最終更新日(updated) 2014.09.01
平成26年 浜松全国大会
  浜松大会参加記   
下記文字列をクリックするとその文章へジャンプします。
七百号記念大会に感謝             (佐 賀)田久保峰香
よく学び、たくさん感動して           (函 館)広瀬むつき
白魚火七〇〇号記念全国大会 旅日記in浜松  (苫小牧)市川 節子
旧東海道を歩く                (静 岡)小川 惠子
白魚火全国大会浜松吟行記             (出 雲)野田 弘子
犀ヶ崖雑感                 (松 江)竹元 抽彩
創刊第七百号記念浜松大会に参加して     (群 馬)天野 幸尖
「関所雑感」                  (広 島)挾間 敏子
事前吟行しました                (牧之原)辻 すみよ
浜松白魚火全国大会準備係            (浜 松)安澤 啓子
白魚火全国大会に参加して            (東 京)萩原 一志
   平成26年9月号へ


七百号記念大会に感謝
(佐賀)田久保峰香
 今回、白魚火創刊第七百号記念大会と、白魚火賞受賞の大変嬉しい記念すべき大会参加となりました。
 前泊の五月二十四日、家を五時四十分に出発、史都女先生、秋美さんと三人博多発八時五分の新幹線「のぞみ」に乗車し、名古屋で「ひかり」に乗り換え、五号車に乗ったところ、広島の出口廣志さんご一行十一名の皆様と同じ車輌に乗り合わせ、話も弾みました。
 三人での吟行予定でしたが、広島の皆様から、マイクロバスでの吟行で、まだ座席に余裕があるので一緒にとのお誘いに、ご好意に甘えご一緒させていただきました。
 浜松での最初の吟行は先ず、姫街道に入り三ヶ原古戦場を車中で見ながら方広寺へ。羅漢さんのお出迎えです。新緑の映える静かな境内、羅漢さんの数の多さに先ずびっくりです。表情の豊かさに頬がほころびます。奥へ奥へと進むと、半僧坊真殿がありそこで、半僧坊の大きな下駄を履いてみることに、でも歩けなかった。更に奥へとのぼると三重の塔がありそこを降りてやっと主宰の句碑に会うことが出来ました。主宰のすばらしい句碑にま見えることができてとても光栄でした。句碑を囲んでの記念撮影が、私の大切な写真の一枚です。
 龍潭寺では、床の鶯張りを踏みしめ心地よい音を聞き、甚五郎の龍を頭上に見ながら、小堀遠州のすばらしい庭園を見てしばし心が和みました。又、気賀関所、新居関所と閉館時間ぎりぎりまで散策し、そのあと「鯵刺」の見られるのではと海の方へ足を伸ばしてもらった。そこで「鯵刺」の季語があることを初めて知りました。広島の皆様のおかげで盛り沢山の吟行ができ感謝でいっぱいです。ほんとうにありがとうございました。
 盛り沢山の吟行でしたが、句帳を見ると季語や単語の羅列ばかりでまともに句になったものはなく、大会の出句は四苦八苦でした。
 その日の夕食は、前々泊のひろ女さん、瑞枝さんと合流して浜松の夜の町での食事を楽しんだ。「うなぎ」は明日の昼食にと、居酒屋に入り、旅の疲れを浜松の美味しい料理とビールで一日を終えた。
 大会一日目、午前中は佐賀白魚火会五人での散策となる。中田島砂丘では、靴の中が砂で重たくなった。行けども行けども砂丘、先は見えず、やっと遠州灘の風を存分に受けることが出来た。
 次の浜松城は、平成二十二年の浜松大会から二度目で、天守閣で浜松を一望し、全身に薫風を浴びることができた。
 午後からの式典では、仁尾主宰はじめ諸先生方を目の前に一列目に座った。こんなことははじめてで緊張のしっぱなしだった。私にとっては大きな記念すべき大会で主宰より「おめでとう」のお言葉に、これまで続けて良かったと胸が熱くなりました。
 二日目は、朝食を済ませた後、出句まで時間があるので、どうしようと話していたら、浜松の大村泰子さんがロビーにいらして声をかけてくださった。近くに八幡宮があるので歩いて行きましょう。と案内してくださり、早朝の街中を十分程歩き八幡宮へ、静閑な杜に小鳥が囀り街中とは思えない空間だった。桑の実や、批杷が熟れていてどれも甘く皆んな童心に返り、すがすがしいひとときを味わった。大村さんありがとうございました。出句までの時間を思いもよらぬ散策が出来たことに感謝です。
 十時からの披講では、次々とすばらしい句が披講され、一つ一つ感心しておりましたところ思いがけなく、鈴木三都夫先生の特選をいただきました。まさかと思っていたので、夢のようでした。今回の大会は、短冊のお土産が私にとって大きな収穫でした。
 最後に、大会の運営に携われた皆様ほんとうにありがとうございました。心より感謝申しあげます。楽しい大会をありがとう。感謝です。


