最終更新日(Update)'07.07.15

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第622号)
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・しらをびのうた  栗林こうじ とびら
・季節の一句    松田千世子
「誤字一つ」(主宰近詠  仁尾正文   
鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
渡部幸子、横田じゅんこ ほか    
14
白光秀句    白岩敏秀 40
・白魚火作品月評    水野征男  42
・現代俳句を読む    村上尚子 45
百花寸評       澤 弘深  47
・こみち(平常心)     塚本美知子 50
・俳誌拝見(青橙)    森山暢子 51
句会報   「静岡白魚火さつき句会」 52
平成19年度「みづうみ賞」発表 53
・「俳句文学館」4月号転載 63
・「山陰のしおり」'山陰合同銀行'07 4月号転載 67
・句集評「雪渓」 出口サツエ 68
・広島白魚火祝賀記念尾道吟行会  挟間敏子 70
・「俳壇」 6月号転載 72
・静岡白魚火会総会記  本杉郁代 74
・「俳句朝日」 5月号転載 76
・「俳壇」 5月号転載 78
・「語りかける季節ゆるやかな日本」宮坂静著 転載
・「澤」3月号 「遠矢」4月号転載
79
・今月読んだ本     中山雅史 80
・今月読んだ本       影山香織      81
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
      西田美木子、二宮てつ郎 ほか
82
白魚火秀句 仁尾正文 131
・窓・編集手帳・余滴       


鳥雲集
〔無鑑査同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

    花    安食彰彦

花の山家鴨は土手に休みをり
鎮魂の塔の真下の花筵
花の宴携帯電話鳴りつづく
コップ酒飲み花に酔ふ一座かな
花の山茣蓙と水筒持ち歩く
花筵可愛いリュック背負はせる
寿司の上に花片風に舞ひ落下
児を背負ひ児を抱き花の坂下る

 夕 桜   青木華都子

春光や鍵のいらない陶土小屋
蘆焼いて燻り出されし鳥獣
渡良瀬の末黒三万余坪なる
鳥あまた来てゐる庭のクロッカス
四半坪ほどの中州や春の鴨
ものの芽の疼き出したる雨の午後
売り上手値切り上手や苗木市
せせらぎの水ひたひたと夕桜

  春 の 月  白岩敏秀

海見ゆる部屋に雛を飾りけり
竹薮に竹の音する春の闇
花こぶし近所にひとつ不幸あり
青麦や貨物ヤードの連結音
春の鹿十歩を逃げて振り返る
眉あげて少年の見る春の月
蝌蚪の水棚田をつなぎ流れけり
入学式終へて普段の子に戻る
    
 さくら咲く  水鳥川弘宇

十五戸は今も変らず茎立菜
大巡り待つ落椿掃き寄せて
つちふるや原発を守る護衛艦
踏むまじく浜豌豆の花の径
胴長を干して汐待つ白魚守
小学校実習田の朝雲雀
愛車とは自転車なりしさくら咲く
発車ベル響ける駅の甘茶飲む

   初 蝶   山根仙花

吹かれとぶ初蝶にある地の起伏
初蝶の風を縫ひつつ消えにけり
どこかいつも煙上げ春の野となれり
寄らざりし机一と日の春の塵
囀りや磴の上なる磴のぼる
燕来る空の広さとなりにけり
伏せてある一書遅日の机上かな
春昼の瞼重たく人と逢ふ    
 雪 解   宮野一磴
意のままにかかる鹿罠木の根明く
堅雪や啄木鳥のこだはる穴暗し
通院はつねにこの道地虫出づ
たしかなる心音雪解はじまりぬ
清明や家督に軸の人体図
雁帰る辞書の繕ひいくそたび

 蝶 迅 し   富田郁子
あはあはと春の雲あり古墳丘
土屋根の竪穴住居に散る桜
竹筒の先に神名火かぎろへり
山頂は祭祀のあとか東風吹けり
風光る壕に石鏃つぶて石
三重の環壕またぎ蝶迅し

