最終更新日(Update)'08.06.30

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第635号)
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2月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
・しらをびのうた  栗林こうじ とびら
季節の一句    二宮てつ郎
「訓練機」(近詠) 仁尾正文  
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
渥美絹代、小林布佐子 ほか    
15
白光秀句  白岩敏秀 41
・白魚火作品月評    鶴見一石子 43
・現代俳句を読む    村上尚子  46
・百花寸評   田村萠尖 48
・「俳壇」転載 51
・鳥雲集同人特別作品 52
・六十の手習い 田口三千女 53
・俳誌拝見「四葩」4月号   森山暢子 54
句会報 鹿沼いまたか句会  55
・宇都宮公民館静岡白魚火会  
   箱根桐谷荘とその周辺吟行会   大野静枝
56
・浜松白魚火総会記            村松ヒサ子 57
・今月読んだ本       中山雅史       58
今月読んだ本     林 浩世      59
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          高岡良子、奥野津矢子 ほか
60
白魚火秀句 仁尾正文 107
・「俳句」5・6月抜粋転載 109
・第16回「みづうみ賞」作品募集について 110
・窓・編集手帳・余滴       

季節の一句

(八幡浜) 二宮てつ郎

河鹿聴く瀬音の中に耳を置き 野澤房子
  (平成十九年九月号 白光集より)

 河鹿を始めて聞いたのは、青年になって故郷を離れてからでした。その美しい声とひびきに聞き入っていましたら土地の人が「この辺では蛙のことを“ドバ”と言い、河鹿のことを“ホロホロドバ”と言う」と教えてくれました。今度はその名前に感動しました。それ以来、五十年近くになりますが、今でも「河鹿」と言う文字を見たら、それがすぐ“ホロホロドバ”の文字になり、美しい声と共にやさしくひびいて来てくれます。

故郷の話をしやう鮎焼いて  竹元抽彩
  (平成十九年九月号 白魚火集より)

 河原で火を熾して鮎を焼きながら話しておられるのでしょうか。その二人、あるいはもう少し多人数の人、同年輩の人達ではなく、師匠と弟子か、教師と生徒といった人達のように思えてなりません。「話をしやう」と言う言い回しがそんなことを感じさせるのかも知れません。故郷の話は、何時、何処でしても同じだと思いますが、やはり、ちょっぴり甘くてちょっぴり苦い、そんな話になったのではないでしょうか。

写経堂ぴたと閉ざされ梅雨深し 山崎朝子
  (平成十九年九月号 白魚火集より)

 七月と言う月は不思議な月だと思います。前半はまだまだ梅雨で、時によると、集中豪雨で被害が出るなどして、何とも暗いのですが、後半梅雨が明けると、今度は一転して、一年中で一番明るい月になります。山々の新緑は輝いて来ますし、空の雲は白く軽く流れて前半の暗さなど信じられない月になります。こんなことを書くと当たり障りがあるかも知れませんが、一日でも、一分でも早く梅雨が明けることを祈りたいと思います。


鳥雲集
〔無鑑査同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

   杉 菜     安食彰彦

雪柳きままな風のありにけり
芽をほぐす楓に遅速ありにけり
杉菜にも細き影あり石あれば
天涯の藤を風神いたぶれり
藤の花光と興じ風にゆれ
囀りや戦国の世の五輪塔
四つ切りに伸ばす男児と連翹と
鍬を持つ俄百姓夏帽子


 緑 立 つ   青木華都子

語り部の会津言葉や春暖炉
落花溜めお堀の水の行き止り
避難所の片隅にある春炬燵
城垣を這ひ登りたる蔦若葉
野面積とふ石垣や濃山吹
天守閣新緑の風四方より
修復の城に塩蔵若葉冷
緑立つ城石垣の目止め石


 眼鏡の子    白岩敏秀

子の声の登つて来たる春の山
芹洗ふ水の匂ひを掬ひあげ
沈丁花表鬼門に匂ひけり
寺の子が側を通りぬ花御堂
大空は自由空間揚雲雀
花衣雪洞が夜をつくりけり
春風や転校生は眼鏡の子
永き日や同じ高さで波倒れ


 は る ぬ    坂本タカ女

蜑が解きをり継ぎ接ぎの風囲
噛み殺しきれざる欠伸四月馬鹿
訃の電話受く春愁の昼下り
春の雨喪の風呂敷の端濡らす
もの咎めする犬のこゑ月おぼろ
竜天に所在なかりし神の鯉
ぐらついてゐる鍋の耳うかれ猫
面白い車来てゐるはるぬかな


