最終更新日(updated) 2011.01.01
支部・地方の便り
期間:平成22年10月3-5日
   於:浜松市  ホテルクラウンパレス浜松
目次
1.浜松大会動画(Youtube リンク)
2.浜松大会参加記 
3.浜松大会写真(Google Photo リンク)
 浜松大会動画
大会の動画を掲載します。
内容:     ・白魚火賞受賞のお礼の言葉
     
再生するには、画面真中の矢印をクリックします。
   
  浜松大会参加記  
下記文字列をクリックするとその文章へジャンプします。
浜松白魚火全国大会準備    (浜松)上村 均
新居の関から気賀の関へ 
そして大会
              (群馬)天野幸尖    
白子の味と東海道         (福岡) 金原敬子
舞阪宿での吟行          (広島)舛岡美恵子 
中田島砂丘・天竜下り    (北海道)西田美木子
皆様吟行は何方へ        (宇都宮)大野静枝
連衆の温もりと厳しさ    (隠岐)田口 耕
浜松全国大会の思い出    (静岡)本杉郁代
中田島砂丘の秋夕焼     (松江)竹元抽彩
   平成23年1月号へ


浜松白魚火全国大会準備
(浜松)上村 均
 旅というととかく遠い神社仏閣や名所旧跡を対象と仕勝ちだが、全国大会を前にして近回りに目を向けることとした。
 まず仲間のグループと新居関所と紀伊国屋と寺町通りの吟行、そして句会と有意義な一日を過ごした。
 数日後、掛川城を目指した。掛川城は応永から永徳年間〔一三九四↓一四九二〕頃は砦として利用され、その後今川・徳川と支配が変って来たが、何と言っても有名なのは山内一豊の入城であろう。一豊は天守閣を築きさらに本丸・二の丸・中の丸等を加えた。天守閣は一九九四年〔平成六年〕に日本唯一の本格木造で復元された。
 掛川城の入口の大手門から望む掛川城は小高い丘の上にある白亜の天守閣に目を奪われる。逆川に沿って天守へ足を伸ばす。天守閣の狭い階段を登り最上階に到達すると掛川市を一望出来る、素晴らしい景観だ。また中遠の山々も綺麗に澄んでいた。
 天守閣見学後、二の丸を見て廻った。ここは城主の居所・政庁・諸役所を兼ねたもので城郭の御殿としては県内唯一のものである。建造物や調度品をゆっくりと見て、歴史にとっぷりと浸かった一日だった。
 次の目標は中田島砂丘だった。中田島砂丘は遠州灘に面し、四季を通じて観光客が訪れる。スキー場の様なスロープに人の足跡と幾何学模様を思わせる風紋が見える。東西約四粁、南北六百米、大小様々砂丘が連なり映画のロケにしばしば使われる。かっては雄大な光と影を持った砂丘も最近随分姿が変った。天竜川に次々とダムが建設され砂が河口の周辺に堆積しなくなったことと、遠州灘の荒波に浸食され砂丘が小さくなってしまったのが原因と言われている。
 この日は相変わらずの暑さの為、観光客はまばらだった。しかし濃紺の海、晴れ渡った秋の空とすばらしい景色に変ることが無かった。
 十月三日の全国大会の日を迎えた。
 当日の役員の集合は九時になっている。私は二泊の為大きな鞄に荷物を詰め込んで出かけた。定刻近くなると四十二名の役員が続々集まって来た。みんな明るくそして緊張した顔をしていた。
 全国大会の実施が決まってから長い月日だったが、其の間全体会議を重ねて開催し分担の決定と実施要領の検討そして策定を行った。全体会議以外にも必要に応じ打ち合わせを行い万全を期した。それと色々な器具の調達、催物の段取りと仲々幅が広い。
 とにかく役員の大会成功への意欲と努力には並々ならぬ物があった。
 私達四十二名は元気にそれぞれの持場へ散って行った。


