最終更新日(Update)'06.10.31

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第614号)
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・しらをびのうた  栗林こうじ とびら
・季節の一句    大庭南子
去年かな(主宰近詠)仁尾正文  
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
星 揚子、影山香織 ほか    
14
白光秀句    白岩敏秀 40
・白魚火作品月評    水野征男  42
・現代俳句を読む    村上尚子 45
百花寸評    澤 弘深  47
・俳誌拝見(りんどう)   森山暢子  50
・平成十九年度 白魚火同人推薦   51
句会報   「りんどう句会(島根)」 52
・こみち(鰐淵寺)   三浦玉絵 51
 群馬白魚火風交会七夕納涼句会  金井秀穂 54
・ 俳句朝日八月号転載  55
・「俳壇」八月号転載   56
・今月読んだ本        中山雅史       58
・今月読んだ本       影山香織      59
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
      小林布佐子、山下勝康 ほか
60
白魚火秀句 仁尾正文 109
・窓・編集手帳・余滴       


鳥雲集
〔無鑑査同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

一畑薬師  安食彰彦

壁虎棲む吽形像に阿形像
新茶汲む絵の心経に魅せられて
笑ふ羅漢寝る羅漢様薄衣
石斛を咲かせ永代常夜燈
常夜燈のうしろへ斑猫消えにけり
紫陽花の雫奏づる目の薬師
空蝉や顔真黒の撫佛
藪蚊呼ぶ数珠を提げたる童子佛


 仮 眠  青木華都子

風死すやとろりと仮眠五分ほど
玉砂利の灼くる宮殿前広場
日除けせり朝鮮人参畑にも
葛の蔓放置自転車にも絡み
直角に曲る丁字路灸花
乱積みといふ石垣や蛇いちご
背もたれのなき長椅子やかき氷
書を曝す父の形見の小辞林


端 居  白岩敏秀

螢狩早目の飯となりにけり
冷奴いつときつよき宵の雨
夏萩や民家泊りの隠岐の旅
海入れて窓の大きな夏館
夜のプール星ぞくぞくと増えにけり
海女浮いて盛夏に顔をさらしけり
夏の夜や一幕のみの村芝居
漁り火の海へ端居の座を移す  
 
  
後鳥羽んさん  福村ミサ子

隠岐までの四十海里飛魚とべり
行在所跡を統べたるほととぎす
紙魚もなき後鳥羽んさんのお置文
陵の森に霧湧き赤しようびん
突堤に出ては島の子ダイビング
焼酎や心和める隠岐ことば




夜の秋 松田千世子

(はま)(ごう)の花の高さに水平線
海霧込めてきて蔓荊の濃紫
わたつみの神の花とし浜万年
いづこより念仏の鉦夜の秋
何もかも知らぬ振りして生身魂
手に取りて苧殻の軽さ余りにも