 落 花     鈴木三都夫

かたかごの裏を返せし瓣の反り
かく破れ破れ傘とは名にし負ふ
咲き満ちて風に危ふき桜かな
花明りして借景は遠霞
一旦は舞ひ上りたる落花かな
束の間の花も名残の蕊明り
つつじ山一万本の人出かな
つつじ句碑躑躅が咲けばつつじの賀 
  八十八夜    松田千世子
八十八夜茶山浄土となりにけり
藤まつりほんに街中藤だらけ
藤の風虻を繰り出す能舞台
触れずには通さぬ藤の花祭り
泰山木の花と向き合ふ鬼瓦
風の出てあと幾許もなき牡丹

 桜 蕊   三島玉絵
梁の太き旧家や初燕
耕すや吾に從ふ影つれて
自家用のもの少し蒔く穀雨かな
のどけしや呼鈴畑まで聞え
桜蕊雨に灯せる喫茶店
どの畦をゆくも水鳴る端午かな

 藜 摘 む   森山比呂志
飽食の世に生き殘り藜摘む
春苑や白き猫ゆく絵のごとく
啄木忌日暮の磯の匂ひけり
連休の初日いつきに薄暑来る
鯉のぼり一戸を殘す平家谷
竹皮を脱ぐや農民一揆の地

 雛 流 し   今井星女
雛流し俄神官祝詞あげ
鮭のぼる川とや雛を流しけり
目鼻なき手作り雛流しけり
ためらへる雛を手波で流しけり
雛流し海猫も鴉も見送れる
海に出る流し雛の行方かな

 母 の 日   大屋得雄
子供の日蜜柑ジュースは手作りに
母のことばかりを話し子供の日
母の日や昔のことは今日のこと
母の日や昔むかしの裁ち鋏
白薔薇の一輪挿しに五つの葉
新樹林新樹の様な空のあり

 春 筍   織田美智子
初物の春筍濡れて届きけり
養花天ひとりの昼餉すぐ終る
賑やかにからくり時計春の昼
惜しげなく剪つてくれたる牡丹かな
ははの忌や一間にこもる牡丹の香
祭髪きりりと少女喇叭吹く

 杉 菜   笠原沢江
歩を止むる躑躅見過す躑躅かな
起き抜けに先づ見に急ぐ茶山かな
明日よりは茶摘女となる豆を煮る
自づから茶山に謝して摘み初む
杉菜抜く一と鍬づつの土解き
端然と泰山木の空に咲く

 芽 柳    奥田 積
雪洞の海にせり出す桜山
蝶の昼わがたましひのとびたてる
芽柳や被爆ドームの鉄の影
残り鴨胸より水尾のはじまれる
犬と猫睦みてゐたるチューリップ
花びらを押して浮かべる鯉の口


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選


  鹿沼  高岡良子

流鏑馬や落花を誘ふ触れ太鼓
的を射し射手に喝采花吹雪
幔幕に馬の蹴あげし春の泥
薫風や土の温みの益子焼
風薫る青天井の陶器市


  札幌  奥野津矢子

夕星に届きさうなる辛夷の芽
初音には初音の真似で応へけり
風光る鍵の大きな羅漢堂
羅漢堂小鳥の恋の生まれけり
二輪草山の途中の岐れ径   


白魚火秀句
仁尾正文
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幔幕に馬の蹴あげし春の泥 高岡良子

 同掲に「流鏑馬や落花を誘ふ触れ太鼓 良子」があるので頭掲句の馬は流鏑馬の馬のようだ。ちなみに「流鏑馬」は「騎射」の副季語として歳時記に出ている。中古、陰暦五月五日に宮中で行われた儀式。天皇が出御し騎射を天覧され的中者には布を賜ったという尚武のセレモニーであった。今も各地に流鏑馬は神事として残っているが期日はまちまち。伊豆一の宮の三島大社は八月十七日、三河一の宮の砥鹿神社は五月四日。今号島根からも流鏑馬の句が投句されていたが、ここは春のようである。流鏑馬が端午の節句と違うものは別の季語を入れた方が正しい詠法である。
 さて頭掲句。馬場の観衆の並ぶ反対側、すなわち馬の進む方向の左側に騎射するのに邪魔にならぬ高さに幔幕が張られている。疾走の馬が蹴上げた春泥を幔幕にびしゃっと撥ねかけたのである。
 祭りの吟行では、読者に分からせようとして祭りの説明になり勝ちであるが、頭掲句は幔幕にびしゃっと撥ねかけた春泥の場面だけを取って臨場感溢れる秀句にした。鮮やかな手法である。

初音には初音の真似で応へけり 奥野津矢子

 初音は鶯や時鳥がその年初めて鳴く声であるが、一般的には人が初めて聞く声である。美しい鳴き声は雌を呼ぶ求婚の声であるが、初めの頃は円滑でなく鳴き下手である。「ホーオーホケキョが正調であるが「ホーホーホー」で終ったり「ホッケキョ」と舌足らずであったり。作者は下手な初音を声に出して真似てからかっているのである。
 今年は北国でも春の訪れが二週間も早かった由であるが、春到来の喜びは、こんな気さくな所作からもよく伝ってきたのである。