 花 辛 夷  栗林こうじ
囀れる古牧藁駒まつりかな
雪解水落下奔放仁王門
賽銭を箕もて彼岸の善光寺
戦国の合戦の野に青き踏む
春雷の大立廻りして過ぎぬ
薄墨の影の影呼ぶ花辛夷

   山 櫻   鶴見一石子
陪塚も侍塚も緑立つ
あかときの光と水と山櫻
牛買ひに牛曳かれゆく花辛夷
花大根女盛りを鍬と鋤
恋猫の昼は真面目の顔をして
亀鳴くや多気の不動の百度石

 西 行 忌   佐藤光汀
当たらざる予報をあてに冴返る
余生とは今在る命西行忌
山の鳥庭に来てをり木の根明く
離れてはやがてひとつに鴨の水尾
啓蟄や啄木鳥の木巡り始まれり
雑木山朝の陽あつむ百千鳥

 氷 解 く  三浦香都子
手を貸してもろうて履けり輪樏
氷解く瀧に迷ひのなかりけり
魚氷に上る七メートルの丸木舟
猫柳水音たかく高くなる
鳶巣組むチセのうしろの白樺
早春や旅のスカーフ蝶結び

 初ざくら    渡邉春枝
どの径も海へと続く初ざくら
寺町に少し迷ふものどけしや
子規の句碑誓子の句碑と囀れり
初花や急ぐともなき渡し船
学校に隣る古刹や牡丹の芽
一人居の目覚めうながす雀の子


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
    白岩敏秀選

      渡部幸子

うぐひすの連れ鳴く宿に着きにけり
憂きことの一つや二つ揚雲雀
涅槃絵図この世の風を通しけり
日の没ちてよりの夕映え芽吹山
夕映えの花の大樹に凭れけり

      横田じゅんこ

啓蟄や虫偏の字のうじやうじやと
ささやきの見えて聞えず春の水
咲きたいだけ咲いてミモザとなりにけり
繕ひのあとの見えたる古巣かな
花杏細かに仕切る蜑の畑
  


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

   江 別  西田美木子

浅春の銀鱗眩し鮭の稚魚
春の日の命輝く鮭の稚魚
足跡の犬鹿狐木の根明く
陽を浴びてまどろんでゐる猫柳
水音の日毎に高し猫柳


   八幡浜  二宮てつ郎

一回りして出る書店春の雨
春はあけぼのバイクの音の通りけり
春愁や邪馬臺国は本の中
茫々と風茫々と山桜
紫荊いつまでつづくしやつくりぞ  
      


白魚火秀句
仁尾正文
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足跡の犬鹿狐木の根明く 西田美木子

 北海道の作家が好んで用いる「木の根明く」という季語は、どの歳時記にも収録されていない。残雪のまだ深い頃樺とか科の木等の周りに十センチから二十センチの穴が開いて黒い土が見える。樹木の呼吸熱により雪が解けて出来るのである。歳時記の「雪間」に「冬に降り積った雪が春になって消えかかり、ところどころに地膚をあらわす。その隙間をいう。」と解説するが「木の根明く」とは少しニュアンスが違うようだ。むしろ「土現る」「土恋し」の方に近いよう思う。「木の根明く」はひびきも美しく独立季語になり得る品格がある。
 掲句は、雪上に色々の獣の足跡を見、木の根明くを見て春が確かに到来した実感にひたっているのである。「木の根明く」が歳時記に登載されたときには真先に例句に推したい句である。

紫荊いつまでつづくしやつくりぞ 二宮てつ郎

 世事にも白魚火にも恬淡無欲なこの作者の白魚火集や白光集への貢献は大きい。両集の幅を拡げ厚みを増してくれているからだ。結社賞を贈ったり俳人協会員に推したりするよりも、何の負担もかからない現状、只管俳句と対峙している方をこの作者は望んでいる、と私は推測している。
 さて掲句。仙人のようなてつ郎君もしやっくりが出始めて仲々止らず困っているのである。てつ郎君であるからこそ筆者にはユーモラスで愉快なのである。それもこれも「紫荊」という、この句にあっては、これしかない季語を持ってきているから。さすがである。
 