よく学び、たくさん感動して
(函館)広瀬むつき
 ○出発(大会前日・五月二十四日)
 「寒いね」と言ながら、少し厚めの服装で函館空港に集合。函館白魚火勢八人、健やかに浜松市へ向け出発。〔星女さん・淳子さん・くらさん・もとさん・都志子さん・京子さん・実知世さん(旅行団長)・むつき〕
 八人の女連れなる初夏の旅         も と
 羽田到着後、品川駅で乗り換え、新幹線に。降り立った浜松駅には、さわやかな風が吹いていた。深呼吸した後は、早速ジャンボタクシーで吟行に出発という運びになった。
○浜松まつり会館・中田島砂丘
 勇壮な大凧、歴史ある凧合戦、凧上げの鍵を握る強靭な凧糸、浜松まつり会館ではそのどれもに感嘆。浜松っ子の熱気を感じた。
 凧の糸継ぎ目なき縄一貫目         京 子
 次に向かった中田島砂丘では、遠く高くいくつもの凧が揚がっていて、浜松まつりの様子を彷彿とさせる。太平洋の見える所まで、砂丘を五体に感じながら歩いた。四年前の浜松大会での子亀の放流の思い出が甦る。
 砂丘より五月の凧を揚げにけり       星 女
 砂の足夏の海へと続きけり          都志子
 夏潮や砂に埋もれし堆砂垣          実知世
○浜名湖

 帰途は浜名湖を見ながらとなった。湖岸には釣人が並び、鱚や鰈がバケツに入っている人もいた。海星もいた。汽水湖ならではのことだろう。運転手さんに「今切」の説明を受け、皆で一つ利口になる。暮れてきた湖に旅愁を感じる。
 釣りたての浜名湖の鱚透きとほる      く ら
 浜名湖の大夕焼は帯となる         も と

 夕食は運転手さんお勧めのおいしい店へ。各々がはりきって注文した品は、定番ながら「鰻重」、そして「茶めし」「遠州豚トンカツ定食」(これが一番人気)等だった。
 食事がくるまでの間に話題に上ったのが、“浜名湖のあちらこちらに立つ長い棒のような物”の事。海苔の養殖などをしているようだが、それを何と呼ぶのかが解らない。ああでもない、こうでもないと言っているうちに実知世さんが、ふと「篊でない?」と言い、それっと電子辞書を引くと、あったあった、「篊=ノリやカキの養殖で海中に立てる木の枝や竹」とばっちり。胸のつかえがおりて、その後の食事は大変おいしかった。
 浜名湖の海苔篊包む暮色かな     むつき
 皆の英知(?)を集めて作ったような句が、披講時、三都夫先生の特選になり、びっくりしたり感激したりだった。
○方広寺(主宰句碑)・龍潭寺・浜松城 (大会当日・五月二十五日)
 いよいよ主宰の句碑に対面できる日。ジャンボタクシーは一路方広寺へ。たどりついた主宰の句碑は新緑に囲まれて清々しかった。感激。それぞれに句碑を撫でたり写真を撮ったりした。主宰の健康を願う気持ひとしお。
 後で淳子さんを通して聞いたのだが、浜松の方々が大会前に句碑をきれいに磨き、囲りの草も取って大会参加者を迎えてくれたのだとのこと。白魚火の強い絆を感じると共に、最高のおもてなしを受けた事を胸に刻んだ。
 龍潭寺・浜松城と吟行の思い出は尽きないが、紙面が尽きてしまった。
 最後になってしまったが、祝賀会の時、函館勢が陣取ったテーブルにいらした浜松の山田様、大田様、浜松の楽しいお話でおもてなしくださり、感謝。
 久闊を叙する人の輪風薫る         淳 子
○帰函(五月二十六日)

 今年も行事部さんの行き届いたお心遣いでお昼のお弁当も無事いたゞき、帰途に着けた。多忙だった星女先生が一番お元気で帰函でき頼もしい。旅行団長の実知世さん、大変おつかれさま。函館空港は雨となっていた。


白魚火七〇〇号記念全国大会  
   旅日記in浜松    
(苫小牧)市川 節子  
  ◆平成二十六年五月二十三日(金)晴
  初めての全国大会へ出発です。津矢子さん、美木子さん、紗和さんと全日空にて中部国際空港着十一時四十分。空港内で昼食后、リムジンバス(と言っても普通のバス)にて浜松着十五時十分、人口八十万人の都会です。
 『オークラアクトシティホテル浜松』は高級ホテルで、四十五階の展望回廊からは富士山も見えるそうです。
 私達の部屋は四十二階で広くて豪華でした。荷物を置いてすぐに、市営バスに揺られること六十分、浜名湖パルパル着。
 湖上を渡る唯一のロープウエイの最終便にギリギリで乗れました。
 展望台で三六〇度の大パノラマを満喫。
 次は徒歩で舘山寺へ、巨大観音あり洞窟あり風情ありでした。
・青銅の梵鐘涼し浮見堂        津矢子
・浜名湖の西日に映ゆる浮見堂    美木子
  やっと美味しい鰻の夕食です!
・鰻食ふ元気をもらひ疲れなし    紗 和
  満足でした。
  ホテル着二十一時三十分。

