最終更新日(update) 2011.02.23
各地の白魚火 活動便り
各地域やグループの活動を文章と写真を お送りいただければ随時掲載いたします。 出来れば電子データ(TEXTとJPGファイル) でお願いします。
各地の白魚火活動便り(1)
  下記文字列をクリックするとその部分へジャンプします。
平成22年12月18日 (円坐A) 天竜浜名湖鉄道、天竜二俣吟行句会
平成22年12月12日 (浜松白魚火)円坐A・B・C合同忘年句会
平成22年11月2日 (浜松白魚火)円坐B「万葉の森・吟行会」
平成22年10月31日 (栃木白魚火)八百比丘尼・皆川城址・満願寺周辺」吟行記
平成22年9月19日 (浜松白魚火) 円坐A「新居吟行句会」 
平成22年9月20日 (栃木白魚火)「日光杉並木・報徳二宮神社周辺」吟行記 
平成22年5月23日 (栃木白魚火有志)「鹿沼市の勝願寺一都句碑・医王寺」吟行記 
平成22年3月28日 (栃木白魚火有志)「真岡市(仏生寺・専修寺)」吟行記 
平成22年2月28日 (栃木白魚火有志)「大田原市白鳥飛来地・座禅草群生地」吟行記
平成22年2月21日 (浜松白魚火) 円坐A「浜名湖北の宝林寺吟行」
平成21年12月13日 (浜松白魚火) 円坐A・B・C合同忘年句会
平成21年10月25日 (栃木白魚火有志)「藤岡町史跡と谷中村跡地吟行句会」
平成21年9月20日 (円坐A)浜名湖細江 鯊釣吟行句会 
平成21年9月20日 (栃木白魚火有志)「生子神社泣き相撲吟行句会」
平成21年8月22日 (栃木白魚火有志)「加蘇山神社周辺吟行句会」
平成21年7月26日 (栃木白魚火有志)「山あげ祭り吟行句会」
平成21年5月24日 (栃木白魚火有志) 古峯ヶ原、横根山吟行句会
平成21年3月29日 (円坐A) 春の森町吟行記
平成21年1月25日 (円坐A) 新年会及び大村泰子白魚火賞受賞祝賀会
平成20年12月14日 (浜松白魚火)円坐A、B、C合同忘年会
平成20年11月16日 (円坐A) 晩秋の浜名湖遊覧吟行会
平成20年9月28日 (円坐A) 西浦(蒲郡市)吟行記
平成20年3月29日 (徳島白魚火) 故中尾酔花氏句碑除幕式・句会 
平成20年3月15-16日 (円坐A) 春の浜名湖吟行鍛錬句会
平成19年12月9日 (浜松白魚火) 円坐A,B,C 合同忘年会
平成19年11月18日 (円坐A) 鳳来寺山周辺吟行句会
平成19年10月24日 (円坐A) 宵の街句会(2) 
平成19年8月4日 (円坐A) ビアガーデン句会 
平成19年5月19日 (円坐A) 宵の街句会(1)
平成19年4月14日 横浜三渓園句会
平成19年3月11日 (浜松白魚火) 東海道 二川・御油・赤坂吟行
平成18年12月10日 (浜松白魚火) 円坐A,B,C 合同忘年会 
平成18年11月19日 (浜松白魚火)円坐A 天竜スーパー林道&山住神社吟行紀行 
平成18年9月17日 (浜松白魚火) 円坐A 奥山吟行会  
平成17年5月19日 (浜松白魚火) 円坐B、C奥山吟行会 
平成17年3月6日  (浜松白魚火) 円坐A 奥山吟行会

円坐A 天竜浜名湖鉄道天竜二俣吟行句会NEW!
平成22年12月18日実施  
円坐A 斎藤くに子

 平成23年3月21日に国鉄二俣線全線開通70周年を記念して天竜浜名湖鉄道俳句大会が開催される事になり、仁尾主宰以下浜松白魚火も俳句大会に係る事になった。
それに伴って我々もまずは事前投句を応募すべく、12月18日(土)円坐Aの吟行会が参加者12名で行われた。
全国の中でも夏は暑く、冬は寒いと云われる天竜区であるが、幸い風もなく穏やかな一日、公共交通と徒歩での行程であった。
 新浜松駅より電車で約30分の西鹿島駅まで。続いて遠鉄バスに乗継いで天龍川南(右)岸の崖の上に鎮座し、天龍川の大氏神と唱えられる椎ヶ脇神社へ。
ここからは徒歩になるので、幹事さんのご好意で高齢者用にと自家用車が用意され、私もお世話になった方である。
 檜が並ぶ神社は、多くの球果が落ちていた。木漏れ日の中参拝を済ませ裏山に。その昔天龍川の激流がぶつかる断崖上よりの眺めは抜群。竜宮伝説もあると云う。続いて表参道より天龍川を見下ろしつつ石段を下り、天龍川に架かる鹿島橋を徒歩にて渡る。暴れ天龍とは大違いの静かな水面だ。
有形文化財と認定された天浜線の鉄橋は、感慨無量で見る事ができた。
 次は江戸時代から名主を務め、天龍川筏問屋を営んでいた、田代家の見学だが生憎の休館日。しかし「やらまいか」精神で交渉。
お人柄の良い管理人さんは、意をくんで快くガイド迄引き受けてくれた。
贅を尽くした歴史的建造物に当時が偲ばれる。しかも田代家十代目は俳句の宗匠格とか。お茶までご馳走になった。
 見学後元気な方達は、田代家から近道の裏山を登り、今は公園になっている鳥羽山城址に。ここは二俣城が徳川氏と武田氏との間で激しい争奪戦を繰り広げられ、家康が二俣城を攻略する為に拠点として使われた場所でもある。
展望台からは眼下に天龍川が大きく蛇行し、遠く南は遠州平野、北は信州境につづく山並みを望むことが出来る。春には桜の名所でもある。
 昼食は評判のラーメン店へ入り熱々のラーメンに舌鼓。満腹になったところで、毘沙門堂と二俣駅構内にある転車台を見学。転車台は車両の向きを進行方向に向ける為に用いられる設備で、現役で見られるのは全国でも僅かだそうだが、時間があわず実際に動かしている処は見る事は出来なかった。
これで見学コースは終了し、 大会当日の句会場となる壬生ホールへと向う。
午後一時頃から、それぞれが見学した場所を詠んで、時間に追われながらも五句投句、六句選で句会が行われ、菓子や果物の差し入れもあり、和やかに選評しあい三時過ぎに終了した。
 バス旅行とは違う再発見が多々あった。歩きながら見る景色。自販機で買う切符。天候に恵まれ、出会いの方達の心遣い。幹事さんの細やかな心配り等々。
予定時間より早めに天浜線、遠鉄電車を乗り継ぎ帰途に着いた。ハプニングはあったけれど無事終了。幹事さんには感謝々の一日であった。

円坐A吟行一句抄(後日差替えの可能性あり)
寒禽や宮の由緒を碑に刻む    
どんぐりも椎も拾ひて秋葉道   
うす暗き桧の森に実南天     
冬座敷名家の由緒聞いてをり   
もみぢ葉を踏みつつ登る山城址  
木漏れ日や奥宮よりの冬の川   
木の葉散る毘沙門堂の四つ角に  
落葉踏み筏問屋の中庭に     
小春日に玩具の如き列車行く   
杉の秀を寒禽よぎる山路かな   
二百年守る紀州の蜜柑かな    
座布団を立てかけて止む隙間風       
上村 均
阿部芙美子
今村 務
大城信昭
大橋瑞之
河合ひろ子
金原はるゑ
斎藤くに子
鈴木 誠
松下葉子
三岡安子
弓場忠義

鳥羽山公園より、天竜川を跨ぐ天浜線と国道152号の2鉄橋を望む。

田代家の説明を聞く。

田代家の欅の大黒柱。

天浜鉄道の転車台。

壬生ホール会議室にて句会。

椎ヶ脇神社にて参加者全員。

平成22年(浜松白魚火)円坐合同忘年句会NEW!
平成22年12月12日(日)開催 
円坐B 伊藤寿章

 平成22年の円坐A,B,C合同の忘年句会が浜松駅南の「ホテル・ルモンド」に於いて、12月12日(日)10時から開催されました。今年は、過去最多の総勢43名の参加となり、会場狭しと大盛況でした。
先ず、句会が予定通り始まり、上村均さんの開会挨拶に続き、例年選者となられる織田美智子さんに代わり、急遽選者となられた栗田幸雄さんから挨拶があり、選句に入りました。受付時に提出された短冊(一人3枚=3句)が、全員に3枚づつランダムに配られ、それを予め夫々に配られた、二枚の清記用紙に書き写す作業から始まりました。それが終ると清記した用紙を隣の人に順次回し、夫々、これはと思う佳句を書き留める等して、一人3句を選句する互選に入り、参加者全員緊張の内に選句が続きました。
11時10分頃には、提出句129句の全ての選句が終わり、林浩世さんと青木いく代さんによる名調子の披講が始まりました。大石正美さんの「下戸」の俳句が詠まれると、緊張続きの会場の雰囲気が一変に和みました。互選の発表が終ると三名の選者と、来賓として出席された仁尾正文主宰による入選句、特選句が発表され、特選を取られた方には夫々記念品が授与されました。
こうして句会はほぼ2時間で終了、正午を少し回って第2部の宴会が、栗田幸雄さんの総合司会により始まりました。会場には5テーブルが用意され、仁尾先生を中心に、参加者は「くじ」で選んだ席に着きました。
まず、仁尾先生からはご挨拶を兼ねて、先生の特選7句の講評を頂き、弓場忠義さんの乾杯、仁尾先生と栗田幸雄さんによる「武田武士」の合唱で宴の幕が上がり、青木源策さんと高部宗夫さんの進行によりいよいよ楽しい宴となりました。最初は、林浩世さんによる「難読漢字の季語の季節当て」クイズと「遠州弁の意味当て」クイズで、会場の雰囲気を一気に盛り上げてくれました。その後はA、B、C夫々の講座メンバー毎の歌の大合唱となり、カラオケも仁尾先生を初め大勢の方々が自慢の喉を披露されました。
午後3時近くとなり、最後に全員で恒例となった“星影のワルツ”を大合唱し、三井欽四郎さんの中締め、栗田幸雄さんの一本締めにより円坐の一年を締めくくりました。
今回、円坐Bのメンバーが慣れない幹事役を務めましたが、皆さんのお陰で和気藹々のうちに終了出来たことを心からお礼申し上げます。

選者作品
白息の挙手や指先まで力

川縁の夜明けを待たず笹鳴けり
霜晴や匠の打ちし備前物
小流れの底に綾なす散紅葉      
主宰 仁尾正文

上村 均
栗田幸雄
清水和子
主宰 仁尾正文選(特選七句)
寧日や今年も同じ日記買ふ        
点袋の千代紙選ぶ十二月         
寒鯉の動けば水にぬめりあり       
年用意十字にかけし紐を解く       
雪道を音もなく来て抜かれたり      
鷹匠の鳥打帽と黒羽織          
冬眠をしたくなりたる一人の夜      
大城信昭
河合ひろ子
青木いく代
清水純子
阿部芙美子
青木いく代
林 浩世
上村 均選(特選五句)
小流れの底に綾なす散紅葉        
霜晴や匠の打ちし備前物         
掃き集む落葉に残る日のぬくみ      
ひとときを焚火の焔見て飽かず      
散り紅葉岩の上にも流れにも       
清水和子
栗田幸雄 
今村文子
林 浩世
今村文子
栗田幸雄選(特選五句)
報恩講一年分の法話かな         
この星は食物連鎖鵙の贄         
何よりも先づ一椀の根深汁        
御歳暮来下戸と知らずや樽の酒      
寧日や今年も同じ日記買ふ        
柳井英子
大城信昭
弓場忠義
大石正美
大城信昭
清水和子選(特選五句)
白息の挙手や指先まで力         
寧日や今年も同じ日記買ふ        
雪道を音もなく来て抜かれたり      
草むらに触るれば動く冬の蝶       
鳰浮くを待ちて池の辺去りにけり     
仁尾正文
大城信昭
阿部芙美子
清水純子
三井欽四郎

円坐B「万葉の森公園・吟行句会」NEW!
平成22年11月2日実施  
円坐B 青木いく代

 11月2日、円坐B初めての吟行句会を行いました。
場所は、浜松市浜北区にある「万葉の森公園」。良い天気に恵まれ、総勢15名の出席となりました。
 集合後、40分ほど、想いが叶うといわれる楝(おうち)の実のネックレスをした館長さんに案内をしていただき、公園内の植物を中心とした話やそれに関連する万葉歌の説明を受けました。
昔の暮し向きを思いながら、遠足で来ていた元気な園児達に混じり園内を吟行。そして、園内にある「万葉亭」にて“貴族の万葉食”をいただきました。古代米の赤米、蘇、旬の万葉植物の天ぷら、年魚(あゆ)、木菓子、糟(かす)湯(ゆ)酒(さけ)など13種類の料理に丁寧なお品書きをつけていただき、ひとつひとつの説明を聞いて素朴な味をわいわいと楽しみました。
 その後、そのままレストランをお借りして句会の始まりです。今見て、聴いてきた新鮮な俳句が出揃い、みんな思い思いの感想やら添削やらと賑やかに会は進み、3時閉会となりました。
 コンパクトな吟行会でしたが、万葉の森公園の方々の御好意にも支えられ、楽しい秋の一日となりました。

円坐B吟行一句抄
万葉の木々とりどりの落葉踏む
防人をしのぶ公園萩の風
万葉の閑けさにあり木の実落つ
曲水にまかせ流るる木の葉かな
赤米の稲穂うす紅してやはら
冬の日に万葉食を試食せり
万葉の五感を揺さぶる紅葉狩
風音を遠ざけてをり返り花
森深く来てマフラーを巻き直す
刻まれし人恋ふる歌暮の秋
東北の農家救ひしおもひ草
棉吹いて思はぬ固き種のあり
鶏頭の痩せたる色の並びをり
草の実や蘇といふものを食うてみる
檀(まゆみ)の実万葉の空今日の空        
武夫
貞子
幸雄
宗夫
英子
正美
栄子
浩世
ヒサ子
桂子
紀久雄
君江
寿章
源策
いく代

<“貴族の万葉食”>

<"曲水の園"にて>

栃木白魚火有志
「八百比丘尼・皆川城址・満願寺周辺」吟行記
平成22年10月31日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 

今回は西方町真名子に伝わる「八百比丘尼」とその周辺の山里の景観、そして今日の栃木市の基を築いた「皆川氏」一族歴代の墓と城址、さらに勝道上人の開山と伝わる出流山満願寺周辺を吟行した。

週間予報では台風上陸の日とされていた当日であり、参加予定者は相当やきもきされたようで、「中止しないのか」と何人かの問い合わせを受けた。幸いにも台風は逸れながら1日早く三陸沖に進んで熱帯低気圧となり、吟行を決行することができた。(参加者は13名)


(参加された皆様)

「八百比丘尼」

上都賀郡西方町真名子の男丸には昔から八百比丘尼像とその伝説が伝えられているが、町の観光課の案内はそれを以下のように説明している。

「当地に生まれた八重姫が18歳の姿のままで800年を生きて、知る人もいない我が身をはかなみ、若狭の国・小浜で、自ら命を絶つときに尼になった自分の姿を2体彫り、1体を生まれ故郷の真名子の里に送りました」

送られた「八百比丘尼像」と、それを安置する「八百比丘尼堂」、八重姫が美しい姿を映したとされる「姿見の池」などが真名子(マナゴ)の男丸(オトコマル)の里人によって今日まで守られてきた。

もう1体の仏像は現在も福井県小浜市の「空印寺」にまつられているという。

「人魚の肉を食べて不老長寿を得た」というモチーフの伝説は各地にあるが、八百比丘尼伝説もその一類として全国から採取されている。

平成10年に同様の伝説を有する地域が真名子に集り、八百比丘尼サミットが開かれた。その際「八百比丘尼公園」として比丘尼堂の周辺が整備された。

それらのことが多くの人に八百比丘尼を知ってもらう契機ともなったようだ。
ちなみに「八百比丘尼」を当地では「おびくに」と呼ぶが、同様の伝説を持つ小浜市や他の地域では「はっぴゃくびくに」「やおびくに」などと呼んでいる。

(八百比丘尼堂)

吟行当日、八百比丘尼公園で意外な人に邂逅した。若林光一さん(参加者写真前列中央)という古くからの白魚火仲間である。氏はこのとき公園の落ち葉掃きをされていたのだが、どうやらそれは名目で、事前に田原桂子さんの便りから吟行予定を知り、我らを待っていてくれたらしいのだ。

思えば若林さんは当地真名子にお住まいであった。また二十数年前、橋田一青先生を中心に多くの白魚火仲間でこの地を訪れた「麻引き吟行」の際は、万全の受け入れ準備をして下さった方でもある。

今回参加者の多くは氏との面識はなく白魚火誌上で名前を知るだけであったが、そこは俳縁というものか、たちまち打ち解けて代わる代わるこの里の詳しい案内を聞かせて貰う。

その上に氏の計らいで堂守のお婆さんに足を運んでいただき、施錠を外して堂内に這入り、厨子を開いて八百比丘尼像を眼前に拝すという僥倖を得ることができた。

若林光一さんのご好意に感謝。

(八百比丘尼像)

「皆川城跡」

栃木市北部に位置する標高147mの山城で、その山の形から「法螺貝城」とも呼ばれる栃木の基を築いた皆川氏の城跡である。皆川城は室町時代の応永元年(1394年)皆川秀光の手により築かれ、皆川広照が徳川家康により改易になる慶長14年(1609年)まで、最大で7万石を領有したという。

いまは城跡らしい構築物は何もなく、それらしい樹木もない。ただ山頂につづく螺旋状の郭道がめぐり、山襞には竪堀が、中腹には井戸が掘られて往時の面影を残している。外観は普通の小山として存在しながら400年間城跡であり続けるという不思議な空間だ。

おりから実を結びつつある野の草々が山肌を覆いつくし、秋の蝶や飛蝗たちが宙空に舞い、蟋蟀など虫の類いは地中からとりどりの声をあげ、天空には来たばかりの小鳥たちが囀る。東京につづく高速道路を遠望し、眼下には皆川氏菩提寺の大欅の黄葉が彩りをそえる。

当初何もないから麓までで引き返そうと思っていた山城に、皆が吸い込まれるように足を進めて気がつけば七合目まで登りつめていた。人為を極めた社寺仏閣の良さもあるが、それが廃頽し、自然に戻りつつある姿もまた異様な美しさを呈すと知った一こまであった。
(皆川城跡遠望)

「金剛寺」

皆川氏歴代の菩提寺であり、墓域の一角を占める廟所には創業から現代までの皆川氏の墓が建ち並んで圧巻である。山城跡からも遠望されたが、樹齢数百年と思しき大欅の黄葉が美しく、廟所の歴代墓標を明るく染めたいた。

入口付近に茶の花が咲き初め、その隣りには武家の廟所らしく鷹塚と読める小さな石碑が傾き立っている。また本堂脇には水琴窟を設えて楽しめる仕掛けもある。こじんまりとしたよいお寺であった。むろん我らが水琴窟に水を落としてその音色を確かめたことは言うまでもない。

