最終更新日(updated) 2007.03.05

平成17年度平成17年度 白魚火賞、新鋭賞   
           
      平成18年2月号より転載
白魚火賞は、前年度一年間(今回の場合、平成17年暦年)の白魚火誌への投句作者の中から、優秀な成績を収めた方に授与されるもので、また、新鋭賞は同じく会員歴が浅い55歳以下の新進気鋭の作者に授与される賞です。
審査は"白魚火"幹部数名によってなされます。   
 発表

平成18年度「白魚火賞」・「新鋭賞」発表
 

 平成17年度中の成績等を総合して下記の方々に決定します。
 今後の一層の活躍を祈ります。

      平成十八年一月 主宰 仁尾正文

  白魚火賞
     安澤啓子
     辻すみよ
    森山暢子

  新鋭賞
     川崎ゆかり
     中島啓子


 
 名前をクリックするとその作品へジャンプします。

 白魚火賞作品


 安澤啓子 

 白   椿

灯台の一閃に冴返りけり
茶座敷の一輪の白椿かな
家例なる建国の日の小豆飯
生返事しながら芹を洗ひけり
餅花の柳の枝の芽吹くかな
真つ直ぐに帰りて若布干しにけり
羊の毛刈るに取つ組み合ひをして
創業は文久二年燕の巣
大木に耳当て春を惜しみけり
薫風やオカリナを聴く足拍子
らんごくに竹の皮脱ぎ捨ててあり
梅花藻や一戸に一つ橋架けて
幾度も霧の消したるお花畑
少年も少女も日焼カヌー漕ぐ
屋形船行き交ひ花火間近かな
爽やかや戯画に相撲図猿追図
どんどんと先行く夫霧の中
ささらぎを鳴らして秋を惜しみけり
蕎麦打つ間炭火の機嫌とつてをり
義仲寺の芭蕉残らず返り咲く

 


 辻すみよ 

 水 中 花     

ものの芽の指に触れたる命かな
垂直にお玉杓子の浮いてくる
鯉幟見ながら授乳してをりし
人混みに唇乾く薄暑かな
若竹の高さ捉へて揺らぎけり
天竜の流れに草矢飛ばしけり
水替へて色蘇る水中花
句帳手に四萬六千日詣
少年の髪を突き立て夏果つる
秋暑し値踏みして乗る人力車
地蔵会の貼紙残る二年坂
突然に金木犀の匂ひくる
三角の貌で振り向くいぼむしり
探しものしているごとく花野行く
抜け道も近道も無き花野かな
小春日の乗り越し切符清算す
吟行の日がな一日時雨けり
しばらくは焼芋売りの声止まる
除夜の鐘雨に消されてしまひけり
風花の魔法に溶けてしまひけり



 森山暢子 
 
 雪 が 降 る 

春の鹿咎むるやうな目をしたり
夕櫻尼子の川に投網打つ
片腕の漁夫が鉦打つ弘法忌
居開帳低く帯結ふ僧の妻
筒鳥や炊きたくなりし麦の飯
葛切に母の物腰思ひけり
戦中は女が守りし棚田植う
人形を抱く子が通り螢の夜
沖通る船影もなし実梅もぐ
こんな夜は狐が鳴くと草刈女
半島へ行くバスを待つ盆の僧
海流の運びしものに鬼胡桃
懸大根未明の月の暈させる
捨て草のまた根づきたる神の留守
新海苔や浦に法華宗多かりし
雪囲ひしてご赦免を待つごとし
納め札の色即是空焚かれけり
弟も父もぽつぽや雪が降る
対岸も灯りて雪の渡しかな
雪の犬片耳伏せて通りけり

 