 ◆五月二十四日(土)晴
 浜松の「歴女の会」の人達の案内でバスツアーです。
 九時三十分出発、総勢十八名
 始めに「命山」と言う津波が来た時の避難場所へ、ここは天竜川の砂で出来ているとか。
 色々な所へ案内して頂きました。
・中田島砂丘への道花樗       美木子
・少しづつ痩する砂丘や花海桐    津矢子
・南吹く遠州灘に竿投げて       美木子
・夏蕨前方後円墳を踏む       美木子
・磐座の天白遺跡夏木立       紗 和
・龍譚寺木洩れ日溢る杜若       節 子

 最後に龍譚寺の庭園を見学、抹茶と菓子を戴きほっと一息。
 四人でうなぎアイスも食べました。
 十七時ホテル着。ここで野歩女さんと合流、浜松楽器博物館へ行って来たとの事。
 五人で夕食です。
・音の出るものみな楽器薄暑光   野歩女
 ホテル着二十一時。

 ◆五月二十五日(日)晴
 朝八時、数方さんと合流、六人で浜松城見学。
・天守より風の生まるる夏帽子  津矢子
・夏みかん上級武士の乗馬鞍   数 方
・桜実に家康像を見上ぐれば   野歩女
・天守門武士の声聞く夏落葉   紗 和

 十三時三十分~いよいよ白魚火全国大会の始まりです。二三六名の参加。
 三句出句(一回目)
 布佐子さん、紗和さん、節子は一般席へ、野歩女さんは選者席、数方さん、津矢子さん、美木子さんは鳥雲集同人席へ、(四人共とてもおしゃれに決めていましたよ)
・式典(表彰)・総会
 野歩女さんが七〇〇号記念随筆賞受賞
・記念晩餐会
  メニュー
①和食前菜盛り合わせ
②御造り三種盛り合わせ
③御前崎漁港より魚介スープ
④ロシア風仔牛肉のパイ包み焼き野菜添えソースシャスール
⑤鰻と野沢菜飯のお茶漬け・香の物
⑥静岡産コシヒカリのガトーフルーツ添え
⑦コーヒー又は紅茶
  どれも美味でした。
※唄や踊りもあり楽しかったです。
  とにかく皆さんとても元気です!

 ◆五月二十六日(月)晴
 九時三十分~大会二日目
 三句出句(二回目)
・一回目の投句の披講・選評
 全部で五二〇句を選者の方が別室で選をします。
〈特選〉
・雪形のあれやこれやと離陸せり  布佐子
・波乗りの転んで起きる波の上    紗 和

〈入選〉
・北国と違ふ夏色舘山寺        節 子
 布佐子さん、紗和さんは沢山点数が入りました。節子はとても貴重な一点だけでした。
 野歩女さん達四人は、一般出句はしません。
 主宰の仁尾先生より、選評の言葉が沢山ありました。いっぱい勉強させて頂きましたが、実際に身になるのには何年かかるでしょうか?
 とにかく仁尾先生、副主宰の安食先生、青木先生始め皆さん元気、元気です。
 ありがとうございました。

 次回開催地【東京】
 万歳三唱が終り、昼食なのですが札幌と苫小牧組はお弁当とお茶をいただき、皆さんにさようならです。
 リムジンバスの中で「姫街道小箱御膳弁当」を食べる。
 今回私は白魚火の全国大会も浜松も初めてでしたが、一日が四十八時間位の充実した四日間でした。
 皆さんありがとうございました。
 何から何までお世話様でした。



旧東海道を歩く
(静岡)小川 惠子
 白魚火通巻七百号記念大会前日の五月二十四日、花みづきメンバーの松本光子さん、阿部晴江さん、谷田部シツイさんと私四人は、東京駅発八時五分の新幹線に乗り込んだ。御喋りをしている間に浜松駅に到着。
 今日の予定は新居、弁天島、舞阪、浜松の間を電車と徒歩で旧東海道をゆっくり吟行し、夕方からは中田島砂丘の風紋と太平洋に沈む夕日を見に行くことです。
 先ず浜松駅のコインロッカーに荷物を預け、バックに水と少しばかりの甘い物を入れ、さあ出発です。連日五月とは思えぬ程の暑さが続いており、今日も紫外線が強そうだ。
 新居までは電車で二十分、駅から歩いて十分で新居関跡に着く。まだ十時半なので見学者も少く、ゆっくり関所構内、面番所、史料舘を見て廻る。この関所は新居、舞阪間を結ぶ渡船場があり、浜名湖を往来する旅人の監視と「入り鉄砲と出女」の取り締りが厳しい関所であった。案内人の説明を聞くにつけ、私達は全国何処にでも自由に旅することが出来る今をありがたく思った。
 薫風の素通り許す新居関      惠 子
 次に旅籠紀伊国屋に立ち寄る。往時の旅人の七つ道具や宿の名物鰻蒲焼きのたれを蓄えた甕や、大徳利を見ていると旅籠の賑わいぶりが目に浮かんでくる。庭には紀州藩の御用宿らしく大きな実を付けた梅の木があった。
 新居駅に戻る途中、冷たいお蕎麦でランチタイム。一と息つく。
 次は電車で弁天島へ。弁天島観光案内所で貰った地図を頼りに、ここから舞阪駅まで三キロの道を歩く予定。途中今切渡しの渡船場であった北雁木に立ち寄る。常夜燈の足下には白の松葉菊が遠州灘の風に吹かれているばかりだった。少し歩いて舞坂宿脇本陣に到着。じっくりと見学した後、宿場の面影の残る旧東海道に入る。沿道の家々の軒には、今では滅多に見られなくなった燕の巣が架かっており、子燕の賑やかな声に元気を貰った。
 燕の子皆いつせいに口開けて   シツイ
 一里塚、見付石垣を横目に旧東海道松並木に入る。遠州灘の風に傾いた三百本の松の木蔭に入り汗を拭う。やっと舞阪駅に到着。
 次は浜松駅に戻り中田島砂丘へ。海なし県の私には眼前に拡がる太平洋、どこまでも続く砂丘はあこがれの景色だ。さっそく砂に首まで埋もれた弘法麦、浜昼顔、浜豌豆を踏まない様ゆっくり砂丘を越えた。リズムカルに寄せ返す波に心洗われる思いだった。残念なことに砂丘は足跡ばかりで、写真で見る様な美しい風紋はなかった。しかし帰り際、崩れかかった竹簀の蔭に僅かな風紋を見ることが出来た。夕方六時を過ぎたが夏の太陽はまだ高く、水平線に落ちる夕日を待ち切れず砂丘を後にした。長い一日が終った。
 風紋に残る潮の香月見草     惠 子
 翌日大会当日は緑滴る浜松城を訪ね、天守閣より五月の風を満身に戴き、清々しい気持になって大会会場であるホテルに向かった。
 天主門涼し石垣高く積み      光 子
 万緑を四方に仰ぎ出世城      晴 江