摩天崖 三島玉絵

岩つばめ海に崖なす魔天崖
合歓の花隠岐に残れる公家ことば
老鶯に老鶯応へ山深し
蓮の丈蓮の葉の丈雨しとど
蓮の葉のぐらりと零す雨白し
上皇の遠島百首晩夏光


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
    白岩敏秀選

   星 揚子

炎天や野球ボールの子規の句碑
組合の旗の林立雲の峰
日傘差しデモの最後に加はりぬ
あめんぼう雲から雲へ跳びにけり
話の間繋ぐラムネの玉鳴らす


   影山香織

蛍火のほろりと草をこぼれけり
乾杯のきらめく耳輪涼しかり
風涼しわたせる梁の燻べ艶
青山椒ひりりと魚煮あがりぬ
ファーブルを読む少年の夏休み


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

   士別  小林布佐子

税関の鉄の扉や蘇鉄咲く
横濱の川に灯のある夜涼かな
乗り降りの人影涼し屋形船
旅先の暖簾をくぐる冷奴
凭れてをりぬ星合の歩道橋


   浜松  山下勝康

甲斐まではこれより三里合歓の花
  七月新暦盆
月出でて大念仏の鉦の音
柴犬も目だけ動かす極暑かな
風鈴や月の出でたる天城山
煙突の煙直なる極暑かな
  


白魚火秀句
仁尾正文
当月英語ページへ


凭れてをりぬ星合の歩道橋 小林布佐子

 陰暦七月七日の夜、牽牛、織女の二星が一年に一度だけ天の川を渡って相逢うという伝説がある。それが「星合」。この夜作者は「星合」という言葉に魅かれうっとりとして空を仰いだ。
 句のしらべは、七・五・五というよりも七・十と云えるが「凭れてをりぬ」という七音のひびきが快よい。<春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎>は「槍投げて槍に」と「に」を入れて中句八音にしたために青年の弧愁が滲み出て秀品になった。頭掲句の「凭れてをりぬ」の「て」が登四郎作を思い出させた。いい感性を持った作者である。

風鈴や月の出でたる天城山 山下勝康

 石川さゆりの「天城越え」で一躍全国区になった天城山は、伊豆中央部にある標高一、四〇〇メートルの伊豆第一等の山。
 掲句は、眼前に風鈴がよい音色で鳴り、遠方に月明の天城山を置いただけの単純な構成の一句である。が、作者の胸中には前掲の「天城越え」の情念やこれに触発されて川端康成の『伊豆の踊子』の清純な主人公が去来して暫くの間ロマンチストになり切っていたのだ。

夏休み計画の字の右上がり 稗田秋美

 石塚友二の字は左下りで有名だったが、この句の主人公の字は右上がりで躍動している。かつて右肩上りの経済の時代国中が好景気で湧いたように。
 「右上がり」という具象は、夏休みの計画がばっちり出来上がり楽しく過せるだろうという希望に満ち溢れている。

一眠りごとに一と夢熱帯夜 清水静石

 <短夜のところどころを眠りけり 今井杏太郎>の短夜も一晩中二十五度以上の熱帯夜のような気がする。静石氏も杏太郎氏も寝室ではクーラーを使わない主義のようだ、暑い時は思い切り汗を出すのである。従って汗拭きに何回も目を覚ますが、すぐに寝入って一眠りする毎に別の夢見をするという。何時でも苦もなく眠れる作者の健康が羨ましい。

蛇過ぎる君子踵を返しけり 今村 務

 蛇が静かに過ぎている。こちらが静かにしていれば決して飛び付いてはこない。しかし決して気持のよいものではない。「君子は危うきに近寄らず」という格言もあることだし、ここは静かに逃げるに如くはなしだ。かくて「君子踵を返しけり」と重々しく敍して勿体をつけて逃げる口実とした。中々面白い。

朝顔の蔓の躾を正しをり 鈴木 匠

 子供の躾が良いだ悪いだという「躾」は、元々は着物の縫い目を正しく整えるために仮にざっと縫うたもの。新調の着物の躾を取るというのは、その糸を抜き取ることである。
 掲句。朝顔の蔓が、ともすると隣の支柱の方へ寄って行きたがるのを縛り直したというもの。この句も重々しく詠んで諧謔味を出している。

缶ビール二十五階の夜のしじま 計田美保

 一度訪れた、この作者の住む酒都西条町に二十五階ものホテルやマンションは見なかったよう思うので、掲句は旅行か出張で行った都心のホテルでの作であろう。あるいは全くの創作であっても一向差支えない。
 深夜の浴後、二十五階の一室で缶ビールに口をつけている。一人だけの高階の一室は静まり返っている。激務を終えた後の一くつろぎのような気もするが、声調からは、旅愁が色濃く出ている。

夏杉やろくろつ首てふ長き坂 鎗田さやか

 鬱蒼とした夏杉が木下闇をなしている坂。その坂の名が何と「ろくろつ首」というのである。何処にあるどんな坂か知らぬが刑場跡あるいはお化屋敷といわれた所だろうか。真昼間でも一人で通るのは怖いような地名だ。誰も知らなくても立派に通用する固有名詞である。
 
生き残りし友と茶漬や原爆忌 高橋静女

 この生き残りの友が、ヒロシマの惨禍に遭った友なのか、大病を克服して社会へ生還を果した友なのかは詳らかでない。しかし、原爆忌という重い季語を据えているので、いま此の世に在るのが奇蹟のような体験の持主だろうと思う。そして何ともうれしいのは「友と茶漬や」だ。今の健康を気取らず喜び合っている「茶漬け」。「茶漬け」に乾杯。