新居の関から気賀の関へ そして大会
(群馬)天野幸尖
 四年ぶり浜松での全国大会を楽しみにしていました。バスで浜松入りする群馬勢本隊と別行動で先乗りしての浜松入りです。前回は仕事の都合で大会出席だけのあわただしさでしたので、今回はゆっくりといい旅夢気分でした。
 まだ夏の暑さの残る浜松に、十時前に到着。ホテルに荷物を預けていざ浜名湖一周のミニ旅行へ出発!東海道線にて新居町で下車して徒歩九分、大御門、本番所、女改め部屋などジオラマ人形で当時の関所風景を再現されて江戸時代にタイムスリップした感じでした。
 関所にて、旅籠をリニューアルして資料館として公開をしていると聞いて、徒歩五分、旅籠紀伊国屋、新居宿が宿場町だったことを今に残す味わいのある宿です。二階建て十二部屋奥座敷の庭には、水琴窟があり当時をしては身分の高い方の宿泊もあったと思われます。
 また近所に当時の芸者置屋も公開しているということで徒歩一分、玄関の脇には格子窓、二階は居間、化粧部屋など、襖には千代紙で花型に穴を塞いだあとがあり、生活のにおいが感じられました。外からはお囃子が聞こえ、お祭りの稽古だそうで、当時、お囃子は芸者衆が三味線、笛、太鼓を指導したそうです。
 新居の関所から寄り道をしてしまいましたが、予定を戻して、鷲津の本興寺へ向けてバス徒歩にて鷲津の本興寺に到着。山門から参道総茅葺きの本堂は重要文化財、講堂、高麗門など立派なお寺でした。ゆっくりと句を詠みたかったのですが、残念ながら電車の時間がせまっていた鷲津まで走り、どうにか間に合い新所原にて天竜浜名湖鉄道に乗り換え、湖畔を気賀へ向かいました。湖の西に館山が見えて、群馬勢本隊は館山寺にて吟行をして会場入りと聞いていたので、みんなは特選を頂ける俳句を詠めたのかなと思い車窓を楽しみました。
 気賀の関所は、駅から七分ぐらいなのですが、適当に歩いていたら道に迷い、かなり大回りしてようやく関所に到着しました。姫街道ということで特に女性には厳しかったようです。女改め部屋があり、改め女という女性が取り調べにあたっていました。関所の建物が復元されて当時の様子がしのばれます。
 今回あわただしいミニ旅行いい旅夢気分でしたが、これも大会の楽しみのひとつです。知らない街で電車バスに乗って迷って走って、浜松は頭と足に記憶に残る街となりました。
 大会その一、浜松到着してホテルに荷物を預けて、新居の関所に行く前にトイレへ、個室の方に入って用を足しているとふっと目の前にクリアケースが置いてあり、恐る恐る中を見ると一万円札が二十枚ぐらいありました。悪魔のささやき「ネコババ」そして天使のささやき「フロントに届ける」小心者には「ネコババ」できませんね。フロントに届けて清々しい気分でいい旅夢気分へと出かけました。良いことをしたので、大会では特選連発なんて下心が頭をよぎりました。俳句はまったくふるいませんでした。やっぱり下心があってはいけませんね。お金は無事に落とし主の元にもどったそうです。
 大会その二、新浜松到着して、会場へ向かう前に昼食を取ってなかったので、浜松へ来たのだから鰻を食べたくなり、鰻屋に入り特上鰻重を注文して急いで食べて、会場へ走り、投句締め切りにはギリギリ間に合いました。やっぱり特上鰻重ゆっくり味わって食べたかったです。
 大会その三、白魚火ホームページを担当されている大城信昭氏と投稿をしている中村國司氏にお会いできて、ホームページのいろいろなお話しを聞いて参考になりました。大城氏の編集は白魚火誌を元にホームページとして再編集され、インターネットによる吟行だよりなど盛りだくさんな内容です。中村氏は多く投稿をされていてノウハウをお聞きしました。あまりパソコンは得意ではありませんが、これを機に勉強して群馬白魚火会の吟行だよりを投稿してみたいと思います。