 -白魚火賞受賞の言葉、祝いの言葉-

〈受賞のことば〉   安澤啓子

 白魚火賞ありがとうございました。身に余る受賞の為に、通知をいただいた時は、暫く動悸を禁じ得る事ができませんでした。
 俳句との出会いは、平成三年の暮、仁尾正文先生の俳句講座を夫が受けたことに始まります。私は興味はなかったのですが、引っ込み思案の自分は、老後にも続けられる趣味を持ちたいと思い、講義をテープに取って貰いました。録音中の先生の言葉の「俳句は五七五に馴染んでいる日本人なら誰にでもできる」と小学五年生の句「天国はもう秋ですかお父さん」の句に感動し、第二、第三回の講義を受講し、引き続き初生句会にて指導を受けています。句会での先生の一言一言に新鮮な刺激を受け、選評により広がる花鳥風月や社会生活に思いを馳せています。家庭と職場だけの生活が俳句との出会いにより、自分のまわりの世界が広がり、張りのある日々となりました。
 主宰直々の御指導を賜っている幸運を身にしみて嬉しく思います。今後も倦まず弛まず努力して参りたいと思います。
御指導いただいております仁尾主宰、諸先生方、初生句会の皆様、浜松白魚火会の皆様に心より感謝とお礼を申し上げます。今後も御指導下さいますようお願いします。

  経歴
 本  名 安澤啓子
 生    年 昭和十九年
 住  所 静岡県浜松市
 家  族 夫
 俳  歴 平成三年 仁尾主宰の俳句 講座を受講、以後初生句会々員
      平成四年 白魚火入会
      平成七年 白魚火新鋭賞受賞
      平成七年 白魚火同人

〈万 年 少 女〉   島田愃平

啓子さんおめでとう。安澤郁雄、啓子夫妻は、毎月のように吟行に出かける。十一月の巻頭句も、城下町醒ヶ井など近江周辺での作。
 梅花藻や一戸に一つ橋架けて 啓子
 どんどんと先行く夫霧の中 啓子
 伊吹山一寸先は霧となり 郁雄
 お二人と俳句の出会いは平成三年の暮に叔母鈴木夢(鳥雲作家)さんの勧めで、仁尾先生の講座を受講したことに始まる。受賞の言葉によれば、軽い気持で郁雄さんについて出席したようだ。しかし俳句との出会いは、「自分のまわりの世界が広がり、張りのある日々となり」、のめりこむように俳句に惹かれていく。半年もしない七月の句会で、いきなり仁尾先生の特選四句を取り皆んなを驚かす。
 平成六年には「白魚火秀句」に早くも取り上げられる。
 微かなる瀬音のとどく蕎麦の花
 さみどりの銀婚の日の新茶かな
「銀婚の日の新茶」に虔ましい生き方を感じさせる。啓子さんを知る仲間は、「内に情熱を秘め、前向きではあるが、でしゃばらない啓子さんの人柄にひかれる」と言う。
 新婚の渡航土産の皹薬
 皸薬を買ってきてくれる友、句会には啓子さんに誘われた仲間が五人もいる。
 大根を積みしリヤカーふらつける
 歩き出し尺蠖虫となりにけり
平成七年の「秀句」に取り上げられた作品。この年新鋭賞を受賞する。
 「大根の句に」仁尾先生は「ありのまま写生したこの句には特別の思い入れも暗喩もない。だがこういう景が眼につき句にしたのは、この作者の詩眼に適ったからだ。仕上がった句は読者に何の負担もかけないよろしさがある。それがこの作者の資質である」と書かれている。
 平成八年一月号で、初めての副巻頭をとる。
 水の輪のまだ消えぬ間に鴨の首
講評の中で先生は「去年新鋭賞をうけた作者、俳句に執念を燃やしているようで結構。ある時期俳句馬鹿にならねば大きく育たないが、その時期はまさに今である」と。私が啓子さんと出会ったのも丁度この頃。毎月の十句にふうふう言っていた私は先生から、「啓子さんは毎月四、五十句作っている」と発破をかけられた、又長野に吟行に行った時、眼を据えるように見つめ、動かない彼女の集中力に驚いたのもこの頃の思い出である。
 平成十一年ついで十五年に巻頭をとる
  アルプスの見ゆる処に花莚
  三河花祭の火の香つけ帰る
お子さんたちも独立され、郁雄さんの運転でよく吟行に行かれ、その作品が誌上を飾った。
 彼女の職場での渾名は『万年少女』。「白魚火」六月号に、啓子さんの『平凡』というエッセイが載っている。そこには、職業ずれしていない少女のような感性の啓子さんがいる。「彼女の優しさは言葉だけでなく、全身であらわす」とは友の言葉。
 迷ひ子を砂場に拾ふ運動会
 一様に盥の金魚右まはり
少女の持つ優しさ、好奇心は、日常見過ごしてしまうものにも眼を留める。泣いていれば誰でも気付く、泣くまいと頑張る半べその子、金魚回遊の大発見も「なによ、子供みたいな事言って」と一笑されたのではないだろうか。
 最後に最近の私の好きな句をあげる。
  創業は文久二年燕の巣
  鐘楼の四隅に芋茎干してあり
   