黒髪を背に流して巫女涼し 篠原庄治

 黒髪は女の生命、恋の象徴として和歌の世界では詠み継がれてきた。艶やかで美しい黒髪を背に垂らした妙齢の巫女は涼しさの極み。

    その他触れたかった佳句     
羅漢坂よぎりて蟹の高歩き
新涼やきれいな音の時計鳴る
なかなかに冷めぬアイロン原爆忌
宿下駄をはみ出してゐる素足かな
万人の目鼻なき顔花火見る
介護終へ深呼吸する星月夜
黄金虫死に真似上手死にてをり
炎暑来て使用禁止のエレベーター
夏風邪の治りて怠け癖残る
鎌の先触れ蟻の巣の噴火かな    
影山香織
秋穂幸恵
木村竹雨
横手一江
五十嵐藤重
山下恭子
佐山佳子
川上けいし
萩原峯子
横川恭子 


百花寸評
     
(平成十八年七月号より)   
澤 弘深

老いてまだ子に従へず枝を打つ 岡崎健風

 檜や杉の下枝を切り落としたり、梢の枝打ちをすることにより、下から上まで同じような太さにし、節のない優良材を作る。この枝打ちには、熟練の技と豊かな経験が必要である。
 掲句からは、子の止めるのも聞かずに、胴に巻いた綱を巧みに操り、大木の上へ上へと鉈で枝を切り落としていく様子が浮かんでくる。熟練者の意地と誇りは若い者に負けない。

乗つ込みの水音高く跳ねにけり 加茂川かつ

 鮒は、寒中から抱卵を始め、春の産卵期になると川の上流へ支流へ細流へと非常な勢いで乗り込んでくる。この鮒は、腹一杯に抱卵しているので食べてもうまい。
 掲句の中七から下五の措辞により、情景が臨場感を持って描写されているだけでなく、作者の心の昂ぶりを読む者にも直に伝えてくれる。

囀の鳴き下手もゐる試歩の径 栗田幸雄
 囀は、雌雄相求める愛の歌とも、自分の縄張りを宣言する歌とも、春を喜ぶ歌とも云う。いずれにしてもその歌を聞くとどんな頑なな心も解れてくる。囀には、個々の鳥の特徴以外に、『鳴き下手もゐる』と指摘されてみると納得できる。
 掲句では、囀と『試歩の径』の取り合わせが良い。美しい囀と苦しい試歩とは異なるようで、ともに明るい未来が感じられる。

入院の日数指折り春惜しむ 黒崎すみれ

 四季の中で春は最も楽しい季節だけに、春が過ぎ去るのを惜しむ気持ちには一入のものがある。目に見えるもの手に触れるもの万物が感慨の種になる。特に、入院を間近に控えていると、何につけても愛惜の情が抑えきれなくなる。
 掲句の中七の措辞は、入院を間近に控えての心情を的確に叙している。

近寄ればぼうたん崩れかかるかも 重岡 愛

 牡丹は、豊麗でいかにも百花の王という感じがする。しかし、豪華な花だけに散り際の姿は美しく儚い。牡丹は、蕾から散り際まで趣が深く、多くの人々に愛されている。
 作者の牡丹に対する愛情は深く、愛しみ育ててきた牡丹を命の限り大切にしようとしているのである。美しく儚い生命への愛惜の情を詠う抒情詩である。

塩辛き船のしぶきや春疾風 吉田容子

 春、前線を伴った低気圧が日本海を通過するとき、激しい風や雨をもたらし、海難事故の原因ともなることがある。特に激しいときには春嵐、若干弱いときには春疾風という。
 掲句の上五から中七にかけての措辞は、現場ならではの迫力と臨場感溢れるものである。海上でのスケールの大きさ、荒波を乗り越えていく力強さがひしひしと感じられる。

日脚伸ぶ縁に持ち出すお針箱 竹渕志宇

 冬至を過ぎると、少しずつ日が伸びていくが、実感として日脚が伸びたと思うのは冬も終りのころであり、季語には、寒気の緩んでくる喜びと春を待つ気持ちが含まれている。
 掲句には、日常生活のほのぼのとした温かさを感じさせてくれる。このような詩は、冷暖房の部屋でミシンを使う生活だけでは生まれなかったのかもしれない。

