最終更新日(Update)'08.04.30 | |||||||||||
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・しらをびのうた 栗林こうじ | とびら |
季節の一句 坂下昇子 | 3 |
「化石」(近詠) 仁尾正文 | 5 |
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか | 6 |
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載) 横田じゅんこ、村上尚子 ほか |
15 |
白光秀句 白岩敏秀 | 42 |
・白魚火作品月評 鶴見一石子 | 44 |
・現代俳句を読む 村上尚子 | 47 |
・百花寸評 今井星女 | 49 |
・「俳壇」4月号転載 | 52 |
・「小熊座」1月号 森山暢子 | 53 |
・鳥雲集同人特別作品 | 54 |
・アンコールワット紀行 坂本タカ女 | 56 |
句会報 群馬白魚火 矢倉句会 | 58 |
・えんぴつで徒然草 鮎澤裕子 | 59 |
・白魚火全国俳句(松江)大会のご案内 竹元抽彩 | 60 |
・「俳句」3月号転載 | 64 |
・第27回 柳まつり全国俳句大会開催要領 | 64 |
・「若葉」2月号転載 | 65 |
・「昴」2月号転載 | 66 |
・今月読んだ本 中山雅史 | 67 |
・今月読んだ本 林 浩世 | 68 |
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載) 奥木温子、東條三都夫 ほか |
69 |
白魚火秀句 仁尾正文 | 117 |
・「白魚火燦燦」ができました。 | 119 |
・松江大会日程 | 120 |
・窓・編集手帳・余滴 |
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季節の一句 |
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(牧之原) 坂下昇子 |
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菜の花の拡ごりて来し川堤 村松典子 (平成十九年六月号 白魚火集より) 「菜の花」と聞いただけで何となく嬉しくなってしまいます。色の無かった冬の野山に再び春の色を見せてくれる花、あの緑がかった黄色のなんと瑞々しいことでしょう。 やがてその色が蝶達を遊ばせます。菜の花が蝶になったのか、蝶が菜の花になったのか、「川堤」からは流れの音や子供達の声まで聞こえてきそうです。春はまさしく菜の花から来るのかも知れません。 掲句の眼前に見えているものは、川堤一面に拡がった春爛漫の景だけですが、「拡ごりて来し」に冬から早春へ移る自然の息吹と、時間の経過に省略があって句の奥行を深くしていると思いますし、その場に佇んでいる作者のおおどかな情感も窺えます。 波を追ひ波に追はれて磯菜摘む 河森利子 (平成十九年六月号 白光集より) 春ともなれば日差しも和らぎ、何かに誘われるように海へ行ってみたくなります。海はもう冬の深い藍色とは異なり明るい蒼色です。波が穏やかで岩には色とりどりの海藻が波の来る度に起き上り、小魚の姿も見えます。 「磯菜」は海岸の岩礁についた石蓴など、食用となる海藻類のことで「磯菜摘み」として昔から知られています。 掲句の「波を追ひ」が磯菜を摘むとき、「波に追はれて」が摘む手を止めて波から逃れるときで、リフレインによる叙法と相俟ってそのありようが如実に詠まれています。 野(菜の花)と海(磯菜摘)から、季節の一句として紹介しました。 |
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鳥雲集 | |
〔無鑑査同人 作品〕 | |
一部のみ。 順次掲載 | |