鳥雲に遺されし御句読み返す 高間 葉

 この作者は筆者と同じ鉱山会社に勤めていた社員の夫人で、右の句の故人は去る三月十一日七十三歳で逝去した、同じ鉱山会社の社員であった角田和生氏である。角田和生氏は昭和八年東京生れ。早稲田大学工学部鉱山学科を昭和三十二年に卒業と同時に入社してきたエリートであった。昭和四十年代から五十年代にかけて国内の金属鉱山は外国産品と価格で大刀抜出来ず全滅。氏も筆者同様大手のゼネコンに転職して定年を迎えた。かつての鉱山会社は営業品目を変えて今も健在、毎年OB会を開き招待してくれる。筆者に不都合であったのは毎年一月末の土曜日は静岡県俳句協会の理事会がありOB会には出られなかったことだ。十年程前都合がついてOB会に出て氏と話する機を得た。氏の父君は山梨県の境川村出身で飯田蛇笏とは遠縁に当り蛇笏の門弟として俳句に精進していたので和生氏も俳句に興味があったという。当時白魚火の副主宰であった筆者が誘うとすぐに白魚火へ入ってきた。当初から俳句が纏っていたのは父君の俳句と無縁ではなかったと思われる。平成十六年白魚火の京都に於ける全国大会に初めて出席し「納香のほのかにかをる秋思かな 和生」が主宰特選五句の内に入り大いに喜んだことが忘れられない。又氏も筆者も熱烈な中日ドラゴンズのファンで愉快な大勝や悔しい敗戦にはよくハガキのやりとりがあった。
 高間葉さんの掲句は白魚火四月号に氏の句が出ていたことに感銘してであろう。肺癌で通院していたが、二月より入院中で最後の最後まで作句を怠らなかったのである。

日永とは暮れて忙しき日なりけり 大石登美恵

 暦によると一月一日の日の入りは十六時三十八分、四月一日では十八時〇二分。四月の季語である日永は元旦に比べて日没が一時間半程遅い。日のあるうちは野良に家事に動きづめの主婦は日永の後の薄明にも夕食準備にこれまた忙しい。春の到来は嬉しいが仕事量が増えてもいる。特に主婦には。

旅にあれば何も忘れて朝寝かな 青砥静代

 妻が二日も留守をすると食事作りにお手上げだ。しかし、掲句をみると主婦は何の苦労もなく食事を作っているように見えるけれども、今日はこれを、明日はあれをと胸算用をしているようである。だから旅に出て据え膳となると心を空っぽにして朝寝も楽しめるのだ。

志堅く保ちて桜かな 安藤公文

 「花は桜木人は武士」ということが昔言われた。花は桜の如く潔よく散り、人々は名のためには死を恐れなかった武士を敬ったのであるが今の世の中でも通用する教訓ではある。汚職や官製談合等々国民の顰蹙を買っている人々に読んで貰いたいような一句である。

百歳の叔母の形見の春コート 有田きく子

 平成十六年度、厚生労働省が発表した日本人の平均寿命は、男七八・六四歳、女八五・五九歳で女性は世界のトップの座をずっと持続している。だから百歳を越した人は珍らしくなくなっている。掲句は百歳で亡くなった叔母の形見の春コートである。着れるときには着て叔母の生命力をいただいたらよかろう。


    その他触れたかった佳句     
帰りにも生家の見えて暖かし
花烏賊や三合までは無口にて
お水取ある夜の大気締まりけり
野苺の花の向かうに碧き海
人力車路地に待たせて桜餅
剪定の枝を見つめて空を見ず
夫の介護少し速めて桜見に
春埃溜めし仁王の力瘤
花冷えや瑠璃色深むカルデラ湖
朧夜の山が大きくみえにけり
出口サツエ
檜垣扁理
井原紀子
渡部八代
横手一江
渡辺晴峰
小松みち女
上野米美
高岡良子
石前暁峰


百花寸評
                         澤 弘深
(平成十九年三月号より)  