 白子の味と東海道
(福岡)金原敬子
 大会前日の十月二日大石ひろ女さんと私は新幹線で浜松に向う。明日は後続組三人と出合うことになっている。浜松駅に着くとすぐに吟行だ。西へ二駅の舞阪駅に到着する。江戸時代を思わせる旧東海道の黒松の並木、松の枝が大きく広がり十月に入っても今年はまだ暑い。この松並木に涼を求め、また風を避けながら東海道を一歩一歩進むことしか出来なかった先人達の事を思う。
 松並木が切れた所に海苔、白子干しを扱う店が続く。店を覗くといろんな干し具合の白子がある。釜上げのものを百グラム二つのビニール袋に分けるという我が儘を店主にお願いし、さながら弥次喜多道中、街道を白子を摘まみながら見物する。うす塩で新鮮な味でした。
 江戸から三十番目の舞阪宿脇本陣「茗荷屋」があり、すぐ近くには舞阪の海。灯火台下、水際まで石畳が続く浜名湖今切渡船場、北雁木です。海なかに建つ弁天島の赤鳥居、その先は太平洋。浜名湖の湖水と海水の混じり合う所です。
 新居の関所まで足を伸ばそうと、弁天島から一駅の新居駅へ急ぐ、高校生に道を尋ねるとこの道で間違いない。走る走る、しかし目の前で閉門、四時半が閉門なのだ。江戸時代の旅人の気持が分る。周りは何もなく心細い思いをしただろう。ひろ女さんは前回の浜松大会の時もあと一歩で関所に入れなかったらしい。「付いてないなあ」「もう一度新居の関所に来いという事よ」俳人の幸せ解釈なのですね。
 翌三日後続組の小浜史都女さん、田久保峰香さん、新鋭賞を受賞される稗田秋美さん達を浜松駅で迎え、すぐにタクシーで舘山寺へ出発大草山山頂に。先ずは国民宿舎で腹ごしらえ茶蕎麦定食にする。抹茶の香の腰のある蕎麦、大きな海老の天麩羅二尾に感激。
 山頂から三百六十度の展望。遠くに南アルプス、佐久間、足元には東名高速道を車が行き交う。東には浜松市街の四十五階建てのアクトタワーが見え、静かなる遠江が広がる。
 ロープウェイで山頂から下り舘山寺穴大師へ石段を登る。小さな祠に腰を屈め頭を岩で打ちながら線香と蝋燭の香に咽びながら家族の健康を祈る。絵馬には恋人達の熱い願いが、ぎっしりと掛かる。
 全国大会会場では仁尾主宰、誌友の皆さんとお互いの近況を語り合う。私は浜松に三十年住んでいたので第二の故郷。俳句を始めた頃に戻り思い出話に花が咲く。皆、年を重ね少しの変化があるけれど気持は昔のまま。皆さんいろんな役をされ、投句コピーも手早く出来上り大会の進行がスムーズに進み浜松の皆さんの準備の良さに感心感謝いたしました。
 宴会では佐賀から五人で「ケセラセラ」を歌い楽しい時を過しました。



舞阪宿での吟行
(広島)舛岡美恵子
  十月三日の午前中、出口廣志・サツエさんご夫妻の企画で広島白魚火俳句会の渡邉春枝さんをはじめ男性一人、女性十一人は旧東海道三十番目の舞阪宿を吟行しました。
 舞阪駅を降りて少し行くと、旧東海道の道をはさんで両側に松並木が浜名湖の北雁木近くまでの約一キロにわたり残っていました。松の木一本一本に薬を注入した跡が何箇所もあり、又松葉がほとんど積もっていないことから、町の人に大切に保護されていることが良く分かりました。通りかかった人も、松葉が落ちる時期は大変と言いながらも、松並木を誇りに思っておられるようでした。途中、一里塚、舞阪灯台、出女を見張るための目付け岩等に立ち寄って、舞阪宿脇本陣(間口は五間)に着きました。平常は旅籠屋を営んでいたため、平屋造りの本陣とは違い、家族の生活する二階があり、二階の天井は何か揉め事があった時、長いものを振り回されないように低い舟底天井になっており、階段も上りにくく、降りにくい作りになっていて私も苦労しました。玄関を入ると中央が緋毛氈を敷いた畳廊下で両側に部屋が続き、一番奥の右側に八畳の上段の間があり、脇息を置いた中央が一段高くなっていて、障子の桟は漆塗り赤い房のついた御簾が掛かっていて、釘隠しは抱き茗荷の紋、襖の取っ手には赤い房尾がついていました。
 上湯殿には外からは、絶対開けられない連子窓。湯殿の右隣には二つ厠があり、一つには漆塗りの着物掛け(着物が汚れないように着物を掛ける和式トイレの前後を逆にしたようなもの)があって昔の人たちの知恵と工夫が見えて、つい展示物より家の作り等に目がいってしまいました。その為、出女に関する資料を見落としていたのがかえすがえす残念で仕方ありません。
 ボランティアガイドの女性が声張り上げて一生懸命説明をしてくださったのも印象的でした。又、入館料が無料で浜松市の財政が豊かであることが想像できました。
 脇本陣を出て、ヤドカリが散歩?していた北雁木(階段状にはなっていなかった)に寄って弁天島海浜公園まで歩きました。私は以前愛知県に住んでいたことがあり浜名湖に浅蜊を取りに来たことをなつかしく思い出しました。予定ではこの辺で昼食を、と言うことでしたが、弁天島駅前の土産物屋兼食堂は、お休みで、浜松駅まで帰ることになりました。この日の歩数は一万歩余り。
 出口廣志氏には女性十一人を引率していただき、大変ご負担をおかけしたことと思いますが、江戸時代の宿場の様子が良く分かり、とても楽しく吟行することができました。
 又、中田島砂丘の太平洋に沈む夕日が、とても美しく、時間とお金が許せばまた尋ねたい土地の上位に入りました。


