのである。手の平で切る豆腐はありふれたことではあるが「水温む」の季節感、作者の心の弾みが読者によく伝ってきたからだ。単純化した表現技法も見逃してはならない。 なお、広辞苑によると「手」は①肩先から指先に至る間の総称、腕。②手首③手のひら①手の指と解説されている。
俳人好みの掌というのは「て」の読みにはない。掌は「てのひら」「たなごころ」の読みだけ。

耕して時折仰ぐ聖岳 大城信昭

 聖岳は、静岡、長野県境にある三〇一三メートルの竣岳。「日本のチロル」といわれている下伊那の旧上村、旧南信濃村(現在は合伴されて飯田市)の斜面から見る姿は麗朧で落葉松の芽吹く頃はまだ全容雪である。「ヒジリダケ」という語感も字面も美しく詩を感じさせる固有名詞である。急斜面の耕しは、前年の秋収の折ずり下った土を一鍬一鍬持ち上げるげるというハードなものであるが、集落の人々は今も(なぞえ)の畑を耕し続けている。折々見るふるさとの聖岳が目の憩いと励ましを呉れているのである。

道に迷ふことまた楽し葱坊主 星 揚子

 季節にかかわらず登山で道に迷うのは命の事故に係わるが、掲句はうららかな散歩である。わざと道を変えて句材を探したりしていたが、本当に迷ってしまったのである。
がそれもまた楽しい。照れ隠しに「葱坊主」の季語を置いたのであろう。

することもなし千全の春の宵 福岡菊雄

 「春宵一刻価千金」という有名な詩句がある。富安風生に「無為といふこと千金や春の宵」という桂什がある。風生は先師西本一都の生涯の恩師で、大正八年虚子門下となり、昭和三年「若葉」を創刊主宰。昭和五十五年九十五歳で逝去した。この間郵政事務次官、芸術院賞受賞という赫々たる盛名を馳せた。
 洗練された風生作に対して頭掲句は如何にも庶民的な春宵の句である。夕食をすませた後の一刻、価千金の気分は堪能したが、芝居見に行くでもなく、酒場やカフエヘ出掛けるでもない。これは多くの人々も同じこと。このようにありのままを吐露したものも素朴でよい。

山の池蝌蚪二三升蠢きぬ 伊藤政江

 気昧わるい程の蝌蚪の群を「二三升」と写生した所が秀れている。比喩に近い描写であるが、誰にも一瞬で分る景、つまり俳句に速度がある。上々の作品だ。

花の上に花の雲載せ吉野山 出□廣志

  これはこれはとばかり花の吉野山     芭蕉
 さすがの芭蕉もみごとな吉野山の花には他に言葉もなかったような句を残している。下千本、中、上、奥千本というのは少しずつ花の盛りがずれるので丁度見頃の最たる所を区域分けしているのであろう。掲句の「花の上」は頭上の桜である。「花の雲載せ」は対岸の遠くの花。遠近織り交ぜた桜の中に身を置いて至福の時を過した。これも具象のよい写生句である。

垢技けて帰郷せし子や春休 高橋圭子

 遊学し一年を経て帰省してきた子であろう。服装も髪型も言葉もすっかりスマートになった子に目を細めているのである。

竹の旬てふ筍のよき字かな 大石登美恵

 筍は確かに竹の句と書く。旬は魚介、野菜、果物の昧の最もよい時。意表をつかれたような内容であるが、言われてみるとウイットさえ感じられる秀句である。

 二十五万石の城垣に毛虫這ふ 山□あきを

 外様の蜂須賀二十五万石の阿波藩。子供の頃は、隣国の親藩松平十二万石より禄高が倍もあることに優越感をもっていた。しかし米の出来高は讃岐の半分位、賦諜は倍という厳しさで貧乏藩だったということを後年知った。掲句の「毛虫這ふ」はその無念を言っている。

花盛る頃にフィアンセ連れて来よ 石川寿樹

 青春、朱夏、白秋、玄冬の内、春爛漫の花の頃は人の一生でいうと男盛りである。その頃には何としてもフィアンセを連れて来いよという子へのハッパの句である。

    その他触れたかった秀句     
見下ろして植田十枚ひと続き
春祭終へて静かな朝茶かな
甘茶寺長州風呂を焚いてをり
残雪や岳を数へて一座二座
春宵の明かり落して薩摩琵琶
子等唄ふ玩具のチャチャチャ百千鳥
長き髪括る少女や風光る
竹笊にしばし寄せ置く落椿
春耕や連峰すべて神の住む
オルゴールのねぢ巻き直す遅日かな
人生に夕方のあり牡丹散る
はじめての按摩に悲鳴福寿草
母の日や前触れのなき贈物
一頭の初蝶に山動き出す
囀のタクトは森の風の神
陶山京子
斎藤かつみ
森山暢子
横手一江
青本いく代
内田景子
山□和恵
寺本喜徳
小林布佐子
計田美保
鮎瀬 汀
滝井光子
本田咲子
遠坂耕作
金子フミヱ


