最終更新日(Update)'07.10.03

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第626号)
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・しらをびのうた  栗林こうじ とびら
・季節の一句    柴山要作
「滝」(主宰近詠  仁尾正文   
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
東条三都夫、横田じゅんこ    
14
白光秀句    白岩敏秀 40
・白魚火作品月評    鶴見一石子  42
・現代俳句を読む    村上尚子 45
百花寸評       澤 弘深  47
・平成20年度白魚火鳥雲集同人 推薦
・平成20年度白魚火同人 推薦
50
・白魚火松島全国大会
    ・全国俳句大会グラビア 51
    ・松島全国白魚火大会大会記 59
    ・大会作品 64
   大会参加記 80
・「俳壇」10月号転載 92
・句集評 竹元抽彩句文集「浄瑠璃の鏡」に寄せて    花田孝子 94
・鳥雲同人特別作品 96
・こみち(身辺整理)     横田じゅんこ 98
・俳誌拝見(山彦)    森山暢子 99
句会報   「浜松白魚火 円坐A」 100
・ウミガメの産卵を見て 101
・「港」「甘藍」転載 102
・「運河」転載 103
・今月読んだ本     中山雅史 104
・今月読んだ本       林 浩世      105
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
      清水和子、谷山瑞枝 ほか
106
白魚火秀句 仁尾正文 155
・窓・編集手帳・余滴       


鳥雲集
〔無鑑査同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

   廃 坊   安食彰彦

夏草や坊に二本の納杖
蜻蛉の止まる礎石のあるばかり
山帰来の葉をとびとんで滴れり
つるをがせ絡まる垣を見つつ過ぐ
草いきれ中の礎石に近付けず
空蝉の礎石の角につかまりて
川岸に垂るる烏瓜の花
鹿垣の中に首なき丁地蔵


 人情通り  青木華都子

座る位置変へて扇子の風貰ふ
裏町の人情通りかき氷
緑蔭の木の椅子どれも二人掛
厄除けの寺に天狗の大団扇
午後二時のやけつぱちなる油蝉
民宿の大きなお鍋稲の花
あるかなしの風に応へて走り萩
迎へ火を盆提灯にもらひけり


 縷 紅 草   白岩敏秀

飛魚に紺を深むる隠岐の海
みちのくの音に鳴りけり鉄風鈴
夜の汽笛眠れぬ金魚ひるがへり
古浴衣夕日に顔を当て歩く
縷紅草嬰は眠りて五指ひらく
日盛の影を短く砂丘行く
サングラスはづせば二重瞼かな
酢の匂ひして運ばるる夏料理


 新 松 子  水鳥川弘宇

朝東風や出口調査に止めらるる
颱風の事無く過ぎし山河かな
水馬ライトアップに浮かび出づ
新松子犇き合ひて蜜ならず
キャンプの子父を采配してをりぬ
夕端居兄そつくりの手足かな
玄海も息呑みて待つ大花火
大花火雨のきらめくこともよし


 花  火  山根仙花

拍手に梅雨の重さのありにけり
息かけて梅雨の暗さの鏡拭く
蜘蛛の囲に蜘蛛眠りをり昼の月
蝉暑し声の限りを競ひをり
野の風を掬ひてはゆく捕虫網
音立てて一雨過ぎし茄子の紺
水の面に日暮来てゐる水中花
花火果て星々空に戻りけり
 道をしへ  森山比呂志
刈草のまだ新しき匂ひかな
来賓の欠伸をころす溽暑かな
挨拶の短きことも涼しかり
道をしへ三叉路に来て別れけり
知らぬ子に袖つかまれし宵祭
青きもの器に浮かせ夏料理

 ひつじ草  今井星女
一望に大沼小沼山開き
駒ケ岳借景にしてビール飲む
ひつじ草沼の濁りにかゝはらず
睡蓮の花の命の三日ほど
花終へて睡蓮水に沈みけり
五六本蕾の固きあやめ買ふ