中田島砂丘・天竜下り
(北海道)西田美木子
 十月三~五日の浜松大会に向けて前日の二日、秋晴の千歳空港を出発。北見から一日に札幌入りした野歩女さん・札幌の津矢子さん・琴美さんと共に旭川白魚火のタカ女先生・休光さん・敬子さん・布佐子さんの到着時間に合わせ出発ロビーに集合。数方さんはすでにご主人との旅行で一日に静岡へ発ち、三日に合流予定。
 今回は座席も離れていた為、機内の句会は無し。空港で慌しく買ったお弁当を食べ、美しい雲海、日本アルプスの峰々、左手に富士山頂、と中部国際空港までの一時間半余りをそれぞれ楽しみ、いよいよ目的地に。浜松行きのリムジンバスは、ほぼ貸切状態でゆったりと車窓を眺めつつ、翌日の吟行の打合せをしたり、街路樹の夾竹桃や庭先・畦で今を盛りと咲いている曼珠沙華など北海道とは違った風景に興味津々。
 スチュワーデス同士の笑顔爽やかに  タカ女
 アルプスの嶺くつきりと秋刻む 琴美
 連結の電車のごとし秋の雲  休光
 ホテルは浜松駅前で大会会場と同じ。移動の心配も無く後は全国の皆様との再会を心待ちにするばかり。部屋で休憩後、夕食はホテル内の日本料理店。お店のご好意で句会も出来、明日の吟行があるとは言え出句出来る安心感で今夜はゆっくり休めそう。二日目の出し物の練習をして解散した。
 曼珠沙華子らの遊びは日暮まで  野歩女
 三日は、同じく前日から同ホテルに宿泊されていた函館白魚火の今井星女さん、内山実知世さん、広瀬むつきさん、吉田智子さんも一緒に吟行する事になり、数方さんも加わり十三名でジャンボタクシー二台に分乗していざ出発。
 まずは浜松駅から十五分程南下、遠州灘に広がる中田島砂丘へ。東西四km、南北六百mにも及ぶ日本三大砂丘のひとつとか。砂に足を取られ息を切らしながら太平洋目指して一目散! と言いたい所ですが、そこは俳人。立ち止まり辺りを見回し、空を見上げゆっくり丘を越えると、太平洋の荒波にサーファーが遊び、波打際には沢山の親子連れが。
 一足早く着いた人が大きく手招きしているので走って行くと、何となんと!人工孵化させた赤海亀の今年最後の放流とか。何とラッキーな出会い。可愛らしい子亀達が迷いもなく海に向かって、石に躓きながらも手足を一生懸命に動かす姿に思わず「頑張れ、頑張れ」と応援の声も。幸運な巡り合いに感動の余り、ちょっとはしゃぎ過ぎの私達。やがて波間に消えて行く子亀達の無事を祈りながら、砂丘を後にした。
 秋暑し砂が砂止む堆砂垣  休光
 天高し朝に生まるる亀放つ  数方
 亀の子を荒き秋潮誘ひをり  野歩女
 次の吟行は「遠州天竜下り」。爽やかな秋空の中十一時発の舟に乗るべく遠州鉄道沿いに、天竜川沿いに乗船場までの快適なドライブ。靴を脱いで乗船。小型の舟なので水辺ぎりぎりの視線で見る風景が面白く、船べりから手を伸ばすと川面に届き冷たい水が心地良かった。碧い水が綺麗で川下りには丁度良い加減の水嵩と感じた。前方、後方、二人の船頭さんの息の合った操船と客を楽しませる名ガイド振りに終始和やかな笑い声が。
 諏訪湖を源とするこの川は大雨が降ると暴れ川になると言い、今夏の豪雨でも一部流れが変わったとか。又、いつもなら鮎釣りの人や鷺が沢山見られるが、やはりその影響で青鷺や川鵜が数羽見られただけ。自然の力の怖さを改めて感じた。川岸の植物や史跡等の説明を聞きながらの五十分程の舟旅はあっという間に終わってしまった。
 あきさせぬ船頭二人いわし雲  敬子
 秋晴れや船頭が好し客が好し  津矢子
 川下り全天にある鰯雲  布佐子
 昼食は浜松餃子が美味しいとの事で運転手さんお勧めのお店へ。
 昼食は浜松餃子鰯雲  タカ女
 ホテルに戻り大会の受付をして再会の挨拶を済ませ投句の準備。三句投句をして総会会場に入るともう沢山の方が着席して今や遅しと開会を待っている。仁尾主宰のご挨拶の後、編集長から白魚火の現況が報告され、会計監査報告と進められた。
 懇親会は地元浜松のプロの音楽家や歌手の方々の演奏を聴きながら和やかに歓談。散会後、一室に集まりもう一度明日の出し物の練習と句会を少々。
 四日は前日夕方からの雨が続いていて、吟行はタクシーで浜松城へ。天守閣は十八年の大会の時登ったので今回は外側だけの散策に。金木犀の香りが漂い野面積の石垣が雨に濡れて何とも味わい深い趣のお城の風景。写真撮影もあるので句材を拾って早めにホテルに帰る。
 城垣の石の奥より虫の声  数方
 立て札に囲を張る秋の女郎蜘蛛  美木子
 午後からの式典。メインは何と言っても、白魚火賞に輝く津矢子さん、みづうみ賞秀作賞の布佐子さんお二人の晴れの表彰。おめでとう!受賞者代表謝辞の津矢子さんは、ユーモアを交え立派にご挨拶された。
 その後鳥雲同人以上の先生方の代表選が行われ、続いて入選、特選作品の披講に。