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初 句 会 安食彰彦 神居ます国引の嶺の初明り 今年こそ大吉と出よ初御籤 屠蘇賜ふ几帳の裾の舞扇 初句会床の紅白紙の鶴 裏白の上の鶴亀五色酒 喰積や紙燭の明りあたたかし 初稽古終り二の膳三の膳 アメリカのマリアちやんより年賀状 木々芽吹く 青木華都子 雪原に吸ひ込まれたる流れ星 ねちつこく地にはり付ける春の雪 門灯や春雪斜め降りなりし 畳師の納めてゐたる針供養 橡大樹水吸ひ上ぐる芽吹き前 ホテルにもある坪庭や芽水仙 蕗のたう夫の親指ほどなるよ 少年に声かけられて木々芽吹く 寒 紅 白岩敏秀 搗き終へし餅をひと撫でして上ぐる 玲瓏と冬滝かかる神の山 ひかりつつ蛇行する川雪降れり 寒の水飲みて吐く息熱くする 日脚伸ぶ水音軽くなりにけり 饒舌のあと寒紅を引き直す 風花や貨車は手旗に導かれ 水仙の花の盛りの昏れてゐる 二十日戎 水鳥川弘宇 行きずりの二十日戎に詣でけり 冬雲雀生家ぽつんと見えてきし 風邪声の夫婦諍ひには非ず 花の名の「アイスダンス」を購へり 街川のさざめきに春立ちにけり 血圧を計り直して霜降る夜 浅春やくすり六種の大袋 看護師に見られ厚着を脱ぎてをり 春 立 つ 山根仙花 日に乾く音ひびき合ふ枯野かな ポケットの小銭を握り枯野ゆく 鍋釜の寒き影置く夜の厨 手鏡の翳れば雪となる気配 日脚やゝ伸びしとあたり見渡しぬ 軒に干すもののあれこれ日脚伸ぶ 跨ぎゆく春立つ大き水溜り 移りゆく雲のふくらみ春立てり |
寒 雀 宮野一磴 白杖をはばめる雪の四辻かな 旅人とはづむ話や寒造 小咄に吹き出してゐるごまめ噛む 偕老の五十八年寒の鰤 劇薬と朱書の倉や寒雀 ランドセルしかと締めゐる結氷期 鬼やらひ 富田郁子 節分の知事待つ出雲一の宮 新知事の豆播き見むと出かけけり 庭篝どさと大榾足されけり 裃の知事と目が合ふ福は内 鬼やらふ豆におでこを打たれけり いつしかに本気で拾ふ年の豆 冬林檎 栗林こうじ どんど猛け餅燒き衆を寄らしめず 冬林檎一と日に一果信濃住 無慮二百鳩むくむくと日向ぼこ ゆるゆると一処に集ひ冬の鯉 起き抜けの一杯よけれ寒の水 猫の歩に合はせてをかし寒鴉 霧 氷 佐藤光汀 迂回して通る川辺の鴨溜り 気嵐や川原柳の霧氷せる ことさらに川辺耀よふ氷点下 川音のなき川原なり霧氷林 鱈ちりの粗のみ残し雪しんしん 大雪山の雲より燃ゆる初茜 百 疊 間 鶴見一石子 虎落笛落ちつくところなかりけり 火の気無き火鉢積まれし百疊間 鉋屑くるりと反れる小春かな 辻占ひ自信なさそな懐手 蝌蚪の紐太る山の日山の水 猫柳矢切り吹く風渡る風 寒 波 三浦香都子 故郷は蝦夷の真ん中寒波来る 豪雪のあとの寒波となりにけり 身ごもりし羊百頭寒明くる 三寒四温羊は肥えてをりにけり 春立つや羊は啼きながら甘え 春立ちぬ絹のそよぎの緋鯉の尾 日脚伸ぶ 渡邉春枝 釘あれば何かを吊し冬籠 着ぶくれてゐて梵妻の気品かな 佗助やいつか身につく怠け癖 その辺りまでを見送る寒の月 山に来て海を見てをり寒夕焼 酒蔵につづく酒蔵日脚伸ぶ 春 隣 小浜史都女 わが歯みな健在なりしごまめ噛む 人日をあそび過ぎたる手足かな 家族ゐて独りの夕餉寒卵 縄跳びのはやぶさとびも春隣 母のなき起居に寒の明けにけり 春立つや母の箪笥に春のもの |
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白魚火集 |
〔同人・会員作品〕 巻頭句 |
仁尾正文選 |
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群馬 奥木温子 裏谿の虎落笛聞く夜を一人 向きむきに思ひあるかに水仙花 雪の夜の厚手のコーヒーカップかな 軽すぎて心もとなき布子かな 大寒の風に高鳴る杓子絵馬 旭川 東條三都夫 木枯一号宗谷岬を始発せり 表札は古色蒼然煤払ふ 自作自選の一句で鎖す古日記 松納め双手で雪を払ひけり 三寒につゞく三寒酒を買ふ |
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白魚火秀句 |
仁尾正文 |