十二月ファスナー布を噛みしまま 清山邦子

 十二月は、一年の終りの月であり、一年の総決算の月である。また、昼が短くなる中で、クリスマス、冬休み、大掃除、正月の準備等が続き、気忙しさが極まってくる。
 掲句は、十二月の季語の特性を焦点化して、日常生活の一齣を捉え写生している。客観写生を超え、深層心理を描写したものとしても鑑賞できる。

綿虫の破調の動き掴めざる 玉森貞充

 綿虫は、冬の静かな曇りの日など、空中を細かい綿のような姿で漂い浮遊している。その飛び交う様子が小雪の舞う様に似ているので、雪虫という呼称もある。
 掲句は、綿虫をじっくり見詰め、格調高く写生したものである。綿虫の生態をとおして、小さな生きものの命の哀れさを感じさせてくれる。

鮮やかな七草粥の色を食ぶ 長谷川千代子

 正月七日に七草を食べる風習は、「万葉集」や「枕草子」にもみられる。七日朝に七草を入れた粥を食べると、邪気を除き、万病にかからないと考えられていたのである。
 掲句は、七草粥の風習を詠んだものである。句の調べが滑らかで、一気に詠みあげることができる。特に、下五の措辞が詩情を高め、句を美しくしている。

日向ぼこ新入り先づは聞く役目 藤田ふみ子

 寒く厳しい冬は、日向が恋しくなる。日当たりのいい縁側やベンチで暖をとり、暇をつぶしたり、仲間とのおしゃべりを楽しんでいると、寒く暗い冬から解放され、心身が暖かく膨らんでくるような気がしてくる。
 掲句は、現代の日向ぼこの情景が滑稽味をもって品良く描写されている。日向ぼこは、浮世の煩わしいことのない関係の筈であるが、現実の新入りは気兼ねから聞き役である。

塩鮭の値段一目紐の色 国谷ミツヱ

 塩鮭は鮭の塩蔵品。新巻は内臓を取って塩を詰め、菰を巻き付けたものである。塩鮭は塩を振って積み重ね、積み替えて仕上げる。歳暮の贈答品や正月の肴として珍重される。
 掲句は、中七から下五にかけての措辞により、歳末の市場の賑わいを活写している。特に、紐の色で詩情が高まった。

きりたんぽ鍋に交はせる里言葉 平さつ子

 きりたんぽは、ご飯を擂り潰して串に巻き付け、焼きあげたもので、たんぽ槍(稽古槍)に似ていることからつけられた呼称である。鶏や牛蒡等を入れ、鍋ものにされる。
 掲句は、季語の斡旋と句の構成が適切である。同郷の者同士の心の交流と親しみが感じられる。

砂浜の殉難の碑や水仙花 伊藤紀久雄

 厳しい寒さの中に咲く水仙は、別称に雪中花とあるように、凛として、清楚で上品な芳香がある。特に、砂浜の野水仙は、寒風荒ぶ海を背景に美しい景観を構成する。
 掲句では、中七の措辞をとおして、哀しくも敬虔な殉教物語を想像させられる。心を打つ作品である。

毛染めして丁寧に見る初鏡 長尾喜代

 初鏡は、新年になって初めて鏡に向かって化粧することであり、その鏡を指すこともある。古来、鏡には魂が宿ると言われており、初鏡に姿を映して一年の健康を願ったりする。
 掲句では、緊張の中にも女性らしい繊細で華やいだ心情が、叙情的に描かれている。

風邪癒えて妻の声高戻りけり 石田博人

 風邪には、どんな頑健な人でも罹ることがある。
 掲句の奥様は、きっと日頃お元気な方なのであろう。中七から下五にかけての措辞により、妻への深い愛情と病の癒えたことに対する喜びと安堵感が伝わってくる。

来し方のメモびつしりと古暦 大石伊佐子

 年末になって、来年の新しい暦を手に入れると、残り少なくなった今年の暦が、古ぼけたものに見えてくる。しかし、古暦にはこの年の歩みが刻まれているのである。
 掲句では、心が新年に向いているとはいえ、メモにびっしりと書かれている事柄が感慨深く思い出される。