 日焼の子  大屋得雄
日盛りの刈草匂ふ嵩をなし
日焼の子血液型の似てをりし
草苺ルビーの様な雨上り
右向きに左に向きに昼寝の子
猫車夜干の梅の乗せてあり
手花火やマッチの小箱桃印

 ほととぎす 織田美智子
廻し飲む一杓の水ほととぎす
端居して幼なじみの話など
海の見ゆる教会のあり夏つばめ
頂上や目路の限りに夏の霧
少年へ白球返す青ぶだう
み仏に供へて夜の早桃の香

 鴨 足 草 宮野一磴
杖で指し骨董を選る朝曇
老鴬や澱のたまりし鱒の池
向日葵やそちこちを向き吾に向き
淑やかな挨拶をする鴨足草
秋はじめ木幣ほつるる刃物塚
レリーフの緑青の熊吼ゆる秋

 梅 雨 晴 富田郁子
しほがまの鳩と梅雨晴楽しめり
大錨すゑて塩竈梅雨青し
梅雨の庫裡白面朱唇の聖観音
修行窟の暗き奥処に蚊の棲めり
観音の千手千眼蛇苺
洞窟に手洗ありけり蔦青し

  汗  栗林こうじ
半夏生草豊かに真田檀那寺
鉾巡行汗の先触れ太鼓かな
巡行の旧き町行く祭鉾
夏蕨摘むや城址の身巾みち
枝豆の自家どりよけれひたに食む
巻雲の美しく信濃の梅雨明くる


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
    白岩敏秀選

   東條三都夫

あいうえお書けて最初の夏休
岩魚釣隣の竿の上りけり
朝顔の開かんとして立ち上り
里心湧きぬ螢の火の青き
北国の短かき夜を沙羅の花


   横田じゆんこ

竹林の規矩を正せし今年竹
白日傘まはし年齢不詳かな
私にだけ首振つてゐる扇風機
ハンカチの数だけ旅の日数かな
葉の揺るるたびに太りし芋の露
      


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選


  浜 松  清水和子

涼風の自在に通ふ多賀城碑
麻暖簾くぐれば明治ありにけり
冷房の適温夫と異なりて
谷風の吹き上げてをり夏落葉
立葵咲かせて山の駐在所


       唐 津  谷山瑞枝

祭り見る場所取りの早始まりぬ
長髪を束ね男に祭来る
山車を曳く綱の先端大回り
男振り上げし締込み山車を曳く
煙草の火祭り提灯より貰ふ
   
      


白魚火秀句
仁尾正文
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涼風の自在に通ふ多賀城碑 清水和子

 松島における白魚火全国俳句大会に浜松からは幾組かに分れて赴いた。私ども二十人程のグループは初日の四時間余を多賀城と陸奥一の宮である塩竈神社を主体に吟行した。殊に多賀城址は平安時代初期、蝦夷の統師アテルイとここを拠点にしていた征夷大将軍の坂上田村麻呂の悲劇的な結末が思いから去らず是非にと要請して寄って貰った所である。
 掲句は、それとは別で芭蕉の奥の細道に「壷碑市川村多賀城に有。つぼの石ぶみは高さ六尺余横三尺許興。苔を穿て文字幽也。」を念頭に置いたもの。芭蕉は歌枕として有名な壷の碑を一目見んと多賀城址に軽い気持で立ち寄ったようで、松島に於けると同様句は残していない。山家集に「陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆるつぼのいしぶみそとの浜風」他がある。
 掲句は芭蕉同様多賀城碑を歌枕として挨拶したもので、軽やかですずしい一句である。同掲の「立葵咲かせて山の駐在所 和子」は「過疎」の語を用いずに平穏な過疎地を描き出している。「過疎」は具体的でないので選者は採らない。