(皆川氏歴代の墓)

「出流山満願寺」

栃木市北部の鍋山町には広大な石灰採掘の山々が連なり、そのむき出しの鉱山の谷あいにいくつもの石灰工場が軒を連ねる。出流山満願寺への参詣はその工場群を通り抜けて行かねばならない。好天が続けば石灰の粉塵が舞い飛ぶ最悪のコンデションだが、当日は直前まで台風の雨が降っていたので適度の湿りがあり、粉塵に見舞われることはなかった。

出流山満願寺は天平神護3年(767年)に勝道上人によって開山されたと伝えられ、日光山の修験者が訪れる寺であった。寺の縁起に「弘仁11年(820年)真言宗の宗祖、弘法大師様が勝道上人の徳をしたって当山に参詣され、その折りに当山の銘木を以てご勤作になったのが、出流山のご本尊「千手観世音菩薩様」であります」とあるが、現在も真言宗智山派の寺院であり、木造十一面千手観音立像(南北朝時代の作とされる)を本尊とする板東十七番札所である。

栃木が生んだ偉大な僧である勝道上人を、彼の弘法大師がお慕いしていたというフレーズは魅力的である。

寺の縁起はさらに「山内には七つの塔頭寺院と、二つの修験行者の坊をかまえ、その筆頭寺院を千手院と称して、その威勢盛んに振るまい、東北方面から伊勢参拝の旅人は、行き帰り必ず、当山に参詣して道中安全を祈り日光への参詣者も必ず巡拝しました。また、羽黒山、月山、湯殿山の、いわゆる出羽三山詣での行者は出流山にも参拝しなければ折角の三山詣でも大願が成就しないといわれ、参詣者が続々とつめかけておりました」と自慢する。

真偽は判らないが、二十歳の勝道上人が仏道に精進するため3年間籠った岩窟が満願寺奥之院として今も残っており、地つづきの古峰ヶ原深山巴の宿が修験者の修行道場(メッカ)であったことなどを思えば、満願寺が三山詣の大願成就に関わることも首肯できるのである。

満願寺はそのような威風を備えている。

また当寺は徳川家康により改易された皆川広照の蟄居したところであり、さらに幕末には薩摩藩士が立て籠り、倒幕挙兵をした出流山事件の地としてもよく知られている。これほど山深い土地ながら勝道上人以来何かと事跡を積上げているお寺さんなのだ。

満願寺本堂右手には案内所があり、入山料300円を払えば行程1時間ほどの奥之院に登拝することができるが、今回は時間の都合で省略した。

出流山は蕎麦の銘産地でもあり、ここまで来て蕎麦を食べない手はない。皆で「福松」という縁起のよい店名の門前蕎麦屋に繰り込み美味しい蕎麦にありついた。

(出流山満願寺)

「八百比丘尼・皆川城址・満願寺吟行作品集」(五十音順)

千草生ふ底なし井戸を遠まきに   
草の絮乗り換ふる風待ちにけり   
紅葉づりて城主墓守る大欅     
秋の蝶登りあぐねし城趾径     
穴まどひ竪穴住居に躙口      
急磴の奥院深し秋気満つ      
冬桜ひかえ目に咲く五六本     
礦山の礦むき出しに初しぐれ    
八百比丘尼を映せし水の澄みにけり 
結界の椿は八重に帰り花      
桐の実や水音高き禊川       
上人も所望したまふ走り蕎麦    
一山をけむる線香秋惜しむ     
秋葉咲女
阿部晴江
宇賀神尚雄
大野静枝
小川惠子
加茂都紀女
黒崎法子
中村國司
星揚子
星田一草
松本光子
丸田守
本倉裕子

円坐A「新居吟行句会」
平成22年9月19日実施  
円坐A 今村文子

 秋空の爽やかな一日、幹事さんの綿密な企画のもと、浜名湖の入口に当たる町、新居町周辺の吟行を行いました。参加者十六名、朝八時三十二分の浜松発の列車に乗り新居着八時四十八分、全員揃ったところで、新居関所、紀伊国屋、寺道を散策し小松楼にて昼食、句会を行いました。
 新居の関所は国指定の特別史跡となってをり、現存する建物として最も古く、取調べの役人の人形や、鉄砲その他の武具なども飾られてをり隣接の資料館と併せ、昔の関所の様子が良くわかりました。
 道を隔て近くに紀州藩の御用宿でもあった紀伊国屋があり、当時二十数軒あった旅籠の中の老舗で、昔の旅籠屋の風情を知ることが出来ました。当時の旅籠は殆ど相部屋で、宿泊代は現在の五千円前後であった由、新居の宿の昔の賑わいを偲び乍ら寺の多い道をゆっくり散策して小松楼を訪ねました。
今は町内外の交流の場となっている小松楼は昔の置屋で、当時の桐の箪笥や三味線などが飾られ、置屋の風情の一端を見ることが出来ました。
 昼食につづいて句会になり、三句から五句と自由な投句で、上村講師の選句のもと、句友の多くの作句に接し、又当日参加出来なくなった大城さんの欠席投句もあり、有意義な吟行会でした。
 近いところの吟行でもあり、浜松駅午後三時頃の解散となりました。

瀬戸火鉢秋暑の居間にどつかりと
歌留多まで調べられたる関所かな
草の絮関所御門を抜けにけり
秋乾く軋み合ふ音船溜り
夕さりて蜩鳴けり寺の道
天井の低き旅籠や秋暑し
汽水湖の町をめぐりて獺祭忌
萩こぼる水琴窟の音澄みて
裏木戸へ続く飛び石萩零す
在りし世の置屋しのべり萩の花
いとど鳴く芸者置屋の細格子
縁に座し萩を愛でたる旅の客
糸瓜忌や吟行会に連れ出され
実むらさき昔旅籠の庭にゆれ
旅籠屋の帳場で使ふ秋団扇
縁側に足を遊ばす萩の庭
天高し関所無き世はありがたし

順一
升子
忠義

照代
信昭
はるゑ
ひろ子
文子
芙美子

瑞之
安子
泰子
葉子
ルミ子

<新居の関所>

<小松楼>

栃木白魚火有志
「日光杉並木・報徳二宮神社周辺」吟行記
平成22年9月20日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 


(参加された皆さん)
今回は「日光杉並木公園」と、二宮尊徳先生を祭る「報徳二宮神社」周辺を吟行した。
昨日までの晴れ=猛残暑が嘘のような、朝からのあいにくな雨。 明日は晴れるという予報を聞けば「神様!今日だけなぜ雨なの?」と叫びたくなる。
例によって「雨○○○」がいるのではないか、そいつは誰だ、という声が聞こえてくるがそれも愛嬌。そんな中で2台の自動車に分乗してスタートとなった。
同時刻に鹿沼から1台、柴山さんが田原さん、小川さんを乗せて出発しているはず。(彼岸の入りということもあり、参加者は9名)

(杉並木公園内の水車)
日光杉並木公園:50分ほどで公園駐車場に到着して、鹿沼の皆さんと合流。柳祭全国俳句大会や県白魚火の虫送り鍛錬句会などが重なり、有志吟行句会は4ヶ月ぶりの開催となったが、その故かお集まりの皆さんにうきうきする感じがただよう。
公園内は杉並木の中を歩く道路に並行して、史蹟や水車を見ながら植物鑑賞のできる1キロほどの周遊コースも整備されていて吟行には丁度よい。折からの驟雨に全員が傘をさしての散策となった。

(佐賀藩士14名の官修墓地)
回向庵:二宮尊徳の葬儀が営まれたという如来寺(浄土宗)のうしろに、同寺の墓地としての回向庵がある。ここに戊辰戦争で戦死した土佐藩・佐賀藩の兵士ら24名を葬った官修墓地があり、哀れをさそう。
佐賀藩兵士の墓は写真のように、巨大な一基の墓に14名が葬られており、一方土佐藩士の墓は二尺余の石塔が10基並び、めいめいに戒名が記されている。
当日は秋彼岸の入りでもあり墓域全体に香煙がたちこめ、家族連れの回向者たちで混雑していた。
(日光円蔵の墓)
回向庵にはまた日光円蔵(国定忠治の子分)の墓とされる石碑もあり、花が供えられていた。今市の在方の生まれという彼の伝には別途興味をそそられるものがある。


(報徳二宮神社)
報徳二宮神社:明治30年に二宮尊徳を祭神として創建された神社という。社殿裏に「誠明院功誉報徳中正居士」の法名を刻む墓石と円墳、俗に言う土饅頭がある。
この吟行句会の後見人でもある星田一草先生は、この土饅頭の周辺の樹木は非常に種類が豊富だと話され、一本づつ樹名を言いながらその特徴を説明してくださった。まさに歩く植物図鑑(失礼)というべきであり、ありがたく貴重なことであった。
また尊徳墓地の脇に「丕哉尊徳先生」と刻まれた大きな石碑があるが何と読み下すべきか不明であった。「おおきいかな」「おおいなるかな」??

(追分地蔵)
追分地蔵尊:元は大谷川の洪水で流されてきた日光願満が淵の化地蔵の親地蔵を如来寺から移されたものとされる。高さ3メートルで北関東最大という。あまりにも傷がなくきれいなので「本当に洪水で流されたものか」といぶかる声も上がったが、400年も前の出来事であり当方の知るところではない。
(杉並木寄進碑)
日光杉並木寄進碑:杉並木は東照宮造営奉行を勤めた松平正綱が日光に向かう四つの街道(例弊使・御成・会津・日光)に、日光東照宮創建とその遷宮を記念して植えたのが始まり(1616年~17年)である。
三代将軍家光による日光東照宮大改修のころ本格的に整備され、熊野産の杉苗を四街道の両側及び日光山内に植えて東照宮に寄進した。
その由緒を刻んだ寄進碑が、慶安元年(1648)に各街道入り口と神橋畔に建てられたが、大沢宿のものはその一つ(写真)。
史蹟としての寄進碑にはそれなりに価値もあるだろうが、俳句にはいささか作りにくい。
だがそこは目ざとい我ら!寄進碑の向かい側の杉並木に沿った小道に、秋の草花が数多く咲き満ちているのを発見。
いろいろある中で、わけても「盗人萩」は面白がられ、その実を胸につけて句会場まで持ち込んだ人、それを俳句に詠んだ人がいて大いに盛り上がった。

「日光杉並木・報徳二宮神社周辺吟行作品集」(五十音順)

石地蔵とまりそこなふ秋あかね     
大水車ときにゆつくり秋の蝶      
蕎麦の花ふれきし風の白さかな     
秋大根おろしたつぷり手打蕎麦    
杉並木寄進碑やたら草虱       
百合は実に旧道細く残りをり     
ちちろ鳴く博徒舎弟の墓二尺     
秋蝶の黄の明滅のひとところ     
溝そばの花を乗り越え水迸る       
阿部晴江
大野静枝
小川惠子
加茂都紀女
柴山要作
田原桂子
中村國司
星揚子
星田一草

栃木白魚火有志
「鹿沼市の勝願寺一都句碑・医王寺」吟行記
平成22年5月23日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 

「参加された皆様」
今回は鹿沼市にある古刹勝願寺の西本一都師弟句碑と、合併で鹿沼市になった旧粟野町の医王寺、そしてその近辺にある双体道祖神をとりまく初夏の田舎の風光を吟行した。

当日の天気は予報どおりの小雨となり、ここのところ三連敗で雨に見舞われる吟行となった。だが今回の雨は先の大田原や真岡のときのような痺れるような寒さはなく、むしろ日照雨のような明るい雨で、おりからの若葉の季節ともあいまって心地よいことであった。
(参加者は16名うち途中参加1名)
「勝願寺」(新築の本堂)
栃木白魚火の指導者であった橋田一青先生は、昭和61年1月号白魚火誌の一都句碑除幕式の記述の中で以下のように勝願寺を紹介している。

「鹿沼の市街地より西の方二里ばかり入った山里で、裏には戦国時代の山城跡を背負った山寺、ここが真言宗清滝山勝願寺であり、私達地元の白魚火仲間にとっては、毎年何回かは吟行にお邪魔することになっているところである」

当時の住職の北城昌房師は西本一都門の俳人でもあられたが、昭和60年11月、一都先生の御句「春蝉の律曼荼羅を流れけり」の句碑を建立するとともに、ご自分の俳句「僧われに風流懺法梅白し」も合わせて句碑に立てられ、一対の師弟句碑とされたのである。

一青先生が(くだん)の句碑について記述した箇所を少し長いが紹介する。

「春蝉の句は、先生の句集「景色」に昭和三十四年作として載っているが、当時先生は宇都宮在任中で、私達先生のお伴をして勝願寺に吟行したときの作である。この曼荼羅は、現在県の文化財に指定され市の収蔵庫におさめられているが、縦横数米の大両界曼荼羅で、この時昌房さんが本堂に拡げて見せて下さった。~中略~ともあれこの春蝉の句は私たちにとっても思い出が多い」
「西本一都先生句碑」
近年、寺領を改造するとともに立派な本堂を新築された。その際句碑も移設されたようであり、句碑除幕に立ち会った面々からは「特等席に移られた」と賛嘆の声が上がったが、昌房師を慕うご住職の気持ちが如実に表われているところであろう。
「師弟句碑」
吟行当日は勝願寺で法事が予定されており、お邪魔になってはいけないので私たちは時間を繰り上げて訪問した。参加者の何人かの顔見知りであった現住職(昌房師の御子息)が応対してくださり、忙しないであろう時間の中、本堂の扉を開けて中まで詳しくご紹介くださった。

5年前の新築という本堂はまだ木の香りが漂い、目映いばかりの金箔の御本尊の脇に由緒あるであろう諸仏が並ぶ。般若経の納められた桐の小箪笥が明るい照明の下に並べ置かれているのは今日の法事の準備であろうか。

何よりも本堂の明るさと、並置された仏像や様々な装飾が自然に人の目線に入るように配慮されて秘する風のないのは、今まで数多く見た本堂のありさまとは異なり、現代風なのが気に入ったところであった。

ふとみると御本尊の両脇の壁に曼荼羅が掛けられている。金剛界と胎蔵界曼荼羅だそうである。しかし一青先生の文にある「縦横数米の大両界曼荼羅」というにはいささか小ぶりの印象であった。はたして一都先生がご覧になったものかどうか、あとで尋ねねばなるまい。


「路傍」

勝願寺から医王寺に移動するには車でわずか5分ほどだが、それをコの字型に迂回すると旧粟野町の深程という小さな宿に出る。

南に下れば栃木市を経て関東平野を横断し東京に出る。西に上れば粟野町を経て粕尾峠を越へ、足尾町経由で日光に出ることのできる準幹線道路であるが、いまはバイパスがその役目を果たしている。

この西に上る道筋に幾体もの道祖神が見られ紹介もされている。

今回はそのうちのひとつ、深程の双体道祖神を見ようということになり、旧招魂社らしい神社の境内に車を止めて道幅3メートルほどの旧道の500メートルほどを散策した。

純農村地帯と見えたバイパス沿線とは印象が違い、旧道には思いのほか家並みがひしめいている。それぞれの庭先や塀越しにさまざまな季節の花々が咲き乱れて句ごころもそそる。

しばらく行くと家と家の境に三尺に満たない卵形の石が素っ気なく立っており、割り箸に挟んだ幣が雨にぬれて萎れている。
「双体道祖神」
石の中央には人の形らしい膨らみがあり、それと見れば二人の人間にも見える。よほど柔らかい石なのか、風雪に侵されて目鼻口などは微塵も見えない。しかしこれが双体の道祖神であることは割り箸幣が傍証している。

すぐ前の家の老人に聞けば、由来も何も知らないが裏の家と二軒で代々仕守をしていると言う。「よっぽど古いものだよ」とまんざらでもない顔つきで答えてくれた。

一塊の石に人形を彫りだして路傍に安置し、賊除け魔除け災難除けを信じていた古人(いにしえびと)の活計(たつき)が偲ばれるのである。

「医王寺」

医王寺の創建は天平元年(765年)勝道上人によって開山したのが始まりと伝えられており、山門入口にその標示もある。また弘法大師と縁があり当初は東高野山弥勒院と称していたことから「東高野山」と呼ばれ北関東随一の名刹とされたともある。

栃木県WEB観光案内には大意以下のように記載されている。

歴代領主から帰依され江戸時代には朱印50石の朱印寺として繁栄を極め、大名と並ぶ格式があり、境内は3万坪に及ぶ広大なもので金堂、唐門、講堂、客殿、大師堂などの諸堂が建ち並ぶ。

建物や所蔵物の多くが文化財指定になっており、木造薬師如来坐像を始め木造弘法大師坐像、木造金剛力士立像、理趣経版木(3枚)、絹本著色封侯図などがある。

実際に行ってみると境内が3万坪というのは俄かに信じ難いが、現今の草刈や山の下草刈りの管理の難しさを思えば、目に見える以外に奥深く寺領があるのかも知れない。

なだらかな参道を登りつめると瓦葺の山門がありその奥に金堂があり、なにやらブルーシートが風にひらめいている。

おりしも金堂の茅葺屋根の葺き替え工事が営まれており、小雨の降る中で東北宮城県から来たと思しい工事人たちが屋根に上がり、材料の茅を丹念に積み重ねている最中だ。いやが上にも俳人の感興を呼び覚ます風景である。
「金堂の屋根葺き替え工事」
工事中の金堂を迂回して奥に入ると件(くだん)の建造物群が整然と建ち並び、ことに唐門が美しく人目を引く、がその正面から奥に進むことはできない。
「医王寺唐門」
唐門両袖の縦格子の透かし塀をさらに迂回して大師堂を拝観しつつ奥に進むと講堂と客殿が並び建ち、講堂には多くの人の気配がある。聞けば葬儀の最中だという。中にある宝物は残念ながら見ることができない。

振り返ると榧の大木があり「千年榧」と標識が立っている。さらによく見ると胴回りに編み紐が巻かれ、ところどころに大きなアンプルが差し込まれている。養分の補給なのかあるいは薬剤なのか、それなくしては生きられないのだろう。巨木というものも辛いものなのだ。

「勝願寺一都句碑・医王寺周辺吟行作品集」(五十音順)

ひたすらに慈悲心鳥の遠谺
威を保つ千年榧や青時雨
走り梅雨幣の千切れし道祖神
一都句碑すらりと読めて夏燕
老鶯の山を負ひたる師弟句碑
青葉闇山城跡を背負ふ寺 
師弟句碑黄菖蒲の花明りかな
空海を鈍色にして五月闇
青蛙地蔵の膝に飛ぶ構へ
牡丹実に句碑の文字の流麗に
天平の茅葺き替へる竹の秋
野仏に隣る軍馬碑柿若葉
曇天に溶ける高さに桐の花
葉桜や灯して御堂ほの暗き
朽ちるもの朽ちゆくままに青葉風
蟻地獄弘法大師堂の下
阿部晴江
安納久子
大野静枝
小川惠子
加茂都紀女
斉藤 都
柴山要作
高内尚子
高島文江
田原桂子
中村國司
星 揚子
星田一草
松本光子
本倉裕子
谷田部シツイ

栃木白魚火有志
「真岡市(仏生寺・専修寺)」吟行記
平成22年3月28日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 