枝先に雲を遊ばす大冬木 小沢房子

 冬木は、常緑樹、落葉樹を問わず冬の時節に耐えている木を総称する。常緑樹も、葉を落として裸になった落葉樹も、冬木といえば一本の木に視点が絞られる。
 掲句は、虚飾を払い落とした落葉樹の冬木であろう。凛とした厳しさと力強い生命力を内蔵する巨大な冬木が、雄大に格調高く描かれている。

少年の父の背を越す初詣 川本すみ江

 初詣には、氏神様やその年の恵方に当たる社寺、また、受験生なら学問の神の天神様等に参詣する。
 掲句は、家族揃っての初詣。久し振りに父子が並んでいるのを見ると、少年が父の背を越すほどに成長していることに驚かされたのである。

遺髪塚寒の潮風哭くばかり 脇山石菖

 冬の季節風に荒れる潮の流れと身を切るように寒風が吹きすさぶ。特に日本海の冬波はうねりを伴い、凄まじい怒涛となる。漁師さえ恐れて船を出さないことがある。
 掲句の遺髪塚というのは、海難事故で亡くなられた方の縁のものであろうか。中七から下五の措辞により、事故の悲惨さが髣髴と浮かび、寂寥たる感がしてくる。

熱燗のまづ桝酒で乾杯す 宮原紫陽

 燗酒には、ぬるい燗、人肌ぐらいの燗等もあるが、思い切り熱くしたのが熱燗である。寒夜等には、舌を焼くほどの熱燗が好まれる。
 掲句は、酒好きの方にとって至福の宴が始まろうとする状況を見事に描写している。檜の薫り豊かな桝の溢れんばかりの熱燗が、楽しい話を盛り上げることであろう。

八十の諦め上手年明くる 佐藤ひろ子

 数え年の年齢がよく使われていた時代には、新年が来ると年齢が加わることを祝い、心を新たにしたものである。しかし、長寿社会においては、年明けを迎えての心境も多様化してきているのである。
 掲句は、〔新玉のうら淋しさの故知らず 富岡風生〕と異なる心境ではあろうが、明るく、心理描写に深みが感じられる魅力的な作品だ。

いつの間に戻りし猫に草虱 岸 寿美

 草虱は、セリ科の二年草の実。実は前面に鉤状の毛が生えた楕円形で、虱より大きいが、衣服等につくとなかなか取れない。藪虱という呼称もある。
 掲句は、作者の猫に対する愛情や、猫の習性が温かく描写されている。親しみのもてる佳句だ。

     筆者は松江市在住
           

白光秀句
白岩敏秀

夕映えの花の大樹に凭れけり 渡部幸子

 俳句で花と言えば桜の花であるが、一体、桜を単に花といつ頃から言っていたのであろう。
 桜の花が花として文字に現れたのは、嵯峨天皇が神泉苑に行幸して花宴を催したことを記した『日本後紀』だと言う。(『櫻史』山田孝雄著 講談社学術文庫)しかし、言葉としては『古事記』の「木花之佐久夜毘売(コノハナノサヤビメ)」の「木花」が桜の花として定説になっていることを考えると古代から桜を花と言っていたのであろう。そして桜は日本人の美意識の象徴の花だったに相違ない。
 作者は一日の花疲れを幹に凭れて癒している。大樹とあるから壮年の桜であろう。盛りの花が夕映えにきらきらと美しい。桜には普段着の親しさがあって、尊大なところがない。作者は母の懐に抱かれるような安心感をもって桜に凭れることができるのである。
 花の疲れは花が癒してくれる。そんな桜の有情を見た思いである。
  「涅槃絵図この世の風を通しけり」
 釈迦は沙羅双樹の下で涅槃し、それを弟子や鳥獣、鬼畜が嘆き悲しみ、二本の沙羅双樹は白変したと言われている。嘆きや悲しみは極限おいて笑いに変わる。
 この句、嘆き悲しみを突き抜けたようなカラリとした爽やかさがある。通したこの世の風が早春の風のせいであろう。

