最終更新日(Update)'07.0606.

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第617号)
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・しらをびのうた  栗林こうじ とびら
・季節の一句    金田野歩女
父の忌主宰近詠仁尾正文  
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
坂下昇子、村上尚子 ほか    
16
白光秀句  白岩敏秀 43
・白魚火作品月評    水野征男 45
・現代俳句を読む    村上尚子  48
百花寸評    田村萠尖 50
・俳誌拝見 (斧)      森山暢子 53
・こみち (野幌原始林)   西田美木子 54
 句会報「旭川白魚火会」 55
・実桜総会旅行記  三浦和子 56
・「俳壇」一月号転載 58
・今月読んだ本       中山雅史       61
今月読んだ本      影山香織      62
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
     大塚澄江、前田清方 ほか
63
白魚火秀句 仁尾正文 111
・窓・編集手帳・余滴       

鳥雲集
〔無鑑査同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

   柿  安食彰彦

遂道を出づればカーブ雁の空
秋日溜む手抜をせずに塩焚けり
山粧ふ廃校跡の塩焚場
漆喰壁の鶴の鏝絵や木守柿
柿熟るる昔遊廓格子窓
大振りの栄螺の尻尾艶もてり
坪畑の野壷にからむ零余子蔓
民宿へ秋の時雨を道連れに


 走りそば 青木華都子

刈田中鴉うなづきつつ歩む
籾殻を焼いて一村煙攻め
門前は通行止めや菊花展
磐梯は宝の山や鳥渡る
ひとの丈ほどの麺棒走りそば
茸狩や全く知らぬ道に出て
秋惜しみつつ書き損じたる便り
引つ越しの荷にひと株の石蕗の花


 木 の 実 白岩敏秀

秋耕の土すこやかに裏返る
秋うらら指鉄砲に撃たれけり
本を抜く書棚の隙間秋しぐれ
空き部屋のあるかと胡桃割つてみる
親離れ子ばなれ木の実降りにけり
川に沿ふ道にはじまる草紅葉
画布に塗る秋七色の伯耆富士
晩秋の色に砂丘の暮れにけり


 海  鵜  坂本タカ女

岳の名と同じ川の名鮭還る
海見えてきし目を戻す刈田かな
海眩し鮭に刺網定置網
網逸れし鮭影武者のごと遡る
漁終へし鮭網海に濯ぎをり
ほまち鮭選別台の下に置く
鰓呼吸して捕はれの鯔の跳ぬ
すれすれに秋の潮目を海鵜飛ぶ


 勤労感謝  澤田早苗

教へ子へ返信勤労感謝の日
うち中の靴を磨けり勤労感謝の日
徒食の掌みつめ勤労感謝の日
大恵那の日ざしに映ゆる冬紅葉
老人検診見せ合ひながらの日向ぼこ
着ることもなきお下りの秋袷せ
塩味に程よくしまる衣被
今年また三日坊主の日記買ふ


 小鳥来る  鈴木三都夫

膨らみて鞘を拂ひし芒かな
その中の白は仏心彼岸花
燃え尽きて蕊さらばへる曼珠沙華
色ごとに名乗を挙げし花野かな
鱗雲串刺しにして飛行雲
天辺に位を張る鵙の高音かな
一山に山門いくつ小鳥来る
茶の花のあまりに咲くは疎ましく
    
山 紅 葉   栗林こうじ

地下濠の口鎮魂の花木槿
漁りを眺めつ足湯秋うらら
無言館出でて無言や山紅葉
菊展の用意をさをさ旧城下
隣家の身に沁む話となりより
重ね着し子等の下校を見守りぬ


 鮭 颪  佐藤光汀

鮭颪ことさら河口さざめきぬ
簗前に鮭放精の濁りかな
ほつちやれの眼抜かんと海猫鴉
出面婦の斑入りの鮭を手土産に
蕎麦刈られ雲の百態流れけり
十勝嶺に十日の月の煌とあり


  懐 手    鶴見一石子
新米の威力を量る台秤
小春日を残し汐引く九十九里
騎馬戦のやうに折れゐる枯はちす
晩年は迷ひの多き懐手
新巻の口あけられて化粧塩
力みたる彩ではなけれ帰り花


 秋 暁  三浦香都子

秋暁や出て行く舟と帰る舟
絵葉書の中の湖さんご草
海見ゆるところの遺跡小鳥来る
さらさらと風ゆらゆらと珊瑚草
声あげて来し秋の蚊に刺されけり
オホーツクの大波小波鮭のぼる