男振り上げし締込み山車を曳く 谷山瑞枝
 山車は多くの地では「だし」あるいは「だんじり」と言われ屋台の上で笛太鼓鉦などを奏でて祭りを華やかにする。堺のだんじりや新居浜の喧嘩屋台などでは折りに死者が出たりする激しいものもあるが、一般には女性的。
 同じ山車でも唐津のものは勇壮な博多の山笠を思わせる。かつてNHKの朝のテレビ小説で「走らんか」という博多祇園祭の飾山笠作りの一家の物語が放映された。クライマックスの追山では締込の男達の疾走が圧巻だった。
 掲句は「男振り上げし締込」が逞しい若者を「美」として捉えている。世阿弥は「若さはすでに一つの芸(美)」と述べている。
 同掲の「煙草の火祭り提灯より貰ふ 瑞枝」は祭の中のスナップであるが、一連五句に余裕のようなものを添えていて佳。

潮騒を耳に残して髪洗ふ 篠崎吾都美

 「髪洗ふ」は本意も本情も女のもの。「髪は女の命」であり「恋の象徴」として詠まれ続けてきた。
 掲句は仙台大会の二回目の俳句大会で特選一位に推した。髪を洗う手を止める度に遠潮騒が耳に届き耳を離れないのである。旅愁の濃い作品である。「雪の日の浴身一指一趾愛し 多佳子」をふっと思い出しもした。

境内を出れば常の世沙羅の花 井原紀子

 鐘を撞き、線香を焚いて仏前に一心に祷っていると身も心も洗われたような気分になる。仏恩とは自らが清浄になることなのであろう。そして境内を出ると炎天の常の世。濁世に引き戻され又平常の生活になったのである。境内の中を寺と思ったのは「沙羅の花」の季語による。夏椿であれば目を引かなかったであろう。

一握りほどの島にも新松子 加藤芳江

 奥の細道で芭蕉は松島の絶景を称え、「予は口をとじて眠らんとしていねられず」で文を結んでいる。筆者も芭蕉ですら詠み得なかった松島の景は始めから諦めて、大会終了後遊覧船で湾内を一周しただけ。俳句大会で見たこの作者のような景がいくつか見られて改めて掲句に感心した。大きな怒涛がぶつかると折れそうな細くて小さな島にも実生の小さな松が一本切り生えて新松子を結んでいた。
 作者は足もて作ったので収穫があったのである。

雨脚の太くなりたり大念仏 佐藤升子

  昨年の浜松における白魚火全国大会の懇親会の口開けに地元が提供した「遠州大念仏」という盆供養芸能を参会者に見て貰った。元亀三年(一五七二)三方ヶ原合戦で大敗した家康が徳川、武田両軍の戦死者の霊を念仏踊りにより弔ったものが現在迄四百年以上も続いている。
 総勢三十名程の若者がピンクの長襦袢に青い手甲、脚絆、赤だすき、笠を目深に太鼓、笛、双盤にて初盆の家を訪れて新仏の前で踊り供養する。花形は太鼓切り衆で回りながら太鼓を鋭く打つ。
 静岡新聞社刊の「しずおか俳句歳時記」に収録されている外は、「大念仏」は何処にも出ていない。全国版の歳時記に載るよう遠州人は「大念仏の句を作るべし」と唱導しているが今年十句程投句があり喜ばしかった。
 ここで注意したいことがある。句稿には年齢や職業を記す欄があるが、未記入の者が多い。特に女性が年齢を書かないのはよくない。投句とは、自作を投げ棄てて取捨を選者に任せるということであるが、年齢を知られたくないというのは謙虚でないということ。二次選句で五句より四句へ、四句より三句へと減らさねばならぬとき、年齢欄不記載の者は、当然一句下げられるケースが多い。ルール違反だから。

    その他触れたかった佳句     
夏足袋の裏真つ白き茶席かな
日焼けして破れジーパン腰で穿く
裏窓に畑の見えて冷奴
夏霧にわが身映りてをりにけり
蝮の子一丁前の長さかな
買ふだけでもう満足の水着かな
甚平に寛ぐテレビ桟敷かな
月にまで届きて散りし大花火
雲の峰兄弟はみな太き眉
夕暮の駅に迎へのアロハシャツ
加藤雅子
小川惠子
森上勝夫
青木源策
平田くみよ
藤田多恵子
大沼孤山
相澤よし子
内田景子
江連江女


