最終更新日(updated) 2014.09.01 |
|
|||||||||||||
平成26年9月号へ |
|
「関所雑感」 |
(広島)挾間 敏子 |
浜松駅から、一体どこまで山の見えない道が続くのだろうというほどバスで走ってたどり着いた大本山奥山方広寺。その六十余の伽藍を擁する臨済宗総本殿の壮大さ、渓流に沿う木洩れ日の中の五百羅漢の表情の数々。野面績で名高い浜松城の上から見渡す活気あふれる大都市の風景。それらのどれにも旅の心を動かされたけれども、私にとって印象深かったのは新居関所と気賀関所の遺構であった。 気賀関所は一六〇一年に徳川家康によって創設されたと言われ、冠木門、本番所、向番所(牢屋)、遠見番所がコンパクトに復元されている。冠木門を入ったとたん、刺股、突棒、袖搦が並んでおり、足のすくむ思いがする。 そして何と言っても圧巻は新居関所跡である。やはり家康が設置した関所の一つで、実際に関所としての役を勤めた時のままの形で保存されている建物として、全国で唯一のものという。面番所に居並ぶ裃姿の目付鋭い等身大の人形とその後の弓矢、刀剣、鉄砲等が、当時のきびしい取り調べの雰囲気を、いやがうえにも醸し出している。軒先には葵の紋の幔幕がいかめしく張りめぐらされており、「入鉄砲に出女」が特に厳重に検査された所なのである。 そもそも関所は江戸時代以前は「関」と呼ばれ、古くは大化改新のころから作られていたという。古代は律令政府の存続強化に役立ったが、平安時代になって政府権力の後退に伴い、関も次第に衰微していった。 ○これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉 丸 ○淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守 源 兼昌 よく知られている平安時代のこんな歌にはのちの関所の厳しさはないと私は思う。前者は関を行き交う人々の姿に人生流転のはかなさを言おうとしているし、後者は千鳥の鳴声に夜を眠れない関守の冬の哀感を叙情たっぷりに歌っている。(夜は眠ってもよかったのだ。) 中世になって関は関餞徴集のために朝廷、幕府、社寺、土豪によってむやみに作られた。足利義政の正室・富子が刹那的な利益追求のために相次ぐ関所を設置していたことも知られているし、このころ淀川の関所は六六〇という驚くべき数だったそうだ。 戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉が全国統一の一環として全面的に撤廃する政策を取った。いわゆる「楽市楽座」による商業の発展に寄与したわけである。 ところが江戸時代に入り幕藩体制の成立が再び領内の統治のため関所が必要となった。中世と異なり関所による旅行者に対する財政的負担はなかったが、厳重な取締りは一般交通の発達を阻んだ。その反面幕府三百年の維持に預かったのもこの関所であった。 各街道に重要な関所があったが、その代表的なものが今回私たちが見学した新居の関所であって、関所の歴史に思いを馳せることが出来た。 |
|
|
事前吟行しました |
(牧之原)辻 すみよ |
昨年の大会はやむなく欠席、七百号大会は是非参加したいとの思いが叶いました。大会当日静岡白魚火の二十七名は貸切バスで、あと一名は仕事の都合でJRでの浜松入り、午前中浜松城を吟行しました。主宰のお膝元であり、俳句界の著名な先生方のご臨席を頂けるとのお話しに、又早くから大会準備を進められた役員、浜松の方々のおもてなしを頂けるとあって心躍らせての参加でした。 改めて戴いた資料を見ると浜松は天下盗りの徳川家康を先頭に大勢の藩主が幕府の要職にあったとあり、浜松の俳人松島十湖の「はま松は出世城なり初松魚」はみなさんの周知の句です。また以前から気になっていた「小豆餅」と言うバス停の名前の疑問も解けました。