 残 る 虫  渡邉春枝

番犬のまどろみ深き秋旱
束で買ふ作業手袋草もみぢ
静御前の墓や桜のもみづれる
海桐の実はじけ震災記念館
拭き減りの格子戸の艶秋ざくら
酒蔵のすみに消火器残る虫


  野 仏  小浜史都女

擦る手の熱くなりしかいぼむしり
小鳥来と窓閉ざしたる調律師
窯閉ぢし後の歳月昼ちちろ
釉薬の残りし甕にある秋思
一つより二つが淋し返り花
返り花野仏ふつと息したる


  岬    小林梨花

すつぽりと岬を包む秋の空
秋天へ柏手の音吸はれけり
床に映ゆ巫女の緋袴秋澄めり
道すがら摘みし野菊をもて見舞ふ
蔓竜胆もつれ銅剣出土跡
音絶ちて海面きらめく十三夜


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
    白岩敏秀選

   坂下昇子

尾の付いて鯨となりぬ秋の雲
からつぽの田んぼの空を鳥渡る
ゐのこづち黙つて付いて来たりけり
烏瓜夕日の色となりにけり
よく回りさうな木の実を拾ひけり


   村上尚子

母と児のしやがみて話す鳳仙花
瓢箪に触れてゆくなり肩車
庭の日を追つてからから胡麻乾く
色鳥や我が専用の小引出し
窓越しで足りる用件種瓢      


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

  牧之原  大塚澄江

正体のわからずじまひ鵙の贄
嫌ひでも好きでもなくて零余子飯
百幹に百の風生れ竹の春
目を閉ぢて篠笛を聞く十三夜
通草熟るどれも届かぬ高さもて


   松 戸  前田清方

干し終へて百のすだれに千の柿   
不器量も佳し晩秋のラ・フランス
来信の切手切り取る文化の日
好めるは織部焼なり柿落葉
酉の市人に押されて人を押す   


白魚火秀句
仁尾正文
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 謹賀新年。会員各位にはお健やかに新しい年を迎えられたことと存じます。今年も大いに健吟しましょう。会員各位より沢山の年賀状を戴きましたが、この欄をもって賀状と致しますのでおゆるしいただきたく。

百幹に百の風生れ竹の春 大塚澄江

 竹は旧暦八月頃が最も勢がよく緑あざやかに繁茂して美しい。「竹伐る」もこの頃の材質が一番よいからだ。
 掲句は、歯切れがよく一句自体が弾んでいる。百幹というから孟宗竹の籔であろう。高さ五メートルにも及ぶ竹が幹を揃えてゆるやかに風に揺れている様である。「百幹に百の風生れ」が切れ味のよい描写。一句の声調が竹のみどりを際やかにしている。同掲の
正体のわからずじまひ鵙の贅 澄 江
も面白い。作者自身得体の分らぬものは読者に分る筈がない。あるいは二年も前の鵙の贅かもしれぬ、「わからずじまひ」が俳句的だ。

酉の市人に押されて人を押す 前田清方

 酉の市は昔は旧暦十一月の酉の日に各地の大鳥神社で行われた祭礼。茶店や料理屋、芝居の役者など客商売に係る者が縁起をかついで多く参詣した。今は新暦で行われ、昨年の一の酉は十一月四日、二の酉は十六日で三の酉まであった。開運、商売繁昌の信仰は昔ながら篤く、各地で数十万の人出がある。参道には熊手市が立ちその外縁起物が数多く売られて賑わう。
 掲句は、酉の市の賑わいの具象。参道に溢れた人込みを歩く人々自分で歩いているという自覚はない。人に押されて流され、その流れが無意識に人を押している。まさに、神の意のままに動いて福を授かろうとしている。

ホバリングして鶺鴒の餌を狙ふ 澤 弘深

 ホバリングとは、ヘリコプターが空中で停止した状態にあることをいう。勿論エンジンは全開し羽根はフル回転している。鶺鴒は水中の魚を狙うのに十メートル程の上空で羽根を動かしつつ静止しているのをホバリングと表現したのは仲々うまい。状景がよく見えて一読で読者に分る比喩である。

径すがら献立決まる新生姜 古藤弘枝

 この作者の菜園づくりも堂に入ってきたことは毎月の作品から分る。今年の生姜作りも満足できるものであった。新生姜を箱に入れて軽トラを運転しつつ料理を考え、順序を考え今夜の献立が決まったのである。料理の取り合せに必要なものは途中スーパーへ寄って買い揃えたのかもしれない。主婦の菜園作りは収穫の満足の外に調理の楽しみもある。平穏に暮す幸せが読者を羨ませた。