坂本タカ女曙同人 特選
 遠州の風遠州の曼珠沙華  津矢子
今井星女先生 特選
 櫂の音に合はす舟唄水の秋  津矢子
星田一草先生 特選
 太平洋見にゆく砂丘螇蚸とぶ  布佐子
浅野数方先生 特選
 船頭の唄の哀調花カンナ  布佐子
坂下昇子先生 特選
池田都瑠女先生 特選
 旅装解くホテルの窓の秋夕焼  美木子

 懇親会の恒例となった旭川白魚火と実桜の出し物、今年は知床旅情の歌に合わせて、タカ女先生が長年作り溜めて置かれたアイヌ紋様の刺繍の衣裳を全員が着て、琴美さんの振り付けで踊り、拍手喝采を浴びた。舞台を降りても写真を撮って下さったり、衣裳も引っ張りだこで大・大・大成功~!
 五日は代表選が八時三十分から始まり、その間私達には地元の方による「井伊氏と歩む 井の国千年物語」と題する「講話」が用意され、この地方の歴史物語が笛の音と映像に乗せて語られた。

二日目 代表選 特選句
安食彰彦副主宰 特選
加茂都紀女先生 特選
 鯖雲の尾を踏んでゐるビルディング  津矢子
金田野歩女先生 特選
 小鳥来る天守曲輪を遊び場に  津矢子
坂本タカ女曙同人 特選
 天守閣まで金木犀の香立つ  敬子
福村ミサ子先生 特選
 晩秋の艪を操れる痩躯かな  布佐子
浅野数方先生 特選
 ひと言で済む話なの曼珠沙華  琴美

 披講の後は、仁尾主宰の入選句、特選句の選評を頂き句会終了。
 その後、青木副主宰から来年の大会は岡山で九月上旬に開催予定との報告がなされ、白魚火の益々の発展を願い万歳三唱で主宰のお膝元での全国大会を無事終えた。
 昼食後解散、岡山での再会を約し、笑顔と握手で皆さんとお別れして帰路についた。
 秋夕焼背負ひ帰郷の離陸かな  美木子



皆様吟行は何方へ
(宇都宮)大野静枝
 十月三日、新幹線を乗り継いで浜松駅に着いたのは、予定に寸分も違わず午前十時三十分。
 浜松全国白魚火大会に参加の同行者七名はスケジュールに添って、駅のロッカーに手荷物を分散して預けた。
 吟行地は龍潭寺と井伊谷宮である。
 タクシー二台に分乗した。運転手の話しによると浜松駅を出発するタクシーは龍潭寺方面は管轄外なので道がわからない。しかし何とか行きます。と言われ行く先の所番地を告げたら、カーナビがセットされた。何とか行き着くだろうと車外の風景に目を休ませた。
 郊外から、やや家並の建て混んだ通りに入った。カーナビの指示には従わず、一台目の車について走行した。「何故まがらないのだろう」運転手が呟いた。一台目が路肩に寄り、乗ってた人達は下車した。私達の車は更に走行して龍潭寺の駐車場で止まった。「あの場所は駐車できない」と運転手の話しである。一緒に行動する決まりなので一台目の止まった場所に行ったが出会えなかった。龍潭寺の吟行中に出合え安堵した。
 龍潭寺は堂塔の修復作業中で足場がかかりシートに覆われ全容を拜することは叶わなかった。小堀遠州作の池泉観賞式庭園も、足場等が邪魔して霊験の世界に浸ることはできなかった。萩など秋の花々は名残の風情であったが、木犀だけは盛りの香りを放っていた。
 龍潭寺と地続きの旧官幣中社井伊谷宮に移動した。
 宮殿、絵馬史料館など鎮まった佇まいである。こちらを拜観する人影は私達七人以外見当らない。そういえば龍潭寺でも俳句を思考する様子の人は見掛けなかった。約二百人が集う俳句会なのに、この場所に吟行する人は居なかったようだ。本殿背後の宗良親王御陵墓は石の柵に鉄扉が閉され鬱蒼とした樹木に被われ何も見えなかった。
 迎え車の約束時間になり、指定の場所で待った。車は一台しか来ず四人は乗ったが残った三人はどのようにして受付時間に間に合わせるか焦った。幸すぐ傍らに食事処があり、お願いをしてタクシーを呼んでいただいた。待つ時間は予想外に短く早く来た。何とか受付時間に間に合った。
 推敲の時間はなくありきたりの俳句を、残念の思いで投句した。
 吟行中に何方ともお逢いしなかったのは、見所の選定を誤ったためかもしれない。又観光用タクシーは別の受付けで相談利用すべきであったと後で気付いた。
 明四日の吟行には時間の余裕を持とうと思った。