 大会では一年ぶりに全国の誌友の方々と交流を深めることが出来、楽しい二日間でした。最後に大会関係者の皆様に心よりお礼申し上げます。


白魚火全国大会浜松吟行記  
(出雲)野田 弘子 
 安食副主宰他二十三名を乗せたバスは朝七時、一路浜松へと向かった。途中トイレ休憩を取りながら十六時過ぎに皆元気に浜名湖の見えるサービスエリアに到着した。
 浜名湖には夏の季語であるボートの白い帆が風に吹かれていた。句材は素晴しいが、解放感一杯で句は出来ない。
 十七時前泊のホテルに到着、出雲ではこの時間はまだ日が高いと感じるが、日本列島の長さを感じた。
 久木句会のバス組三人で犀ヶ崖古戦場へ吟行に出かけた。見知らぬ街でようやく拾えたタクシーの運転手さんは二年前まで「蟹工船」に乗っていたと話され小林多喜二の『蟹工船』を思い出した。身に詰まされる話を聞かされた後、夕暮の犀ヶ崖に佇み由緒書を読み進むうちに自分の日々を幸せに感じた。
 犀ヶ崖白布のごとく十薬咲く     弘 子
 大会当日、浜名湖花博二〇一四で渋滞が予想されるので早目にホテルを出て舘山寺、氣賀関所へと向かった、さほどの渋滞もなく目的地に着いた。「かんざんじロープウエイ」に乗り眼下に拡がる浜名湖の景色、頂上では三百六十度の大パノラマを楽しんだ。その後浮御堂に立寄り舘山寺へと向かった。
 舘山寺 弘仁元年(八百十年)弘法大師によって創建され、その後幾多の変遷を経て現在は曹洞宗の寺院となっている。
 青葉、若葉につつまれた境内に佇んでいると老鶯がしきりに鳴き鐘の音が浜名湖の湖面を這った。本堂にお詣りし小径を少し上った処にある「穴大師」に心願成就を祈願した、集合時間に急かされながら強い日差しの中をバスへと急いだ。
 氣賀関所 慶長六年(千六百一年)徳川家康によって創設された姫街道の関所。
 通行手形を模した入場券で門を入ると本番所、女改めと物々しい雰囲気に包まれ「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳しかった事を伺わせる。階段を上り遠見番所に立つとすぐ其処に警察署が見え苦笑した。
 膝立てて女改め明易し       小村 絹代
 姫様館では家康公のものをはじめ花押の数々、八代将軍吉宗の生母、浄円院が宿泊された時に付き添いの役人が食べたといわれている夕食と、武家社会に思いを馳せながら所内をゆっくり見学し『東海道』の道路標識を随所に見ながらホテルへと急いだ。
 十四時、ホテルでの通巻七〇〇号記念全国大会に臨んだ。大会は盛大で準備、進行、諸々さぞかし大変であったと思う。
 大会二日目、早朝四人で浜松城へ吟行に出かけた。
 天守閣へは登らず辺りを散策し、ホテルに戻り二日目の大会が始まった。
 句集を配られ、「同じ所を吟行したのに自分はどうして見逃したのだろうか」と皆さんの句に圧倒された。
 二日目も時間どおりに終了し、仙花先生の万歳三唱の力強い声に元気をいただき十三時三十分、浜松を後にした。
 途中から降り出した雨の中を走ること十時間、日付の変わる何分か前に出雲に到着した。