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雪の夜の厚手のコーヒーカップかな 奥木温子 掲句に触発されて「山枯れの始つてゐる湯呑かな 原田喬」という秀句を思い出した。両句共に季語の外はコーヒーカップと湯呑を呈示してあるだけであるが共に一句に込めた作者の気息に感銘させられたのである。 頭掲の温子作は、音もなく雪の降る夜半、手にしたコーヒーカップが厚手であったという。この「厚手の」という所に目が行きこのように詠んだのは作者が「平安」で心豊かな一刻であったことを読者に伝えてくる。一句の重厚なしらべも作者の思いによく適っているのである。 同掲の「向き向きに思ひあるかに水仙花 温子」は頭掲に比し少し色合が濃いが客観写生であることに変りはない。 木枯一号宗谷岬を始発せり 東条三都夫 今冬の寒さは格別で昨夏の猛暑同様「地球病む」現象ではないかと危惧する向きは多かろう。日本気象協会編の「気象年鑑」一九八〇年版によると全国の木枯一号の平均は十一月八日であった。木枯前線というものがあるとすれば当然北海道の北端から南へということになる。 この作者は十月、本邦最北端の宗谷岬に立って木枯に遭い、これは木枯一号で、今、ここから内地に向って南下すると断定した。一本の棒の如く詠み下した声調が力強く、作者の雄心の如きものを感じ取った。 眼が笑ふマスク近寄り来りけり 早坂あい女 三十年もかかりつけの歯科医は大きなマスクをしているので素顔を見たことがない。対して掲句はよく知っている相手なのでマスク越しの眼が笑っていることがすぐ分ったのである。とりも直さず作者も親愛の笑顔をもって近付いて行ったのである。 湯立の儀マイクの拾ふ虎落笛 福嶋ふさ子 奥三河の花祭(花神楽)や南信の霜月神楽には湯立神事が行われる。毎年よく肥えた畑の土で竈を築き、煮えたぎった湯に笹束を浸してお祓いをする。そのしぶきを受けた者は無病息災の御利益があるといわれる。何百年も続くこの夜祭は国の重要民俗無形文化財に指定されているものが多く、プロ、アマのカメラマンが大勢取材に集る。掲句は、ビデオを取ったときマイクに虎落笛が入っていたのである。作者にはそれが神の声のように思われた。ユニークな虎落笛詠である。 海までの急な坂道寒稽古 稗田秋美 海辺から一段高い所に集落があり、寒稽古は、まず海迄の急坂を馳け下り、馳け上ってから始められるのであろう。かなり厳しい激しい寒稽古であろうことは、道場周辺の地形 を具象的に描いたことからもよく分る。 命綱つけて注連張る那智の滝 阿部芙美子 那智の滝の年用意がリアルに描かれていて佳。 神にませばまこと美はし那智の滝 虚子 の如く落差百三十メートル幅十メートル余の那智の滝は神として崇められている。新しい年に新しい注連縄を張るのは当然であるが、絶壁であるので命綱をつけた大勢の男が奉仕している。掲句は、よい場面に遭遇したのが手柄であるが、それは「足もて作った」からである。 河川敷芽吹く柳の一色に 久家希世 例えば天竜川。上流にいくつものダムが設けられていて川幅の広い下流はダムの余水が流れているに過ぎない。高い所には野球場やサッカー場が造られ小公園もある。掲句は河川敷に設けられた公園。柳の芽吹く頃は緑一色になり人々の目を楽しませてくれる。 白梅に古参の格の自ら 浜崎尋子 梅園で楉を林立させているのは若さだけが取柄。対して掲句の「古参の」と擬人化した百年も経っている梅には格の違いが自ずから出ている。一句の重々しい声調はこの古木に寄せる敬意である。 大寒の利根の川巾跨げさう 坂本清實 坂東第一の利根川の河口は海と紛う程であるが上流の赤城SA辺りでは段丘の底を流れる小川のように見える。大寒の水涸れの時期ともなると、まさに「跨げさう」という比喩がぴったりだ。 冬の日をひざに乘せつつ針仕事 宮原紫陽 日向ぼこをしながらの針仕事。「冬の日をひざに乘せつつ」と言われると万人が納得する。こういう表現は既に沢山作られているように思っていたが見たのは初めてである。単純化が果されて類句もないということは立派である。 |
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白光集 | ||
〔同人作品〕 巻頭句 | ||
白岩敏秀選 | ||
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横田じゆんこ 風邪寝して部屋の四隅の遠くなり 使ひ捨てマスクと捨てし本音かな 寒晴れや茶筅の竹の干されあり 梅の枝空に触れては開きけり 風呂敷のふはりと春日包みけり 村上尚子 縫初の釦かがりの糸を選る 玄冬の森へ耳立て深入りす 白樺の幹に日のある雪嶺晴 都合よきときの返事の耳袋 犬連れて二月礼者の来たりけり |
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白光秀句 |
白岩敏秀 |