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

   星 揚子

からたちの棘より小さき芽吹かな
春昼のまつすぐ下がる自在鉤
雉子啼くや玄室の闇覗き込む
さざ波の形の変はる若葉風
カーテンの襞に五月の光かな


   佐藤升子

美しき頃を堅香子うつむける
落椿枝の椿をあふぎゐる
巻貝に足出て寄居虫となりぬ
春愁の切子硝子の窪みかな
お隣りに塩借りに出る昭和の日


白光秀句
白岩敏秀

さざ波の形の変はる若葉風 星 揚子

 若葉風でなければ感じられない瑞々しさだ。湖でも川でもいい。川なら川幅の広いところがいい。
 さざ波が若葉風の意のままに形を変え、大きさを変えて水面を白在に走っている。実際には若葉風がさざ波の形を変えているのだが、ここでは「変はる」とさざ波が意志を持った波として登場している。意志を持って若葉風も動く、さざ波も動く。生気にあふれた季節感が一句の中心にある。
  春昼のまつすぐ下がる自在鈎
 かっての農家の居間には自在鈎の下がった囲炉裏があったそして、それを囲む家族の姿があった。しかし、今は全くといっていいほど見なくなった。この句は古民家あたりでの作であろうか。天井からまっすぐに下がって少しも動かない自在鈎。動かないことに成熟した春昼の飽和感が感じられる。

美しき頃を堅香子(かたかご)うつむける 佐藤升子

 「もののふの八十をとめらが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花」(万葉集巻十九)の大伴家持の歌の堅香子は片栗の花
のこと。ここには乙女たちと堅香子の花の可憐さが重ねられている。 堅香子は茎の先端に紅紫色の花を一つつける。美しい花盛りの頃もうつむいたまま。まるでその盛りを恥じらう乙女のごときである。 万葉人の見た堅香子と現代の作者が見た堅香子。堅香子という語感から遠い万葉人の想いにつながっていく詩情が美しい。

茶の山の風は光となりにけり 小村絹子

 丹精を込めて育てあげた茶が一斉に萌葱色に萌え立ってきた。茶摘みのときである。不順な天候を乗り越えて立派に育ち、大きく広がる茶山が限前にある。たっぷりと日光を吸った茶山はたっぷりと日光を反射して眩しいほどである。ものを誉めるには多弁はいらない。無駄な言葉を削って風と光だけで茶山を讃えた力量はすばらしい。

さざ波は風のハミング夏に入る 岡あさ乃

 風紋を風の足跡と俳句に詠んだ人がいて感心したが、この句の「風のハミング」も同様。水面を軽く動かして走るさざ波はまさしく風のハミング。俳句は言葉と言葉をつなげて楽しいイメージをつくる。風のハミングは正にそのこと。歯切れのよいリズムから颯々とした夏の清涼感が伝わってくる。

良き土に畝の立ちたる雉の声 山田春子

 良き土とはたっぷりと肥料が施され、十分に鋤込まれた土のことをいうのだろう。作物にとってはこの上もないよい床である。
 畝立ては大事な作業。作物の根の張り具合や水はけの状態、作る作物などを考えながら立ててゆく。身近に雉の鴫き声を聞きながらの畑作。汗ばむほどの春の陽気に収穫への期待が大きく膨らむ良き土である。

腕白も今は棟梁つばめ飛ぶ  中西晃子

 この腕白坊主は近所の子どもとも作者の同級生とも取れる。 おそらく後者なのだろう。
 悪戯好きで腕白だったあの子が今は弟子を持つ棟梁。建築現場で弟子たちをてきぱきと指図して仕事をこなしている。 時は人を変える…作者の感慨をよそに、棟梁となった腕白も空を飛ぶつばめも五月の光のなかで痛いほど眩しい。

茶を摘みて駿河の国を広くせり 梶山憲子

 大事な一番茶である。丁寧にひと芽ひと芽と摘み取る。そして二番茶、三番茶と茶摘みは続く。摘み取りを終えて広々とした駿河の茶畑。おいしいお茶を産する駿河の国を誉め讃えているのだ。
 先人の苦労のうえに今の我々の一握りの苦労を積み重ねて産地を守っていく。その自負が感じられ、単なる郷土誉めに終わっていない句である。

花万朶茣蓙に手拍子して酌めり 田□三千女

 花見とは花見酒とは、まさにこのとおり。満開の花に酔い花見客に酔いそして花見酒に酔う。 三百六十五日の中に一日の閑をつくり、花を愛でつつ手拍子で酌む酒もま佳し。開放感があって愉快、愉快。

    その他の感銘句
白藤の少し離れて匂ひけり
鶏の遠くで鳴いて花曇
青空を称へて牡丹五百株
花の夜の小鉢にくづす絹豆腐
地虫出づ四阿の椅子釘浮けり
余震なほ枝垂桜のなかにゐて
桜蕊降る静けさの中に降る
花冷や三日空けたる日記書く
汐風に鈴の音響く遍路道
耕人のいつもひとりや山ざくら
野の花を押し花にして春惜しむ
校門に海光届く朝桜
渓谷の鉄橋包む新樹光
花万朶明日は雨になるといふ
代掻くや男盛りの無精ひげ
安達みわ子
中山雅史
斎藤 都
飯塚比呂子
滝見美代子
小川惠子
北原みどり
小松みち女
福永喜代美
後藤よし子
安澤啓子
山崎てる子
大澤のり子
水出もとめ
中組美喜枝

禁無断転載