転勤の子と酌み交す春の宵 松島江治

 中国北宗の蘇軾(号は東坡、1036~1101)の詩句に『春宵一刻値千金 花有清香月有陰』とあるように、春宵(春の宵)は何物にも替え難い楽しい時とされている。
 『転勤の子』は、きっと栄転であろう。栄転を祝しての酒は何よりおいしい。至福の詩、季語が良く効いている。

声高の長寿仲間や花筵 三輪晴代

 花筵は、花見に用いる敷物と、花が散り敷いたのを筵というのと、そして花見の席をいう場合の三つの用法がある。
 掲句の花筵は、最初の用法の敷物と解釈させていただいた。中七の『長寿仲間や』とあるからには、高齢で元気な方ばかりの集いであろう。耳が遠くなったので、話言葉が声高になってしまう。楽しそうな雰囲気が生き生きと伝わってくる。

茶を汲みて待つ老鶯の次の声 岩成眞佐子

 老鶯は、夏鶯ともいい、季語とされている春を過ぎてから鳴く鶯を指している。春には里近くで鳴いていた鶯は、繁殖期を迎えると巣作りのため山深くで鳴くようになる。
 掲句からは、恵まれた自然環境の中にあって、茶を汲みながら老鶯を待つ心のゆとりと深い詩境が感じられる。
 
鈍行の汽車を選びて余花の旅 広岡博子

 余花は、初夏になってもなお咲き残っている桜の花のこと。春の盛りの桜と違って、どこかあわれであるが、春の残花と異なり、初夏の透明な大気の中で鮮やかな趣がある。
 掲句は、鈍行の汽車ならではの発見である。余裕を持った旅においてだからこそ、良い詩が生まれたのであろう。

川掃除ざくりと芹を鎌で刈る 井上春苑

 芹は、春の七草の第一に数えられる。栄養価が高く香気があるので、鍋物などに重用され、早春の料理に欠かせない食材として栽培されている。
 それだけに、川掃除とはいえ、他の雑草と区別せず芹を刈り取られるのが無念でならない。中七から下五にかけての措辞が秀逸である。

若草や新任教師ほほ染めて 服部正子

 若草は、早春に萌えでる草。春の草に比べて、若々しい柔らかさが強調され、やさしい色合いや、瑞々しさがある。
 若草といえば、「万葉集」や「古今集」等で、初々しい女性の面影が浮ぶときに用いられている。
 掲句の新任教師も、若い女性のような気がする。抒情性溢れる写実である。

筍の不思議交互に皮を着し 名原功子

 竹の地下茎から生ずる若芽が筍で、筍を食べるには、重層に被われている皮を剥ぐことから始めなければならない。
 掲句は、筍を被っている皮に着目し、自然の不思議さ、自然の奥の深さを発見したのである。 自然界には、人知を超えた摂理が存在することを改めて考えさせられた。

長閑かさや留学生の箸づかひ 吉田美鈴

 春の日は、悠揚迫らずのんびりしている。長閑かさは、心が伸びやかで、ゆったりした状態を指している。
 掲句では、『留学生の箸づかひ』の写生で、季語を的確に斡旋している。
 日本人は、勤勉ではあるが、ゆとりがなくせっかちだといわれている。国際化にふさわしい作品だ。

踏青や五足の靴の跡残し 岡部 勲

 踏青については、明末清初時代の銭謙益(字は受之、号は牧斎、1582~1664)の詩句に、『踏青無限傷心事 併入南朝落炤中』とある。爾来、詩歌では、踏青を、自然と人間との微妙な繋がりが感じられるときに用いられている。
 掲句からは、豊かな自然環境の中で元気に遊び廻っている子供達の姿が、中七の措辞とも併せ彷彿として浮んでくる。

 