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梅の枝空に触れては開きけり 横田じゆんこ 今では花と言えば桜で、桜は花の代表であるが、嘗ては梅であった。梅は万葉の頃、遣唐使によってわが国にもたらされたという。以来、梅は数多くの詩歌に詠まれてきた。 早春の風に梅がいきいきと枝を揺らしている。揺れる枝が空に触れるたびに花が開いてゆく。それはあたかも空から零れたように一輪また一輪。しかし、揺れる枝が空に触れることはあり得ない。つまり虚の世界。梅の花は現実の世界。二つの世界をつなぐものが消し去られた時間。花芽から蕾に至る時間を消去することによって、空と梅が直結し、いきなり梅が開花したように感じられる。 巧みな句でありながら巧みを感じさせず、春の生動のみを新鮮に伝えている。 風呂敷のふはりと春日包みけり 素早い把握であり、素早い描写である。風呂敷に春日を受けた品物が包まれた時、それを風呂敷が春の太陽を包んだと表現したのである。通常ならば「風呂敷に」と表現するところを「風呂敷の」と言って句柄を大きくした。 春の太陽を風呂敷に包み、買い物やピクニックに行けたら、さぞ楽しいだろうな、とそんな思いがする作品である。 白樺の幹に日のある雪嶺晴 村上尚子 この句から色々なことが連想される。雪嶺とはアルプスのような連峰であること。詠まれた場所が連峰に近い高原であること。周囲は白と青の色に囲まれた世界であること。旅吟らしいこと等。 広がっていく連想を十七音に定着させるのが「幹に日」の措辞。これによって一本の白樺が読者の前に現前し、思い描いた遠景も近景もみな背景となってしまう。存在するものは日の当たっている白樺の幹と作者と白樺の間を流れる静謐な時間。冬麗の日の当たる白樺に作者は旅の安らぎを得たようだ。同時発表の「玄冬の森へ耳立て深入りす」の感覚の集中した句と比べて、こころの置きどころの違いは瞭か。 大枯木大動脈の如くなり 田口 耕 枯木は裸木のこと。冬になって葉を落とし尽くして、幹と枝だけになった木である。枯れた木ではない。 この句、太刀を真っ向から振り下ろしたような直截な表現に、有無を言わさぬ説得力がある。読み終えて即座に同感出来る句である。俳句がどうの、表現の技法がどうのということは埒外のこと。まさに詠まれたとおりの句。蛇足を加えるなら、作者は先年お亡くなりになった鳥雲同人田口一桜氏のご子息。 日向ぼこ遠くを妻が通りけり 稲井麦秋 風のない麗らかな縁側での日向ぼこ。暖かい日差しに誘われて、ついつい目蓋が重くなる。ふと見ると妻が何処かへ出かけるのか遠くを歩いている。おや、何処へ行くのかと思いつつもまた居眠りに誘い込まれていくという句意。奥さんも出かける前には作者に声を掛けたかったであろうが、気持ちよく居眠っている夫を起こしたくなかっただけのこと。勿論、作者もそのことは十分承知のうえである。長年連れ添った夫婦の阿吽の呼吸で過ごす日々好日。 ポケットに輪ゴムの殖ゆる五日かな 高橋圭子 正月の行事は三ケ日で終り、四日か五日が仕事始め。その頃には帰省した子や客は帰っていく。それからが主婦の日常の生活である。日常の生活に戻ったからといって、特に輪ゴムが殖えることはなかろうが、正月に使った輪ゴムがポケットに入ったままということであろう。正月の忙しさから解放され、ほつとした時に賜ったように出来た句。まさにお年玉のような一句である。 重ね着て母の匂ひを重ねけり 大石益江 重ね着たのは母の形見の羽織であろうかセーターであろうか。いずれにしても母の匂いが十分に染みこんだもの。そして、重ねたのは匂いだけではない。母への深い思いも重ね着たのである。 母は生きている時も亡くなってからも、いつも作者の側にいるのである。 解けてゆく笑顔のままの雪だるま 秋葉咲女 子ども達が一生懸命に作った雪だるま。仕上がりは笑い顔にした雪だるま。それが今日は無残にも解け始めている。笑顔であるが故に一層哀れである。 作者の脳裏には子ども達の喜んでいた顔と悲しむ顔がオーバーラップしたことだろう。 初市の活気銭笊ゆれてをり 荒川政子 売り上げ金を入れては揺れ、釣り銭を出しては揺れる。銭笊の揺れの止まる時のない初市の活気である。スーパーマーケットのレジの前では決して経験できない人間同士のあたたかい商いである。 |
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