最終更新日(Update)'08.02.29

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第631号)
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・しらをびのうた  栗林こうじ とびら
季節の一句    橋場きよ
「蔵出しの」 仁尾正文  
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
清水静石、奥野津矢子 ほか    
15
白光秀句  白岩敏秀 42
・白魚火作品月評    鶴見一石子 44
・現代俳句を読む    村上尚子  47
・百花寸評   田村萠尖 49
・「俳壇」3月号転載 52
・鳥雲集同人特別作品 53
・大久保瑞枝氏逝去 56
・俳誌拝見「圭」  森山暢子 57
・尾道白魚火鍛錬会報告 58
・こみち 「パッチワーク」 舛岡恵美子 63
 句会報 栃木県白魚火忘年句会   64
・歳末吟行句会 65
・今月読んだ本       中山雅史       66
・今月読んだ本     林 浩世      67
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          栗田幸雄、大石ひろ女 ほか
68
白魚火秀句 仁尾正文 115
・松江大会日程 117
・「白魚火燦燦」が出来ました  118
・窓・編集手帳・余滴       

季節の一句

(中津川) 橋場きよ

 
好い加減申すな寝釈迦聞いてをる 松田千世子
   (平成十九年五月号 鳥雲集)

 平成十九年を象徴する漢字は「偽」。掲出句は、五月号の所収句である。すでにその時点で察知されたかのごときこの句を見て驚かざるを得ない。すぐれた作家は時代を先取りする力があるという。そんなことも思わさせられ、俳諧味横溢の卓越したこの句をとりあげさせていただいた。かつて東南アジアの旅でみた大きな黄金の寝釈迦像を思い浮かべつつ、佛教国の人々のその後、そしてまた、日本の姿、「恥」を忘れ、国の品格も問われるような、さまざまな偽装事件など、まさに指唆に富む句として、考え、味わい深めたいと思うのである。

草餅が届く母の名父の文字 齋藤 都
  (平成十九年五月号 白魚火集)

 この句のたくまずして効果的な表現技巧に注目した。この句をかりに分解してみると、①、母の名を父が書く。②、母の名を母が書く。③、父の名を母が書く。④、父の名を父が書く。以上四つの場合があろう。そのうち②と④は当り前で問題とするまでもない。では①と③の違いを考えてみると、そこからさまざまな連想がひろがってくる。さて、この句の場合は? このお母さんは筆を持つことより、いそいそと家事をこなしてゆかれる家庭的なお人がらの様。そんなお母さんと、あかたかく見守って、サポートしてゆかれるお父さん。夫唱婦随とも、あるいは、案外家庭内では、婦唱夫随なのかも?などと想像するのも楽しい。いずれにせよ協調しておられるところがほほえましい。そのお二人の贈物が「草餅」というのがいい。草餅の持つ「素朴」さ。ふるさとの山河を思い出せるなつかしさ。季語がまことにぴったりとよく働いている。


鳥雲集
〔無鑑査同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

 中村古墳   安食彰彦

古墳の裾ほどよき闇や式部の実
椎の実のひとつころがり古墳丘
枯芒盗掘孔のみあたらず
未盗掘の古墳を抱き山眠る
寒風に押され玄室覗きけり
極月の玄室に闇ありにけり
玄室を覗き咳こぼしけり
底冷えのする玄室の飾太刀


 神 の 水   青木華都子

捏取も男手なりし餅を搗く
その奥に道あり雪の地蔵坂
父母の墓を清めつ年納む
冬茜三百年の神杉に
お仏壇閉ざし服喪の年明くる
下ろしたてなる宿下駄やお元日
渡り初め神橋といふ朱き橋
神の水てふ若水をいただきぬ


 冬 銀 河  白岩敏秀

昇降機五階に咳を降しけり
冬ぬくし埴輪は大刀に手をかけて
冬ざれの畑に鍬音捨てて来る
くべ足して一歩広がる焚火の輪
登り窯夜を燃えをり冬銀河
岐れたる径のつながる冬木立
山眠る裾に暮しの灯を点す
裏返る波に日当たる枯岬


 杉  玉     坂本タカ女

木守柿人声のして犬吠ゆる
七句てふ決りや神の留守なりし
山茶花やバケツ音する外水屋
突つ掛けに髪梳る石蕗の花
行き摩りてふ宿世なりけり熊手買ふ
花の大江戸一本締や酉の市
鰭酒の熱熱がくるさて燐寸
杉玉といはれて仰ぐ蔵の冬