今回は栃木県真岡市の勝道上人の誕生地や、親鸞聖人ゆかりの寺院、二宮金次郎の活躍した陣屋跡などを吟行した。

当日は天気予報どおりの寒い一日だった。雨の降らないのがせめてもの救いと言いたいところだが、雨の降らない寒さというのもなかなか厳しいものと知らされた。
しかしそこはそれなりに俳人らしく振舞うのがいつものこと。万象あるがままに受け入れてしっかりと楽しんできた。(参加者は10名)

「仏生寺」
この寺は勝道上人の誕生地であることに由来する。勝道上人は天平9年
(737年)に栃木県芳賀郡南高岡(現在の仏生寺所在地)に生まれ、後に出流山満願寺、下野薬師寺で修行を積み、日光二荒山を開山したことで有名。
上人は再び当地へ戻り、自ら薬師如来像を彫って仏生寺を開山したとされる。
山門の前に樹齢700年という欅の大樹が二本、対になって立っており壮観である。またそのたもとには二輪草が群生し、今にも花を開こうとする姿が見えて可憐だ。
山門を中に入ると少し違和感がある。今日的な寺院の備えとしては欠けるものがあるようだ。もぬけの殻とまでは言わないが、本堂らしきものがない。
むろん堂塔伽藍といった豪壮なものは一切なく、その代り中央に社殿の様な古びた建物があり鰐口が懸けてある。打てば鈍い音が出る。
そういえば墓地も狭く、墓標は数基しか建っていない。人の住まいはあるが庫裡の体裁とも見えない。
これではむしろ神社ではないか。寺院らしいのはいま潜ってきた山門に懸かる「仏生寺」という門札だけだ・・・などと思う。
神仏習合・廃仏毀釈などという歴史上の用語を思い浮かべるが、その歴史に翻弄されているらしいこの寺の古びた有り様がなぜか可笑しく、嬉しくもある。
「こんな佳い所があったのだ・・・また後で来てみよう」というのが今回参加された方たちの感想であった。
勝道上人が産湯に使ったという乳母井戸などもあるようだが、あまりの寒さにそこまでは足が伸びない。
ちなみに勝道上人の入寂地は日光であり、東照宮北東の開山堂裏手(史跡探勝路沿)に墓所が残る。
「高田山専修寺」
親鸞聖人ゆかりの古刹であり勅願寺である。
この寺は真宗の開祖親鸞聖人が越後から関東各地の教化に入って十余年、親鸞53歳のころ、門弟たちの懇望によって高田の地に一堂を建立し、長野の善光寺から一光三尊仏を本尊に迎えて専修念仏の根本道場としたのが起源とされる。
建立当時(1225年)の総門や江戸期元禄年間建築の山門(国重文)如来堂(国重文)が一直線に立ち並び荘厳である。
如来堂の奥の金庫の中には長野の善光寺から迎えた本尊の一光三尊仏が安置されているらしいが、17年に一度しかご開帳されないとのこと。
しかし俳人たるものそんな能書に怯むものではない。指示書き通り下足を脱いで如来堂に上り、中を覗き込む。・・・とそれらしい金色の三尊仏があるではないか。
これぞまさしく秘仏・・・というのは早合点で、日々公開されている「御前立」という別物だった。

如来堂の裏手に檀家の墓地があり、その奥まったところに親鸞聖人の遺歯九粒を埋葬するという御廟がある。
清浄水と刻まれた石の手水鉢や装飾の少ない石灯籠がどことなく鎌倉期の面影を残す。
清浄の気が満ちており、穏やかな心もちをもたらす場所である。

他にも御影堂や涅槃像など見るべきものが多く、また真紅の椿が満開で、西の林には猩猩袴が群生し、紫木蓮がまさに解れようとするところであり、芽柳の美しさも印象に残ったのだが・・・いろいろきりがないので、そこは俳句作品をご覧戴くとして。
「二宮尊徳資料館」
かの有名な、と言うべきだろう。小学校の国旗掲揚塔の脇に薪を背負って本を読む少年の像。彼の名は「二宮金次郎」。あまりに有名なので誤った理解もされているようだ。
彼を顕彰する「二宮尊徳資料館」の説明によれば、金次郎は通称であり正しくは金治郎と書き、尊徳はソントクではなく、タカノリと読むそうである。江戸後期、相模の国の百姓の長男に生まれた金次郎は少年にして、衰退した生家の復興を果たした。その手腕を見込まれて武家所帯のたて直しを任されたが、そこでも成果を上げた。
やがて旗本の知行地の仕法を任されて下野国桜町領に移住し、さらに天領の仕法も任されて成果を上げた。その方法は「尊徳仕法」として模範とされ、幕府全体に広められたようだ。
その活躍の舞台となったひとつが尊徳陣屋であり、現在の芳賀郡二宮町(合併して真岡市)に存在した。いまはその跡地に往時の陣屋が復元されている。また隣接して二宮神社があり、資料館も同一敷地に建っている。
ちなみにその後の金次郎は、日光山領の仕法を行うため下野国今市村(現在の日光市)に行き、そこに住して没した。

今回吟行の昼食は陣屋跡に植栽された桜の見頃となることを当てこみ計画したが,意に相違して厳しい寒さとなり、とても野外での食事は無理。
途方にくれて資料館職員に相談したところ、快く研修室を提供していただき、暖房の効いた立派な部屋で昼食をとることができた。役所とは思えぬ職員の方の軽快な判断、決断に全員敬意を表してやまない。
各自持参のおにぎりに、皆に行き渡る分まで用意していただいた句友手作りの花菜の御浸し、そして大根の煮付け、それらを取り回しながら暫し一息。


「大前神社」

帰り掛け、春季大祭に太々神楽が奉納されるとの情報を得て、件(くだん)の大前神社へ。
神社は真岡市の中心部近くにあり、巨大な恵比寿様が目じるしである。開運招福・天地平安・五穀豊穣・子孫繁栄などなど、やたらにご利益が強調されているのも街中の神社らしくて楽しい。
神社の設えた駐車場に入るとすぐに笛や太鼓の賑やかな音色が聞こえてきて、心も浮き立ち足どりも軽くなる。
北に向かって進む参道の東側には満々と水を湛える小貝川が流れ、何を釣るのか竿を持つ人の姿。ここでも桜はまだ蕾のままだ。
川には堰があり、そのすぐ上流に大きな水門がある。いづれもその昔の二宮金次郎尊徳の仕業であるとのこと。
幾つかの鳥居をくぐり境内に入ると極彩色の社殿が正面に目に入る。その前に人だかりがして皆で東を見ている。そこに神楽殿があるのだとはすぐわかる。
近在の人びとらしく皆楽しそうだ。子どもの多いのもよい。

俳人たちが着目したのはひとりの子ども。観覧用の縁台に太鼓を据えてその前に座り、巧みな撥捌きで太々神楽のお囃子に合わせている。
神楽の観衆たちも脇で叩かれる太鼓の音が気になるようだ。
巫女が介添えをしており、俳人が近寄っていろいろと聞く。子どもの年齢はどうやら4~5歳、神主の子どもらしい。云われてみればその風格があるとみなで頷きあって感心する。
市井の風景だ。
寒いと言うより極寒の一日。その中でもほのぼのとした春神楽の時間であった。

「仏生寺・専修寺吟行作品集」(五十音順)

木の芽吹く野山が放つ風の音  
料峭のしばし立ち見る里神楽   
発心の如く芽吹けり寺の樹々
水芭蕉おしくらまんじゆうして咲ける
荒れ寺のぺんぺん草は総立ちに
親鸞の御廟に寄りて暖かし
料峭の聖人御廟香残る
春神楽子ども太鼓をほめそやし
芽柳の風に震へる揺らぎかな
春寒し鰐口鈍き音のして
阿部晴江
安納久子
宇賀神尚雄
加茂都紀女
柴山要作
中尾寿郎
中村國司
星田一草
松本光子
谷田部シツイ

栃木白魚火有志
「大田原市白鳥飛来地・座禅草群生地」吟行記
平成22年2月28日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 

 今回は栃木県北部の大田原市(白鳥飛来地・座禅草群生地・那須与一ゆかりの史跡)を吟行した。当日は天気予報どおりの冷たい雨が降りしきり、霙もまじるあいにくのコンディション。しかしそこはそれなりに俳人らしく、万象あるがままに受け入れ、雨具の準備も怠りなくしっかりと楽しんできた。(参加者12名)
「羽田沼白鳥飛来地」
農業用貯水池のような何の変哲もない小さな沼だが、白鳥観察のための小屋とトイレが整備されている。近くに農産物直売所や露店がでているのも時節柄であろうか。
春から夏の間に北国の水辺で産卵・子育てをした白鳥は、冬が近づくと越冬地を求めて南下し、日本の各地に飛来する。栃木県大田原市の羽田(はんだ)沼にも、例年約百羽の白鳥がやって来る。吟行当日は93羽の飛来が公示されていたが、実際には2羽しか見られなかった。残念。

土地の古老の話では、近くに水を張った水田があり、そこに移動して餌を摂っているのだろうとのこと。冷たい霙まじりの雨の中、2羽の白鳥と100羽を越える様々な種類の鴨を観察しながら、白鳥の主力部隊の帰還を待つも・・・タイムオーバー。くだんの農産物直売所で人参やキャベツ、蕗の薹などを買い込み、次の吟行地へ移動。
「北金丸座禅草群生地」
座禅草は水芭蕉に似た多年草で山中の湿地に生える。2~3月、葉に先だって高さ10~20cmの仏炎苞(ぶつえんほう)に包まれた花を現わす。 この花の形が座禅を組む僧に似ていることから座禅草の名がついたという。
「座禅草」
北金丸の座禅草群生地は那須野ヶ原扇状地の湿地帯に位置する。この地域、近ごろは栃木テレビなどのメディアでも喧伝されて、県内ではよく知られている。二十年前に吟行で訪れた時は農家の庭先をお借りして遠慮がちに拝見したものだが、今は大田原市観光協会の巨大な看板や駐車場・トイレが設置され、多くの客が訪れているようだ。

先師西本一都先生に「座禅草苞に奈落の色もてる」という御句があるが、恐らくこの地で詠まれたものだろう。同時期に鶴見一石子さんの「座禅草天衣無縫の座なりけり」もあり、 座禅草俳句はなかなかにハードルが高い。整備が届きすぎて、座禅草の自然の在り様を見たい向きには多少の不満も残ったようだ。だがそれは後刻配慮するとして、とりあえず近くの道の駅「那須与一の郷」へ。隣りに那須神社があるので昼食を摂りながらの自由吟行。
「那須神社」
那須神社はとにかく古く、由来では仁徳天皇(313~399年)時代の創立とされる。また延暦年中(782~806年)に、征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀り、八幡宮にしたと伝えられている。その後、那須氏、大関氏(黒羽城主)の崇敬を得、天正5年(1577年)には大関氏により、本殿・拝殿・楼門が再興されたとある。

那須与一が奉納したといわれる太刀や、春秋の例大祭に奉納される太々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事などが有名とされるが、今回は何となく静かな古社のたたずまいを鑑賞するのみ。
「那須与一の墓」
那須与一の墓はその数奇な運命ゆえに各地に存在する。しかし今回吟行した玄性寺は与一の生まれ故郷に程近いので与一の墓という実感がある。

玄性寺は京都東山の即成院に埋葬された那須与一の分骨を受けて、当時の那須家当主が建立した功照院が始まりで、後に功照院は廃寺となり、天正18年(1590年)那須藩主となった那須資景が玄性寺として再建したのであると、フリー百科事典にある。

寺域の奥まった中腹に「記念物 那須氏墓碑七基 史跡」として、形の異なる古めかしい石塔が七基並んで祀られてあり、そのうちの一基が与一の墓であるらしい。

登る時は気づかなかったが、与一の墓域を下る途中に小さな谷があり、山水が滲みだしている。そこに何と色あざやかな座禅草が背中を見せて鎮座しているではないか。その大きいこと。手入れされている風はなく、全く自然の有様なのだろう。ため息まじりでしばし眺める。

案内人は更にサービス精神を発揮して近くの山中にご案内。見事な座禅草の株立ち(写真参照)でした。
宇都宮に戻っての句会場は生涯学習センター。日曜日ともあって混雑。隣室ではオペラの稽古。凄まじい美声がダイレクトに句会場に響いてくる。それはそれなりの句材ではあるのだが、出句時間も迫っておりそれどころではない。しかしオペラ稽古者の時折り発する断片的奇声には思わず「クスリ・・・」でした。


「《座禅草・白鳥吟行作品集」(五十音順)》

雉立つや那須岳の雲打ち払ひ
梅ひらく那須の与一の眠る墓
それぞれの向きを信じて座禅草
苞閉じて雨にこごまる坐禅草
拳ほど与一の寺の蕗の薹
春泥を来て菰敷の太鼓橋
落葉分け母衣あぐ那須の座禅草
座禅草納屋に休める猫車
春の鴨動きて沼の流れけり
雨伝ふしだれ桜の芽のほつと
目に馴れてより座禅草そこかしこ
座禅草孤高に立ちて寄り添へり 
阿部晴江
安納久子
宇賀神尚雄
大野静枝
小川惠子
加茂都紀女
柴山要作
中村國司
星揚子
星田一草
松本光子
本倉裕子

円坐A「浜名湖北の宝林寺吟行」
平成22年2月21日実施  
円坐A 坪田旨利

  空模様が少し心配な2月21日(日)の朝、西鹿島線の新浜松駅に円坐Aの14名が集合。皆さん、久しぶりの吟行を心待ちにしていたのか集合時間前には全員がそろいました。日曜日の朝の駅は人影も少なく、ホームは我々の声で一杯です。
 7時48分に新浜松駅を出発。途中乗車の2名を加え、メンバーは総勢16名に。西鹿島駅で天竜浜名湖鉄道に乗りかえ、今回の目的地である宝林寺を目指します。
 天竜浜名湖鉄道に乗ったあたりから、メンバーの目も次第に輝き、ペンを手にとる方、メモ帳を広げる方がぽつぽつと。聞こえてくる会話も、他愛のない世間話から、いつの間にか「あれは梅?」、「あ、どぶさらいしている、春の季語でよかったっけ?」など、俳句談義に。俳句歴1年余の私はちょっと冷や汗が流れ始めました。
9時過ぎに金指駅で下車。ここから20分程度は徒歩の旅です。すっきりとした青空は見ることはできませんでしたが、気候は意外に暖かく、よく見ればコートを羽織っていない方も。暦に遅れながらも確実に春が来ていることを感じます。この感じをどう俳句にするか。季語の選び方、言葉の組み合わせ方――俳句の醍醐味である一方、常に頭を悩ませます。
10時に宝林寺に入場。宝林寺は江戸時代の初期に、この地を治めた近藤貞用公が明国の僧独湛禅師を招き開創された寺院。約350年の歴史を持つその境内には、中国様式の仏殿や菩薩像、叩けば商売繁盛をもたらすといわれる金鳴石などがあり、俳句を詠むのには十分すぎるほどです。また、梅も旬を迎えたのかよい香りを漂わせており、こちらでもよい句が読めそうな予感がします。
紅梅の側で記念撮影の後、約1時間の自由時間。3句の俳句を提出するために、皆さん境内の色々なところへ散らばって行きます。菩薩像にじっと見入る方、梅をながめる方。ベンチに座ってじっと考える方。金鳴石を叩く音も聞こえてきます。
 あっという間に時間は過ぎ、愈々句会へ。3句投句の5句互選です。選句の間聞こえてくるのは「みんな、上手いなあ」という感嘆のため息ばかり。その中に自分の句はあるのか、ちょっと気になります。芙美子さんによる互選と上村均代表選の披講が終り、続けて各々の感想と批評に移りました。「今日はいい句が多かったね」という言葉で締めて、句会は無事終了。
 句会後は、昼食のため鰻屋によって全員で鰻に舌鼓。個人的には、鰻よりも1杯のビールが美味しかった。ここでも改めて、今日の俳句の批評。お酒が入っている人がいるせいか、先ほどよりも元気な声が飛び交います。
 昼食終了後は、金指駅で解散。家路をたどる方々、さらに俳句のテーマを求めて、旅を続ける方々と様々でした。

梅咲くや丘のなぞへに家集ふ
春の旅笑ひの箍の外れをり
茅葺の古刹色取る枝垂梅
連れ立ちて寺宝訪ぬる春ひと日
宝林寺下枝(しずえ)の高き藪椿
春水を一汲みしたり竹柄杓
髭分けて見付けし笑顔龍の玉
方丈へゆく坂蕗の薹ふたつ
金箔の並ぶ菩薩や春日和
雲間より日矢のさしきて春障子
春浅き湖北の寺の唐菩薩
誰もゐぬ学び舎の隅梅芽吹く
冴返る金鳴石の音もなほ
冴返る弥勒菩薩の指の先
梅東風に揺るる一輌電車かな
誰もゐぬ改札口や冴え返る
上村 均
阿部芙美子
今村 務
今村文子
大城信昭
大村泰子
河合ひろ子
栗野京子
斉藤くに子
佐藤升子
鈴木 誠
坪田旨利
松下葉子
三岡安子
弓場忠義
依田照代


遠州鉄道車中にて。

天竜浜名湖鉄道に乗り換え。

金指駅より国道362号に沿って歩く。

宝林寺境内は梅が満開。

こけら葺きの宝林寺本堂を背景に全員で。

本堂内の諸仏諸菩薩。

方丈にて句会。

平成21年(浜松白魚火) 円坐合同忘年句会
平成21年12月13日実施
円坐A:鈴木 誠 

 平成21年度の円坐忘年会がA,B,C合同で例年のごとく浜松名鉄ホテルにて12月13日開催されました。当日9時20分より、受付が始まりましたが、今年は参加者が多く、総勢37名で大変盛況でした。そんな中皆さんの集まりも良く、10時きっかりに予定通り句会は始まりました。そして、仁尾先生のお話もそこそこに、ひとり5句の選句が全員で行われ、何時もの名調子で阿部芙美子さん、青木いく代さんによる披講がなされました。それから、仁尾先生を初めとする各先生方による入選句、特選句が発表され、特選を取られた方には記念品が授与されました。今年は例年に無く男性軍の奮闘が目立ちました。
そうして句会は2時間で終わり、いよいよ12時からは第2部の宴会が始まりました。総合司会は大城信昭さんです。鰻の寝床のような部屋にA,B、C、Dと円テーブルが4卓用意されており、皆さん、くじを引いてテーブルを選んで頂きました。どのグループも一つテーブルにまとまる事無く、和気藹々の中、まず仁尾よりご挨拶を頂き、栗田幸雄さんの乾杯、それから今年入会した人たちの3人の挨拶、そして「それでは片手落ちだ」と15年以上のベテランたちも挨拶をされ、いよいよアトラクション満載の楽しい宴となりました。最初は大橋瑞之さん恒例の歌ゲームがありました。何時もの事ながら、会場の雰囲気を一気に盛り立てくれました。その後は、4つの各テーブル毎にチームで即興俳句を作り、その出来を競うゲーム(最人気はCテーブルの「実年齢七掛けにして忘年会」)や、弓場忠義さん出題の正月や七草に因んだ難読漢字(()()(ちょう)蘿蔔(すずしろ)など)クイズ、などが行われ大変盛り上がりました。カラオケも仁尾先生を初め大勢の方が自慢の喉をご披露されました。そうして、最後に全員で”星影のワルツ”を大合唱して、円坐の一年を締めくくりました。