昇る日に雲かかりゐる昭和の日 飯塚比呂子

 四月二十九日は戦中は天長節、戦後は天皇誕生日を経てみどりの日となったが、今年から昭和の日となった。戦後の窮乏を知っている世代までには苦難の数々を思い出させる重い季語といえよう。
 掲句は今年の昭和の日の天候を詠んでいるが私どもにはこの景から仮初でないものを思ってしまう。

堰を越す水は一枚朝ざくら 村上尚子

 治水のために川に何段も設けた堰堤であろう。雪解から日を経た水は堰の幅一杯を整然と穏やかに落ちている。傍らにはしっとりと露を帯びた朝桜が散るのを堪えて咲き盛っている。
 「水は一枚」の具象がよく、朝ざくらを見る作者には生気が漲っていた。

見送れば子は陽炎になりにけり 古田キヌエ

 遊学に、あるいは新社員になる子を送り出している。短い挨拶をして一礼した子は一度も後を振返ることなく歩いて陽炎に紛れて見えなくなった。子離れ親離れの一景であろうが「陽炎になりにけり」と断定して情を断ち切ったのである。ユニークな秀句だ。

春休み伝言板になぐり書 柳川シゲ子

 この句の主人公も若者。春休みとなって海か山へのレジャーだろうが伝言板の「なぐり書」が想像の焦点をシャープにした。高校生か大学生の男であること。気心がよく知れていること等々。一句は単純が図られているので歯切れがよい。

山藤を掠むる程の急カーブ 稗田秋美

 九十九折の急カーブ、道の匂配もきつい坂道であろう。ハンドルを切る度に左のサイドミラーが藤の花に触れそうである。この句も歯切れがよいので颯爽としたハンドル捌きが見えてくる。

黒揚羽花にとどまりては止まり 大石こよ

 「花にとどまりては」は揚羽蝶が花の近くの宙に居て翅を動かしている状景、つまり花をせせっているのである。揚羽の一番好きな蜜を出す花なのであろう。「止まり」は花に止まって蜜を存分に吸っている景。この所作を繰り返しているのである。鳥獣虫魚何れも生存を続けるということは一大事なのである。

春の夢夫とは違ふ人と居て 岡田京子

 ドキッとさせる一句、穏やかでない句である。だが、夢というものは元々辻褄の合わぬもの。ましてや春の夢である。夢の中で夫とは別の男性と一緒に居た  すこしときめいたのかもしれぬが  としても家庭の騒動にはならない。むしろ夫に夢の話を詳しくして夫をからかったのかも。案じた読者が馬鹿を見たのかしれぬ。

    その他触れてみたかった秀句     
西方へひとりの旅よ著莪の花
若葉して真つ赤な自動販売機
しまうまのたてがみも縞春うらら
縁切寺はらはらと散るさくらかな
そのうちと思ひつ花も藤も過ぎ
泰山木どの子も家を離れけり
畦塗りの大音声のトラクター
糅飯の記憶もうすれ昭和の日
夏隣少女の膝の眩しかり
新しき眼鏡に映る初夏の海
一斉に万羽の帰雁空奪ふ
木村以佐
柴山要作
林 浩世
福嶋ふさ子
古藤弘枝
加藤美保
石川寿樹
坂田吉康
吉田美鈴
小沢房子
佐藤美津雄


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

  渥美絹代

春の炉や昆虫図鑑ひろげあり
花御堂みんな帰つてしまひけり
離れまで二十歩牡丹崩れをり
柿若葉祝ぎ事の膳届きたる
靴に砂いつぱいつめて跣足の子


       小林布佐子

沢の音瀬の音蝦夷の立金花
人知れずあぶくの生まれ春の水
畦焼きの村の漢のたむろかな
春耕の大地を嘴のつつきけり
巻貝の光を返す立夏かな


白光秀句
白岩敏秀


春の炉や昆虫図鑑ひろげあり 渥美絹代

 春の炉と昆虫図鑑だけの舞台装置で人物は登場しない。しかし、ここには直前まで親子の楽しい会話があった。
 春の野山で見つけた昆虫を親子で調べる。
親子で共有した昼間の楽しい時間がそのまま夜の楽しい時間につながっている。
 図鑑を捲るページの音、子どもの声、親の声。広げたままになっている図鑑に親子の楽しい時間が続いている。そして、春の炉のように暖かい家族の暮らしまで。
花御堂みんな帰つてしまひけり
 参詣人が潮の引いたように帰っていった。後には花御堂だけが残った。  
 掲句は「帰つてしまひけり」と言って口を閉ざした。作者のこの寡黙さが読者に様々な花御堂の情景を想像させる。
 俳句は何を言うかではなく、何を言わないかが大事であると改めて気づかれる句である。