颱風に上陸といふ進路あり 大滝久江

 「台風十二号は潮岬の南々西四百五十キロにあって毎時十五キロで北々西に進んでいます。」というような気象情報では台風はまだまだ遠くて私どもには無関係のように思う。「台風は急に進路を北々東に変えて明後日朝には紀伊半島のどこかに上陸する恐れが出てきました。」と具体的な上陸地と日時が示されると俄かに緊張を強いられる。確かに台風には上陸という最も嫌いな進路があるのだ。

落鮎の竹簀の間にあぎとへる 柴山要作

 「あぎとへる」は「顎とへる」で顎を動詞化したもの。魚が口をぱくぱく開閉している様である。下り簗に引っかかった落鮎が水のない竹簀の間で「あぎとう」のは人間に例えると水中に首を押え込まれた程の苦しさであろう。何れ串で焼かれるのであろうが、生殺しは殺生の中では、むごいものである。

秋雨が一気に天を落しけり 佐藤 朗

 秋雨にも色々ある。秋しぐれは降ったり止んだり、東の空は降っているが西空には青空が見えたり。秋黴雨は長雨で、じとじとと梅雨のようである。これらに対して掲句は秋驟雨である。天の水甕が壊れたように一挙に大量の雨を落すのである。「一気に天を落しけり」には誇張があるがそれが秋驟雨の本意をより伝えてきた。秀句である。

破芭蕉見事な弊衣破帽かな 大沼孤山

 戦中まで旧制の高等学校には蛮からな気風があり、ぼろの衣服に破れた帽子が流行した。現在の若者の脛の破れたジーパンも、日ハムの新庄選手の派手なリストバンドも根は一つ。いつの時代にも若者は、目立ちたがりたいのだ。芭蕉の葉の見事な破れようを見て作者は弊衣破帽の青春時代を思い出したのである。

ふるさとはメキシコだつて秋桜 久保美代子

 「コスモスの原産地はメキシコなんだって」という会話をそのまま一句にしたもの。口語俳句であるが、すかっとしていて印象に鮮やかであった。

その他触れたかった秀句        
菊花展片隅にある菊師の座
窯出しの壺の息づく良夜かな
細糸の和綴ぢきりりと秋澄めり
穭田の中に埋め墓拝み墓
まだ奥に人の声する栗拾ひ
冬ぬくし執刀教授の握手受く
ノクターン弾ける少女や秋薔薇
大蛇の尾干しあり神楽の舞台裏
病む秋は思ひ出ばかり追うてゐる
高岡良子
荒井孝子
吉村道子
田久保みどり
安納久子
瀬谷遅牛
山崎建郎
原 みさ
土江ひろ子

        
百花寸評
(平成十八年十月号より
青木華都子

水遊び餓鬼大将が二人居て 知久比呂子

 小・中・高校生、いずれも学校から帰ると塾通い、自分の囲りの友達と肩を並べての勉強、遊ぶどころか、塾通いは当り前、勉強は学校で、躾は家庭でなどは、すでに過去のことになってしまっているのです。掲句「餓鬼大将」に何となく救われた気分です。「水遊び」遊べるゆとりが子供達を育てるのです。
 良いにつけ悪いにつけて、餓鬼大将は、理屈っぽくて、青白い秀才よりも、人を引きつける魅力があるのです。この二人の餓鬼大将はあこがれの的なのです。餓鬼大将に目を止めた作者にも拍手。

何事も気乗りせぬ日の冷奴 山田春子

 朝からの暑さに、うんざり、朝食を終って後片付けもほどほどに、ひと休みをして、掃除、洗濯、主婦には目に見えない家庭の中の仕事が有るのです。しかしちょっとリズムが狂うと、「さて」と気合を入れて腰を上げても掛け声だけで気が乗らない時もあるのです。このように気が乗らない日は、無理をせずにあきらめて、ゆったりとした気分にひたって気分転換も必要、やる気を起こすための大切な時間なのです。「冷奴」とまるで突き放したような季語が効いている一句。

これしきに負けてはならぬ暑さかな 古田キヌエ

 「これしきに」とすでに上五で、気合が入っています。ちょっと動いただけでも流れる汗かと言ってじっとしていても暑く、エアコンの効いた部屋の中で、ごろごろして居るよりも、身軽に動いて思い切りいい汗を流して、「これしきに」と暑さと向き合っている作者の気迫は周囲の人達をも元気づけるのです。そして作句意欲にも自ずと「これしきに」と努力の作者なのです。気持ちのいい一句。