連衆の温もりと厳しさ
(隠岐)田口 耕
  当初、迷っていました。参加日程をどうしたものかと。しかし、意を決して、安食先生にお願いし出雲、松江の方々と全日程ご一緒させて頂く事にしました。松江での前後泊を含めて五泊六日の旅は、新婚旅行以来記憶になく、荷支度の段階からネットショッピングなど家内と大騒ぎでした。何せ大会には、初参加。句会もほとんど経験が、ありません。面識のある方も皆無に近く、不安を一杯抱えての出発でした。しかし、二日早朝の松江駅で直ぐ吹き飛んでしまいました。
 みなさん、温かいのです。旧知の仲のように優しく接してくださり、いつしか連衆の一員になっておりました。バスで回る吟行そして行き帰りの車中にて父一桜の話をたくさん聞かせて頂きました。亡くなる前の様子や句会での指導など私の知らない父の姿に胸が熱くなりました。そして、ご自分の体験談などを通して皆さんが励まして下さったのです。仁尾先生の選に入ったときは、夢のようで「一桜先生が、この場におられたらどんなに喜ばれたでしょうね」と祝福され、もう涙を抑えきれず“泣き上戸の耕さん”と早速、あだ名を付けられてしまいました。懇親会においても安食先生が、連れて回って下さり多くの先生方とお話しでき有難く思います。
 仁尾先生とは、やっとお目にかかれ生涯の師と仰ぐことができました。青木先生からは、御本を頂くという温かいご配慮を賜り、鶴見先生からは、「結社賞全て取りなさい。取ろうと思わなければ取れない」と厳しくも心のこもったお言葉を頂きました。それに気が大きくなった私が、「父と肩を並べる俳人になりたい」と白岩先生に申しますと「それは、難しいよ」と笑顔で一刀両断。他にもたくさんの方からお声を掛けて頂きました。それもみな父とのご縁によるものと皆様に感謝せずに居れません。
 更にこの度主管頂いた浜松白魚火のかたがたのひたむきで明るい姿勢に心から感じ入りました。二次会の席にまでお招き頂き親しくお話しすることが出来、また来年お会いできることが楽しみになりました。最後まで、カラオケを拒みまして申し訳ありません。他意は無く、ただ音痴で恥ずかしいだけでした。
 また、句会に於いては、自分の力量を痛感させられました。うぬぼれているつもりは、毛頭ありませんが、突きつけられると悔しさで一杯でした。連衆の皆さんに教えられ、鍛えられるのだと思いました。
 白魚火という連衆の温かさと厳しさを教えて頂いた浜松全国大会でした。来年の岡山にも是非参加して連衆のみなさんと俳句を学びたいと思います。
 最後に大変お世話になった出雲、松江白魚火の方々そして、行事部並びに浜松白魚火の皆様に心から御礼を申し上げます。
 浜松の秋麗をもて帰りけり 耕 