百花寸評
                         澤 弘深 
(平成十九年七月号より)  

番犬の吠え通しなり春疾風 安食充子

 春疾風は、春の強風、突風、烈風をいう。前線を伴った低気圧が日本海を通過するときに起こり、山では雪崩れや洪水を発生させ、海では大事故を引き起こす原因となる。
 掲句は、不安定な春の気象現象を象徴する季語をとおして、病気か老衰等で気力の弱っている番犬の不安定でデリケートな心理状況を、的確に描写している。

同じことまたくり返す春炬燵 勝部チエ子

 春炬燵は、春になっても片付けずに出してある炬燵のことである。春の早い時季には、朝晩寒かったり急に寒くなったりすることがある。春炬燵には冬の炬燵にない情趣がある。
 掲句は、長寿者同士が炬燵にあたりながら昔話でもしているのであろうか。季語の坐りがよく、高齢者の心理描写と、微笑ましく落ちついた情景が描写されている。

御神鼓の連打に落花とどめなく 川島昭子
 落花は、花の散る様をいう。花が散ることは、その花期の短さからも、命の儚さに例えられ、古くから美しく哀れであると、愛惜の情で詠まれている。
 掲句では、散る花を惜しむかのように、神社の太鼓が連打されている。視覚と聴覚が調和して、命の儚さと美しい情景が、鮮やかに描かれている。

まつすぐにハイと手を上げ入学児 田口啓子

 入学児は、小さい体に緊張と不安と期待を漲らせながら、未知の社会生活に入る。付添いの親は、喜びや期待とともに、人並みにやってくれればと気もそぞろである。
 掲句は、新しい環境に適応しようと精一杯の緊張をしている子供の写生であるが、それを見守る親の愛情に満ちた温かい眼差しが感じられる。

鍋の底磨き厨に春惜しむ 鷹羽克子

 春は四季の中で最も楽しい季節とされるだけに、春が過ぎ去るのを惜しむ気持ちは、他の季節と比較にならないほど深いものがあり、目に触れる物すべてが感慨の種になる。
 掲句は、日常吟の中から見事に惜春を詠っている。上五から中七にかけては、小説風の様々な出来事が濃縮されており、イメージが無限に広がっていくのである。

竹落葉くるりくるりと廻り落つ 坪井幸子

 竹は、ほとんどの地域に自生しており、古くから人々の生活と深くかかわり合ってきた。竹は初夏に新葉が出ると古い葉が枯れ落ち、秋にはみずみずしい姿となる。
 掲句は、竹落葉の写生句である。竹の古い葉が、かすかな音を立てながら、落ちていく風情を臨場感豊かに鮮やかに描写している。

種案山子主の服を着せられて 田久和みどり

 種案山子は、苗代に蒔いた種を小鳥等に啄ばまれないように、立てられる春の案山子である。野菜や草花等の苗専門業者には、様々な鳥威しを使っている者もいる。
 掲句は、種案山子の写生句である。主の服を着て、主がそこにいるように思わせて小鳥等を追い払うのである。こっけい味があり、詩情も豊かである。

受診日の肩に掛けやる春ショール 萩原峯子
 春ショールは、春季用の女性のショールのことであり、冬物よりはファッショナブルで装飾的役割ももっている。防寒とともに春の喜びも感じられる季語である。
 掲句では、中七から、親しい人に、自分の大切なショールを掛けてやる情景が目に浮かぶ。作者の優しい人柄と受診結果に対する願いが込められている。

海の色湛へ勿忘草揺るる 石井玲子

 勿忘草は、英語名(forget-me-not)からの呼称である。恋人のために花を摘もうとして水死した悲恋詩によっている。茎の高さ三十センチ、可憐な藍色の小花を穂状につける。
 掲句では、季語から、美しい悲恋物語が連想させられる。それも、上五からきっと海にかかわる事象であろう。美しくも哀しい叙情詩である。
 