帰省子の良きことばかり告げてをり 牛尾澄女

 夏休みで帰省したのでしょう。家を離れて一人で生活をしていると必ずしも楽しい事ばかりではありません。良い事も、いやな事も自分の中で噛み分けて、周囲の人達に教えられて、また人に教える事もあるのです。帰省をして両親の顔を見て、「お帰り」のその一言で、少々の悩みなどは吹き飛んでしまうのです。良いことばかりを手振り身振りで話して家族の皆を喜ばせるのです。しかし親はわが子の心をすっかり読んでいるのです。
 「喜ばせるうそ」それをにこにこしながらうなずいている作者、親もとを離れると、こうも大人になるのだろうかと、頼もしいやらちょっと寂しいやら、成長したわが子の姿に複雑な気持を押えながら見守るのも親の役目なのです。あたたかい、ほほえましい一句。

うんもすんも言はぬ夫なり冷奴 舛岡美恵子

 「冷奴」でも様々な味があるのです。
 お互いに健康で過分足のない生活の中で、信頼しているからこそ、平易な句が出来るのです。何を言わなくても解り合っているご夫婦の姿は、はた目にも、うらやましいほど仲の良いご夫婦なのです。ご主人にとって冷奴の喉越しは最高なのです。

一仕事終へたる後の蝉時雨 篠原庄治

 朝の涼しいうちに一仕事を済ませて、気分は爽快。「終へたる」は満足感と少し大げさに言えば達成感でもあるのです。一仕事のあとは暑くても熱いお茶が何故かおいしいのです。ふと気付いた蝉時雨は作者にとって癒しのリズムに聞えたのかも知れません。

一撃の見事に外す西瓜割り 安達みわ子

 少し右、一歩前、目隠しをした作者は周囲の言われるままに、棒を振り上げて思い切り叩きつけたのは“地面”。目隠しを外して見ると西瓜は、もとの位置そのまま、外しても見事、拍手と笑い声に筆者にも思い当たる西瓜割りのひとこま。楽しい一句。

水を打つ風起しては次を打つ 天野和幸

 打ち水をして一瞬の涼しさが嬉しいですね。水が、かすかな風を起してくれるのです。
 「次を打つ」と気負わず、力まずの座五で、なめらかに、爽やかな佳句。

スリッパもて逃ぐるゴキブリ一撃す 村田相子

 スリッパを振り上げて構えている作者の姿は、迫力がありますね。息を整えて、ゴキブリの逃げる先を読んで一発でしとめた一撃は見事、丸めた新聞ではとてもこうはいきません。スリッパで正解、さぞすかっとしたことでしょう。

浴衣着て子供等の履くスニーカー 塚本三保子

 子供等、浴衣着の何人かの子供達、その誰もがスニーカー、ちぐはぐな今風の子供達には下駄が履けないのです。鼻緒のある下駄では、歩けない、でも浴衣は着たいし、親も着せたい、年配者には考えられないスタイルですが、現状なのです。

朝顔の蕾の中の明日の色 竹田環枝

 「明日の色」座五、きれいにまとめましたね。紫に薄紫に咲いている朝顔には足を止めますが、ふっくらと少しふくらんだ蕾に気付くのは、俳句をたしなむ作者であるからこそです。こまやかで、さらりとした佳句。

午後四時を廻り涼風立ちにけり 荻原富江

 午後四時の涼風は、真夏ではなく、初秋の風なのです。しかし未だ未だ続く残暑の頃であり、夏の疲れが出る頃でもあるのです。ほっとする涼風でありながら、気の抜けない涼風でもあるのです。

   筆者は宇都宮市在住        

触れ得なかったその他の句
水打ちしところより風変りけり
天気図の台風の目に睨まるる
歩きても立ち止まりても極暑かな
背を向けて話聞きゐる篭枕
坂道はだらだら登り母子草
水島光江
脇山石菖
矢野智恵子
名波綾子
黒子ツタ子


白光秀句
白岩敏秀

尾の付いて鯨となりぬ秋の雲 坂下昇子

 澄み切った青空に浮かぶ秋の雲。ゆっくりと流れながら、動物の形や人の顔などに変化してゆく。一茶に「夕暮れや鬼の出さう秋の雲」という、おどろおどろしい句があるが、掲句はそんな怖い句とは無縁である。あくまでも明るく、楽しい。
 流れて来た小さな雲が大きな雲に寄り添った瞬間を「尾の付いて」と捉えたところが軽妙。雲の合作が空に鯨を浮かばせたのである。
 私は掲句を読みながら三好達治の「蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットのやうだ」の詩を、ふと思い出した。
 「からつぼの田んぼの空を鳥渡る」
 取り入れが終わって、何もない広々とした田の空を、群をなして鳥が渡っている。難解な言葉もなく、情景が素直に読みとれる句である。それは冒頭に「からっぽの」と置かれているためだろう。読み手はそれによって頭をからっぼにして次の情報を待つ。
 どのような言葉を選び、どのように配置するか、よく考え抜かれた句である。