浜松全国大会の思い出
(静岡)本杉郁代
 十八年の浜松全国大会以来四年ぶりの浜松でしたが、前回は六月末でまだ梅雨最中ということもあり囲りの景色も大部違っておりました。十八年の浜松大会と云えば郷土芸能の遠州大念仏の何とも哀調帯びた道中囃子と編み傘を目深に被った念仏踊りを見せていたゞきとても感激した思い出があります。浜松市と私の住む牧之原市は同じ静岡県の中ですが、牧之原市はお茶の生産が主の町です。一方浜松市は県下一の工業都市で人口も多く、織物、楽器、車、オートバイなど製造業の盛んな大変活気に満ち溢れた都市です。そして徳川家康の居城のあった城下町としても知られております。音楽好きな私にとっての浜松はやはり楽器の町という思いが強く常に躍動感に溢れている印象があります。今回の浜松大会で特に心に残ったことが二つあります。浜松市はピアノの生産台数も世界一で、世界的なピアノコンクールが開かれる一方、市民の方にも音楽愛好者が多く巾廣くコンサート等も開かれております。ライブ活動がとても盛んであることを実感いたしました。懇親会初日の演奏会は曲層も巾廣く、声量豊かな歌手の方、そして演奏者のみなさんの熱の入った演奏は迫力があり私達を充分楽しませてくれました。私は終りまで舞台近くで聞かせていたゞき翌日の句会や吟行のこともすっかり忘れておりました。
 そして次に二日目の式典の運び、句会の運営がとてもスムーズで活気溢れる中で進められました。式典は勿論のこと代表選の進行も無駄がなく、披講の方、代返の方ともとても歯切れよく、分り易く参考にさせていたゞくことの多い大変有意義な大会でした。浜松白魚火会のみなさまの心意気溢れる今大会に参加できたことは私にとって大きな喜びでした。
 私が静岡白魚火に入会して間もなくの平成十年、御前崎での全国大会を思い出し、とてもなつかしく過ぎた年月をふり返ることが出来ました。歓迎会でぶっつけ本番のコーラスを新人同志で御披露したことも、なつかしい思い出の一つです。
 終りになりましたが浜松全国大会を成功させて下さいました、行事部、関係者の方々、そして浜松白魚火会のみなさまの御苦労と御尽力に心より感謝申し上げ私の拙い大会記とさせていたゞきます。
 ありがとうございました。