  筆者は松江市在住
           

白光秀句
白岩敏秀

あめんぼう雲から雲へ跳びにけり 星 揚子

 明るくて、軽快な句である。夏の水辺はあめんぼうの世界。流されては上流へ帰り、横飛び、縦列飛びと水輪を重ねながら自在に動く。見ていて楽しい光景である。
 あめんぼうが雲に乗るだけなら、特筆すべきことではないが、「雲から雲へ」「跳びにけり」と動きをリズミカルに表現したことに注目した。言葉で説明できないことをリズムで表すことも俳句表現のひとつであろう。

ファーブルを読む少年の夏休み 影山香織

 ファーブルは十九世紀のフランスの昆虫学者。少年の読んでいるのは彼の著書である『昆虫記』である。
 夏休みは家庭や学校から解放される期間であるから、山や海の戸外で活動すべきであろうに、この少年は『昆虫記』をひたすら読み耽っている。その姿は明るく健康的である。
 この少年は作者にとって、目を細めたいほどの存在なのであろう。感情を抑えた淡々とした表現に包み込むような、深い愛情が読みとれる。人間関係がとやかく言われるこの頃、大事にしたい一句である。

風入れの墨跡に朱の加筆あり 西田 稔

 添削でないことに注目したい。添削であれば文書は書き直されたであろうが、加筆であったが故に元の文字が残ったのである。
 この句、文章の内容を云々する前に、黒々と墨で書かれた文字と行間を埋めた朱の加筆そして和紙の白い余白がありありと見えてくる。事前に何の説明もなく、現物をいきなり眼前に示された感がある。
 例えばこの句、「風入れの墨跡にある朱の加筆」と比較してどうだろう。句意は同じであるが、「……にある」はいかにも冗漫である。
 掲句の直截な表現が加筆された朱を鮮やかに浮かびあがらせたのである。

湯上りの素足の鳴らす宿の下駄 水出もとめ

 家族や友人と旅に出て、ゆっくりと温泉に浸かったあと、宿下駄を鳴らしながら湯の街を散策する。誰もが経験する楽しい一時である。
 日常生活を離れて、旅行などの非日常の世界に身を置くと、現実が現実以上の姿で現れてくることがある。
 普段は特に気にもしなかった下駄の音が、湯の町にきて大きくクローズアップされたのである。それが「素足の鳴らす」という若々しい言葉で表現された。作者のたかぶりの感じられる一句である。

今鹿が通つたらしき登山道 今泉早知

 近頃は中高齢者の趣味による登山が流行りだと聞く。気の知れた仲間と同じ山の頂上を極めることは楽しいことに違いない。
 作者の登山が趣味の範囲なのか本格的なものかは知らないが、登山を楽しんでいることは一連の作品から分かる。
 この句、散文で書けば、鹿の通った痕跡の説明から始まって、同行者や作者の驚きとささやきそして痕跡の確認と随分と紙数が必要であろう。それを十七音に納め得たのは「今」という言葉である。今、ここに……この言葉が臨場感を生んだ。
 臨場感が句に健康な明るさを与え、登ることの苦しさを忘れさせてくれたのである。

黒揚羽紙飛行機は水平に 篠崎吾都美

 紙飛行機を遠くへ飛ばすのはなかなか難しい。前が重いとすぐ墜落し、後ろが重いと尻餅をつく。紙飛行機が上手に飛ぶ為には偶然が大きく作用すると不器用な私は思う。
 西東三鬼に「右の眼に大河左の目に騎兵」の句がある。軍国主義下の条理の分裂したような不安を覚える句であるが、掲句は黒揚羽と紙飛行機を同一空間に捉えて大らかである。
 水平に飛ぶ紙飛行機と悠揚とした黒揚羽の安定感が読者に安堵を与えるからであろう。
 
炊飯器点けて八月十五日 中山雅史

 炊飯器を点ける今と昭和二十年八月十五日には年代的には遠くても、抱えている問題は今日的である。「戦争と平和」「豊饒と貧困」「便利と不便」「戦争経験者と未経験者」等々。
 この句はどのテーマを採り上げても正解である反面、どれを採り上げても焦点がずれるであろう。ただ、戦争のない今の日本を思うだけである。