浜松は昔からの「やらまいか精神」が今も息づいた活気溢れるまちと言うことです。 静岡白魚火の事前吟行は、大会に出席できない人も参加しての合同吟行会で、「はままつフラワーパーク」「新居の関所」「中田島砂丘」の三カ所、フラワーパークは「浜名湖花博2014」が開催されている最中で、遠足の子供たちや大勢の人で賑わっていました。薔薇は見応えがありましたがお目当ての花菖蒲園はまだ蕾すら見られず八橋の修理中でした。途中河骨の花、紫陽花、お玉杓子、噴水等々句を拾いつつ三時間ほど園内を吟行、初めて見た百合樹の花の下で昼食、青いヒマラヤ芥子の展示を見なかったのは少し心残りでした。次に向かったのは、新居の関所です。東海道の主要な関所で、「入鉄砲に出女」は有名です。資料館では遠州織物の端切れを売っており、平成十八年の大会で、大勢の先生の選に入った森山暢子さんの句「出女の遠州縞も梅雨のころ」を思い出しました。浜松は浴衣の産地でもあります。次に浜名大橋を渡り中田島砂丘へ、人出も少なかったうえ遠州灘の風は思いのほか強く、帽子は飛ばされ砂が顔に当たり歩くのも大変でしたが、海の近くまで行った人達もいました。砂礫の中で咲いていた浜昼顔や浜防風にも負けない、牧之原大和撫子の俳句への強い思いを見たようでした。皆さん納得のいく句がたくさん出来たに違いありません。大会が楽しみになりました。お蔭さまで俳句大会では大勢の方が特選、入選に入り事前吟行の成果がみられました。 総会、晩餐会、俳句大会とすばらしい二日間、主宰のお体も心配いたしましたが、私たちも無事に迎えのバスで帰着しました。お世話して下さいました行事部の皆様、浜松白魚火の皆様、そして当会からの代返の三名様有難うございました。感慨深い七百号記念大会の余韻に浸っている間に六月の白魚火誌が届き、参加記依頼があり、白魚火の次に向かっての歩みが始まっておりました。 |
|
|
浜松白魚火全国大会準備係 |
(浜松)安澤 啓子 |
句会準備係を仰せ付かった為、大会当日の吟行はできないので、五月中旬に仲間と中田島砂丘を吟行した。 砂丘は天竜川以西に位置し、遠州大砂丘の一部で日本三大砂丘に数えられている。 久し振りの砂丘は、痩せており驚いた。 天竜川上流にダムができた為、上流から運ばれてくる砂の量が減り、海岸線が毎年平均五米ほど後退し続けていると言われている。砂浜に砂が積もるように促し、砂丘の面績が減少するのを防ぐ為に、堆砂垣が設置されている。 昨夜の雨に砂丘はしっとりとしていた。浜昼顔、浜豌豆、海桐の花、野茨、弘法麦、浜防風等の花に立ち止まりつつ、波打際まで歩を進めた。海を眺めていると何故か感傷的になってしまう。友達との吟行は緊張感がなく、まだ大会まで日があると思うと、句が出来ない。切羽詰まらないと作句できない性分は困ったものだ。 五月二十五日 全国大会初日 役員はホテルに十時集合である。句会準備係は句稿作成(短冊貼布)の役目で、リーダーの下、各々五名の三斑編成で、事前の分担に従い、連携して作業を進める。 (一)投句された短冊を両面テープを張った台紙に貼布、句稿を作成する。(二)句稿の名前を隠して印刷し、代表選者の選句用とする。 (三)句稿をそのまま(名前あり)を印刷、句会用とする。(四)代表選者詠の短冊と鳥雲作家(選者以外)の短冊の貼布、印刷する。等の作業を十三時三十分から十四時二十分まで。十五時四十分から十七時まで。二十時三十分から作業終了まで行った。清水和子さんの木目細かな指導と手順表により、スムーズに作業が進んだ。 五月二十六日 朝食後すぐに作業に取り掛かる。 (一)選者の選句の終った句稿に、披稿順に番号をつける。(二)名入れ(二人一組)番号と句が合っているか、読みにくい字は読みやすく書き直す等を注意しながら行う。(三)名入済句稿の点検及び訂正、よければコピー係へ。 七時三十分から九時五十分まで。時間との戦いである。 それぞれの係が黙黙と作業に当った。 一つの係をさせていただき、福田会長を始め、運営委員の方方のご尽力は如何許りだったことだろうと思った。運営委員の綿密な計画に基づき、各係の強い連携により、大会を成功に導いたのだと痛感した。 |