中田島砂丘の秋夕焼
(松江)竹元抽彩
 平成二十二年度白魚火全国俳句浜松大会参加に、前泊の観光を兼ねて吟行した。
 島根県から安食彰彦編集長(副主宰)以下二十一名の団体で、新幹線浜松駅に到着したのは、十月二日(土)午後二時五分。松江駅を出発して優に六時間を超す。疲れも見せず予約の観光バスに乗りすぐに出発。快晴で観光日和。十月に入ったのに車内の冷房が気持良い。
 本日これからの行動予定は、舞阪宿脇本陣、国指定文化財中村家、中田島砂丘を見て前泊ホテル、ルートイン浜松駅東着のコースで観光したが、最終見学地の中田島砂丘に到着したのは予定時間を少しオーバーした午後五時を過ぎていた。
 中田島砂丘は、日本三大砂丘の一つでアカウミガメの産卵地であることは知っていたが、現実には隣県の鳥取砂丘しか見たことがない。ちなみにもう一つの砂丘は千葉県の九十九里浜とのこと。
 事前の下調べを怠り知識に乏しく、ウミガメの産卵もシーズン外れなので余り期待していなかったが、この時間太平洋に沈む夕日が見られると言う。となれば、日が短かくなっていて日没までに僅か三十分余りしかなく、団体で行動する時間的余裕はない。
 急ぎバスを降りて銘々が別行動。私は一人でカメラだけ携げて砂丘に向った。
 私の初めて見る中田島砂丘は、南方海(太平洋)まで目測約一粁。海岸線沿いに東西に長く広がるでこぼこの丘が連らなる砂丘で、「堆砂垣」と呼ぶ砂防の竹矢来で幾重にも仕切ってあった。快晴の土曜日、夕方とあって観光客が多く、平地は名物の砂丘の風紋も靴跡ですっかり消されていた。
 私は堆砂垣の丘に上り、幸運にも手付かずの風紋をカメラに納めることが出来た。
 海岸まで歩を弛めることなく、砂を手に取って握ると、石英の光沢を持った、きめのこまかい、重く感じる白砂がさらさらと指間を零れた。
 歩く時間経過に連れて太陽の周囲は夕焼の彩を刻々と変えて行く。ともあれ、夕日の沈むまでの秋夕焼の最中に間に合ったのは幸運であった。
 太平洋の波が砂丘の汀を洗っている。その汀に佇めば、確かに太平洋を載せて広がる砂丘があり、刻々と変化する秋夕焼の雄大な景観があった。
 太平洋載せて砂丘の秋夕焼  抽彩
 私の視点、観点が捉えた一句である。
 砂丘を囲んで海岸線と平行に、果てし無く伸びる色変えぬ松が防風林をなしている。この景は私の住む島根県にある世界一の庭園に八年連続で選ばれている足立美術館の、創作の庭や、所蔵する画聖横山大観の絵画「白砂青松」を思わせた。
 波騒が心地良いバックミュージックを奏でる中、秋夕焼が茜色を濃くして行く。大輪となった太陽が太平洋の波間と砂丘の果ての際に、滾る様にすとんと釣瓶落に消えて行く。思わず息を呑み放心となる瞬間であった。
 雄大な自然の景観に接する時、なぜか一人の人間として孤独を思う。どうしようもない大きなものに自分が抗う術を持たないちっぽけな人間であることを感じる。しかしそれが不愉快では決して無い。むしろ絶対の力の前に、神の懐に抱かれた様な安らぎを感じるから不思議である。
 感傷に駆られた私は、昨年の函館大会を思い出していた。あの時は、函館山で見た仲秋の名月と世界一の街の夜景に酔い痴れた。
 私はその時の句を今年三月号白魚火誌の百花寸評で戴いた。
 月上げて函館夜景世界一  山下泰子
 名月と併せて函館の夜景は世界一でしょうと、全国参加の句友に、地元函館の誇りに胸を張って見せた彼女が、逝去されたと白魚火誌十月号の内山実知世さんのお便りにあった。まだ六十歳の若さであったと聞く。私には名前とお顔が一致しないが、今年三月七日にお便りを戴いているだけに驚きにも一入のものがあった。ご冥福をお祈りする。彼女が今あればこの景を何んと詠まれたであろうか。
 露の世や零るる砂の指間より  抽彩
合掌。
 ふっと我に返った時、茜空は薄墨色に変って、足下に波の呟きが聞こえるばかりであった。
 私は足元の砂を指で掘り砂を掴んで見た。指間からさらさら零れる感触に多感になった私は、青春だった頃の歌を口遊んでいた。
  時間よ お前は なんて素晴しい
  すべてを 美しくしてくれる
  そして やがては 思い出さえも
  遠く連れてゆくのさ
  ありがとう 時間のながれよ
  ありがとう 過ぎゆく人生
  指からのがれて こぼれる
  砂山の 砂のいとしさ
(石原裕次郎 時間よお前は…)
  砂山の砂を 指で掘ってたら
  まっかに錆びた
  ジャックナイフが 出て来たよ
  どこのどいつが 埋めたか
  胸にじんとくる 小島の秋だ
(石原裕次郎 錆びたナイフ)
 何か腹の底から大声で叫びたい衝動に駆られた。私の中で過去の若き血が滾った。
  時間よ
  ロマンチックな 時間の流れよ
  お前は その時間さえも
  悲しみと 同じように
  過去に連れて行くのか
  でも 知ってるかい
  人の心は 老いても
  秘めた思いは 消えないことを
 この様に人の心は時間を止めて、いや過去にさえ戻して追憶の世界に入ることも出来る…。そんなことにも思いが及んだひとときであった。
 砂山の砂を掘る指秋思ふと  抽彩
 影の消えた砂丘は暮れ彩を濃くして行く。足下に幽かに鳴る砂の音を確かめながらバスに戻った。
 あたりは真っ暗に夜の帳を下ろしていた。午後六時半を過ぎていた様に思うが、私の中田島砂丘の評価は一変していた。デジカメで撮った景観も上々だ。
 感動の景観も亦一期一会である。心がそこになければ同じ景観を見ても同じではないのである。出逢い、巡り合せも不思議な縁であり不可欠の要素を感じるのである。
 今回慌ただしかった一日の最後に中田島砂丘を訪れたこと、太平洋の雄大な夕陽と間髪を容れず純粋の出合があったこと、その他過去に連想を生むその時の私の心情など、すべてが揃って今回の感動が得られたのだと思う。
 このことは亦俳句を詠む心状の集中力にも通じ、素直になった心で、その場の観たまま思ったままを表現出来る様に、私の俳句力を高めたいと気付いたのは、今回の俳句大会に参加した一番の収穫だったかも知れない。
 心身の疲れをシャワーで流し、アルコールで心を満しながら慌ただしく過ぎた今日一日の最後に得た、太平洋を載せた中田島砂丘のゆったりとした夕陽を見た感動の余韻の中に心地良く眠った。
 「追記」
 白魚火句友二百名が一堂に会し、素晴しい笑顔に逢えて想像以上の大会成果でした。
 このことの感動は他の人の大会参加記で再度楽しみたいと願っています。
 句に集ふ二百の笑顔秋灯下  抽彩
 大会の成功裏には、何時も縁の下の力となった人々の在ることを忘れてはならない。
 浜松白魚火の皆様、行事部の皆様、有難とうございました。

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