句会 選句中の仁尾先生


宴たけなわ。 右側が筆者。

輪になって
"星影のワルツ"を歌う。

      同左


参加者37名全員で。

選者詠
湯豆腐や地酒の銘は男山
見当の大きくはづれ魞の出づ
糸巻きの母に手をかす小春かな
冬日燦カーナビになき道走る
仁尾正文
上村 均
織田美智子
清水和子

仁尾正文特選句中ベスト五句
鱩(はたはた)の押し寄せてくる海の色
日向ぼこ内緒話でなくなる日
遠来の魂消てをり空つ風
毛糸編む母さんの手はまはふの手
水仙の香のまつすぐに届きけり
栗田幸雄
塩野昌治
清水純子
佐藤貞子
林 浩世

参加者句集
流さるる鴛鴦の横顔ばかり見し
楽器屋の飴色のチェロ年惜しむ
交番やポインセチアの忘れ物
ゆく河の流れは絶えずして師走
賞与出て思ひ切り買ふ宝くじ
迷ひなく慣れし三年日記買ふ
帽子かけに脱ぎし冬帽掛けにけり
襟巻をしかと結んで女学生
先生と声かけらるる十二月
マスクして忽ちくもる眼鏡かな
マフラーをくるりと捲いて星の夜
寄せ鍋や海鳴り高き寄合所
年の暮表通りと裏通り
定年の柔和な顔に冬帽子
人前を憚る嚏続けざま
声かけてみたくなりたる浮寝鳥
病癒え極太筆で賀状書く
振り向きて夜叉になる面神楽歌
神主も巫女も総出の年用意
極月の門先ふさぐ道普請
趣味違ふ夫と夜寒の灯を分かつ
あはあはと夕日止むる枯葎
蕎麦掻きやむかしむかしの大家族
西空に日差し戻りて冬の虹
あちこちの落葉溜りの広ごりぬ
冬ぬくし電車乗る人虫を連れ
冬の雨工事現場のクレーンも
へつらへばそはさびしげにほほかぶり
佐藤升子
大村泰子
依田照代
大城信昭
阿部芙美子
河合ひろ子
村松ヒサ子
加藤ヤスエ
青木源策
伊藤寿章
弓場忠義
高部宗雄
青木いく代
鈴木けい子
今村 務
斉藤くに子
江良栄子
宇於崎桂子
大石正美
三井欽四郎
大橋瑞之
今村文子
榛葉君江
鈴木 誠
増井 修
三島すさ
土斐崎秀
柳井英子

栃木白魚火有志「藤岡町史跡と谷中村跡地吟行句会」
平成21年10月25日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 

今回は栃木県南部の県境に位置し、群馬・埼玉・茨城の各県と隣接する藤岡町の、「田中霊祠」「藤岡神社」「藤岡城址」「篠山貝塚」などの史蹟と、田中正造翁で有名な「谷中村跡地」を、渡良瀬遊水池の晩秋の自然鑑賞をかねて吟行しました。
参加者は13名です。
「田中霊祠」
鉱毒被害の原因は洪水によるもの、とする時の政府が、洪水対策として“新”渡良瀬川を開削しましたが、その残土を盛り上げた場所に「田中霊祠」はあります。

この地は、南に“新”渡良瀬川、東に渡良瀬遊水池が接し、北西背後に鉱毒事件の原因となった足尾銅山跡の山々がひかえています。

有志・同志の手で建設されたらしい「田中霊祠」には、田中正造翁の5分骨のひとつと、正造婦人の「カツ」が祀ってあるとされます。

さほど古くない鳥居や、有志連名の巨大な石碑が、樹齢数十年の欅のもとに鎮座し、民家と社殿の中間のような造作の堂舎が、やや鬱然と建っています。

神社や寺院のような、氏子・檀家の存在しない「田中霊祠」は、十分に管理されているとは言えず、樹木の枝は放埓に伸び、屋根には枯葉がこびりついたままでした。

真赤な烏瓜が植木にぶら下がり、愛嬌を振りまいているなどは、この地の趣を象徴しています。

しかしそれは逆に、俳句の素材を提供してくれることでもあり、俳句作家には親しみももてるようでした。
「藤岡神社」
藤岡・渡良瀬といえば、鸚鵡返しに谷中村・田中正造と返ってきますが、藤岡神社と言われて反応できる人は少ないようです。

しかし今回の吟行の目玉は、実はこの藤岡神社なので、まずは来歴を地域ケーブルテレビHPから紹介します。

「天慶三年(940)六所神社として創建された。天正五年(1577)四月本殿 拝殿とも消失につき同十八年(1590)社殿が再建された。その后、元禄七年(1694)本殿立替 正徳二年(1712)吉田家より正一位の神位の許可あり、文正四年(1821)紫岡神社と改め、また、明治八年(1875)藤岡神社と改称した。昭和五十六年(1981)一月、富士山本宮浅間神社 秋葉山本宮秋葉神社 伏見稲荷大社 諏訪大社 出雲大社 日光東照宮 各総本社の承認を得て常宝殿に奉祭する。」

羅災消失・再建・改名など、複雑な歴史をたどっていますが、創建は千年以上も前の、「土佐日記」や「伊勢物語」の編まれたころにあたります。

再建されたとは言え、その古さを物語るように、狛犬や灯籠などの奉納物に江戸時代のものが多く、安永・天明・文化・文政などの年号が読みとれます。

また樹齢380年の4本の欅はとちぎ銘木百選に選ばれており、樹肌が剥け、根元に大きな洞の開いた巨木のたたずまいは、荘厳ですらありました。
「芭蕉句碑」
境内を奥に進んだ左手に、林立する種々の石碑に混じって芭蕉の句碑が佇んでいます。弘化2年といいますから、165年も前の建立です。

「市人に いて是うらん 雪の笠」

と読みとることができますが、岩波版「芭蕉俳句集」には、

「市人にいで是うらん笠の雪」(笈日記)

とあるので、雪を売るのか、笠を売るのか、いささか戸惑いがあります。

句碑の読み方や、建立の来歴などは、現場で知りたいところですが、いまのところ詳細をガイドする標示板など見当たりません。

今回の吟行参加者でさえ、読み下しに困っていましたから、一般に訪れる人がこの句碑を見てどう読み解くのでしょうか。せっかくの芭蕉句碑なのですが・・・。

ま、句碑は句碑として、肝心な神社本体の来歴を標示する看板も木製で、文字がかすれ、読み取るさえ難儀します。

文化財保護という観点からは、前々回吟行の加蘇山神社同様に、藤岡神社も全く取り残されているようです。

営利に力を入れようもないこうした古跡は、法律の枠を越えて公共の力で保全しなくてはならないと感じます。

もっともいたずらに整備されていない故に、俳句作家にとって往古を偲ぶ格好の吟行地となるのでしょうけど。
「藤岡城跡」
藤岡城址は、何も無いただの小高い丘です。所伝では、「932(承平2)年に平将門が築城し花岡城と称したことに始まり、のち城主がかわるなかで、中泉城・藤岡城と呼ばれた」とあります。

100坪ほどの一角に真新しい鳥居が建ち、祠が2基並んでおり、その前面には菠薐草の畝が数条、青々と育っています。小菊が倒れぬように紐で括られ、末枯れの桑の木には烏瓜が真赤にぶら下がって華やかです。

どこにでも見られる山畑の風景の中に、平安の御世を驚愕させた平将門の乱史が秘められている。そう思うと平凡な景色が一変し、畑のうしろの窪地は広大な城濠と化して、戦陣が出現します。

遥か三毳の山並を縫うように押し寄せる朝廷の大軍。馬の蹄の音、舞い上がるs砂塵、轟々たる喊声が、平将門を追い詰めてゆく。白昼夢は尽きません。

城郭こそ無いものの、将門の時代、正にここが城であったこと、十分合点がいきました。
「篠山貝塚」
「縄文海進」という聞きなれない言葉が、縄文時代からの地球の歴史を繙かせます。つまり、縄文時代の気候温暖化により、海水の水位が上昇し、この藤岡町の南端部までが海になっていたというのです。

東京湾が栃木県まで進出してきた、それを奥東京湾というそうで、縄文人がその沿岸に居住していたのです。

いま地球温暖化が叫ばれ、インド洋の島々が水没する危機を訴えていますが、わずか6千年前のこととして、栃木県まで海が進出していたことに驚きます。

昭和から平成にかけて、縄文人の住居跡や貝塚が、藤岡町の随所に発見されましたが、そのひとつが学術調査を終えた篠山貝塚です。

縄文遺跡は藤岡神社周辺に大規模に発見され、発掘調査も済んで、土器や生産用具・装飾品・信仰遺物などの出土品が公開されています。

さて篠山貝塚の現況はというと、遊水池堤防の外側に、一基の標識がその存在を示すのみで、貝塚そのものは全く現代人の生活空間に組み込まれています。

この季節は白菜畑として貝塚が活用されていたのが印象的でした。
「谷中村跡地」
公害の原点としての足尾銅山と、鉱毒被害を受けた渡良瀬川沿岸の住民たち、問題解決に立ち上がった田中正造の闘争、そして廃村に追い込まれた谷中村そもの歴史はあまりにも有名です。

それらのことを「栃木県の歴史散歩」は以下のように説明しています。

「谷中村は足尾銅山鉱毒事件の際、田中正造を始め地域の人びとが、足尾銅山の操業停止などを求める反対運動を展開したが、渡良瀬川流域の鉱毒被害の原因が洪水にあると判断した政府は、鉱毒水を沈殿させるための貯水池として谷中村を候補地とし、土地買収を進めた。正造や谷中村民らの反対にかかわらず、1907(明治40)年に強制廃村され、遊水池となった村である」

遊水池の一角に「水塚」(みづかと読む)という築地の散見されるところが谷中村跡地で、展望塔に登ると、一面の葭原の所々に樹木が生い茂っているので判ります。

その「水塚」の上に屋敷が建っていました。

大野孫衛門屋敷跡、大野豊蔵屋敷跡、大野音次郎屋敷跡、岩崎正作屋敷跡などの標示が、旧主の実在を表しています。

いま「水塚」の上に建物はなく、土台の欠片も残っておらず、桑の木などが大きく伸びて、年月の経過を示しています。

忘れられたように稲荷様の祠が残っていたりすると、無惨の思いを共有させられます。。

村役場跡、雷電神社跡、延命院墓地跡などが広大な葭原に点在し、一本の標識のみがその所在を示すのもあわれでした。
「赤麻公民館」
句会場の赤麻公民館です。何かの手違いで鍵が開かず、係りの方が来るまで20分ほど待たされましたが、さすがに強もの揃い、寸刻を惜しんで俳句に磨きをかけています。

吟行にハプニングはつきもの。何があっても動じない作家魂は、先師西本一都ゆずりなのかも知れません。


《谷中村跡地吟行作品集(五十音順)》

葭の原杭一本の役場跡           安納久子
廃村の地図しみじみと秋の逝く       宇賀神尚雄
廃村の大樹の榎実を降らす         大野静枝
貝塚の貝鋤き込みて秋耕す         小川惠子
貝塚を均し冬菜の青き畝          加茂都紀女
四県を走りぬけたる葦の原         小林久子
遊水池色なき風を水平に          齋藤都
霊祠の碑小さく灯す烏瓜          高島文江
行きずりの古老に聞くや洪水史       中尾寿郎
将門の城址十日の菊ばかり         中村國司
文化十四年十九夜塔の末枯るる       星田一草
貝塚てふ貝しらじらと冬菜畑        松本光子
花八手貝塚跡の野菜畑           谷田部シツイ

円坐A「浜名湖細江 鯊釣り吟行句会」
平成21年9月20日実施
円坐A:今村 務 

 9月の4連休初日の20日(日)かねてより大城信昭さん達が企画していた鯊釣り吟行会が実行されました。
参加者は10名(円坐A8名、他2名)。場所は奥浜名湖に注ぐ都田川河口で、浜松北区役所を南へ約200メートルほど行った所。
この川岸の土手は春の姫様道中の松並木になっております。
朝9時に現地集合し、3時間余り釣りをしました。
川岸は既に早朝からの鯊釣りの人がずらりと竿を並べており、その盛況さに驚きました。
釣竿、仕掛、餌の準備はすべて大城さん、弓場さんにして頂きました。
お2人は釣り初心者ばかりの私達の世話(餌の取替、鉤の取替、糸がらみの処理、根がかりの処理等)で自分達は釣る暇もない有様でした。
釣果は期待に反して少なく今村の3匹が最高で他に2,3人が2匹ずつとさっぱり釣れず、
竿を投げ出す人もおりましたが、人の釣れるのを見るのも又楽しく、鰡がぴょんぴょん飛ぶのを見たり、鵜が浮いているの見たりと充分に釣り気分を味わうことが出来たと思います。
鯊もまだ小形で釣り上げた感触も軽く、虚子の「ひらひらと釣られて淋し今年鯊」を実感しました。11月頃にはもっと大きくなり手応えもあるそうです。

<向うに"澪標橋"を見て釣りに勤しむ。> <釣れた!>
<小振りな鯊ども> <仕掛付や餌付に忙しい世話係の二人>
絶好の鯊日和で日差しも強く女性たちは日焼防止に苦労の様でした。
鯊釣りは12時過ぎに切り上げ、昼食、句会場の「田園空間博物館」 (気賀関所西隣)に移動しました。
予約してあった幕の内弁当で昼食後早速句会(3句投句、5句互選)を 13時15分投句締切、阿部芙美子さんの互選披講、上村 均さんから代表選を頂き、14時頃に句会が終了しました。
予定より早く終りましたので帰途、姫街道沿いの喫茶店に立寄り小1時間談笑して解散しました。

<日焼け対策万全の女鯊漁師> <句会>

<参加者全員で>

《作品集(順不同)》

 川波へ竿が一閃鯊日和
 秋燕の飛んで鯊釣り歓迎す
◎鯊日和上げ潮に靴濡らしけり
◎鯊日和俄釣師の竿並び
 巻きあぐる鯊に重みのなかりけり
 釣り馬鹿の浮子ぺこぺこと鯊日和
○秋彼岸太公望の並びをり
 鯊釣の魚臭きを嫌ひけり
 釣竿の当りあらざり昼の虫
 湖に橋の弧映る秋思かな
○遠つ淡海外道の鰡を釣り逃す
上村 均
上村 均
村上尚子(槙の会)
大村泰子
今村 務
弓場忠義
林 浩世(円坐B)
阿部芙美子
佐藤升子
栗野京子
大城信昭
      ◎は上村 均選 特選、○は同入選 の夫々一部

栃木白魚火有志「生子神社泣き相撲吟行句会」
平成21年9月20日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 

 今回は、鹿沼市樅山町の生子神社の「泣き相撲」を中心に、鹿沼市内を吟行してまいりました。鹿沼からは4名の皆さんが参加しますが、すでに到着して泣き相撲を楽しんでいるようです。

宇都宮からの10名は、大混雑の田んぼ道に路上駐車(むろん係員の誘導による)して、禊場を見てから土俵(生子神社社殿のあるところ)に向かいます。禊場の周辺は彼岸花の真っ盛りで、稲穂も黄熟し、柿が色づきはじめ、蕎麦の花も満開。何よりも真青な空と爽やかな微風に恵まれ、なかなか離れがたいところでした。

『生子神社泣き相撲』
生子神社の「泣き相撲」は毎年9月に実施される氏子の祭礼ですが、近年は大いに喧伝されて市内・県内はもとより、全国から選手を擁した千数百組の家族連れが集まります。

白い鉢巻を巻いた0歳~3歳までの幼児(実際は2歳未満ですね)が、大人の力士に抱きかかえられて土俵に上り、元気な泣き声を競うという奇祭で、国選択無形民俗文化財、鹿沼市指定無形民俗文化財に指定されています。

不安そうな面持ちの幼児を連れて、若い両親や爺ちゃん婆ちゃんなどが一団となり、指定された取り組み時間に間に合うよう、参道の石段を登ってゆく姿はほほ笑ましい限りです。

群衆がとり巻く仮設の土俵、手ぬぐいを鉢巻にした幼児の勇姿、その介添えをする力士の褌、盛んにシャッターを切る若い父親、泣きじゃくりつつ親のふところに飛び込む幼児、実見しなければ伝わらない光景が続きます。

安産子育ての守護神を祀るとされる生子神社に、子供の健やかな成長を祈願する親心は十分に共感できます。実は20年前に私の子供も泣き相撲に参加しましたので。  
<土俵全景> <行事呼出し>
『光太寺芭蕉笠塚』
奥の細道の曾良随行日記、三月二十九日に「同晩 鹿沼ニ泊ル」とありますが、鹿沼のどこに泊まったのか定かではありません。

しかし口碑伝承により、鹿沼の西の寺、すなわち曹洞禅寺の光太寺に一夜を過ごしたものと伝えられています。芭蕉はここを出立のおり、笠の雨漏りを案じて新しい笠に替えたといいます。

芭蕉の死後、光太寺の関係者が供養のためとして残された笠を埋め、笠塚を建立したとあります。

吟行当日は秋彼岸の入りで、寺は人の出入りも多く、香煙が絶え間なく流れて厳かな雰囲気でした。しかし芭蕉の笠塚を意識してお参りするような人はありません。

光太寺は芭蕉の時代は無住であったといいますが、いまは大きな幼稚園を擁して繁栄しているようです。笠塚がいつまでも安寧であることを祈りたいものです。
           <芭蕉笠塚>
『掬翠園芭蕉句碑』
明治・大正期、鹿沼の屈指の豪商であった長谷川氏の造営した日本庭園が、公共の財産として保存公開されています。それが「掬翠園」です。

その園の中央に「入あひのかねもきこへすはるのくれ」という芭蕉(風羅坊)の句碑が鹿沼史談会によって建立されました。

この句は、松尾芭蕉が鹿沼に一泊したおり吟じられたとされています。

句碑の文字は出光美術館が所蔵する芭蕉の真蹟を模刻したとのことで、「田家にはるのくれをわふ」という前書は省かれていますが、とても美しい句碑に仕上がっています。

ちなみに岩波版の芭蕉俳句集488番に、曾良書留として、「入逢ひの鐘もきこえず春の暮」が載っております。また、補注には真蹟懐紙の存在を示唆して前書も紹介されています。

真蹟に使われている「風羅坊」という芭蕉の俳号もめずらしいものとされ、鹿沼の何処に芭蕉は泊まったのか、という積年の謎とともに、興味をそそられます。
          <芭蕉句碑>

<全参加者>

《作品集(五十音順)》

笠塚に声やはらかに秋の蝉       
悠然と笑ふ子もをり泣相撲       
豊の秋綿菓子の綿よくふくれ      
蕉翁の句碑に触れもし秋麗       
一畝は捨て蒔らしき蕎麦の花      
泣き相撲に適ふみごとな泣きつぷり   
秋日の斑毛虫のなぞる芭蕉句碑     
大泣きをして抱きとられ泣き相撲    
禊場に幣新しく曼珠沙華        
爽やかや日の斑の揺るる芭蕉句碑    
炎の字集むるごとく曼珠沙華      
呼び出しはみなちやん付けに泣相撲   
顔よりも大き鉢巻泣き相撲       
土俵から降りて笑ふや泣き相撲     
安納久子
宇賀神尚雄
大野静枝
小林久子
齋藤 都
柴山要作
鷹羽克子
田原桂子
中尾寿郎
中村國司
星 揚子
星田一草
松本光子
丸田守

