最終更新日(Update)'11.09.30

白魚火 平成23年10月号 抜粋

(通巻第674号)
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 10月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
季節の一句    橋場きよ
「今切」(近詠) 仁尾正文  
曙集鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
林 浩世、 小林布佐子 ほか    
白光秀句  白岩敏秀
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          松原 甫、 小川惠子 ほか
白魚火秀句 仁尾正文


季節の一句

(中津川) 橋場きよ  

李白一斗己二合や秋澄めり 五嶋休光
(平成二十二年十二月号 白魚火集より)

 和歌に「本歌取」という技法があるが、この句は「唐詩」をふまえた楽しさが横溢している。
 即ち杜甫の「飲中八仙歌」を引用の句である。
 李白一斗詩百篇
 長安の市の上り酒家に眠る
 天子呼び来れども船に上らず
 自ら称す臣は是れ酒中の仙
 李白は一合飲むごとに一篇の詩をつくり、天子に呼ばれても行かず、一斗酒を飲み百篇の詩をつくったと杜甫は歌っている。
 李白には有名な「白髪三千丈」の詩句もあるから誇張表現とも考えられるが、いかにも豪快な飲みっぷりである。
 それに比して「私は二合の酒に親しみ、心静かに澄みゆく秋の大気のなかで句作に励んでいる」といった心境であろうか。
 興に乗って次第に李白の「静夜思」や「秋浦歌」なども飲むほどに吟じつつ、湧き出づる詩情に夜の更けるのも忘れておられるお姿が浮かんでくるのである。

敬老日何いふでなく母のそば 坂田吉康
(平成二十二年十二月号 白魚火集より)

 まことに日本人的な愛情表現の句にほほえまされる。
 先日のテレビで「ケネディ家の人々」という番組を見たが、そこでは親子が、夫妻が、ことあるごとに「愛している」と言い交していた。
 それに比して、私たち日本人の愛情表現はこの句に描かれている様に、言葉少なであろうと想像される。そしてまた、言わない愛情表現の深さをこの句からたっぷりと受けとるのである。
 今度の大震災に海外メディアが日本人の秩序ある静かな態度に称賛の報を伝えたと聞くが、日本人は狭小な国土、ほぼ単一に近い民族構成などの影響であろうか多くを語らない民族性を持って居り、「言わず語らずのうちにわかりあえる」和の心を有しているのかとも考えさせられた。
 そして、それは俳句という「世界で一番短い詩」に多くの人が心を寄せていることとも無縁でない様に思うのである。
 言わない部分がわかる俳句表現の楽しみを私たちは共有しているのではなかろうか。  


曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   

 蚯 蚓  安食彰彦
乾涸らぶる蚯蚓歩道を渡れずに
雷雨去りまた蝉に刻奪はるる
蝉時雨前庭全部明け渡す
海開き浦に弁柄格子窓
邯鄲を聴くために歩をゆるめけり
両眼に目薬落す原爆忌
体操に走りゆく児や終戦忌
牛丼を一人にて食ぶ無意の秋

 青 大 将 青木華都子
雷雲を眼下に日本海越ゆる
歓迎の暑気払ひとふキムチ鍋
いま脱ぎしばかりの蝉の殻二つ
雨止んで蝉時雨また蝉しぐれ
午後二時の声嗄るるまで油蝉
通されて涼しお寺の百畳間
東照宮案内の僧の夏羽織
青大将迷ひ込んだる蔵座敷

 りんご飴  白岩敏秀
いにしへの色吹き分くる蓮の風
木下闇神へ近づく磴のぼる
蜘蛛の子の散つて篠突く雨となる
天道虫飛んで日暮れの湖光る
喝采もなくて噴水あがりけり
指先で回す地球儀パリー祭
打水を踏み来し靴を脱ぎにけり
りんご飴買つて夜店の灯を離る

 烏 柄 杓 坂本タカ女
巣鴉に鳴かれて太鼓橋渡る
黒といふ色を授かり百合咲ける
無駄のなき庭でありけり破れ傘
遥かプールの窓を救急ヘリコプター
試着室よりいできたり水着手に
肩ゆすりゐる噴水のせりあがる
怪我のこと伏せおく烏柄杓かな
芝つかみありく鴉や木下闇