人知れずあぶくの生まれ春の水 小林布佐子

 散歩の途次或いは買い物の途中でふと見つけた水面の小さな動き。それは水底からゆっくり上がって来る水泡であった。水の中で誕生した生命の上げる春の息吹である。  
 人は小さな変化は見逃してしまうが、俳人は素早く反応する眼を持っている。
 「人知れず」と言ってひそかに生まれてくる生命を見守る作者の眼は慈愛に満ちている。
 同時発表の「沢と音瀬の音蝦夷の立金花」の立金花(りゅうきんか)はキンポウゲ科の多年草で湿地や沼地、流水中に生える。高さは六○センチぐらい。茎頭に黄色い花が開く。湿地に生えるところから別名は「谷地蕗」と辞書にはある。
 「谷地水に手を入れ積みし立金花」と三関ソノ江さんも詠んでいる。私の手持ちの歳時記にはなかったが、北海道では春の季語として使っていると三浦香都子からご教示いただいた。又、「オホーツクの潮の匂ひや毛蟹糶る 岡崎健風」の毛蟹も歳時記には見あたらなかったが、北海道の味覚として採用した。郷土の誇れるものは自慢しても良いと思ったからである。

満水の峡の溜池山笑ふ 大庭南子

 満々と雪解け水を貯めた峡の溜池。どこでも見られるような情景であるが、山笑ふ」と組み合わされると生気のある別の表情が見える。
 満水の溜池には堰を切れば一気に噴出する水の張りつめた迫力がる。周囲には春へ胎動を始めた山々。穏やかに見える表面の底部には春へ突き進む強いエネルギーがある。更にこのエネルギーは口を大きく開けるア音を重ねたリズムによって増幅されている。作品の表面から艶を消して奥行きのある作品に仕上がっている。

鯉撥ねて撥ねて春昼深みゆく 稲井麦秋

 例えば芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を思い出してもいいだろう。音を加えることによって、かえつて静寂の深さを知るというパラドックスのあることを。
 掲句は鯉の跳ねる音が春昼の静けさを深めている。更に「撥ねて」を繰り返すことで時の流れも詠み込まれている。
 日永の水に飽きて撥ねることしかなかった鯉の倦怠がそのまま作者の倦怠に繋がっているようだ。春たけなわの物憂い昼下がりであった。

隠国の泊瀬の里の遅ざくら 森井杏雨

 泊瀬は奈良県桜井市にある。万葉集の最初の歌が「籠もよ み籠もよ……」で始まる雄略天皇の歌。天皇の皇居が泊瀬朝倉宮にあったと伝えられている。
 掲句は「の」を重ねながら景を絞って、焦点をぴたりと葉桜に当てている。しかも、雄略天皇の歌が早春の若菜の頃に対して掲句は遅桜の頃。同じ季の中で一歩退くことは土地の霊への挨拶として、礼に適ったものである。
 作者はこの旅で幾たびも万葉人の心に触れたことだろう。

花の昼鳩の来てゐる保育園 佐藤恵子

 何とも可愛らしい句である。保育園が静かなのは園児達のお昼寝時間なのであろう。眠っている可愛い顔が見えるようである。
 我々も園児が眼を醒まさないように、鳩が驚かないように足音を忍ばせて退散することにしょう。春のうららかな昼下がり、園児達に幸せな時間が流れていく。

連休の里の賑はふ田植かな 長谷川文子

 「連休の」とあるから平日は静かな、むしろ年輩者の多い寂しい里なのであろう。
 それでも連休になれば町に住んでいる息子や娘が一家全員で田植を手伝いに帰って来てくれる。あの家もこの家もそうである。
 この賑わいが一時のものであることは分かっているが、事あれば帰ってきてくれる息子や娘達をうれしく思い、今の賑わいを素直に喜んでいる作者である。

調教の馬場に鞭音五月来ぬ 川上一郎

 五月とはこんな音だったと改めて感じさせる。人物や情況を描くことなく、鞭の音だけで五月を見事に捉えている。
 たてがみの靡きや蹄の音、馬の息づかいなどは読者の想像が後から追いかけていけばよいこと。まず五月ありきの句である。

     今月の感銘句
八十の母の歩巾に薯植うる
稚の名を家紋に重ね凧揚がる
夕暮の春田の家に灯が一つ
爪先をちぢめて歩む春の泥
ぱらぱらと種蒔く夫の真顔かな
鴬や卵焼きより詰めてをり
盛装の父母を従へ入園児
囀のなか木曽谷の漆器店
水桶に花一片とあとは空
揺り椅子に一書を開く薫風裡
鈴木百合子
大塚澄江
荒木 茂
生馬明子
友貞クニ子
田久保峰香
中野宏子
早川俊久
国谷ミツヱ
鮎瀬 汀

禁無断転載