栃木白魚火有志「加蘇山神社周辺吟行句会」
平成21年8月23日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 

 今回の有志吟行句会は、鹿沼市西北部の加蘇山神社下宮と、その近辺に開発されつつある南摩ダムの工事現場、そこに取り残された梶又小学校跡(廃校舎)をあわせて吟行しました。
<梶又小学校跡(廃校舎)>
梶又小学校跡は鹿沼市西部の上久我地域(田原桂子さん宅あり)から峠を越えて南摩地域へ抜ける道筋の南摩ダム建設地内にあります。

南摩ダムは堤高87m、貯水量5100万立方mの計画と聞きます。現地の標高は200m前後と低く、川も細いので、ダムとしての有効性に疑問が投げられています。竣工予定は平成22年だそうですが、あと1年で完成するようには見えません。

本日は日曜日のため工事は休みですが、谷あいの県道沿いのあちこちに工事用のプレハブが建ち並び、金網に仕切られた敷地にはさまざまな建設用機器が格納されています。周囲の山並のそこ此処が削り取られ、茶色の地肌を剥き出しにしている様は常ならぬ光景でした。

梶又小学校は平成16年春に最後の卒業式が行われ、2人の卒業生を5人の在校生が見送ったそうです。それから5年を経過しましたが、木造校舎は草叢の中にまだ残っており、国旗掲揚塔や鉄棒、ブランコ、鳥小屋などが秋草に覆われながらも形をとどめています。二宮金次郎の像が夕顔の花に隠れて、顔だけ出していたのが印象的でした。


また一部のガラスが破れた教室の中には、机や椅子のほかに、地球儀や図書類が使える状態で雑然と放置されているのも異様な光景でした。

県道沿いに建っていたはずの家々は跡形もなく消え、その敷地は秋草に覆われ、百日紅や木槿などの庭木が今を盛りと花を咲かせています。残された孟宗竹の一叢がそこに人の住居の在ったことを訴えかけるように秋風に戦いでいました。

南摩ダムの水没予定戸数は76戸。住民移転は完了したと聞きます。住宅もすべて取り壊され、唯一、梶又小学校校舎跡が目につく形で残っているのです。
<石裂山加蘇山神社>
石裂山(おざくさん、標高879m)は、古くは修験道の霊場でした。「加蘇山神社」は、神護景雲元年に勝道上人が開山したといわれる由緒ある古社で、磐裂命(いわさくのみこと)、根裂命(ねさくのみこと)、武甕槌男命(たけみかづちのみこと)の三柱の神を祀り、五穀守護、武勇の神として古くから知られています。「陽成天皇の元慶二年九月一六日下野国加蘇山神に従五位下を賜う」と三代実録に記載してあるそうです。


「加蘇山神社」は、もともと奥ノ院が本殿でしたが、山が険しく、参拝が困難なため、文化11年(1814年)に遙拝のための「下の宮」を建立し、その後の明治44年(1911年)に「下の宮」に本殿を造営して今の配置なったようです。

 今回の吟行では、本格登山道である奥ノ院や「千本桂」には行きませんでした。 その代り、神社近くの薬師堂の奪衣婆(だつえば)の石像を見たり、地元の田原桂子さんのご紹介で、句会場に蕎麦屋さんをお借りしたりと、楽しく美味しい吟行句会になりました。
残暑の厳しい日、12名の皆さんの参加でした。

《作品集(五十音順)》

老杉の梢秋天突きぬけし     
秋じめる大杉の磴登りゆく    
青苔を被て神杉の八百年      
露草や空の色してゐたりけり    
夏逝くや山変りゆくダム現場   
秋桐草社殿の脇の獣径       
廃校に残る地球儀鬼やんま     
葛の花ダム水位標きはやかに    
ダムとなる一村なりし竹の春    
秋海棠咲きて杣家の軒低く     
一山を包む水音さるをがせ     
印結ぶ石仏の前水引草 
安納久子
宇賀神尚雄
大野静枝
小林久子
斉藤都
柴山要作
高島文江
田原桂子
中村國司
星田一草
松本光子
谷田部シツイ

栃木白魚火有志「山あげ祭り吟行句会」
平成21年7月26日実施  
栃木県白魚火会宇都宮支部 中村國司

 7月23日の夜から26日の夜まで4日間にわたり、山あげ祭奉納余興が那須烏山市で催されました。
 栃木白魚火会有志の吟行句会は、最終日の26日に14名が参加して行われましたが、折からの猛暑に悩まされる厳しい一日ともなりました。
豪雨の懸念ありでしたから、猛暑はまだしもとして我慢しなければなりませんが、それにしても、日陰のない舗道での3時間余の立ちっぱなし吟行は身に堪えるはずです。「この暑さじゃ俳句などできないよ」という呟きがそちこちから聞えてきます。麻雀で言うところの「三味線」=「フェイント」であれば良いのですが。
 10時近くに会場に到着し、まだ何事もないので、近くの善念寺の常盤潭北の墓を探してお参りしました。しかしすぐに祭囃子が聞えてきて、心ここにあらず。モードは「山あげ祭」ですから、大急ぎで会場に戻ります。
常盤潭北は、与謝蕪村の師であった早野巴人の竹馬の友。俳句にゆかりのある人物です。決して軽んじるつもりはないのですが、今日はご容赦を。
10時半。会場となる道路に戻るとさまざまな物資が搬入され、雑然と作業が始まっています。ある一角では車座でビールを飲んでいます。すでに一幕を終らせてこの会場に移動したのでしょう。何となく勢いを感じます。
 舗道上は40度くらいあるのでしょう。ビールの泡が煮え立つように見えます。
 そんな猛暑の中、高々と「山」が起ち上がり、移動式舞台が整い、客席に折りたたみ椅子が並べられ、炎天下の楽屋に役者が揃い、御囃子、祭笛、常磐津の三味線などの音色が流れると、いやがうえにもこころ浮き立ち、彼方此方動き回っては句材を探して歩くのでした。むろんそのとき、「この暑さじゃ俳句などできないよ」と言った言葉は忘却しています。
街頭で電話会社の配る無料の団扇を、ほとんどの観客が手にしてしきりに扇ぎ開演を待ちます。 その情景が、寄せては反すさざなみのように見え、妙な涼しさを感じたのは、感覚が灼熱で麻痺していたためかも知れません。
 観客の立場にしてその感覚ですから、奉納歌舞伎の演者や常磐津方などはなおさら、その重厚な衣裳を纏うことによる暑さの半端でないことがわかります。同情を禁じえません。

 本日11時半からの演目は「将門」です。町の案内文によれば次のようになります。
「将門」(忍夜恋曲者): 天保7年(1836年)初演 : 所要時間45分
 平将門滅亡の後、その娘、滝夜叉姫は、ガマの妖術を使って再興を図ろうとします。討伐に来た大宅太郎光國を色仕掛けで味方に引き入れようとしますが見破られ立回りとなります。
この曲は、浄瑠璃も踊りも最高傑作とされる曲であり山仕掛けとも調和するので山あげ祭りには最も数多く演じられております。

 山あげの資材搬入から、舗道上の組み立て、設営完了、開演までの所用時間は僅か1時間ほどでした。驚くべき手際です。それらの作業を統制したのは、拍子木と笛でした。さしずめ木頭、若衆頭(ここでは主任と呼んでいた)の宰領でしょう。当番町の面子もあり、十分に気合が入っています。伝統の力を感じます。
本日は朝9時から夜10時過ぎの笠抜まで、所を変えて5回もの上演をします。昨日も一昨日もそれを繰り返し、都合18回も上演するというのですから、烏山の山あげ祭とは恐るべきパワーの噴出であります。

 暑い暑いと言いながら瞬く間に時間は過ぎて、「将門」は終演。拍子木と笛の合図で一気に山や装置の解体が始まりました。

 次の演目を観たい気持ちを抑えて、午後は龍門の滝、太平寺を吟行し、烏山地内の冷房の効いた公民館で句会を行いました。作品は以下の通りです。

山あげ祭とはどんなものでしょう??

・・・今から450年前の永禄3年、この地に疫病が流行したが、時の烏山城主那須資胤(ナススケタネ)は八雲神社に牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀り災厄を避けた。その祭礼の奉納余興として、当初は相撲や神楽獅子が行われたが、やがて常磐津所作の野外歌舞伎「山あげ」が行われるようになった。

・・・山あげの「山」は狂言の背景であり、観客の前に設えた舞台の後方、約100メートルの道路上に、大山、中山、前山を立て並べ、また、館、橋、波などを配置して景色を作り、当番町の若衆たちが木頭の合図でこれらの山や景色を整然とあやつり、野外歌舞伎を盛り上げるのである。

・・・山あげ歌舞伎の演目は「将門」の他に「蛇姫」「戻り橋」「宗清」「吉野山」「三番叟」など多数である。

山あげ祭吟行句会作品集(五十音順) 

万物の声をひとつに滝仰ぐ
暑に耐ふる女歌舞伎の男振り
蛇姫の墓いまに守る夏木立
血がにじむ祭舞台を組む手かな
野外劇三千人の団扇風
一笛で解く山あげの灼け舞台
夏雲のうごきて山の動きけり
山あげのからくり舞台炎天下
額縁のなき風景画蝉時雨
そうめんのごと木ささげの実を垂らす
山あげの山に重なる雲の峰
滝風を受け滝壺へ幾曲がり
山あげの山擦り抜ける夏燕
野外劇張子の蟇の灼けてをり       
阿部晴江
安納久子
宇賀神尚雄
大野静江
小川惠子
加茂都紀女
小林久子
斉藤 都
高内尚子
鷹羽克子
中村國司
星田一草
星 揚子
松本光子


栃木白魚火有志
「古峯ヶ原、横根山吟行句会」
平成21年5月24日実施
栃木県白魚火会宇都宮支部:中村國司 

 気運があり、今年から月一回ほどのペースで有志による吟行句会を始めましたが、今のところこれという興行名はなく、したがって「栃木白魚火有志」ということでお便りさせていただきます。
今回は、栃木県中西部の古峯ヶ原から横根山へ、古跡、景勝を訪ねる吟行で、参加者は18名でした。前日の天気予報の全てが「大荒れ、所により雷」というもので、世話焼きとしては眠れぬ夜を過しましたが、当日参加者には相当数の「晴れ女」が居た(自己申告による)ようで、雨具を使わずに終日吟行することが出来ました。

以下簡単に吟行地を紹介し、参加者の当日句をご披露します。(文中、古峯神社HPを参考にしました)

《古峯神社》
古峯神社は全国に有名で、各地からの参拝客は年間を通して絶えませんが、そのわけの一つに「講」という強力な組織があるようです。古峯神社によれば、交替で代参を行う「講」の数は約二万を数え、崇敬者は二百万を越えるといいます。ことに春秋の代参時には、こうした参拝者が全国から集まり、ひときわ社頭を賑わすというのです。
今度の吟行は、まさにその古峯祭(例大祭)の時期に当り、広い境内の駐車場には、各地からのバスや自動車が密集して、吟行一行の駐車が致しかねる有様でした。
また今回は、吟行句会が初めてという二人の若手の参加があり、神杉にまとわる山藤の気品ある姿や、若楓、花楓のみずみずしい輝き、奇怪な姿でありながら典雅な名称の「落し文」など、先輩たちの説明を聞きながら、二人ともに堪能しているようでした。(境内や社殿の中を巡って1時間ほど吟行)

※講とは
古峯神社を参拝するため、崇敬する人々が集まって組織する仲間のこと。講元・世話人が中心となり、古峯神社参拝に関する費用や総ての運営をその仲間の人達で行います。
※代参とは
講員の中から毎年、幾人か選出(くじに依る所が多い)し、講中の代表として古峯神社に参拝し、御祈祷の御札(おふだ)を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を授与する人のことです。

《古峯ヶ原・深山巴の宿》
 古峯(こぶ)(はら)といえば神社を想起しますが、その神社名は、正しくは「古峯(ふるみね)神社」といいます。古峯(こぶ)(はら)という地名の高原に神社が在るため、地元の者はコブガハラ神社と呼称しますが、これは正しくないようです。
その古峯ヶ原とは、神社を含む五百町歩にわたる広大な林野を云い、標高は千メートルにも達します。また日光開山の勝道上人が修行の場として三年間籠ったという、深山(みやま)(ともえ)宿(しゅく)なる古跡をその域内に有しています。(深山巴の宿は、古峯神社から自動車で十分余りの幽谷にあります)
爾来千年にわたり、日光全山二十六院八十坊の僧たちが、勝道上人の事跡にあやかるためとして、深山巴の宿を祈願・修行の場としてきました。しかし明治初年の太政官布告(神仏分離令)を契機に、この地での修験道は途絶えてしまい、現在では、古峯神社の禊所として使われ、また年に一度の供養祭が行われるのみとなりました。
しかし聖地であった往時の面影は残され、いまでも神秘的なたたずまいを見せてくれます。(河鹿の鳴きわたる谷川沿いから入り、深山巴の宿周辺を40分ほど吟行)

《前日光牧場・象の鼻展望台》
近年、町村合併があり、粟野町が鹿沼市に吸収合併されたため、足尾に隣接する横根山一帯に鹿沼市の道標が立つようになりました。
鉄ゲートの入り口を行くと、横根山の西麓を囲むように、広大な牛の放牧場が拓かれており、圧倒的な開放感を体感させてくれます。そこを前日光牧場といいます。もちろん多くの牛たちが、訪れる人々を観察しながら、鉄条網の中でのんびりと暮しています。
その奥に、小さな尾瀬として人気のある「井戸湿原」があり、春から夏にかけて、八汐つつじや様ざまな高山植物が咲き盛り、大瑠璃などの鳥類も多く観察されると云います。
今回は井戸湿原までは行かず、牧場の果てにある象の鼻展望台(なぜ象の鼻かは不明)から、日光連山や渡良瀬渓谷に連なる山並を眺望しました。正確には、眺望したが霧込めの山裾しか見られなかったと言うべきでしょう。しかし、足もとには舞鶴草が、目どおりには山つつじや白八汐、桷や木苺などが今を盛りと咲き誇り、飽きることがありません。
天候なりに見るべきもののある、これぞ景勝の地という感想です。(夏鶯の遠音近音を聞きながら、象の鼻展望台往復50分ほどの吟行)

《前日光ハイランドロッジ》
横根山一帯を周回する基点が、牧場の真中にあるこのロッジで、鹿沼市が関係する公営とのことでした。ここまでは自動車の進入が許され、多くの登山者たちの駐車場にもなるようです。
今回は句会場として提供していただく換わりに、ロッジの昼食を注文することにしました。全員が遅い昼食をはさみながら、出句、清記、選句をこなし、披講に入ったのは既に三時を過ぎていましたが、久しぶりの吟行の故か、老若男女(若はわずかです)最後まで元気に名乗りを上げて、無事に句会を終了し、ほぼ定刻の帰途に着いたのでした。

《作品集(五十音順)》

万緑や包み残せし籠り堂
触れてみる展望地図の夏の山
放牛の牛のつややか山若葉
一人降りバスは空つぽ麦の秋
白八汐開く花心のうすみどり
大鳥居くぐる万緑さらに濃し
雨気はらむ雲とふれ合ふ栃の花
若葉風天狗の間には届かざる
河鹿鳴く水ひつそりと流れをり
祈祷終へし畳のぬくみ走り梅雨
郭公や曇れる空の明るめり
太鼓もて祈祷始まり夏欅
万緑の牧を鉄条にて仕切る
初河鹿瀬音小さくなりにけり
仰ぎたる青嶺をまたぐ大鳥居
横文字の絵馬見つかりし青葉風
白八汐日光連山雲の中
落葉松の芽吹き新道墾かるる
阿部晴江
安納久子
大野静江
小川惠子
加茂都紀女
小林久子
斉藤 都
柴山要作
高内尚子
高島文江
鷹羽克子
田原桂子
中村國司
星 揚子
星田一草
本倉裕子
谷田部シツイ
山口菊女



深山巴の宿にて

円坐A 春の森町吟行記
平成21年3月29日実施  
円坐A 金原はるゑ

 私達円坐Aの有志14名は3月29日(日) 森の石松で有名な遠州森町へ出掛けました。森町はお茶と次郎柿が特産で花の寺が多く、紫陽花寺、萩寺、桔梗寺と呼ばれるほどであとは桜、菖蒲と春から秋まで訪れる人が多い処でもある。
 肌寒い朝でした。浜松社会保険センター前をバスで午前9時に出発し、最初の吟行地の「小国神社」を目指して国道を東進、程なくして田園風景である。所々に代掻きされた田や、鮮やかな菜の花盛りを目にしながら神社へ到着しました。きらきらと、せせらぎの流れを見ながら太鼓橋を渡り、大社造りの本殿や拝殿、舞殿のある境内へ、可憐な糸桜の大樹が美しく迎えて呉れました。祭神は「出雲大社」と同じ大己(おおなむちの)()(こと)大国主(おおくにぬしの)(みこと))とのこと。
 参詣を済ませたところで神殿へ向かって歩を進める、今から結婚式と思われる一団と出会いました。女性は深紅の振袖に髪には白い薔薇が飾られて、男性は背広姿でした。これから二人で築く人生の門出を、知らない方々ですが幸多かれと秘かに祈りました。 この一の宮には四季の花が沢山あるとの事、桜はまだ3分咲きですが、著我の花や石楠花も咲き始めており、藪蒟蒻(蝮蛇草)の珍しい花も見る事が出来ました。
 次は全国に3400余の末寺を持つ曹洞宗の古刹「大洞院」へ。ここは森の石松の墓所としても有名なところです。最初の墓は勝負事を好む人達が墓石をお守りにする為に削って持って行ってしまい、小さくなってしまったので、現在は三代目だそうです。幹事さんが屋台でほかほかの鯛焼きを買って皆に配って下さいました。
 次に車が向かったのはその昔「天方氏」の居城があったと云われる城下(しろした)の町並み。家々の建て方が珍しく街道に対して鋸の刃の如くに、ぎざぎざと玄関前が筋かっており、これは天方城への敵の侵入を防ぐため作られたそうで「武者隠し」とも呼ばれているとの事。隣町の春野町にある「火防せの神」秋葉神社への表玄関として栄えた森町にはたくさんの常夜灯が今も残っており、その一方通行の道を散策し乍ら、門先には春の花々の花壇が並び、燕が白い腹を見せながら巣を作ろうと飛び交うのを見、よく磨かれた千本格子の奥に春障子が締め切ってありました。
 その後森町の中心部より北へ約10㎞の山間地、海抜500mから600mはあると思われる杉木立の鬱蒼とした崖っぷちを通り抜け、小高く展けた日当たりの良い、立派な茅葺屋根が目の前に現れました。18世紀初めに建てられた旧家「友田家」で、平家の落人としてこの地へ移って来たという建物は国の重要文化財で構造は「片喰違い型」といい、間取りが特徴で「前座敷三間取り型」と聞くが、私などは梁の太さや部屋の佇まいなどに感心するばかりでした。車に戻り運転手さんからこの辺に限界橋というのがあって、人が住むにはこの辺までが限界だった様だと説明を受け昔は随分と不便な所だったと思いました。
 いよいよ昼食と句会をする森町三倉の「神楽坂・峠の茶屋」に12時30分頃に到着。明るい日差しの中を来たので一瞬部屋の中は暗さを感じましたが、すでに料理の並ぶ食卓の中央には大きな擂り鉢が一つ、でーんと置かれており山の中での御馳走は先ずとろろの山かけ、野菜の天麩羅、茶碗蒸し、里芋入り焼売、とろろ蕎麦、最後はとろろ御飯と盛り沢山で大満足でした。
 句会は午後1時30分より合評形式で始まりました。
披講者は阿部芙美子さん、合評句会進行は弓場忠義さんが担当、一人3句投句の5句互選で上村均さんからは代表選を頂きました。
芙美子さんの良く通る声にて明るい雰囲気で進行。採られた句の名乗りは直ぐにはせず、選をした人の感想、どこが良いと思ったか、何で採れなかったか等、作者が分らなければ結構厳しい批評もあり、最後になって作者が名乗るという今回のやり方は、私にとっては初めて経験でした。皆さんと同じ場所、同じ風景に出会いながらも上手に表現出来ずに過ぎてしまいましたが、句会の二時間は勉強になりました。
 帰りは太田川沿いに桜に雪洞が吊るされ開花を待つのを見ながら社会保険センターに午後5時頃到着しました。
 句が出来なくて辛い思いはありますが、何事も精進々々ともう少し続けたいし、初めて見る場所は楽しい事もありますのでこれからも参加したいと思います。
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     追記     阿部芙美子
 吟行の余韻醒めやらぬ有志8名は「浜松城公園の桜を見に行こう」でまとまった。まだ雪洞に灯の入らぬ明るさの中を花見客で賑わう公園を通り抜け桜に囲まれた天守閤を仰ぐ。この辺りは五分咲きで少し肌寒さを覚えるほど。「このまま解散するのも名残惜しい」と誰が言うともなく繁華街へと足を伸ばし、花見茶屋ならぬ隠れ家風の居酒屋『はなれ』に入る。そこで出された金目鯛の煮付けや小さな蒸籠に盛られた春野菜の蕗の薹、野蒜、筍、こごみ、椎茸やまだ柔らかな萱草の葉に舌鼓を打ちながら、2時間余りたっぷりと俳句談義に花を咲かせ、そしてそれぞれ帰途に着いた。