夫の墓三味線草は抜かずおく 海老原季誉

 三味線草は、薺の花ともぺんぺん草とも呼ばれている。路傍や田の畦等に見られる雑草の代表的なものである。白く小さい花は地味であるが、実の形が三味線の撥に似ている。
 掲句は、墓の草取りのときの写生句であろう。季語の呼称の用い方によって、詩情がいかに深まっていくのか、改めて考えさせられた。
 
畦焼きてやや不機嫌な父となり 安達みわ子

 畦焼は、枯草を除き、土中に潜んでいる害虫の卵や幼虫を退治し、更にその灰を肥料にするために行うものである。畦は縦横に交差しているものだけに、複雑な情景が見られる。
 掲句では、中七の措辞が秀逸である。短詩である俳句においては、省略的手法や象徴的手法を用いることがあるが、中七によって、内容豊かな詩となった。

春の虹片足かけし嫁が島 稲村貞子

 春の虹は、春になって現れる虹のことであり、単に虹といえば夏の季語である。春の驟雨がやんで、雲間から洩れる柔らかな光の中に浮かぶ虹は、淡くすぐに消えてしまう。
 掲句は、宍道湖に浮かぶ嫁が島にかかる春の虹を瞬時に写生されたものである。嫁が島には、悲運の若妻の伝説が語り継がれている。句材の構成によって美しい叙情詩となった。

梵鐘の余韻流るる青嵐 岩成真佐子

 青嵐は、青葉の茂る中を通って吹き抜けていく清爽でやや強い風のことである。清涼、爽快で、明るく激しい感じの語感がある。
 掲句は、緑豊かな名刹の情景を写生したものであろう。単なる情景描写でなく、宗教的心情の深さも詠みとれる。格調高い雅びた詩である。

母の日や子供時代の写真見せ 山口吉城子

 母の日は、母の愛に感謝し、敬愛の念を深める日で、五月の第二日曜日である。アメリカの一女性が母を偲ぶためカーネーションを人々に分けたのが始まりである。
 掲句は、母の日に子供時代の写真を見せながら、懐かしい昔話をしているのであろう。楽しそうな温かい家庭団欒の情景が彷彿として浮かんでくる。

寝返りを打つや蛙の鳴き止まず 秋穂幸恵

 蛙は、春になると冬眠から覚め、盛んに鳴きたてる。「古今集」の序文に『水に棲む蛙の声きけば生きとして生けるものいづれか歌を詠まざりける』とあるように、蛙の声に春を感じる伝統がある。
 掲句は、夜においての激しさの増す蛙の鳴き声に、眠れぬ春の夜の思いを託しているのであろう。味わい佳句である。

 
  筆者は松江市在住
           

白光秀句
白岩敏秀

岩魚釣隣の竿の上りけり 東條三都夫

 釣り人には季節を釣るという言葉があるそうだ。魚がよく餌を漁る季節、食べておいしい旬の季節に釣ることらしい。
 八月頃の岩魚は脂がのって美味。
 八月と言えば山は万緑の季節。その万緑のなかに隣の釣り竿がすっと上がる。「ああ、釣れたな」と思うが、その思いには羨望も焦燥もない。釣果に対する邪念がないのである。
 井伏鱒二の『釣魚記』に「釣竿を持つには、邪念があっていけない。自分は山川草木の一部分であれと念じなくてはいけない」と教えた垢石老の言葉がある。
 掲句の無欲で簡潔な表現には山川草木に化した枯淡な風格が感じられる。
  「北国の短かき夜を沙羅の花」
 北国の夏は短い。その短さを更に短くしているのが短夜。
 「短かき夜を」と「を」で小休止、そして「沙羅の花」と一気に言い止めて、ほのかな明るさの朝に沙羅の花を新鮮に印象づけた。対象を真っ直ぐ把握して力がある。