  舟 虫  鈴木三都夫
黒鯛を待つ辛抱の糸低く垂れ
黒鯛を釣る外道は海へ抛り投げ
舟虫に遁走といふ一手かな
炎帝の情け容赦も無かりけり
蔭一つなき炎天を怖れけり
紅蓮の葉叢を抽きし宝珠かな
散り堪へ風に乱るる蓮華かな
蓮の花風に乱れてゐしが散る
 夕かなかな 山根仙花
走る蟻故なく潰す神の前
神奈備に雲片寄せて梅雨明くる
星よりの風風鈴を鳴らし過ぐ
峰雲や夕べ河口に水溢れ
遠くより日傘畳みて近付けり
蝉の声森膨らませゐたりけり
炎昼のわが影を踏む石畳
鳴き揃ふ夕かなかなに裏戸閉づ

 目高飼ふ  小浜史都女
節約をせねば団扇を出してきし
朝早く歩めとからすうりの花
身を投ぐるごと炎天へ出でにけり
野のことを野に習ふとき露涼し
二階より口笛きこゆ夏休み
夏ぶとりしてをり目高飼つてをり
昨日よりけふまるくなる箒草
みほとけは頑固で無口吾亦紅

 一 行 詩  小林梨花
百合の香を受賞の友に贈りけり
パソコンに一日籠りて半夏生
声明の僧の背筋や薄衣
踊り子の次々通る橋の上
大花火国来岬を染めにけり
彩生れ彩の消えゆく遠花火
未だ青き色の残れる落し文
黄昏に鳴くかなかなの一行詩

 銀 漢  鶴見一石子
首塚の銀杏根刮ぎ蟇
大鬼怒の百の蛍の闇透くる
鬼の子の糸原発の風の中
親不知子不知の波秋日呑む
流星や流人の島の櫂の音
朝顔の紺に生きざま振りかへり
河太郎見たく逢ひたく秋の江
銀漢や目には見えざる核の闇

 夏 野  渡邉春枝
小児科の女先生金魚飼ふ
風鈴のことに南部の音色かな
豪華船着くや大暑の港町
国取りの昔ありけり毛虫焼く
落石の音のこだまや夏の雲
さい果の夏野に開く花図鑑
一周の礼文あつもり草の島
萱草の花や雲置く利尻富士


鳥雲集
〔上席同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

 喫 茶 店 金田野歩女
半夏雨少し重たき首飾り
童顔のはみ出してゐるサングラス
ポスト迄幼子誘ふ夕涼み
流木を砂に寝かする夏の潮
賑はひの運河に浮かぶ海月かな
玫瑰や海鳴り届く喫茶店  

 虫 の 宿  上川みゆき
山頂を仰ぎつ睡る虫の宿
稲の花遠まなざしの仏達
蜩や弁天島に日の沈む
西瓜井戸に月の出誘ひゐたりけり
惜しまれて職を引きたる花木槿
朝顔や学習日誌に手を貸しぬ

 鬼 灯  上村 均
朝涼や町の使役の宮掃除
干網を船に積み込む夏燕
鰻飯大き魚拓を貼れる店
鬼灯や雨にけぶれる四方の山
夕暮の青芦原に潮さしぬ
晩涼や旅の土産の干魚

  滝  坂下昇子
朝蝉の声より晴れて来たりけり
出来たての風を貰ひぬ滝の前
青田風小さな駅の小さき椅子
刈られたるものにもありぬ草いきれ
手花火を大きく闇の包みけり
子供等の帰りてひとり夜の秋
  梅 雨 明 二宮てつ郎
梅雨明けの稜線といふところかな
雷遠し石やすやすと雨に濡れ
夏台風女医先生の細ズボン
昼寝覚岬の伸ぶる筈もなく
裏山の夕べかなかなまみれかな
晩夏光指先に塗る傷ぐすり