上村 均さん 作品

清流に花弁浮かぶ黄鶺鴒
薄ら日や花降りかかる宮参り

作品 

◎落人の里の花桃明かりかな 
◎燕来る武者隠しなる家並かな 
◎集落をつなぐ農道山笑ふ 
◎紅白の花桃競ふ茅の家 
◎水温む沢を跨ぎて太鼓橋
○石松の墓の足許すみれ草 
○道具屋の土間の明かりや花辛夷 
○春風の気儘に遊ぶ神楽殿 
○武者隠し軒先に咲く桜草 
  花影の句帳にありぬ峠茶屋 
  山桜続く坂道塩の道 
  常夜灯ある町並や初つばめ 
  糸ざくら宮の境内華やかせ 
泰子
芙美子
瑞之
安子
信昭
升子
忠義
ひろ子

葉子


はるゑ
      ◎は上村 均選 特選、○は同入選


小国神社にて全員。

重文 友田家。

『神楽坂・峠の茶屋』
にて昼食と句会。

浜松城公園にて2次会有志。
洒落た居酒屋
『はなれ』で2次会。

円坐A 新年会及び大村泰子白魚火賞受賞祝賀会
平成21年1月25日実施
円坐A 高橋ルミ子 

 厳寒の候、浜松白魚火円坐Aの新年句会が大村泰子さんの白魚火賞受賞のお祝いを兼ねて1月25日(日)浜松駅南のホテル「ルモンド」で行われました。
 当日は仁尾正文主宰をはじめ、円坐Bより織田美智子講師、円坐Cより清水和子講師をお迎えし、参加者総勢23名で、午前11時より午後2時過ぎ迄楽しい時を過ごしました。
 まず初めに主宰、講師による泰子さんへの白魚火賞受賞の祝辞が述べられ、泰子さんの実力からして、受賞は遅すぎる感ありとのことでした。
何はともあれ、円坐Aから白魚火賞受賞者が出た事を大変誇りに思います。 又円坐Aの期待の新人、坪田旨利さんから花束贈呈が行われました。
薔薇の花束を胸に抱かれた泰子さんの笑顔から、大村泰子講師の誕生も近いものだと感じられました。
 続いての句会は3句投句の5句互選、主宰には特選5句、入選10句をお願いし、3人の講師には入選5句で始まりました。阿部芙美子さんの手馴れた披講により会は順調に進められ、特選の方には主宰直筆の短冊が贈呈されました。
 句会のあと名カメラマンの大城信昭さんによる全員での記念撮影を終え、正午より新年・祝賀会が、円坐Aの最年長で年男でもある今村務さんの乾杯により始まりました。宴会で盛り上がる中、漢字当てクイズが出て景品をめざして皆さん頑張りましたが、誰も読めない難しい漢字が多々ありました。
 しかし、主宰はそんな皆が読めない漢字を全て正解され、改めて主宰の偉大さの一面を見せ付けられる思いをしました。
 そして、ゲームあり歌ありの楽しい時を過ごし、最後は大村泰子さんと大橋瑞之さんの美声によるリードのもと、「千の風になって」を皆で歌った後、鈴木誠さんの病気退院復帰直後とは思えない元気な声による三本締めで会はお開きとなりました。
 優しく気配りのある弓場忠義さんの名司会ぶりに、次回も司会をお願いしたいとの声がしきりでした。
 円坐Aは俳句だけでなく、いろいろと芸達者揃いのパワーのある人達の集まりだなあと改めて感じさせられた新年会でした。
 皆様のご協力により、無事に新年・祝賀会を終える事ができ感謝致します。

仁尾正文主宰 作品(3句)
雪安居猊下肚(げいかはら)より声を出す 
すずしろといへば七日の粥床し
寒あやめ紫紺の色を緩めざる

仁尾正文 選(○印特選)
○ 梅ひらくうれしきことにかく集ひ  
○ 初御空二羽の折り鶴舞ふかまへ   
○ 頂上や雲ひとつなき初景色  
織田美智子
河合ひろ子
織田美智子
○ 初旅やすぐに眠れる人(とも)し  清水和子
○ 喫茶店に小さな画廊福寿草    
    巻紙の祖父の花伝書淑気満つ    
    歌かるた意味も分らず覚えけり   
    早梅の鎌倉古道歩きけり      
    三代を生きて来りし年男      
    幾筋の潮目も黒き冬の海      
    冬晴や田を這ふ煙むらさきに    
    セーターを若草色に春隣      
    突然の己が嚔によろめけり     
    するすると木立の隙を冬日落つ   
    抹茶点てひとり寛ぐ女正月  
大橋瑞之
三岡安子
今村務
松下葉子
今村務
鈴木誠
栗野京子
渡辺千穂
栗野京子
上村均
今村文子

上村 均 選
雪安居猊下肚より声を出す    
早梅の鎌倉古道歩きけり     
喫茶店に小さな画廊福寿草    
抹茶点てひとり寛ぐ女正月    
仁尾正文
松下葉子
大橋瑞之
今村文子
大寒の仕舞屋(しもたや)前の床几かな 大村泰子

織田美智子 選
巻紙の祖父の花伝書淑気満つ  
雪安居猊下肚より声を出す  
検診の結果良好日脚伸ぶ    
恋歌の歌留多一枚宙を舞ふ   
喫茶店に小さな画廊福寿草
三岡安子
仁尾正文
高橋ルミ子
弓場忠義
大橋瑞之

清水和子 選
女正月朝寝朝酒旅三日   
雪安居猊下肚より声を出す
検診の結果良好日脚伸ぶ 
七草の粥のほのかに匂ひけり 
一礼も二礼も長き初詣 
弓場忠義
仁尾正文
高橋ルミ子
今村文子
斎藤くに子

一句抄
今生きる安住の地や福寿草  
凍雲の縁彩りて旭出づ    
寒空に読経の声は般若経   
しみじみと独り蕎麦食ひ年来る 
雪解けや屋根は市松如きなる  
除夜の鐘電子時計が共に鳴る  
番傘を戸口に並べ雪降れり 
金原はるえ
大城信昭
増井修
坪田旨利
依田照代
阿部芙美子
佐藤升子(欠席投句)


参加者全員。

句会風景。

乾杯!

 平成20年(浜松白魚火)円坐,B,合同忘年会
平成20年12月14日実施  
円坐C 塩野昌治

 12月14日(日)、浜松駅前の名鉄ホテルに仁尾先生を迎えて、社会保険センター浜松俳句講座の円坐A、B、C合同忘年会(参加者35名)が行われた。
 午前10時より12時までの句会(3句投句、内一名欠席投句)は、全108句の中から互選、講師選と進み、最後に仁尾先生の特選5句、入選句が発表された。
 一同緊張の一瞬である。特選句が発表されると、しばらく沈黙のあと拍手が巻き起こった。特選一位の大村泰子さんの「極月の梁に一挺火縄銃」は互選も高得点であり、季語の使い方と観察・描写の鋭さは大いに勉強になった。又、特選二位は初参加の清水純子さんであり、その「ぎざぎざ」がいいと先生から高い評価を得た。
 先生から特選句の丁寧な講評を頂いた後、「第二芸術論」にまつわるお話を聞かせて頂いた。月2回の講座で主宰から直接指導していただいている我々にとっては有意義なお話だった。
 緊張の句会から席を移して懇親会に移ると、気分もほぐれ談笑と恒例のカラオケが始まった。独唱、デュエットあり、中でも各グループ全員による合唱に会は大いに盛り上がった。壇上で歌が飛び交い、あっという間に時は経ってしまった。
 最後に、全員で「冬の星座」を合唱し、栗田幸雄さんによる締めで14時きっかりにお開きとなった。
今回円坐Cが慣れない幹事を仰せつかりましたが、皆さんのお陰で和気藹々のうちに終えることが出来たことをお礼申し上げます。

仁尾正文先生 作品

試飲して新酒を買へり下戸も買ふ
迫り上り大根裸身輝かす
柚子湯の香せる赤ん坊を拉致したし

仁尾正文選(特選五句)

極月の梁に一挺火縄銃
木枯や川ぎざぎざと灯を映す
忘年会猫なで声で留守頼む
橋守と二言三言麦芽ぐむ
くさめして逃げて行きけり福の神
大村泰子
清水純子
江良栄子
松下葉子
青木源策

上村 均選(特選五句)

極月の梁に一挺火縄銃
深深と明けゆく冬の障子窓
木枯や川ぎざぎざと灯を映す
峡深き南信濃の冬の虹
くさめして逃げて行きけり福の神
大村泰子
増井 修
清水純子
塩野昌治
青木源策

清水和子選(特選五句)

大空に一点の鳶蒲団干す
一望の田畑を抱き山眠る
橋守と二言三言麦芽ぐむ
日本中の神を戴き大熊手
一湾の闇をつんざく鰤起し
松下葉子
金原はるゑ
松下葉子
弓場忠義
栗田幸雄


参加者35名

句会風景。

懇親会。
瑞之(みづの)さんの歌唱指導風景。
司会席は筆者。

円坐B勢の斉唱。

懇親会の〆は一本締め。

円坐A
 晩秋の浜名湖遊覧吟行会
平成20年11月16日実施
増井 修

 空模様の定かではない11月16日(日)の朝に浜松駅前に参集。総勢16名は駅前より舘山寺行きの路線バスに乗り、浜松フラワーパーク前で下車。
フラワーパークの開園時間を待って入園。30ヘクタールの広さに3000種、10万本ともいわれる園内は手入れも良く行き届き、季節の菊作り、匠の技を思わせる菊花展やモザイクカルチャー作品の展示等もあり見応えがあった。また、ローズガーデンではバラ談義にも花が咲いた。園内周遊にはゴム車輪のフラワートレインを利用し説明を聞き乍ら探訪した。楓は未だ青いが欅はすでに黄葉が始まる。
 次いで次の目的地の奥浜名湖の瀬戸へ移動の為フラワーパークを出て
浜名湖遊覧船の発着所へ向かう。暫く待って乗船。湖上よりの眺めはまた格別である。途中舘山寺港へ立ち寄りまた湖上へ。その内突如、鴎の群れが現れ船尾や舷側の近くを乱舞し乍ら船に伴走。その数、数十羽である。(餌を求めてか付き従って来た。)この季節の風物詩であろうか。船はハマナ・コスタ港に接岸下船した。
 奥浜名湖は静かな佇まいを見せていた。釣り竿の並ぶ岸辺を散策して湖上に架かる瀬戸橋の袂近くの、今日の句会場である「松島館」に到着。
昼食時間には少し間があり降り出した雨に傘をさして周辺を探索、吟行をする。
 「松島館」に戻り昼食。生きの良い海鮮料理に舌鼓を打ちながらも句会へと移行。3句投句の5句選で進行。合評、鑑賞、撰者の均さんの解説、質疑応答等々、湖畔の宿の一室での吟行句会は和気藹藹の内に終了し帰途に着く。帰りは来た道を戻り夕暮れの浜松駅に帰着。解散し家路への人となった。

 寒釣りや雨はけぶらふ湖の波
◎散る黄葉盛る紅葉の中に立つ
◎借景の山一色に冬枯れて
◎内海の紅葉の岬観音像
◎残り雨落葉の道を踏みしむる
○出航の合図に散れる冬かもめ
○茎高く石蕗の花咲く花明り
○湖めぐる山並煙る時雨かな
○ひつそりと咲いても石蕗の花明り
○かもめ飛ぶ冬の桟橋賑はへり
○くひいるやうに十月桜見てゐたり
○人声に寄り来る池畔鴨の影
○寒風をじつと切りとる木立かな
 散山茶花の己が下丸く染め
 穏かな時流れ行く石蕗の花
 己の落葉に欅立ち尽くせり

◎は上村均選特選、○は同入選。
上村 均
文子
泰子
信昭
安子
芙美子
ひろ子

升子
くに子
照代

旨利
京子
ルミ子
忠義

フラワーパークにて参加者全員。

遊覧船「浜名丸」に乗船。

鴎が追い縋る。

猪鼻湖と浜名湖の間、瀬戸に架かる
赤と白の新旧瀬戸橋。

松島館で食事と句会。


         円坐A  西浦(蒲郡市)吟行記
平成20年9月28日実施  
三岡安子

 薄曇りの少し肌寒さを感じる朝、参加者18名は小型バスに乗り8時に浜松を出発しました。心配した道路の渋滞も無く西浦に10時到着です。西浦温泉は愛知県の三河湾の中ほどに位置する半島で周りが海に囲まれて大変美しい景色が続き、古くは万葉集にもその景観が詠まれています。「夕日が彩る丘」の上の芝生広場にある展望台よりヨットが浮ぶ海をみて「真実の鐘」を鳴らしながら記念写真におさまりました。
 その後「俳句の道」沿いに句碑の並んでいるのを見ながら石段を下り海へ出ました。砂浜を歩き穏やかな海を眺めて一句も良し、もう一つのコースは急な坂を上って行く「万葉の小径」で、万葉歌碑がたくさん建っています。
まだ紅葉には少し早い様ですが句帳にメモを取りながら深い木々の緑に心が和みました。
それから蒲郡市にもどり島全体が国の天然記念物に指定されている「竹島」へ橋を渡りそこには日本七弁財天の一つである「八百富神社」がありそこの自然林で遊ぶ人や鳥も視野に入れて作句しました。
 午後1時遅めの食事と句会の出来る旅館に到着し、冷めない様にとの心づくしのお弁当はおいしくいただきました。
午後2時投句〆切の3句提出、5句選で句会は行われました。同じ物を見て感じても人それぞれ、成程と思う事頻りで良い勉強になりました。帰り道も混雑はなく午後6時前に到着出来ました。時々うす日も差して風もなく吟行には良い天候でした。皆さん和気あいあいで何事もなく過ごした楽しい一日でした。

○ 秋冷の湾航跡の幾すぢも
○ さざ波に靴先ぬらす秋の昼
○ 爽籟の一湾望む丘に立つ
○ 秋冷の岩磯に遊ぶ漢あり
○ 小鳥来る展望台の鐘をつく
  雲垂るる秋の三河の浜に立つ
◎ 鴎飛ぶ渚に秋を拾ふなり
    時間気にして吟行秋の雲
○ 初鴨の川面を広く使ひけり
  秋濤の乾く間の無き礁数多
  そぞろ寒一度は鳴らす浜の鐘
◎ 万葉の小径にのぞく萩の花
  爽やかや風吹き渡る湾に立つ
◎ 山道を案内するごと赤とんぼ
◎ 絵のやうな一湾の景秋うらら
○ 一湾を分ける航跡秋の風
  新松子社叢の島の潮溜り
◎ 急磴を下りて潮の香葛の花
はるゑ
葉子
忠義
照代
芙美子



升子

安子
瑞之
文子
くに子

ひろ子
信昭
京子
   注: ◎は上村均選特選 、 ○は上村均選入選


西浦園地の「真実の鐘」の前にて。

西浦園地からの三河湾。

竹島への橋を歩く。

徳島・高知白魚火合同

 中尾酔花句碑建立式典記念句会
『胸襟を開く泰山木の花』
平成20年3月29日実施
徳島市 川﨑ゆかり

 2008年3月29日土曜日、明るい春空の下、徳島県神山町神領の幸福神社境内において故中尾酔花氏の泰山木句碑除幕式及び記念句会が行われました。
中尾氏は白魚火同人で、平成6年には新鋭賞も受賞されその実力と熱意で徳島白魚火会をリードしてくださいました。辛口の批評とはうらはらに、その俳句は命への限りない優しさに溢れ、すとんと読み手に伝わるすばらしい句をたくさん残されました。その酔花氏が旅立たれたのが平成14年12月。享年54歳のあまりに早すぎるお別れでした。
 今回、句友でもあり公私ともに親しかった石橋茣蓙留氏を中心とした徳島白魚火会有志と、氏のお母様の念願であった句碑建立が実現しました。高知白魚火会の方をお招きし関係者出席の元、除幕式、併せて記念句会を開くことができました。式典、直会の後、初心者も含めた和気藹々とした中での句会。氏を偲んでの句も並びましたが尽きない思い出話に、酔花評だとこれは取れないと言われそうだと冗談も。また、この日の出句は色紙に清書され、お母様により氏のご仏前に供えられました。皆の緊張するなあの声に、お母様曰く「朝が来たら、順番が入れ替わっているかもしれませんねえ」とのお言葉に笑いが起こり、和やかな雰囲気の中、解散となりました。