ハンカチの数だけ旅の日数かな 横田じゆんこ

 松島で行われた今年度の「白魚火全国大会」での作品。
 私などは一週間程度の旅行ならハンカチ一枚あれば十分であるが、女性ともなればそうもいかないのであろう。
 この句は旅行の出発準備の時でも、旅行中でも詠めると思うが、私は前者と解したい。着ていく服のあれこれ、服装にお似合いの靴、はては帽子の種類まで迷いながら選ぶ。そして、最後に旅の日数だけのハンカチを綺麗に畳んでカバンに納める。選ぶ迷いさえ楽しい旅の準備であろう。
 しかし、掲句はそんな背景をすべて消し去って、あくまでもシビア。焦点はあくまでも眼前のハンカチにある。
 女性らしい心配りを見せながも、凛とした表現に旅への覚悟が窺える。

国宝の庫裡に消火器青葉風 鈴木敬子

 この庫裡は松島の瑞巌寺の庫裡。庫裡も国宝である。
 今月は当然のことながら、仙台や松島で詠まれた句が多かった。皆さんが今年の大会で沢山の句をお詠みになったことだろう。
 庫裡に置かれた消火器。誰もが目にしながら忘れていった消火器である。
 対象の新旧、明暗、色合い等々論じる必要がないほど消火器に存在感がある。真っ直ぐに対象を見つめた写生の目の確かさである。
 青葉風にはみちのくの旺んな夏の活力が背景にあり、節度ある挨拶の季語といえよう。

坂道を猫背で登る残暑かな 大久保喜風

 一読して久保田万太郎の「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」を思い浮かべた。しかし、読み返してそれとは対極にある句と気付く。万太郎のうすあかりには我が命の行く末を感じさせる哀切の情が深い。
 掲句からは残暑に、坂道に喘ぎつつ登る猫背の老人の姿が浮ぶ。猫背の老人の後ろ姿から万太郎の「いのちのはてのうすあかり」と連想してしまったのである。しかし、耳を澄ましてこの句を読むと、喘ぎの中から確かな心音が聞こえてくる。「残暑かな」と気の張った響きのなかに、生きることへの明確な意志が読みとれる。
 作者の自画像と言っても、あながち間違いとは言えないであろう。

浴衣着てまだ後れ毛の濡れてをり 阿部芙美子

 洗髪の後とも風呂上がりとも取れるが、「浴衣着て」とあるから、風呂上がりとみたい。すると夜涼の風の吹く頃か。
 一日の家事が終わり風呂で暑さを流す。そしてさっぱりとした浴衣に着替える。主婦としは一番の開放感を味わう時であろう。こんな時は誰にも何物にも邪魔されたくないもの。
 夜涼に身をまかせながらも、後れ毛の濡れにふと気付く。女性の繊細さをいかんなく示して、感覚の若やいだ句である。

大汗に風分け合ひて農夫婦 峯野啓子

 句が爽やか。八月頃と言えば格別な農作業はないはず。畦の草刈りかも知れないが、いずれにしても大汗をかいての作業である。
 一段落ついた作業に夫婦揃って一息入れている景。「風分け合ひて」に夫婦の共同作業の喜びがある。夫婦の年齢は定年退職以後二、三年といったところか。
 うっすらと額に汗をかいている作者にも涼風がさっと吹き抜けていく。

影つれて水馬の午後はじまれり 佐藤玲子

 水馬は影を連れてこそ水馬。午前は日の差さない沼か川辺の風景であろう。日が当たって水がゆるんだ午後に影の生まれた水馬が元気に跳ねる。「影つれて」に午後の水面の明るさが存分に示されている。作者はいま無心に水馬を眺めている。


     その他の感銘句
橋渡るカンナの花を左折して  
原爆忌鳩一瞬の影となり  
園児等の高さに撓めさくらんぼ  
海の色濃くなり遊船折り返す  
梅雨明けの気配の風の軽くなる  
まだ雲に日の色残る合歓の花
字にならぬ短冊もあり星祭
畦の草刈りて青田に風通す
長き髪結ひ上げ祭の人となる
遡る高波尖る出水かな
二宮てつ郎
本田咲子
島津昌苑
野沢建代
田久保柊泉
松本光子
加茂川かつ
竹渕志宇
岩崎昌子
勝部好美

禁無断転載