 大 念 仏  野沢建代
送り火のあかあか燃ゆる大念仏
白足袋の雪駄はみ出し踊りをり
影武者を悼めるごとし夏ちちろ
踊り下駄赤い鼻緒で揃へをり
精霊棚水向け鉢の大きかり
盆の寺ねずみ小僧の墓のあり

  熱 帯 夜  星田一草
夕風に紫蘇一叢の匂ひ立つ
月ひとつ虚空にゆがむ熱帯夜
真つ直ぐな杉真つ直ぐな夏の雨
日照雨来て蕗の大葉の翻る
ビール酌む見知らぬ人と杯挙げて
幣揺らす風に茅の輪の匂ひ立つ

  虹  奥田 積
巨大タンカー留めし海の朝焼けて
朝涼や水尾より水尾の生れけり
夏落暉海に残れる潮目かな
看護師に除毛されたるパリ祭
麻酔より覚めてこの世の虹を見る
明易や担当ナース待ちあぐね


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

  出雲  松原 甫

冷酒やうまづらはぎの肝和へて
陶房の主の円座飴色に
大歳時記買うて見上ぐる雲の峰
水打つて大歳時記を繙けり
墨筆の暑中御見舞アテネより


  栃木  小川惠子

灯を消して月の涼しさもらひけり
七月の男盛りの滝となる
滝風に吹かれ上手な小草かな
御車寄涼し一穢もなく掃かれ
吹きぬくる風も秋めく御用邸


白魚火秀句
仁尾正文


冷酒やうまづらはぎの肝和へて 松原 甫

 高級料亭にも冷した日本酒はなくはなかろうが、掲句の冷酒は、一杯飲屋のカウンターでなみなみとコップに注がれたものであろう。気の合った馴染の店主である。「今日はいい剥ぎの肝が入ったよ」と言われて早速肝和えにして貰った。絶品の皮剥ぎの肝を肴にして最高の暑気払いができた。
 如上のように作者と店主の間柄や店の雰囲気や作者の満足度まで伝わってくるのは「冷酒や」の季語である。常に「こと俳句の成否を決めるのは季語」と言っているが、成功した好例である。同掲の
墨筆の暑中御見舞アテネより 甫 
 古代文明の遺蹟が今も見られるアテネ。墨痕淋漓とした暑中見舞がアテネから来た、という意表を突いた所に驚かされた。アテネ在住の友人からか、アテネを観光している友人からか。今は筆ペンという矢立があるので墨筆には驚かないが「アテネより」には驚いた。

七月の男盛りの滝となる 小川惠子

 滝も、冬の凍滝、春や秋の女体のような滑らかな滝など色々な様相を見せるが、季題になっている夏が最も生き生きとしていて涼しい。掲句の「七月の」は梅雨末期で水嵩も多く「滝の中の滝」である。従って季重なりであっても「七月の」は欠かせない。
 句は単純化が図られ声調がすかっとしていて佳。

一つ売れ一つ吊り足す風鈴屋 花木研二

 拙句に「十ばかり吊し嵯峨野の風鈴屋」があるが、風鈴は飛ぶように売れるものではない。一つ売れれば一つ吊り足す。だから風鈴屋はすずしいのである。
 
いつもこの二つ目の椅子生ビール田原桂子

 この作者がジョッキから口を離さずに飲み干すという景は想定の中になかったが、かく詠まれると「あるかもな、いやきっとある」と決めてしまった。馴染の店の二つ目の椅子が彼女の定席なのだから。
 
雪渓を指呼にバンジージャンプかな 福島ふさ子

 バンジージャンプとは伸縮性のある綱を足首に巻き数十メートルの高所から飛び降りて恐怖感を楽しむ遊び。「雪渓を指呼に」だからかなりの高山の施設、どんな施設か、飛び終ったらどうするのだろうか、と思うが、そこまで心配する要はない。

抱へ来し縞の西瓜をだんぼらぼ 秋穂幸恵
 「だんぼらぼ」は「どんぶりこ」と同じ。方言のような「だんぼらぼ」だから面白いので「どんぶりこ」では面白くも何ともない。

胛は小さな翼裸の子 萩原峯子

 胛は肩甲骨のこと。中学から高校にかけての男子生徒の裸を眩しんでいるのである。句は佳いが「胛」を何と読むかに選者は時間を費やした。ふりがなを付けることも作者の器量の一つである。句会でこのまま出しても殆どの人が読めない。電子辞書で調べてくれる人は先ず居まい。読めない句は採られない。
 