手酌してついつい過ごし花に酔ふ 
緑の酔花の句碑ができました      
蕗の薹の灰汁が身上酔花句碑       
直会に春を知らせてもらひけり      
句碑開く花に酔いまた酒に酔い      
山里に桜の香りと満員御礼        
土薫る土手に寝ころび春思う       
春一番伸びた鬣なびかせて        
麗らかや茣蓙留先生恵比須顔       
約束のしだれ桜が咲きました       
糸桜風吹くままに揺れにけり       
おめでとう句碑の建立春の風       
句碑序幕今降神の桜東風         
しだれざくらあめふるやうにさいている  
鶯や近くの山で鳴きにけり       
茣蓙留 
左 岩 
草 青 
あやこ 
ろだん 
幸福屋
新 人 
新 人 
久 子 
美冨士 
幸 子 
誠 至 
ゆかり
葉 月 
菜 央


         円坐A  春の浜名湖吟行鍛錬句会
平成20年3月15~16日実施  
大橋瑞之(みづの)

 「エッ、鍛練句会だって・・・・これは合宿なんだ。」と日程表を手にした時の一声である。句会は4回も組まれており、初めての体験である。
さて吟行会の足跡をたどってみよう。
3月15日(土)晴天の中午後1時、浜名湖ロイヤルホテルの駐車場に戦々恐々集合、参加者は日帰りの1人を入れて17名である。
早速4台の車に分乗しドライブとなった。まずは舘山寺近くの村櫛海岸を散策し、ウインドサーフィン潮干狩り、海苔粗朶などを目にする。次は舞阪弁天島の今切口へ移動、波荒いなか鯛を釣る人や若布を取る人達を眺めながら先端までを歩く。
最後は雄踏町にある重要文化財の中村家住宅を見学し、家康の時代の歴史の話を聞く。
ホテルに戻り第1回目の句会が始まる。兼題に「光」が出て、3句投句の5句選。緊張と不安の一時であったが、皆吟行中は結構話をしていたのに、しっかりと句を作っているのに感心させられた。
しばし休憩のあと懇親夕食会。今までになく盛り上がりスピーチ、歌、歓談、踊り、ゲーム等おりなす大宴会で時間延長となる。
大宴会後寛ぐ間もなく、ある1室にて夜の句会に入り2句投句の3句選。
これは自由参加とはいえ全員に近い中、徹夜も辞さぬ程の気勢の上がった句会となった。
句会後は有志が残り酒盛りとなる。

3月16日(日)7時朝食バイキング。満腹感の後すぐにバイキング場のテーブルを寄せて2句投句の朝食句会。昨夜の疲れも何のその必死の中にも楽しんだ人もあり。
9時過ぎにホテルを出発。先ずは弁天島の渚園にある体験型の水族館「ウォット」にてしばし対話。
次に舞阪に移り、松並木の遊歩道を散策し、灯台や、戦時中の監視哨あと、白子や海苔の干場、を見て歩く。中には蓬摘みに精出す人もあった。最後は舞阪漁港を見学、ちょうど朝出港した船が帰ってきて大漁の高級魚のタカアシ蟹、桜鯛、紋甲イカ、鱵(さより)、等々の水揚げと糶を目の当たりにして、みんな感激しきりであった。

午後1時頃、近くの舞阪町民センターにて昼食後最後の句会に入る。今日の兼題の「魚、鳥、動物」が入った句を含め3句投句、5句選。この句会は採られた句の名乗りは後にする合評句会となった。2日間の総仕上げで真剣さと期待感が入り混じった面持ちの人となる。
句会は午後4時過ぎに終了。初めのホテルの駐車場に戻り様々な思いをした2日間の吟行会は名残惜しくも解散となった。

ところで今回の吟行会は、鍛錬会にふさわしく充実した会となった。参加者の感想の言葉で締めくくると次の通りである。
天候良し、メンバー良し、場所良し、句材良し、作句良し、何もかも良し良しづくめの吟行会でした。


参加者全員、
投宿した浜名湖ロイヤルホテルにて。

水温む浜名湖の水辺に遊ぶ。

今切口。

結城秀康 出生の家、
重文 中村家住宅。

宴たけなわ。

浜名湖体験学習施設"ウォット"
の魚たち

真昼の舞阪漁港の糶

舞阪町民センターで最後の句会。


上村 均 作品

光る波素手で掬へば春匂ふ
波がしら一つ一つに春深し
波乗りに湖西連峯かすむなり

清水和子(円坐C) 作品

浅蜊とりそろひのバケツ持ちてくる
一面の光となりて春の海
春黎明水脈長く曳き出漁す

第一回句会
上村 均 選
花韮や(いぬい)の方に屋敷神
今切の三角波や涅槃西風
やどかりの砂に絵をかく潮だまり
帆柱に春の光を集めをり
うねりつつ引いてゆく潮風光る
時々は腰を伸ばして潮干狩
春光やのんびりたたむ波の襞
春風や棕櫚の葉光る遠江
満潮の光散らしてをりにけり
浜名湖の江に潜むらし子持鯊
升子
京子
欽四郎(円坐C)
泰子
浩世(円坐B)

浩世(円坐B)
信昭
升子
幸雄(円坐B)

第二回句会(宴会二次会)・・・記録不完全のため割愛。

第三回句会(朝食句会)
上村 均 選
はたはたと光織りなす春の波
朝食の一寸焙りて干鰈
かぎろひて汀に揺らぐ蘆の角
水温む汀に諸手浸しけり
白鷺のひむがしへたつ春の朝
夜を籠めて俳句を作る春の旅

泰子
幸雄(円坐B)
信昭
浩世(円坐B)
信昭

互選高得点句(上村均選を除く)
対岸の山並ひくし鳥雲に
テトラポット伝ひ若布を刈る男
春の夢話さんとせば忘れをり
浜名湖の朧月夜の大鏡
葉子
欽四郎(円坐C)
瑞之
忠義

第四回句会
上村 均 選
春潮や真昼の糶の人だかり
白子漁の解禁待てる干場かな
糶籠に大きく跳ねる桜鯛
春光の漁港賑はふ糶市場
大漁の底引き網に桜鯛
長閑けしや港に干せる束ね網
青空の糶籠(しな)ふ桜鯛
(ふなべり)を叩く波音春うらら
吟行の群より抜けし蓬摘み
鴎飛ぶ春の漁港の競りの声
信昭
芙美子
泰子
瑞之
葉子
泰子
忠義

欽四郎(円坐C)

互選高得点句(上村均選を除く)
つばくらめ大漁船を連れ還る
春光の港に帰船待つ鴎
とろ箱に頭そろへし(さより)かな
忠義

葉子


一句抄
海苔篊の幾何学模様埋め尽くす
湖の光の細波風の息
ひろ子

平成19年(浜松白魚火)円坐,B,合同忘年会

平成19年12月9日実施
栗田幸雄 (円坐B)
 社会保険センター浜松の俳句講座として、円坐A・B・Cがあり、普段はそれぞれの講座で仁尾正文先生のご指導を受けているが、年に一回、合同句文集「円坐」の発刊と合同の忘年句会を行っている。 仁尾先生をお迎えして、今年は十二月九日(日)に、浜松駅前の名鉄ホテルにて、午前十時より十二時まで句会(参加者三十六名)。その後、懇親会場に席を移して、三つの教室の人達が入り混って歓談した。日頃は、他の教室の人達とは、顔を合わせることも少ないので、貴重なひとときであった。  歌の方も演歌から、懐かしの唱歌まで、時の経つのを忘れるほどであったが、最後は仁尾先生を中心にして、全員が輪になって合唱し、十五時きっかりにお開きとなった。 これまで合同忘年会は、円坐Aの皆さんによってお世話を頂いてきたが、今回初めて円坐Bが担当した。皆さんのご協力を得て滞りなく終えることが出来、感謝しています。

仁尾正文先生 作品
稲雀くづれの徒党冬の田に
大方はまだ手つかずの冬田かな
列車過ぐる度山門の紅葉散る

仁尾正文選(特選五句)
冬日差す机の上の新聞紙 
囲炉裏辺にまたぎの愛づる火箸かな
冬木の芽家紋の入りし鬼瓦 
冬ぬくし梔子飯の届きけり 
日向ぼこあの世へ少し近づきぬ(*1)

幸雄
美智子
宏子
芙美子 

上村 均選(特選三句)
緩やかに齢重ねて石蕗の花 
大方はまだ手つかずの冬田かな  
人混みをポインセチアの鉢抱へ
千代子
正文
ヒサ子

織田美智子選(特選三句)
小春日の玉砂利を踏む角隠し(*2)
年の瀬の月命日の燭をつぐ 
(*1)に同じ 
ルミ子
泰子
芙美子

清水和子選(特選三句)
万華鏡にあふるる色や十二月
(*2)に同じ 
(*1)に同じ 
浩世
ルミ子
芙美子


句会。

円坐Bチームの合唱。

輪になって。

万歳三唱。

懇親会参加者全員。

         円坐A  鳳来寺周辺吟行 
平成19年11月18日実施  
依田照代

 1118()、上村 均さん以下十六名で鳳来寺経由湯谷渓谷へ吟行に行ってまいりました。快晴とは言えないが曇り時々晴れの天候の中、バスは静岡県浜松市より愛知県の旧鳳来町(現新城市)へ。山はうすら寒かったけれど、垣間見る紅葉にバスの中より感嘆の声また声・・・。特に鳳来寺山の駐車場近くの紅葉はため息が出る程の見事な色模様でした。歴史ある東照宮を参拝した後、五平餅を食べながらしばしの吟行。そしてバスは一路湯谷峡谷へ。その余りの澄み切った水は川音のとうとうとして冴え返るばかりであった。湯谷には余り紅葉はなかったが、各々に民家の軒先には花や果実が溢れていた。
やがて愛知県民の森センターで食事、その後句会を行いました。カウンターの夏蜜柑大の鬼柚子が季節感をそそり、とてもいい感じです。出来上がった句はどれも甲乙付けがたい素晴らしいものばかり、あっという間の二時間でした。句会が終わった頃には山は時雨となり、みんなで「吟行が終わった後でよかった」、「よかった」と言い合いました。その時雨は大したことなく、事故もなく楽しい楽しい吟行の一日でした。

冬ざれや寺院に迫る山峨峨(がが)
採る人の無き山柿のたわわなる
川音の高きに紅葉散りにけり 泰子
冬もみぢ瀬音は径をはなれざる 葉子
木の間よりつぎつぎ覗く渓紅葉 くに子
襟巻をして狛犬の鳳来寺
山峡のカーブミラーに冬のぞく 忠義
清流を挟みて山の(よそお)へる はるゑ
紅葉や思はぬ人に出会ひけり 照代
枯葉舞ふ賽銭箱に桐の紋 安子
朱を極む紅葉の下で写真撮る 瑞之
苔むせる鳥居をくぐり杉落葉 京子
蔦紅葉()脈の如く岩を這ひ
鬼柚子や女いよいよかしましく 芙美子
(おう)(けつ)に激しき水音(たに)紅葉 ひろ子
喚声の上がる坂道紅葉山 千代子



鳳来寺山で。

句材を探してきょろきょろ。

宇連川(板敷川)。


鬼柚子と。

  円坐A   宵の街句会(2)
平成19年10月24日実施  
栗野京子

 いつも円坐は月二回の句会をしているのだが、十月は年に一度の社会保険センター祭がある為に部屋が使えず、句会が一回だけになってしまった。
そこで何か物足りない思いの面々が、もう一回を何処かでしたいねと云う事になり、
十月二十四日(水)午後六時より社会保険センター近くの和食処「たけ和」に円坐A句会の有志十八名が集まった。
ほろ酔い句会では呑める人中心なのだが、今回は女性陣も多く参加してくれた。
「たけ和」では衝立と襖で仕切られた六畳余りの部屋を借り切り、一人三句投句で
三句選。借り切りと言っても丁度夕食時の賑やかな中、時間に迫られながらも、みんな句に集中をし披講も声の良く通る阿部さんのおかげでスムーズに進行出来た。
句会の後は食事となり、酒も入って和気あいあいと一次会は終了し散会となった。

十三、九夜?の月に照らされながら二次会へと移動。コーヒー、甘い酒にそれぞれが言いたい事を言って盛り上り、心ほのぼのとして解散。楽しく充実した句会であった。

秋耕や暮色が山を登り行く
高山の一刀彫や一位の実 
夫の留守障子を貼りてひと日過ぐ
行秋や魚市場の競りのあと
つつと鶺鴒走る船溜り
伸びらかに遠嶺横たふ蕎麦の花
白き指宙に浮かせて秋踊り
天空の解き放されし鰯雲
つつがなく栗飯炊くや十三夜
牧場で馬いななくも秋意なる
まゆみの実はぜて信濃の空青く
落花生根元にどっさりぶらさがり
柿採りに夕日眩しくなりにけり
静寂を天から破る百舌の声
燃え尽きて恋は終りぬ曼珠沙華
夕暮れて庭に一輪石蕗明かり
秋冷の軽く言葉を交しけり
秋の蚊のよろめきつつも襲ひ来る


文子
泰子
葉子
升子
くに子
忠義
はるえ
照代
安子
瑞之
京子

芙美子
ひろ子
千代子
信昭


         円坐A ビアガーデン句会
平成19年08月04日実施  
佐藤升子

 8月4日(土)、 浜松白魚火、社会保険センターで学ぶ、円坐Aの有志によるビヤガーデン吟行句会が行われ、十名が参加しました。駅前のフォルテ ビルに六時に集合し、すぐ近くのデパート屋上に移動。ビヤガーデンは久々という人が多く、又、初体験という人も居る中、大 いに飲み食べかつ語らい、時折は句帳に書き込む姿も見られ、大いに真夏のビヤガーデンを楽しみました。
商店街の七夕飾りや風に吹かれる柳を見ながら、七時半、句会場の千歳町のスナック「柾」に移動。三句出句、互選五句、選句に悩む程の佳句ばかりでした。
句会後、カラオケ大会とないり、各自十八番も出て、歌のとぎれる事も無く約二時間、盛会の内に、初め心配された雨に降 られる事もなく、ビヤガーデン吟行会も終了となりました。

枝豆の口角泡を飛ばしけり
羅やをんなの嘘の透けてをり
星祭らせん階段空に抜け
酔ふてゐて悪口少し紅生姜
浴衣着て下駄を鳴らして若者ら
ビヤガーデン雲行きあやし風吹きぬ
夏の宵天下国家を赤い顔
ビアガーデン和む句友の無礼講
乾杯やビールの泡をすすりたる
風雲急を告ぐる天気やビヤガーデン
芙美子
忠義
升子
泰子
京子


ひろ子
照代
信昭



乾杯!

もう一度、乾杯~!

ビヤガーデンに夜の帳が下りて。

場所を変えての句会風景。

参加者全員。

カラオケ大会。

  円坐A  宵の街句会(1)
平成19年5月19日実施  
大城信昭

 「吟行と言えばいつも名所旧跡・神社仏閣なので、たまには違った所で句を詠みたいね。」、「宵の浜松歓楽街ではどうだろう?」と一部から声が上がり、参加希望者を募ったところ約半数が賛同。急遽、「宵の街吟行会」を開くことになった。5月19日午後6時、未だ日差しの残る中、参加11名(男子5名、女子6名)は、先ず、有楽街の居酒屋「太郎丸」のカウンターの一角を占める。流行っているお店なので、客がひっきりなしに訪れるところを、幹事が何とか頼み込んで全員のカウンター席を確保したわけである。焼き鳥(たれと塩)、ネギ間(豚肉と白ねぎの串焼き)、毛羽先、ネギ焼き、カツオ、ジャガバタなどをナマ中(生ビール中ジョッキ)やチュウハイ、冷酒を飲みつつ食べる。カウンター内側からの芳しい焼き鳥の煙を楽しみながら、四方山話に花を咲かせ、杯を重ねる。開け放った入り口の引き戸からは5月の心地良い風が入ってくる。そして仕上げにと、お茶漬けとおにぎりで「食事」を済ませた。

 7時30分、そこから300mほどを離れた今宵の句会場のある浜松一の飲み屋街、千歳へと向かう。薫風爽やかな土曜日の夕暮れ、若さとファッションを競う男女で賑わう有楽街・鍛治町の遊歩道を句材を拾いつつゆっくりと歩を進める。

今日の句会場、スナック「柾」では和服姿のママに迎えられ、11名全員がカウンターに座れば借り切りの瀟洒な内装のお店は丁度満席。
先ずは30分ほどが与えられ、サントリー「山崎」の水割りを飲みながら句作、そして3句出句。続けて、清記、5句選句。被講は名手、芙美子さん。今回の新しい試みとして作者が即座に名乗らず、先ずは選句者がそれぞれ採った理由を述べる形を取った。これが全て済んだ後、名乗りを上げるのだが、こうすれば、作者が未だ分からないので、遠慮なく感想が述べられるという訳だ。

「句会は、アルコールが入っていた割りには皆しっかりと詠んでたね。」とは、仲間内での後日評である。

句会は9時30分に終了し、一応、"中締め"。残った人たちでその場でカラオケ大会が始まった。スタートは句会高得点者が罰として一曲づつ。続けて喉に自慢の人達が夫々、休みなく次々と曲を入れる。特に女性や講師など、俳句のベテラン達は歌もすごく上手い。
門限に達した人から三々五々に帰宅。午前0時には最後に残った忠義さんと私も、皆が大いに楽しんで呉れたことにほっと安堵して、帰途に着いた。

夏は来ぬほろ酔ひ歩く宵の町 
一盞の冷酒に若さ蘇る  
夏日落ち通り二間の飲み屋街 
枝豆のころころ会話はづみけり 
焼酎を呷り始めて山頭火 
五月風押されて潜る縄のれん 
ごきぶりやいざ街に出て強き酒 
こんがりと焼けたにぎりに新茶の香 
串焼きの咽せる煙や生ビール 
喰ふよりも眺むるばかり初かつお 
酒の席下戸を睨めし白子の眼 
信昭

芙美子
升子
忠義

泰子

くに子
照代
ひろ子


居酒屋"太郎丸"にて。

居酒屋"太郎丸"にて。

スナック"柾"での句会風景。

句会を終えてカラオケ大会。


 平成19年4月 横浜三渓園句会 
平成19年04月14日実施  
檜林弘一

 四月十四日(土)鈴木同人会長をお招きして、横浜三渓園内の林洞庵(横浜市有形文化財)にて初学者中心の句会を企画開催いたしました。鈴木同人会長には懇切丁寧なご指導、および貴重なお話をいただきありがとうございました。句会当日、横浜地方は五月中旬なみの気候となり、最高気温は25℃を超え、今年初の夏日となったようであります。園内は桜の時期は過ぎ去ったものの、山吹、著莪の花などが咲き、藤棚にも藤の花がちらほら見え、庵の近くには鶯の声、池には亀が列をなして甲羅干しするなど、初夏を感じさせる光景が多々見られました。 兼題の蛙、藤、八十八夜および園内嘱目にて、五句投句。句会後、鈴木会長のご指導をいただき有意義な一日を過ごしました。

○ 参加者作品
選挙カ-過ぎたるあとの遠蛙
はなびらを追ひかける子や春惜しむ 
藤棚の下一献の至福かな 
心平を訪ひしも鳴かぬ昼蛙 
故郷の駅舎に香る新茶かな
花の雨花の舗道を織り上げし
藤棚の波の長きをくぐりけり
薄墨の影を落とせる著莪の花
いつ子
ちや子
彦次郎
庄吾
一志
通雄
玲子
弘一