ささやきの見えて聞こえず春の水 横田じゅんこ

 波打ちつつ流れる水が見え、せせらぎの音が聞こえない位置。川と作者との距離の捉え方は絶妙である。
 そして、この句は春の以外の水では成功しなかっただろう。夏の水は饒舌、秋の水は冷ややかな気取、冬の水は冷厳である。ささやく水は春の水だけである。
 ささやきが見えることについて、川端茅舎の自句自解にある次の言葉を引用しておこう。「眼は見るもの耳は聞くものといふやうな眼耳鼻舌身意の作用を一々区別して考えるリアリストは偽物で本当は眼で聞きもし耳で見もすることを日常に経験させられる。舌の上に置いて見て草餅の柔らかさを初めて合点するやうなリアリストには悲しく同情する……」

黄塵や義経伝説信じゐる 鈴木 匠

 日本人は義経においてはじめて人気者を得た―司馬遼太郎の小説で読んだ記憶がある。人気者とはアイドルのことであり、義経とは源九郎判官義経のことである。今でも判官贔屓という言葉がある。
 義経は衣川では死ななかった。生きのびて蝦夷に渡った。「義経北行伝説」である。もう一つは義経が海を渡って、ジンギスカンとなったという「ジンギスカン伝説」である。
 黄色く降る黄塵のなかをジンギスカンとなって、モンゴルや中国大陸を駆けめぐる遥かな義経を想い、自らもジンギスカンや義経に化身する。これも男のロマンである。

海女登る夫の下ろせし船梯子 野澤房子

 海女が潜ると船上にいる夫は海底の妻の動きを予測して船を移動させ、浮かび上がる間近まで船を寄せていく。これを誤ると潜水に体力を消耗した海女の生命に関わる。夫にとっては息詰まるほどの緊張の時間であろう。それは海底の海女とて同じこと。
 例えばこの句、見えているのは氷山の一角であるようなもの。夫が下ろした船梯子を海女が登ったという写生の奥には、生命を賭けた夫婦の強い信頼が蔵されている。

苗木市鳥の来さうな木を買ひぬ 古川松枝

 いかにも楽しい句である。鳥の来そうな木とは、蜜がたっぷりあって綺麗な花を咲かせ、実がおいしくそして鳥が止まるに心地のよい枝振りの木である。しかも、そんな木を実際にお買いになったのだから余計楽しくなる。勿論、植える場所は窓から一番よく見える庭の一等地である。
 夢が楽しく膨らんでくる句である。

旋回は旅への助走鴨引きぬ 大滝久江

 湖の上を何度も旋回していた鴨が、風を得て北へ旅立っていった。旋回は我々への挨拶だったのであろう。
 旋回は旅への助走―なるほどと思う。助走は陸上のことと思っていたが、空でも助走はできるのである。新鮮な感覚が捉えた表現である。

国境をトンネルで越ゆ西行忌 鷹羽克子

 いく度も旅をした西行法師は多くの山や峠を越したことであろう。歩くことしか交通の手段のなかった時代である。その道程は難渋を極めたことであろう。現代は一山をトンネルであっという間に抜けてしまう。それも汽車や自動車という便利な手段を使って。
 トンネルを抜けた目に山桜が美しく映る。西行忌のみごとな斡旋である。


     その他の感銘句
春光や折り鶴羽をひろげたる
雛一つ入れて婚の荷送り出す
目つむりて少女は石鹸玉を吹く
命日の花買ひに行く朧月
少年の髭うつすらと卒業す
花吹雪喝采浴びてゐたりけり
蒲公英の絮に誘ひをかける風
喪の帯を啼かして締むる梅寒し
初蝶を見したかぶりのおさまらず  
癒ゆる日を待ちてパンジー植ゑにけり
村松ヒサ子
橋本快枝
田久保柊泉
佐藤恵子
和田伊都美
竹内芳子
竹田環枝
勝部好美
木下緋都女
大野洋子

禁無断転載