 落葉時雨   鈴木三都夫

椎の実を拾ふ思ひ出拾ふごと
極まりてなほ一刻の冬紅葉
侮れぬ冷え募りきし紅葉山
面影の枯れてもしだれ桜かな
風呼んで落葉時雨のひとしきり
枯菊のいきなり燃えてしまひけり
足音をやり過しては笹子鳴く
焼津辺の草青きまま年越さん
三 ヶ 日  笠原沢江
年用意香炉の灰も篩ひけり
除夜の鐘一人一打にある音色
二社詣それぞれ違ふ初みくじ
境内に天幕一張り破魔矢売る
戴きし切山椒を懐しむ
茶茯台を足しても足りぬ三ヶ日

 歳 旦 祭  奥田 積
御神燈一つ揺れゐる歳旦祭
火の爆ずる音ひとしきり歳旦祭
茜色の髪のびやかや初詣
舞殿の床の光りや冬日差し
綿虫や欄干の影くつきりと
冬菊や堂の前なる無人市

 東 雲    梶川裕子
東雲の兼六園を霜踏んで
冬の雷石川門に石落し
茶屋町に駆込寺や雪蛍
天守より低きに朝の時雨虹
雲の影乱し宍道湖鳰潜る
ひとり居に茎漬石の出番なし

 御 慶     金井秀穂
昂りを今に引きずり冬の鵙
母の忌やためらはず剪る冬薔薇
窓磨き師走の景を新たにす
犬同志先づは御慶を交しけり
四日はや梨棚に鳴る鋏音
寒に入る不気味な暖気伴ひて

 菊 焚 き   坂下昇子
朴落葉ほかの落葉を載せてをり
菊焚いて青空少し汚しけり
雪吊の雪まだ知らぬ縄の張り
着水の鴨の伸ばせし滑走路
これ以上省くものなし枯木立
風紋につづる足跡浜千鳥

 山 眠 る    二宮てつ郎
木の葉散る読経の切れ目切れ目かな
海へ降つてゐる十二月の雨
山茶花を濡らして雨の上がりけり
たはやすく雨の冬至の暮るるかな
冬晴のどこかで誰か魚焼く
鉄塔は一本の刺山眠る

 秋葉山火祭   野沢建代
火祭の護摩木の乾く実南天
神鹿の角切つてあり冬木立
山伏の白地下足袋や火の祭
短日の気温五度なる行者道
講衆の装束揃ふ竜の玉
秋葉講の旗はためきて火の祭

 小  鳥    星田一草
二三日見詰めてよりの松手入
木守柿空に溶け入る昼の月
つくばひは小鳥の水場石蕗の花
路地多き城下に迷ふ十二月
木枯や刻々ふゆる星の数
枯枝を剪るほんたうに枯れてをり


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

  浜松  栗田幸雄

野の涯は風鳴るところ冬木立
牡蠣殻を砦のごとく漁夫の町
軒下に塩引吊す町屋かな
横座にはまたぎの座る熊の皮
ストーブを囲む駅舎の国訛


  多久  大石ひろ女

過去帳に夫の加はり去年今年
はじめての独り迎ふる大旦
かな文字のほどよきかすれ福寿草
玄室の線刻細き冬灯
有明の海のかがよふ初茜


白魚火秀句
仁尾正文
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  横座にはまたぎの座る熊の皮 栗田幸雄

 横座とは囲炉裏の奥正面の座、毛皮などの敷物が正面に向って横に向くからこう言う。家長の坐る座である。対して竪座は客の座、敷物を正面の横座に向って竪に敷かれる。またぎは東北等北国の山間に居住し古い伝統を持った猟師の群である。昔は狩猟を生業とし猟期が終ると杣の仕事で生計を立てた。
 掲句は、またぎの旧家の炉端である。大きな炉は夏でも焚き継がれて、食事や団欒の核となっている。横座は主が居ても居なくても熊の皮がでんと据っている。今どき昔のまたぎのままの生活は難しく猟期になっても狩猟の時を作るのに苦労しているのであろう。だが、大炉の横座を大切にしているのは、またぎ社会の伝統が守られているということだ。
 一句は、またぎの横座だけ描いて一切物を言っていないが、連想が拡がってゆく所に一句の強みがある。

過去帳に夫の加はり去年今年 大石ひろ女

 この作者は体調を崩して三、四年前退職したと聞いている。年齢からして年金はまだ受けられない。そこへ思いもしなかった夫君が逝去されたのである。痛切極まりない作品であるが淡々と主観を入れずに詠んでいる。
 棚経のみんなのうしろ姿かな 細川加賀
の自註に「人のうしろ姿は淋しいものだ。まして棚経ともなれば……。重い内容を軽く表現することに魅力を感じた。」というが頭掲句もそれに似た手法。骨肉の死に誰もが遭遇しているので頭掲句を読者はそれぞれ身に引きつけて読む。季語に置いた「去年今年」を重く受け止めながらである。