○ 鈴木三都夫先生  詠
うぐひすの律壮年となりにけり
その数も散らばるさまも春の鴨
侘しさは散つて一分を残す花


新緑に包まれる林洞庵。

亀の連なる甲羅干。

鈴木会長のユーモア交えた講話。

句会風景。

林洞庵の前庭にて参加者と。


  円坐A  東海道 二川御油赤坂宿 吟行 
平成19年3月11日実施  
松下葉子

 3月11日、浜松白魚火会円坐Aの吟行句会が仁尾主宰にご出席いただき、会員
22人中20人の参 加で行われました。明け方までは激しい風雨でしたが、8時30分、浜松をバスで出発する頃には、雨は上がりました。
 仁尾先生から「3句出句ですが、6句ぐらいは書きとめて置くように」とお話があり、車中はチョットどよめきました。浜名湖が太平洋と接する今切を渡り左に白波の立つ遠州灘を見つつ、右には雨に洗われた藍色の山並を眺め、潮見坂へ。このあたりから日が射してきました。
やがて目的地の一つ東海道 五十三次の33番目の二川宿本陣へ。ここでは、上段の間を除き、様々なお雛さまが数々の座敷部屋に展示されていました。計らずも巡り合わせた、目の眩むばかりの雛祭りでした。二川宿は江戸から72里、昔の町割りがそのまま残っておりました。次は妙泉寺へ。寛政10年(1798)に建てられた芭蕉の句碑『あちさゐや藪を小庭の別座敷』があり、境内は桜や椿の古木に歴史を感じ、折からの強い西風に揉まれる竹林の様は異様なほどでした。
次は御油から赤坂へ。関川神社の芭蕉句碑『夏の月御油より出でて赤坂や』がありました。この句は夏は夜が短くて、月も出たかと思えばすぐ明けてしまう様子を、御油宿と赤坂宿が短いことをかけて詠んだものだそうです。境内には楠の大木が神社を覆うほどでした。
いよいよ12時、安藤広重が描いた「東海道五十三次・赤坂旅舎招婦図」のモデルと言われている大橋屋に着き、とろろ飯の昼食をいただき句会となりました。先生の特選句の講評があり、寒さと台風なみの風の中、素晴らしい句を詠み、円坐Aの皆さんの熱心さには感心するばかりでした。


仁尾正文選(特選9句)

  がうがうと松を鳴らせる春疾風 京子
  山頂に観音在す芽立ちかな   上村 均
 *風光る潮目に黒き貨物船    泰子
  松並木道のかたへの土筆摘む  文子
  永き日の御油赤坂をすぐ過ぎて 芙美子
  安政のおどけ顔して雛かな   泰子
 *雪隠の二畳敷きなる花青木   京子
  吊し雛梁丸出しの部屋にかな  くに子
 *ゆくりなく来て本陣の内裏雛  千代子

上村 均選(特選5句)
 本陣の白き(へっつい)寒返る        信昭
 春寒き御油赤坂の松並木    葉子
 雛飾る廊は二間(にけん)の畳敷    仁尾正文
*雪隠の二畳敷きなる花青木   京子
*ゆくりなく来て本陣の内裏雛  千代子

互選高得点句(6点句)
 百幹の竹を揺らせる春疾風   務
*風光る潮目に黒き貨物船    泰子
*本陣の白き(へっつい)寒返る        信昭

  *印は重複句


荒れる遠州灘。

二川宿本陣にて。

二川宿本陣の雛展示の一つ、吊し雛。

御油の松並木を歩く。


  平成18年(浜松白魚火)円坐,B,合同忘年会
平成18年12月10日実施  
大村泰子

12月10日(日)A.M.10:30よりクリエート浜松にて仁尾正文先生をお迎えして円坐A,B,C合同の忘年会が33名の参加のもと開催されました。
 皆様はそれぞれの力作3句を持ち寄り、忘年会句会となりました。なかでも仁尾先生の特選にいただいた林浩世さんの
 「大薬缶提げて枯野をゆきにけり」
スケールの大きな句に感心しました。
鈴木誠さんの
「タンジェント九十度なり冬銀河」
は手垢のついていない新しい句として評価され大いに議論の的となりました。このような新しい作句に研鑽を積まれている作者に拍手を送りたいと思います。とても勉強になりました。

 午後は料亭やま文で待望の宴会となり、栗田幸雄さんの音頭で開会、仁尾先生のお言葉を頂きました。
大橋瑞之さんの「古城」の美しい歌声にはうっとり聞き入ってしまいました。
和気藹々とした雰囲気の中での忘年会は、大盛況のうちにお開きとなりました。円坐Aの若手3人の進行係、お疲れさまでした。
その後それぞれの二次会場に移り楽しく充実した一日を送ることが出来ました。
有り難うございました。

仁尾正文選(特選5句)

大薬缶提げて枯野をゆきにけり
地下道の入口出口年の暮
家中の包丁を研ぐ四温かな
手斧(ちょうな)目のしるき山門冬紅葉
タンジェント九十度なり冬銀河
浩世
いく代
和子
文月

仁尾正文 作品
湯神楽の禰宜九字切つて火を点ず
帰省した世襲の舞を花神楽
夜神楽の(ほこり)を髪に付け戻る



仁尾先生もご自慢の喉を披露。


参加者33名。(内1名早退)

  円坐A 天竜スーパー林道&山住神社吟行紀行 
平成18年11月19日実施  
鈴木 誠

 十一月十九日朝七時半、"円坐A"二十名はアクトシティ南通りに集まり、水窪町に向けてマイクロバスに乗り込んだ。男性軍で一番若い私に檄が飛んだ、「ハイ、誠さん、人数を確認して!」何時もは優しいAお姉様の声だ。
これ以後、私の任務は人数確認係りと決まった。まずバスは浜松工業高校に向かう、仁尾先生が高校北のバス停でお待ちになられて居るからだ。天候は今にも一雨来そうな曇天だ。先生を御乗せして、いよいよバスは一路水窪に向かいハンドルを切った。車中は和気藹々、先生より吟行の心構えのお話を拝聴しながらバスは進む。最初のトイレ休憩所、船明ダム湖中流の道の駅まであと十五分と言う所でAお姉様より緊急トイレタイムの指令が発せられ、急遽船明運動公園に不時着する。奇しくも何かの大会が開かれている模様、駐車場には大型バスまで止まっていて係り員まで出ている。若手男性軍の長男、O氏は直ぐにバスから飛び出し一時駐車の許可を貰ってくる、頼もしい長男でした。そして次のトイレ休憩所はスーパー林道の秋葉神社だ。対向車は全く来ない、天竜美林の杉木立より時折紅葉の山が見えた。未だ雨は来ない、回りの楓の紅葉を鑑賞する。いよいよ今回メインの山住神社へとバスは進む、ここで、若手男性軍次男坊、Y氏によって、まるで水窪観光協会の会長の如く水窪の自然、行事、歴史、最後は方言についてまでもガイドして頂く、そして山住神社に向かう途中の竜頭山の公園でトイレ休憩を取る、ここでは、公園のそこここに転がっているカモシカの糞が俳句の種となった。(後で明かす面白い句も作られた)いよいよ、山住神社に到着、先ずは御社に参拝と思いきや、何人かは門前茶屋の味噌おでんの匂いの中に消えた。山住神社の縁起を見ると、七百九年伊予国大三島大山祇命遷祭とある。翌七百十年は都が飛鳥より平城京に遷都した年だ。何か関係が在るのか?何故、愛媛よりこの地に宮が移されたのか?山岳密教集団?に権力的何かが在ったのか?何故、この地を選んだのか?どちらも中央構造線上に乗っている!等々を想像しながら参拝する。ここの御神木は県指定の天然記念物だけの事はあり、とても大きな霊験を放って居るように感じた。さて、いよいよ句会場である“カモシカと森の体験館”に向かう。体験館は山住神社から直ぐそばである。昼飯を食べ一服したところで始まった。Aお姉様の朗々とした披講は何時聞いても大した物です。ここで糞の句が出た、カモシカの糞を飴の様に、しかも艶もあると表現した句(((かも)(しか)の糞黒飴のごときかな 務))には、句の良し悪しを越えて面白いと感じた。これだから、俳句は止められないと思った次第です。後は水窪ダムを廻るコースで帰路につきましたが、その途中とても綺麗な紅葉の山また山の連続で、このコースを選んでくれたAお姉様とOお兄様に、円坐Aを代表して感謝いたします。


山住神社の門前で参加者21名。

今日の句会場“カモシカと森の体験館”での昼食風景。


南アルプス前衛の山々の紅葉。

上村 均 選 特選(5句)
 冬もみぢ雨を湛へる空模様
 狛犬の阿吽の口に紅葉かな
*狩人の足跡残る雑木山
*唐松の落葉降り敷く塩の道
 抱かれて山懐の冬紅葉
葉子

泰子
信昭
千代子
仁尾正文 選 特選(10句)
 裸木の素直に並ぶ七曲り
*狩人の足跡残る雑木山
*唐松の落葉降り敷く塩の道
 冬紅葉谷深きより風の音
 雲海に浮かぶ山並冬紅葉
 紅葉谷束の間隠す杉木立
 冬の靄湯のたぎるやう上りをり
 薄日さす枯尾花又枯尾花
 雨やどりしたる山家の冬紅葉
 しぐるるや退(しざ)りつ仰ぐ神の杉
くに子
泰子
信昭
泰子

くに子
京子
升子
瑞之
葉子
      *印は重複句
 平成18年 浜松白魚火 円坐A 奥山吟行会
平成18年09月17日実施  
弓場忠義

 秋も仲秋候9月17日(日)に、浜松白魚火円坐A句会メンバー19名は仁尾主宰の句碑の清掃を兼ねて、(引佐町)奥山の富幕山に秋の千草の花見吟行を行った。句碑清掃とは言え、いつも奥山の句会の方々に御世話して頂き落ち葉拾いぐらいで、地元の人に感謝しております。恒例の句碑の前にて記念写真撮影をして予定通りに終り吟行地の奥山の富幕山に秋の七草女郎花が咲き見頃との情報にすがすがしい秋の空の下草の花を散策しながら山路の中に何組かに別れて奥山高原を眼下にして目的地に散って行きました。女郎花は勿論ホトトギス、野菊類、薊、男郎花、松虫草等々多くの草の花が見られ写真を撮ったり句帖に書いたり何時もながらの光景で楽しさを満喫して来ました。
また頂上では引佐の町から湖西連峰を望み爽やかな秋の風で疲れを癒して下山しました。岐路はまた他の柴栗や団栗の実、山芋の蔓など往路とは違ったものを探索して昼食前に投句終りました。今回は持ち寄り句もありでしたが、吟行の景色が良かったので多くは吟行句でした。句会は阿部芙美子さんの披講で互選と上村講師の選を頂き吟行ならでの楽しい句会となりました。また後日仁尾主宰の選も頂きました。また帰りには有志の人でお茶をしながら普段できない話をして、色々な情報交換をして最後まで有意義に過ごす事が出来ました。

上村均選 特選(5句)
雲一つ無きアルプスの秋気かな
天高し軽き足どり峠道
秋の日は暮るるに早しかくれんぼ
葉鶏頭濃淡分けて色づきぬ
秋草や俄に雲の張りつめし          


芙美子
瑞之
ひろ子 

仁尾正文(当日不参加)選 特選(7句
風やさしをとこへし又をみなえし
雲一つ無きアルプスの秋気かな
豊の秋道をはみ出すコンバイン
菓子函の彩のとりどり秋彼岸
高原を風爽やかに吹き渡る
境内の茸ふしぎの国のごと
桔梗の藍さえざえと白もまた     
    
升子

ひろ子
芙美子
文子
泰子
葉子


富幕山で見かけた松虫草。

浜松白魚火 円坐B,C 奥山吟行会
平成17年5月19日実施
三井欽四郎

 浜松の社会保険センターに仁尾主宰の俳句講座が三つあります。円坐A、B,C です。先にこの欄で、円坐Aの奥山吟行会が紹介されましたが、私たち円坐B、C の有志22名も5月19日、吟行句会をかねて句碑の清掃を行いました。
一昨年、浜松近郊の引佐町奥山の方広寺に主宰の「衣手を押へ潅佛し給へり」の句碑が建立されてから、地元の会員のみなさんに清掃などのお世話をしていただいていますが、私たちも、いささかのお手伝いをという気持ちから、昨年春にも清掃にいきまして、今回が2回目になります。前回、清掃にあわせて行った吟行句会は、句歴の浅い私などには、とても貴重な体験で、また楽しい行事でした。それで今年もということになりました。
 句碑は方広寺山門脇の斜面を登るS字の坂の半ばに建っていて、寺領の山や、門前の町を見晴らす格好の処です。当日は早朝まで雨が降っていて天候が心配でしたが、集合の10時にはすっかり晴れ上がり、みずみずしい青葉の山にところどころ椎の花だろうか黄色い彩りがされて、時おり鶯の声が聞かれるという、絶好の吟行日和になりました。その上、この日は急遽仁尾主宰が参加され、充実した1日となりました。 清掃のほうは、地元の方々の日ごろの手入れもあって、少しばかりの草を抜き、落ち葉を片付ける程度で早々に終わり、そのまま方広寺周辺の吟行に移りました。青葉、若葉、夏鶯、堂塔、羅漢、谷川、池などなど、句材の山に恵まれましたが、はたして出句の2句が出来るものかという不安を抱えながら、ついついおしゃべりにふけってしまうという具合で1時間足らずの吟行は、あっという間に終ってしまいました。 11時から坂上の食事処「きじ亭」にあがり、店が用意してくれた部屋で、出句、清記、選句をまた1時間ほど、このような句会形式は初めてという会員もいる中で割りと順調に進みました。そのあとの食事は、出句を何とか終えた安心もあってにぎやかな歓談の場となりました。
 食事のあとはまた部屋に戻って、互選3句の披講と、先生の選と講評に移りました。いつもながら、選ばれるということは心のときめくひと時でした。難しいといわれる句碑を詠んだ句に佳句が多かったと思われたのも、やはりこの日の句会でした。ともあれ楽しい吟行の1日はこうして終わりました。

 椎落葉椎の花掃く一緒くた   正文
 珠をまだ緩めぬ今日の朴の花   正文
 夏鶯のこゑの届けり句碑の辺に    美智子
 風立ちて夏山の木々匂ひけり 和子
 沢蟹のひとつが手足かくせずに いく代
 夏の蝶森の奥へと飛びゆけり すさ
 風薫る句碑に人語の集まり来 ヒサ子
 鶯や師の句碑の前師の立たる 英子
 青苔の少し増したる句碑眩し 雅子
 亀の子の浮橋前に甲羅干す 恭子
 手箒で句碑の回りを椎若葉 敬子
 万緑や句碑を背にして仁王立ち 源策
 浮橋に群るる鯉あり若葉風 宏子
 葉櫻や師の句碑除幕して二年 康一
 さまざまな鳥を放てり青葉山 浩世
 浮橋を歩めば鯉や青葉満つ
 草むしり雑草としか知らぬまま 昌治
 句碑清掃椎の若葉につつまれて 昭八
 師の句碑を囲みて初夏を楽しめり 正美
 ぱくぱくと鯉に口髭あやめ咲く 千恵
 山深し空なほ深き若葉かな     文月
 師の句碑の新樹明りに去り難し     芳子
 参道のほどの昏さや青葉木莵    幸雄
 老鶯に応へて鯉の跳ねし音 欽四郎


深奥山(じんのうざん)方広寺。
臨済宗方広寺派の大本山で
静岡県引佐郡引佐町奥山に所在。

郡・町名の引佐は
"いなさ"と読みます。
万葉集
「遠江引佐細江の みをつくし 
我(あ)れを頼(たの)めて
あさましものを」
に登場する地名で、
浜名湖の北部にあたります。

仁尾正文先生の句碑の掃除風景。

地元奥山地区白魚火会員の
日頃の奉仕活動のお陰で、
いつも綺麗に保たれています。

 H17 浜松白魚火 円坐A 奥山吟行会
平成17年3月6日実施 
  阿部芙美子

 
 雛の節句も過ぎた三月六日(日)、浜松白魚火円坐A句会のメンバー十六名は仁尾主宰の句碑清掃を兼ねて、(引佐町)奥山高原に梅見吟行会を行った。
 句碑清掃とはいえ、常に奥山の梧桐句会の方達が気にかけて下さっており、我々は春落葉を掃き、出始めた雑草の芽を摘む位の事しかすることは無く、主宰の句碑を囲んでの記念撮影も済ませ一時間の予定を早目に終了した。
 次は満開の桜の頃に来たいものだと皆から話が出ていたが、本当に此処に建てられるのがぴったりの句碑と主宰の御句だと、つくづく実感する。
 十時からの吟行は場所を、富幕山の奥山高原辺りとし、二句投句、十二時投句締切りで始められた。
 ところが春とは名ばかりの寒さで、肝心の枝垂れの昇柳梅はほんの1分咲き程度に、園内には人も疎らで、これでは句も出来ないなどと互いに言い訳をし、皆の足は高原にある乗馬クラブの方へと向けられた。厩舎にはサラブレッドが十四頭程飼われていて、馬場で訓練中のものもおり、ようやく吟行らしくなって来た。 私は葉子さんに誘われて、初めての乗馬体験をすることが出来た。
 投句締切り前には寒さもあって、句会場となる食事処に早々と集まり、投句後はジンギスカン料理の椎茸コースで、地元産の椎茸の厚みがあって美味しかったこと。賑やかに食事が済み、テーブルの上を片付けての句会は一般のお客様と部屋が区切られて居らぬ所から、一つ処に席を詰め、お客様がいる中での句会は、食事の時とはうって変って静かに行われた。
互選三句、披講、後で上村均さんからの選を戴いた。
 帰りに高原内にある別の満開の梅園に寄り、剪定の枝や栽培されていたクレソンを分けて貰う事が出来、楽しかった吟行もお開きとなった。
 今回は吟行に参加するのが初めてと言う人が三人いて、まだ緊張ばかりで楽しむところまではいかなかったとの感想を聞き、今日に懲りずに叉参加して欲しいと願うばかりである。

浅春や背筋をぴんと騎馬乙女 上村 均
桜の芽越しに白馬の駆けてをり 栗野京子
鈍色の空に鳥鳴く梅見かな 三輪晴代
観梅やひととせぶりに山訪ね 今村文子
餅花に似たる蕾のしだれ梅 今村 務
炭焼きの窯口の辺に温みあり 佐藤朗
繋がれし馬の瞳に写る梅 鈴木 誠
句碑掃除一分咲きたるしだれ梅 金原はるゑ
春昼や遠出の馬の帰り来る 松下葉子
共に見し梅の花今盛りなり  高橋ルミ子
春浅し騎馬の娘の背筋伸ぶ 増井 修
一杯の梅茶戴き温もれり 河合ひろ子
囀りに蹄の音のまじりけり 大村泰子
枝くねりしだれし梅の二三輪  三岡安子
並足の二頭の駿馬弥生山 大城信昭
冴え返る厩舎の馬の足細き 阿部芙美子


仁尾先生の句碑。 
衣手を押へ灌仏し給へり

16名の参加者。

乗馬に挑戦。

満開の"杉山園"の梅。

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