母と児のしやがみて話す鳳仙花 村上尚子

 うららかな秋の日差しを浴びながら、仲良く話し込んでいる母と児。作者は公園のベンチに腰掛けて眺めていたのであろう。眺めているうちに作者の胸の内に、かって子育てに一生懸命だった頃の自分の姿が思い浮かぶ。真剣な児の質問に戸惑いながらも、優しく答えていた自分が懐かしく思い出されるのである。
 よく見かける情景のため、見過ごされやすい題材であるが、作者はそれをしっかりと句にまとめた。
 この句の見事さは「しゃがむ」ことによって、母親と児が同じ高さの視線を持ったことである。鳳仙花の高さもしゃがみ込んだ母子の視線の高さにある。

新米を送る子の数ふくろ数 島津昌苑

 「二男二女孫は数へず走馬燈」という長谷川双魚の句を思い出す。
 新米を子に送る場合、子の数は数えるまでもないが、問題は孫の数である。あそこは何人、ここは何人、娘のところは舅さんや姑さんを加えて何人と計算が複雑となる。計算が終わる頃、あそこには食べ盛りの孫があるから余分に必要など考えると、最初の計算がご破算となる。いろいろ頭を悩ました結果、子ども達に平等に送ろうという結論になる。この結論に至るまでに、子のことを思い、孫の顔を浮かべる。そのことがまた楽しいのである。
 母の子を思う気持ちはいつも美しくそして哀しいものなのである。

山峡は稲架を整へ湯のけむり 遠坂耕筰

 今頃の稲刈機は稲を刈って脱穀し、すぐに藁を切り刻んで田に広げることまでしてくれる。人手をかけず、一度に田仕舞いが出来て、便利といえば便利である。
 掲句は天日干しの作業である。この稲架は場所が「山峡」であることや「整へ」ているところから、階段状に固定した高い稲架であろう。高い稲架は短い山の日照時間を有効に使うための先人の知恵である。
 古くなった稲架の横木を取り替えたり、ゆるんだ稲架の縄を締め直したりして稲架を整える。稲刈りの準備である。
 峡の空へたなびく煙は稲刈りの忙しさを予兆しているようである。くつろぎのなかにある緊張感。

芒野を頒つ千曲川の光かな 稲野辺洋

 千曲川は秩父の甲武信岳に源を発し、善光寺平で犀川と合流し、新潟県に入って信濃川に変わる川である。
 千曲川と聞けば女性的なイメージを抱くが、この句を読むかぎり決してそうではなさそうだ。嫋嫋とした千曲川なら「芒野を頒ちて光る千曲川」となるであろう。
 掲句どおり詠まれてこそ、千曲川の面目があるというもの。勇渾な詠みを「かな」がしっかり受け止めている。

波と来て月光岩に砕け散る 久保田久代

 読み返しているうちに、砕け散っているが波なのか月光なのか分からなくなる。砕ける音さえ月光の音のようにも聞こえてくる。波と月光とが一体となってしまうのである。
 そう感じさせるのは、月光が波と一緒に寄せて来るという表現が、事実を越えて作者の感性で把握されているからである。

幼な児の拾ひし木の実持て余す 柿沢好治

 いくつもいくつも木の実を拾ってくる子。それを持たされる作者の困惑した顔。楽しそうに拾う子を叱る訳にもいかず、ただただ微苦笑するだけである。
 明るい家族の関係が木の実をとおして語られている。微笑ましい一句である。


 その他の感銘句
月を観に月へ近づく階のぼる
煮魚の十字の切れ目初しぐれ
手渡しに稲の香稲架に移しけり
動き出す電車は隣寒夕焼
濯ぎものからりと秋の日をたたむ
田の神の山へと急ぐ初しぐれ
咲くための色溜めをりぬ秋薔薇
虚子像は黙に秋蝉鳴かせをり
藁積みて仔牛の北窓塞ぎけり
秋深し喪服を夜干ししてゐたり
中曽根田美子
源 伸枝
小川惠子
海老原季誉
角田しづ代
須藤靖子
萩原峯子
大沼孤山
星野きよ
久保美津女

禁無断転載