寒念仏曲るとき空ちらと見し 稲井麦秋

 寒行の一つの寒念仏である。団扇太鼓を叩きながら「ナンミョウホーレンゲキョウ」と声を合せながら一列になって歩く一団。列が町角を曲るときその中の一人がちらっと空を見たことを作者は見逃さなかった。特別の意図があって空を見上げたのではなかろうが、作句の上ではいい場面を見せられた。爲に臨場感溢れる一句が生れたのである。

父も子も笛の座継ぎぬ里神楽 早川俊久

 北遠州のひよんどりや奥三河の花祭の多くは重要民俗無形文化財に指定されている。これらの中には芸が一家相伝、世襲になっている所が多い。そうでない所も集落を挙げて共同炊飯したりして子供の頃からずっと見てきているので一週間も練習すれば誰でも神楽が舞える。掲句は永年父が毎年務めてきた笛方を今年から息子が行うことになった。上手に吹けるかどうかは一家はもとより集落の注目を集めているのだ。そういう雰囲気が冬の夜祭を数百年も続けさせているのであろう。

寒靄や堀辺の茶房火を落す 寺本喜徳

 気象観測では、視界一キロメートル以上を靄、以下を霧といっている。「寒靄や」と打ち出したのは冴え冴えとした夜景でも夜霧濃い景でもなく潤むような靄の夜景であった。堀のほとりの喫茶店の灯が水面に映えて平穏そのものであった。「灯を落す」の具象が白眉である。

野づかさを疾くかけ行けり狩の犬 森井章恵

 野づかさは、野にある小高い丘。獲物を嗅ぎ取った猟犬が矢の如くここを駆け抜けた。ハンターの挙措も何の猟であるかも明かしてないが、精悼な猟犬の疾走だけで読者は猟のあれこれを思い描くことができるのである。
 結局、俳句は景や挙措を読み手に思い描けるように作り、読み手はそこから自由に想像の輪を拡げる。だから十七音であっても広い世界が表出できるのだ。

冬木の芽見上ぐ己れを鼓舞せんと 坂東紀子

 微塵の欅の冬芽も大きく膨らんだ木蓮の冬芽も活力に満ちている。無限の将来があるようにさえ思われる。掲句も冬木の芽を仰ぎ見て生気を貰ったのである。

年忘れ遠い人から集まれり 大作佳範

 忘年会の会場は皆んなが集り易いような所を選ぶ。ところがバスで三十分もかかる遠い所の人が一番先に到着し、歩いて十分もかからない所の人が開会ぎりぎりに来る。こういうことは忘年会に限らない。人間の心理のようで何とも不思議なことである。

親のゐて子の揃ひたるお元日 廣川恵子

 はらからに母はかすがひ単帯 西嶋あさ子
という秀句がある。老い先の見えている親がある内は兄弟姉妹も親の元気な内にと遠くから近くから皆集って元日を祝う。「兄弟は他人の始まり」といわれるが、親は正にはらからの鎹である。

その他触れたかった秀句        
冬日差す机の上の新聞紙
上席を婿に譲れる初座敷
置物の箱の紐解く年用意
初雀ばらばらと落ち零れけり
裸木となりて城址を近くせり
モノクロの山に真赤な冬落暉
初暦掛け場所変へて気も新た
牡蠣割女年功序列に座り居り
海鼠腸や灘より届くにごり酒
初夢をそつと耳打ちうふふふふ
佐藤 朗
高橋京子
宇賀神尚雄
谷口泰子
伊藤和代
根本敦子
加藤 梢
川上征夫
吉田美鈴
手塚美代子

白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

     清水静石

年の暮花屋掃き出す花の屑
漂ふも翔ぶも白光ゆりかもめ
極月の湾に真珠を眠らせて
年詰まる網袋に蟹泡をふく
添へ書きを一つ一つに賀状書く


     奥野津矢子

アイロンを立てて休ます神の留守
白鳥来句集に白き栞紐
長考の梟地上の煩はし
太鼓橋の向かう鳥居や初鴉
寒の水甘し火の神祀らるる

白光秀句
白岩敏秀

年の暮花屋掃き出す花の屑 清水静石

 近頃はカタカナの名前の花が多くなった。一度聞いたぐらいでは、なかなか名前が覚えられない花もある。そんな花はどこかよそよそしさを感じるものである。
 しかし、どんな親しい花であれ、よそよそしい花であれ、花屑となれば名前は消えてしまう。この花屑も売られる前に咲ききって商品価値のなくなったものだろう。どこにも飾られることもなかった花に哀れさがあるが、この句にはそれを感じさせない明るさがある。それは、ステップを踏むようなリズムと母音のア音の明るい響きによるのであろう。この句を再読、再々読していると童謡唱歌の世界に誘われるようで不思議である。例えば「どんぐりころころ」や「チューリップの花」等。
 添へ書きを一つ一つに賀状書く
 年賀状の相手の顔を思い浮かべながら、丁寧に添え書きを書いていく。新年の何物にも替えがたい贈り物である。作者のあたたかい人柄の偲ばれる作品である。