犀ヶ崖雑感
(松江)竹元 抽彩
 文豪井上靖の文学的出発が詩であったと言う。北海道旭川に生れ、少年期浜松中学校に入学して父母の許から通学したとあるから、浜松との縁は深い。
 「学校へ行く途中に犀ヶ崖と言う小さな古戦場があった。昼でも樹木鬱蒼とした深い谷で橋上からのぞくと谷底にはいつも僅かな溜り水が落葉を浸していた。ここは日暮れ時になるとカマイタチが出ると言うのでみなから恐れられていた。…以下略」この詩は「北国」と言う詩集に収められていると、菅原五十一著「遠州文学散歩」で紹介されている。
 また山岡荘八著の小説「徳川家康」の記述には「三方原は浜松城の北方にある。二俣城に向う街道の犀ヶ崖の上の高原で、たて三里、よこ二里にわたる灌木の生えるにまかせた荒無の地であった。」と言う。距離的には、浜松城から二俣城まで約五里、犀ヶ崖までは一里足らずである。
 京都上洛を目指す武田信玄の軍勢五万の大軍により浜松城の要塞二俣城が落ちたのは、元亀三年(一五七二年)十二月十九日。浜松城までもはやさえぎるもののない、武田軍の正面にさらされることになった。徳川家康軍八千人と織田の援軍三千人は四日後の十二月二十三日早朝には武田軍を迎え撃つために、犀ヶ崖近くの三方原に対恃した。犀ヶ崖を背にした背水の陣であったと言われる。
 この無謀と思える戦いは家康三十一歳。対して武田軍は五万人の中精鋭騎馬軍団を含む二万七千人の軍勢。この時信玄は五十二歳。激戦の末日暮れには多勢に無勢、家康軍は生命からがら浜松城に敗走した。
 武田軍は家康の陣のあった犀ヶ崖に追討の陣を進めて夜になった。
 家康の浜松城は風前の灯火。城への攻撃を阻止しようと、ありったけの鉄砲を集めて武田軍の本陣となった犀ヶ崖に夜襲を掛けた。世に言う犀ヶ崖の戦いである。
 白布で崖を隠し土地不慣れな武田軍に鉄砲を射ち掛ける奇襲で武田軍の騎馬軍団を崖下に転落させて多数の戦死者を出したと伝えられている。これにより武田軍は浜松城を攻めることなく京への道を進んだため家康の生命は助かった。
 この一日の戦いで死者は徳川軍千百八十人、武田軍は四百人であった。
 歴史はその後、信玄は上洛することなく途中病いに倒れ、武田滅亡への道を辿ることになるのである。
 犀ヶ崖の古戦場跡には、江戸中期の俳人大島蓼太の句碑が建っている。
 岩角に兜くだけて椿かな          蓼 太
 崖のまわりにまっ赤に咲いた椿の花が崖下に散って、さながら人馬の転落した死体が血に染って飛び散っている様だとの句意。
 また三方原古戦場跡の大林寺には正岡子規の句碑が建っている。
 馬通る三方原やほととぎす        子 規
 全盛期の武田の騎馬軍団が徳川軍を破ったかつての古戦場三方原を血に染めた大地に、今はほととぎすが咲いていると、その時に勝った武田軍が信玄の死により一気に滅亡への道を辿ったことに思いを寄せたものではなかったか。
 この句は正岡子規最後の上京途中の、明治二十八年十月末頃の作品と言われている。
 子規はこの後すぐ脊椎結核により終生の業病に悩まされる運命となる。
 今の三方原は住宅が建ち並び古戦場の面影はないが、当時一日の戦いで両軍併せて千五百人以上の死者を出した土地の住民は、その後亡霊に悩まされたのである。その供養としての「遠州大念仏」の発祥の地として今に無形文化財で伝えている。
 私は白魚火大会二日目の五月二十六日の早朝代表選までの二時間をタクシーで犀ヶ崖に自由吟行した。生僧犀ヶ崖資料館は七月まで閉鎖中で文献を見ることは出来なかったが、史跡は現認した。
 犀ヶ崖の深い谷底を覗くと崖下は今も鬱蒼と茂る草本があり、渡る風に心無しか血生臭さを感じた。過去の歴史がそう思わせたのであろうか。
 緑陰の実に生臭き犀ヶ崖         抽 彩
 全国俳句大会一日目の出句作品の中に犀ヶ崖を詠んだものが他に二句あった。いずれも観察の眼の行き届いた佳句であった。
 犀ヶ崖うつそうとして今年竹       多久田豊子
 犀か崖白布のごとく十薬咲く       野田 弘子

 一句目、崖下の谷底から今年竹が鬱蒼と伸びてカマイタチが棲んでいそうに見える。
 二句目、十薬の白い花に、白布を橋に見せかけて鉄砲で奇襲して武田軍の騎馬軍団を多数転落死させた。犀ヶ崖の戦いの故事を連想させる句であった。
 あの日から四三二年が経つ。三方原で大敗した家康がもし死んでいたら、今の日本はどうなっていたであろうか…。
 あの時大敗した家康は、武田信玄から多くの教訓を得て、その後二度と戦に負けることなく我慢、辛抱で天下を統一し江戸三百年の泰平の世を築いた。
 今回古戦場の舞台に立つと負の歴史は決して繰り返してはならないとの思いを強くした。寸暇であったが歴史の重さを体感させて頂いた。