     その他の感銘句
冷蔵庫ぶるんぶるんと夜となりぬ
露涼し墓石に映す裏榛名
祭には祭の匂ひありにけり
吾は鬼子路線の脇に百合咲いて
わだつみへ征きしは合歓の花の頃
江戸文字で掘る鑿先の文字涼し
開拓の夜空を焦がし菜殻燃ゆ
村中の風を呼び込み稲の花
牛出荷街は祭りの神輿練る
夏まけの顔の頬杖してをりぬ
松下葉子
鈴木百合子
稲村貞子
檜垣扁理
吉岡房代
荒川政子
西田 稔
大石美枝子
国谷ミツエ
坪井幸子



群馬白魚火風交会
 七夕納涼句会
 群馬 金井秀穂

 風交会の定例会は、毎月第一日曜日の夜と決められている。その日八月六日、梅雨明けの遅れを一気に取り戻すかのように連日のうだるような猛暑の中七夕納涼句会が開かれた。
 会場はようやく穂孕期に入った青田に囲まれた当地の集落センター。初夏の頃だと蛙の大合唱でうるさいほどなのに、さすがに今ではその声もまばら。網戸の隙間からやたらと小さな虫が飛び込む。エアコンの設備があるわけではなく三台の扇風機がフルに首を振っている畳の部屋。
 当日は定刻前から萠尖会長の肝入りで七夕竹が担ぎ込まれ、手際よく正面床の間に斜めに立てられる。七夕様にあやかってか、一年振り位に姿を見せる人も居ていつにない盛会だ。みんな思い思い童心に返って色紙に夢やら願いやらを書き込む。
 中には「ぽっくり」なんて書く人も居て、それはそれで切なる願いなんだな、と一同納得させられる場面もあった。
 それにしても七夕竹は軒先かベランダに飾るものと思っていたが、座敷の中しかも床の間に飾られるのを見るのは勿論初めて、でもそれが又この納涼句座にやさしい彩を添えてくれたことも確かだった。
 その七夕飾りをバックに記念撮影。そしていよいよ句会が始まる。当日は七夕の句一句が兼題になっていたのでそのつもりで参加する。当地ではかつてこうした七夕行事は盛んに行われていたが、今ではすっかり廃れてしまって余り見かける機会もないだけに、この兼題少しとまどったかも知れない。でも子供の頃、そして子供たちと一緒に取り組んだかつての七夕祭になつかしい思いにかられたのは私だけではなかったかと思う。
 句会終了後萠尖会長の講評もそこそこに、最高得点者匠さんの乾盃の発声のもと納涼の宴に移る。何しろ一年ぶりに再会する句友も居て話が弾む。来年の全国大会はそれこそ七夕を期して松島で開かれるとか、それも今から楽しみだが、その前に来月には日光で栃木勢との交流句会が待っているとのこと。それやこれや話題は盡きないが時間の過ぎるのはまことに速い。明日以降のこともあるので余韻を残しての閉会、午後十一時だった。

遠花火続いて上る山の町
刻を待つ竿が並びて鮎解禁
車より七夕竹を担ぎ出す
夏の月真赤な顔をのぞかせる
梅雨明けの榛名湖畔に人だかり
山の湯に老人大学夏期講座
空蝉の長雨の泥つけしまま
夕涼み窓全開の百姓家
七夕竹納涼の句座彩れり
盛衰を秘して故里霧の中
黒髪を背に流して巫女凉し
天明の馬頭観音草いきれ
朝顔や大輪咲かす四つ目垣
朝顔の蔓の躾を正しけり
切先の自由気ままに夏の葱
夏雲の榛名の峰に崩れけり
ぽっくりと七夕竹に書き吊し
齢にもそれなりの夢星まつり
大鳥居くぐれば涼風身をつつむ
星が星呼ぶまたたきや星まつり
湖の空水平に夏の鳶
落暉いまサルビア畑を染めにけり
逢瀬と云ふ言葉切なき星祭
夏休親には休みなかりけり
山口吉城子
田村鏡月
田村萠尖
柳田柳水
藤原酔生
本多笑月
青木正広
宮崎鳳仙花
金井秀穂
竹渕秋生
篠原庄治
町田 宏
町田一花
鈴木 匠
天野和幸
星野きよ
黒崎すみれ
竹渕きん
坂本清美
奥木温子
関口都亦絵
宮崎萌子
篠崎吾都美
仙田美名代


禁無断転載