手で返す干梅母の忌なりけり 浅見善平

 今日は母の年忌である。生前の母は干し梅を毎日一つ一つ手で裏返していた。作者も母がしていたように手で一つ一つ返してみた。炎天の下母は当然の如くやっていたが、いざ自分で返してみると楽なものではなかった。母と同じことをして母と共に居るような気持になったのである。

仇討ちのごとかなぶんを追ひ詰めし 内田景子

 誤って部屋へ入ってきたかなぶんを家人が寄ってたかって仇のごとく箒やはたきで追ひ詰めてしまった。人は誰でもこういう残酷な一面を持っている。「金亀子虫擲つ闇の深さかな 虚子」のごとくやさしく扱われるかなぶんもあるのに。

七夕竹命返せと書かれあり 中野元子

 七夕竹の短冊には願い事を書く例が多い。
七夕竹惜命の文字隠れなし 波郷
 かつては死病といわれた結核患者であった波郷が「惜命」と書かれた同病者の短冊に感銘した句で、句集『惜命』は療養俳句の金字塔と賞讃された。
 対して頭掲句。惜命という願い事よりも遥かに強烈だ。戦争で、原爆で、或いは今回の大震災で奪われた命を返せという悲痛な叫びである。短冊を書いた人も、これを見た作者も肩を震わせて慟哭しているのである。

    その他触れたかった秀句     
歓迎の水鉄砲に狙はるる
時計草どれも御八つの時刻指し
枯れ果てし浜の藻草や原爆忌
さるすべり彩かさねゐる平人忌
漁火が消えて始まる揚花火
男の子らのみな汚れゐし祭足袋
舟虫や潮を曳きつつ舟揚がる
太鼓切りとふ遠州の大念仏
雲の峰苺ジュースをかけましよか
つま先のはや黄昏れて蚊食鳥
突くための紙風船に息を足す
ためらひの背中押されて踊の輪
明日帰るとメールの届き蝉時雨
賜りし齢を重ね夕端居
梅雨晴間乗換駅は始発駅
松本光子
松村智美
田口 耕
坂東紀子
諸岡ひとし
鳥越千波
藤井敬子
大澄滋世
鈴木ヒサ
荻野晃正
海老原季誉
高橋裕子
大久保尚子
安食充子
大橋瑞之


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

  林 浩世

噴水の光の束となり空へ
かき氷にさくとさしたる銀の匙
万緑の奥に木霊の住むといふ
指相撲一勝二敗ソーダ水
炎天を遠くに郷土資料館


  小林布佐子

底ひろき往診鞄麦の秋
糀屋の土間の奥行き夏のれん
網戸ごし家人に昼を告げにけり
糸を出し続けて蜘蛛の軽くなる
夏蝶のにぎはつてゐる学校園


白光秀句
白岩敏秀

万緑の奥に木霊の住むといふ 林 浩世

「木霊」を広辞苑で引いてみると「①樹木の霊。木魂。②やまびこ。③歌舞伎囃子の一つ」とある。勿論、掲句の木霊は①の意味。
 子どもの頃には山の不思議や怖さを何度も聞かされた。山へ入ってはいけない日、山へ入る時や木を切る時の儀式など。それは山には神様が住み、木に霊が宿っているからだと話がつづく。
夏の盛んな茂りは木の霊の活力が最も溢れる時なのであろう。古来から木々の恩恵を受け木々と共存してきた日本人である。木霊の存在を疑わないのが自然である。
指相撲一勝二敗ソーダ水
思わず「ウフフ」と笑い出したくなる楽しい句だ。相手がご主人であれ子どもであれ、二敗の内の一敗はわざと負けて、相手に花を持たせた一敗。屈託のなさが健康で明るい家庭を描き出している。