創刊第七百号記念 
  浜松大会に参加して  
(群馬)天野 幸尖 
 群馬勢本隊十六名は午前五時に中之条を出発して高速道路を乗り継いで十二時前に浜松に到着、受付時間まで余り余裕がないので会場に近い浜松城にて吟行しました。
 浜松城は徳川家康が天下取りの第一歩を記した縁起の良いとされている城で石垣は野面積と呼ばれる自然石を巧に積み上げたもので荒々しさに力強さを感じられます。
 野面積の力強さとしなやかさを、詠んだ句を披露させていただきます。
 かたばみの花を抱きし野面積     福嶋ふさ子
 薫風や城の見所野面積         竹内 芳子
 夏草や天に聳ゆる野面積み       荻原 富江
 初夏や家康の夢聞く野面石        関 仙治郎

 浜松は三回目の全国大会で野面積を句に詠みたいと思って詠んでみましたが野面積の強さばかりに目を取られてしなやかさやまわりの草花に、思いを寄せられなかったことに改めて俳句の深さとすばらしさに、精進しなければならないと思いました。
 私は本隊とは、別行動で新幹線にて浜松入り、駅前広場では青空コンサートが開催されてさすが音楽の街、浜松と思い浜松の「おもてなし」にうれしく思い、足取りも軽く会場に向かいました。
 受付時間まであまり時間がなかったので吟行は、徒歩十分にある「木下恵介記念館」へ向かいました。名匠木下恵介監督が浜松出身と知り訪ねてみたいと思っていました。木下恵介監督作品「喜びも悲しみも幾年月」「二十四の瞳」テレビドラマ「三人家族」が、特に好きで舞台となった観音崎灯台や小豆島を訪ねて今回は浜松です。
 昭和五年に建てられた浜松市の指定有形文化財「旧浜松銀行協会」の瀟酒な建物に記念館はありました。書斎の一部が、再現されて机には、夏椿が一輪生けられていて監督の凛とした気品が表されているようでした。作品のポスターや台本、半生と作品のダイジェスト版で上映されていました。ゆっくりと貸し切り状態で楽しめました。
 今回の全国大会出席で平成七年佐賀大会より、二十年連続二十回目となりました。はじめての佐賀大会では、先生方をはじめ多くの方々と親しくご交配を頂きまして、以来全国大会は仕事のやりくりをして出席して今も楽しい時間を過ごしています。
 ひとつ心残りは佐賀大会吟行にて秀吉の朝鮮出兵のために築かれた名護屋城祉より壱岐島方面の展望が、雨天のため海霧の中で見えず隠れキリシタンの島のお話を聞きましたが残念でした。後日、個人的に佐賀へ行く機会に恵まれ名護屋城祉より壱岐の島々を見ることができました。大会でこの景色を見たらみなさまが雄大な句を詠んだことと思います。ぜひ機会がありましたら佐賀での全国大会でみなさまとこの雄大な景色で吟行できたら良いと願っています。


「関所雑感」
(広島)挾間 敏子
 浜松駅から、一体どこまで山の見えない道が続くのだろうというほどバスで走ってたどり着いた大本山奥山方広寺。その六十余の伽藍を擁する臨済宗総本殿の壮大さ、渓流に沿う木洩れ日の中の五百羅漢の表情の数々。野面績で名高い浜松城の上から見渡す活気あふれる大都市の風景。それらのどれにも旅の心を動かされたけれども、私にとって印象深かったのは新居関所と気賀関所の遺構であった。
 気賀関所は一六〇一年に徳川家康によって創設されたと言われ、冠木門、本番所、向番所(牢屋)、遠見番所がコンパクトに復元されている。冠木門を入ったとたん、刺股、突棒、袖搦が並んでおり、足のすくむ思いがする。
 そして何と言っても圧巻は新居関所跡である。やはり家康が設置した関所の一つで、実際に関所としての役を勤めた時のままの形で保存されている建物として、全国で唯一のものという。面番所に居並ぶ裃姿の目付鋭い等身大の人形とその後の弓矢、刀剣、鉄砲等が、当時のきびしい取り調べの雰囲気を、いやがうえにも醸し出している。軒先には葵の紋の幔幕がいかめしく張りめぐらされており、「入鉄砲に出女」が特に厳重に検査された所なのである。
 そもそも関所は江戸時代以前は「関」と呼ばれ、古くは大化改新のころから作られていたという。古代は律令政府の存続強化に役立ったが、平安時代になって政府権力の後退に伴い、関も次第に衰微していった。
○これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関        蝉  丸
○淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守           源 兼昌
 よく知られている平安時代のこんな歌にはのちの関所の厳しさはないと私は思う。前者は関を行き交う人々の姿に人生流転のはかなさを言おうとしているし、後者は千鳥の鳴声に夜を眠れない関守の冬の哀感を叙情たっぷりに歌っている。(夜は眠ってもよかったのだ。)
 中世になって関は関餞徴集のために朝廷、幕府、社寺、土豪によってむやみに作られた。足利義政の正室・富子が刹那的な利益追求のために相次ぐ関所を設置していたことも知られているし、このころ淀川の関所は六六〇という驚くべき数だったそうだ。
 戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉が全国統一の一環として全面的に撤廃する政策を取った。いわゆる「楽市楽座」による商業の発展に寄与したわけである。
 ところが江戸時代に入り幕藩体制の成立が再び領内の統治のため関所が必要となった。中世と異なり関所による旅行者に対する財政的負担はなかったが、厳重な取締りは一般交通の発達を阻んだ。その反面幕府三百年の維持に預かったのもこの関所であった。
 各街道に重要な関所があったが、その代表的なものが今回私たちが見学した新居の関所であって、関所の歴史に思いを馳せることが出来た。