長考の梟地上の煩はし 奥野津矢子

 「長考の梟」。なる程と思う。あの姿はまさに長考の形。瞬きをせぬ目と時折首を傾げる動作は森の賢者の様でもある。
 梟が長考の末に下した結論が「地上の煩はし」。
 しかし、そんなことは既に作者は承知済みである。行動を伴わない長考が何の解決にも繋がらないことも又然り。
 この句。「煩わし」ときっぱりと言い切って、喜びも悲しさも何もかも引っ被って、煩わしい地上に一歩踏み出す刹那の気迫がある。
 地上は人間にとっていつでも営みの場所なのである。「鰯雲個々一切事地上にあり 中村草田男」

餅を焼く匂ひの中へ帰りけり 竹田環枝

 この句は「すき焼き」でも一応は成り立つであろうが、「すき焼き」では時刻が限定されて句に広がりがなくなる。やはり「餅」がいい。しかも、時刻は昼、それも午後の方が似つかわしい。
 所用から帰って、玄関を開けた途端に香ばしい匂いがする。餅を焼いている匂いとすぐ分かる。奥の方では子どもの声がする。誰かが遊びに来ているようだ。
 この和やかさは正月の松も取れ、家事から解放された女正月あたりの情景であろうか。帰ってきた作者も餅を焼きながら、肩のこらない談笑にすぐ仲間入りしたことであろう。ほのぼのとした心温まる作品である。

花びらに花びらの影寒牡丹 星 揚子

 先日、私の住む地方の新聞に島根県の中海に浮かぶ大根島の寒牡丹の写真が載っていた。紅とピンクの大振りの見事な寒牡丹であった。作者の住所は宇都宮だから寒牡丹の開花はこちらより少し早いかも知れぬ。
 花びらの影は寒牡丹を美しいと眺めていた眼が俳人の眼となって捉えた影である。
 「花びらに花びらの影」と丁寧に詠んで、影が影の実体を失ない、影はあたかも寒牡丹の花の色のごとくである。
 花びらに重ねた影を見逃さなかった、女性らしい感性の繊細さが遺憾なく発揮された句である。

初電車おだやかな海眺めをり 西川玲子

 この句から目的地や行きか帰りかは不明であるが、敢えて詮索しなくても句の鑑賞には支障ない。只々、初電車の揺れに身を任せながら、車窓を流れる穏やかな海を眺めていればいい。作者は言葉の要らない世界に身を置いており、心の満たされた時間を過ごしているのだから……。
 この句には解説や説明を加えれば壊れてしまいそうな初々しさがある。

棟上げの我が家小春につつまるる 山崎朝子

 この作者は平成十九年四月号に「類焼の火事場に佇ちて身じろがず」他三句を発表している。類焼とはいえ火事に罹災している。あれから約一年。この度、棟上げになったようである。しかも、小春の暖かい日に恵まれたと言う。嬉しいことである。
 棟上げはご本人や家族の喜びはもとよりであるが、句の仲間としてもその喜びを分かち合いたい。
  
良きことを選びて書きぬ初日記 中島啓子

 誰に見せる訳でもない日記であるが、書くなら良いことを書いておきたい。特に今年初めてつける日記であれば尚更のこと。
 良いことは本文に書いて、失敗は欄外にメモしておこうと。正直な句である。
  
湯たんぽのさざ波さぐる土不踏 黒崎すみれ

 湯たんぽの腹の波をさざ波とは意表をついた表現。俳句はこんな大胆不敵な言葉が使えるから楽しい。「さぐる土不踏」も可笑しい。この句、俳句ととことん遊ぼうという気持ちが窺えてうれしい。

 その他の感銘句
帰り来て部屋の四隅といふ寒さ
灯明の影の生まるる鏡餅
万両の庭より富山の薬売り
松手入影新しく生まれけり
黐竿の男づかづか冬山へ
木の葉雨乾くことなき間歩に入る
来る者が皆来て帰るお元旦
注連飾ますぐに直し中に入る
亡き人の温もりを着るちやんちやんこ
青竹のさくりと割るる寒日和
秋穂幸恵
中曽根田美子
野田早都女
峯野啓子
松浦文月
原 和子
古藤弘枝
広岡博子
河野幸子
濱田安房子

禁無断転載