夏蝶のにぎわつてゐる学校園 小林布佐子

授業は何時限目なのだろう。花壇にはたくさんの夏蝶がひらひらと舞っている。時折、教室の窓から子どもが花壇を見てはまた黒板へ目を戻す。
 子ども達が種を蒔き、水遣りをして咲かせた花だ。「にぎわつてゐる」に様々に咲く花があり、たくさんの蝶が飛び交うさまが想像できる。授業が終われば弾けるような子ども達の声が戻ってくることだろう。それまでの静かな静かな夏蝶と花たちの時間。

茅舎忌の葉先に雨の雫かな 斎藤文子

川端茅舎は本名川端信一。昭和十六年七月十七日没、享年四十四歳。高浜虚子をして「花鳥諷詠骨頂漢」と言わしめた茅舎の四十四年の人生はあまりにも短い。
 茅舎忌の頃に降る雨といえば夕立であろうか。葉先に溜まった雨雫がきらりと光って落ちる。そしてその反動で葉先が揺れてまた落ちる。
 「金剛の露ひとつぶや石の上」(茅舎)。作者には葉先の雫が金剛の粒にも感じられ、葉先から限りなく落ちるひとつひとつの雫の光のなかに、茅舎浄土を思い描いているのだろう。

ちちろ鳴く無住の寺に魔法瓶 若林光一

ちちろが鳴く無住寺といえば、その有り様はおおよそ見当がつく。と言っても荒れ放題という訳ではない。時にはお参りする人もあり、地元の檀家の人たちの世話もある。この魔法瓶は地元の檀家の人のものだろうか或いは遠くからの参拝者のものだろうか。いつもは淋しい無住寺に賑やかな一日が訪れている。

空つぽの虫籠残し帰りけり 角田しづ代

夏休みが終わって親元へ帰っていった子どもたち。帰るにあたって虫を野に放してやったのだろう。残していったのは空っぽの虫籠一つ。
虫のいない虫籠には一緒に過ごした楽しい思い出が入っている。「帰りけり」に楽しさを追憶する余情がある。

満身の力を鍬に旱畑 山田ヨシコ

旱の土は固い。なまじっかの力では鍬は跳ね返されてしまう。満身の力で鍬をサクッと打ち込み、クラリと土を裏返す。裏返った土に鍬の背で峰打ちを食らわせて砕く。これをひと鍬づつ続けていく。大変な労力である。
 そんな苦労に対して畑は必ずご褒美として美味しい野菜を返してくれる。これが畑作りの魅力のひとつ。

約束の刻すぎゆける夕立かな 松下葉子

 約束の刻になってもなかなか現れない友。あきらめて帰ろうか、もう少し待とうかと逡巡している時、さっと来てさっと通りすぎていった夕立。
待っていた逡巡の時間を夕立が洗い流してしまった。やっぱり、もう少し待ってみようと改めて腕時計をのぞき込む作者である。

病棟に音なき刻や明易し 郷原和子

一日中ベットに横たわる病人にとって、朝が来てそして暮れてゆく一日が全て。曜日も日にちも忘失する。その一日の中で深海にいるような静けさが訪れるときが何度かある。
 そんな日を幾日も繰り返しながら病は快方に向かっていく。その気持ちの弾みが「明易し」なのである。

    その他の感銘句
くろがねの蟻のはたらく弥撒の刻
滴りて重なり合うて山美しき
初盆や母の乗る馬低くして
木斛の花の窓辺に病みにけり
地蔵盆星の夕べとなりにけり
星となる綾取ごつこ夏休み
喉仏見せて一気にラムネ飲む
マネキンの肩より秋の来てゐたり
薬売雨の夏野を横切りぬ
弟に一匹あげる兜虫
城山に真向ふ墓所や峨堂の忌
句読点きちんと打つて夏日記
灯の入りて二重となりし踊りの輪
滝音の谺にまじる人の声
川涼し橋くぐり来し海の風
中村國司
奥野津矢子
江連江女
福田はつえ
須藤康子
柴田佳江
大塚澄江
鍵山皐月
廣川恵子
水島光江
篠原米女
杉原 潔
加茂川かつ
柳川シゲ子
三関ソノ江

禁無断転載