事前吟行しました
(牧之原)辻 すみよ
 昨年の大会はやむなく欠席、七百号大会は是非参加したいとの思いが叶いました。大会当日静岡白魚火の二十七名は貸切バスで、あと一名は仕事の都合でJRでの浜松入り、午前中浜松城を吟行しました。主宰のお膝元であり、俳句界の著名な先生方のご臨席を頂けるとのお話しに、又早くから大会準備を進められた役員、浜松の方々のおもてなしを頂けるとあって心躍らせての参加でした。
 改めて戴いた資料を見ると浜松は天下盗りの徳川家康を先頭に大勢の藩主が幕府の要職にあったとあり、浜松の俳人松島十湖の「はま松は出世城なり初松魚」はみなさんの周知の句です。また以前から気になっていた「小豆餅」と言うバス停の名前の疑問も解けました。浜松は昔からの「やらまいか精神」が今も息づいた活気溢れるまちと言うことです。
 静岡白魚火の事前吟行は、大会に出席できない人も参加しての合同吟行会で、「はままつフラワーパーク」「新居の関所」「中田島砂丘」の三カ所、フラワーパークは「浜名湖花博2014」が開催されている最中で、遠足の子供たちや大勢の人で賑わっていました。薔薇は見応えがありましたがお目当ての花菖蒲園はまだ蕾すら見られず八橋の修理中でした。途中河骨の花、紫陽花、お玉杓子、噴水等々句を拾いつつ三時間ほど園内を吟行、初めて見た百合樹の花の下で昼食、青いヒマラヤ芥子の展示を見なかったのは少し心残りでした。次に向かったのは、新居の関所です。東海道の主要な関所で、「入鉄砲に出女」は有名です。資料館では遠州織物の端切れを売っており、平成十八年の大会で、大勢の先生の選に入った森山暢子さんの句「出女の遠州縞も梅雨のころ」を思い出しました。浜松は浴衣の産地でもあります。次に浜名大橋を渡り中田島砂丘へ、人出も少なかったうえ遠州灘の風は思いのほか強く、帽子は飛ばされ砂が顔に当たり歩くのも大変でしたが、海の近くまで行った人達もいました。砂礫の中で咲いていた浜昼顔や浜防風にも負けない、牧之原大和撫子の俳句への強い思いを見たようでした。皆さん納得のいく句がたくさん出来たに違いありません。大会が楽しみになりました。お蔭さまで俳句大会では大勢の方が特選、入選に入り事前吟行の成果がみられました。
 総会、晩餐会、俳句大会とすばらしい二日間、主宰のお体も心配いたしましたが、私たちも無事に迎えのバスで帰着しました。お世話して下さいました行事部の皆様、浜松白魚火の皆様、そして当会からの代返の三名様有難うございました。感慨深い七百号記念大会の余韻に浸っている間に六月の白魚火誌が届き、参加記依頼があり、白魚火の次に向かっての歩みが始まっておりました。


浜松白魚火全国大会準備係
(浜松)安澤 啓子
 句会準備係を仰せ付かった為、大会当日の吟行はできないので、五月中旬に仲間と中田島砂丘を吟行した。
 砂丘は天竜川以西に位置し、遠州大砂丘の一部で日本三大砂丘に数えられている。
 久し振りの砂丘は、痩せており驚いた。
 天竜川上流にダムができた為、上流から運ばれてくる砂の量が減り、海岸線が毎年平均五米ほど後退し続けていると言われている。砂浜に砂が積もるように促し、砂丘の面績が減少するのを防ぐ為に、堆砂垣が設置されている。
 昨夜の雨に砂丘はしっとりとしていた。浜昼顔、浜豌豆、海桐の花、野茨、弘法麦、浜防風等の花に立ち止まりつつ、波打際まで歩を進めた。海を眺めていると何故か感傷的になってしまう。友達との吟行は緊張感がなく、まだ大会まで日があると思うと、句が出来ない。切羽詰まらないと作句できない性分は困ったものだ。
 五月二十五日 全国大会初日
 役員はホテルに十時集合である。句会準備係は句稿作成(短冊貼布)の役目で、リーダーの下、各々五名の三斑編成で、事前の分担に従い、連携して作業を進める。
(一)投句された短冊を両面テープを張った台紙に貼布、句稿を作成する。(二)句稿の名前を隠して印刷し、代表選者の選句用とする。 (三)句稿をそのまま(名前あり)を印刷、句会用とする。(四)代表選者詠の短冊と鳥雲作家(選者以外)の短冊の貼布、印刷する。等の作業を十三時三十分から十四時二十分まで。十五時四十分から十七時まで。二十時三十分から作業終了まで行った。清水和子さんの木目細かな指導と手順表により、スムーズに作業が進んだ。
 五月二十六日
 朝食後すぐに作業に取り掛かる。
(一)選者の選句の終った句稿に、披稿順に番号をつける。(二)名入れ(二人一組)番号と句が合っているか、読みにくい字は読みやすく書き直す等を注意しながら行う。(三)名入済句稿の点検及び訂正、よければコピー係へ。
 七時三十分から九時五十分まで。時間との戦いである。
 それぞれの係が黙黙と作業に当った。
 一つの係をさせていただき、福田会長を始め、運営委員の方方のご尽力は如何許りだったことだろうと思った。運営委員の綿密な計画に基づき、各係の強い連携により、大会を成功に導いたのだと痛感した。