|
|
白魚火全国大会に参加して |
(東京)萩原 一志 |
風薫る五月二十五日から二十六日の二日間、浜松で開催された白魚火全国大会に初めて参加した。東京句会でお世話になっている寺澤朝子さんが、「一志さん、今回の大会は白魚火七百回記念大会だし、評論賞の表彰もしていただけるのだから、是非参加なさい。」と私の背中を押して下さったからだ。 当日は、静岡の実家(静岡県榛原郡吉田町)を八時に出発し、バスと東海道本線を乗り継いで浜松に着いたのが十時三十分過ぎだった。オークラアクトシティホテル浜松に荷物を預け、一人浜松市内の散策を決める。大会案内に紹介されていた秀忠の誕生井戸と伝えられる井戸跡を見た後、家康公兜印の羊歯印(しだじるし)に沿って浜松城に向かう。浜松に来たのは、幼稚園の卒園旅行以来五十五年ぶりになる。高層のホテルコンコルドが立つ前の散策路をゆっくり登って行くと、天守閣へと続く門に出る。来年は家康公没後四百年と言うことで、キャラクターのぬいぐるみが愛想を振り撒いている。城の石垣は自然石を上下に積み上げた野面積みである。石垣は奥行きが深く、内側に小石や砂利を詰めてある為、水はけも良い作りになっている。入場料を払い、いよいよ天守閣へ進む。階段を三階迄上がると五月の風が誠に心地良く、眼下には三百六十度の大パノラマが広がる。東を眺めれば遥か彼方に五月富士、北西には緑なす浜松北高(有馬朗人先生の母校の旧制浜松一中)、そして西側から南側に目を転じれば、浜名湖から遠州灘が見て取れる。遠州灘からの潮風を肌に感じながらゆっくりと天守閣を一回りした後、門外に若き日の家康公像を見る。これは敗走した時の戒めとして作らせた像と言われている。更に外に出ると、三方ヶ原の合戦から帰城した家康公が鎧を脱いで掛けたと伝わる鎧掛松。そして浜松城を囲む万緑の公園の中に市立美術館が建つ。流石にオートバイの町と言われるだけあって、美術館の正面玄関にオートバイが展示されている。結婚式を挙げたばかりと思われる新郎新婦が日本庭園で記念撮影をしている。滝やせせらぎの爽やかな公園内には鳥の啼き声が響く。公園の西端に、かの有名な「一筆啓上火の用心おせん泣かすな馬肥やせ」の手紙の本多作左衛門が作った曲輪跡を見つける。そこから見上げれば、先程登った天守閣がまぶしい。城の輝きに元気をもらって作った「風薫る光眩しき出世城」が、翌日の句会で小浜史都女さんの特選句に選ばれたことは望外の栄誉であった。 今回、仁尾主宰は酸素ボンベを抱えられてのご出席だった。主宰から直接、七百号記念評論秀作賞の賞状と主宰直筆の色紙を頂戴した。「さらに精進せよ。」という熱いメッセージを感じた。その夜は七百回記念大会に相応しい素晴らしい晩餐会であった。ご来賓の有馬朗人先生や山崎ひさを先生、片山由美子先生方からのご祝辞の中に、白魚火の素晴らしい伝統を感じ、次への飛躍の大切さを身の引き締まる思いで聴いた。晩餐会では北海道、浜松、牧之原の皆さんと同じテーブルになり、和やかなひと時を過ごした。なかでも、牧之原のお二人は高校の大先輩であることがわかり、大変驚いた。又、榛句会のメンバーである隠岐の田口耕さんや浜松の林浩世さん・寺田佳代子さんご姉妹にも初めてお目にかかる事ができ、とても有意義な時間を過ごすことができた。更に、主宰のお話から、白魚火のモットーである「我が俳句足もて作る犬ふぐり」の大切さを改めて実感でき、初めて参加した全国大会が生涯忘れられない記念大会になった。 最後に、大会の運営に当たられた白魚火行事部と浜松白魚火の皆様に心から感謝申し上げます。又、来年の東京大会でも多くの皆様とお会いできることを今から楽しみにしています。 |
|