白魚火全国大会に参加して
(東京)萩原 一志
 風薫る五月二十五日から二十六日の二日間、浜松で開催された白魚火全国大会に初めて参加した。東京句会でお世話になっている寺澤朝子さんが、「一志さん、今回の大会は白魚火七百回記念大会だし、評論賞の表彰もしていただけるのだから、是非参加なさい。」と私の背中を押して下さったからだ。
 当日は、静岡の実家(静岡県榛原郡吉田町)を八時に出発し、バスと東海道本線を乗り継いで浜松に着いたのが十時三十分過ぎだった。オークラアクトシティホテル浜松に荷物を預け、一人浜松市内の散策を決める。大会案内に紹介されていた秀忠の誕生井戸と伝えられる井戸跡を見た後、家康公兜印の羊歯印(しだじるし)に沿って浜松城に向かう。浜松に来たのは、幼稚園の卒園旅行以来五十五年ぶりになる。高層のホテルコンコルドが立つ前の散策路をゆっくり登って行くと、天守閣へと続く門に出る。来年は家康公没後四百年と言うことで、キャラクターのぬいぐるみが愛想を振り撒いている。城の石垣は自然石を上下に積み上げた野面積みである。石垣は奥行きが深く、内側に小石や砂利を詰めてある為、水はけも良い作りになっている。入場料を払い、いよいよ天守閣へ進む。階段を三階迄上がると五月の風が誠に心地良く、眼下には三百六十度の大パノラマが広がる。東を眺めれば遥か彼方に五月富士、北西には緑なす浜松北高(有馬朗人先生の母校の旧制浜松一中)、そして西側から南側に目を転じれば、浜名湖から遠州灘が見て取れる。遠州灘からの潮風を肌に感じながらゆっくりと天守閣を一回りした後、門外に若き日の家康公像を見る。これは敗走した時の戒めとして作らせた像と言われている。更に外に出ると、三方ヶ原の合戦から帰城した家康公が鎧を脱いで掛けたと伝わる鎧掛松。そして浜松城を囲む万緑の公園の中に市立美術館が建つ。流石にオートバイの町と言われるだけあって、美術館の正面玄関にオートバイが展示されている。結婚式を挙げたばかりと思われる新郎新婦が日本庭園で記念撮影をしている。滝やせせらぎの爽やかな公園内には鳥の啼き声が響く。公園の西端に、かの有名な「一筆啓上火の用心おせん泣かすな馬肥やせ」の手紙の本多作左衛門が作った曲輪跡を見つける。そこから見上げれば、先程登った天守閣がまぶしい。城の輝きに元気をもらって作った「風薫る光眩しき出世城」が、翌日の句会で小浜史都女さんの特選句に選ばれたことは望外の栄誉であった。
 今回、仁尾主宰は酸素ボンベを抱えられてのご出席だった。主宰から直接、七百号記念評論秀作賞の賞状と主宰直筆の色紙を頂戴した。「さらに精進せよ。」という熱いメッセージを感じた。その夜は七百回記念大会に相応しい素晴らしい晩餐会であった。ご来賓の有馬朗人先生や山崎ひさを先生、片山由美子先生方からのご祝辞の中に、白魚火の素晴らしい伝統を感じ、次への飛躍の大切さを身の引き締まる思いで聴いた。晩餐会では北海道、浜松、牧之原の皆さんと同じテーブルになり、和やかなひと時を過ごした。なかでも、牧之原のお二人は高校の大先輩であることがわかり、大変驚いた。又、榛句会のメンバーである隠岐の田口耕さんや浜松の林浩世さん・寺田佳代子さんご姉妹にも初めてお目にかかる事ができ、とても有意義な時間を過ごすことができた。更に、主宰のお話から、白魚火のモットーである「我が俳句足もて作る犬ふぐり」の大切さを改めて実感でき、初めて参加した全国大会が生涯忘れられない記念大会になった。
 最後に、大会の運営に当たられた白魚火行事部と浜松白魚火の皆様に心から感謝申し上げます。又、来年の東京大会でも多くの皆様とお会いできることを今から楽しみにしています。

無断転載を禁じます