  〈受賞のことば〉  辻すみよ

 思いもかけない白魚火賞のご通知をいただき、嬉しさと身の置き所のない戸惑いを感じ、ただただ恐縮しております。日頃ご指導頂いております仁尾主宰をはじめ、俳句を一からご指導下さり、マイペースの私の肩をいつも押して励まして下さいます鈴木三都夫先生、吟行や句会で切磋琢磨し合えるすばらしい静岡白魚火の皆様に深く感謝申し上げます。
 吟行は病気を癒す妙薬になった気もしますし、新しい出会いもたくさんあり、元気をいただきました。俳句は生涯の友と思っています。諸先生方、誌友の皆様に感謝申し上げます。
 これからも皆様に助けられながら一層の精進をして行く所存です。今後共よろしくご指導下さいますようお願い申し上げます。
 ありがとうございました。



  経歴
 本  名 辻すみよ
 生    年 昭和二十四年
 住  所 静岡県牧の原市
 家  族 夫 長男
 俳  歴 平成四年  白魚火入会
      平成七年  白魚火同人
      平成八年  新鋭賞受賞
      平成十三年 みづうみ賞佳作
      平成十四年 みづうみ賞秀作
      平成十五年 みづうみ賞佳作
      平成十六年 みづうみ賞佳作
      平成十七年 みづうみ賞秀作


〈辻すみよさん、その横顔 〉       桧林ひろ子
  
 辻すみよさん、この度の結社賞の受賞心からお喜び申し上げます。当会にとりましては昨年の坂下昇子さんに続く受賞となりました。受賞の吉報を受けました時、先ず思い出したことは平成八年の新鋭賞受賞の事でした。入会後僅か四年後のことでした。新鋭賞は将来性を買われての事とは申せ、それに見事に応えられた努力に頭の下る思いが致します。その具体例の一つを申しますと「みづうみ賞」に対する前向きな姿勢が挙げられます。新鋭賞受賞を契機に応募され、すでに秀作二回、佳作三回の成績を挙げておられますが、受賞に応える努力の情熱が今日につながったものと思います。又ここ二年ほどの成績を見ましても
 平成十六年度
  白光集―五句入選五回。白魚火集―五句入選五回。
 平成十七年度
  白光集―五句入選五回(内巻頭一回)
  白魚火集―五句入選七回。
と着実に力の付いたことが主宰の評価を受けられたものと思います。そんな彼女ですが、別の一面も御紹介しましょう。彼女は平成十六年介護福祉士の資格を取得され、市のデイサービスセンターに勤務されています。私も月一度のボランテアでセンターに伺った時の事ですが、彼女が赤い法被を着て「きよしのズンドコ」を踊って見せていました。車椅子の人達も三回で手踊りが出来るようになりました。すみよさんと言えば控え目で多くを語らない人というのが私の印象でしたが、彼女の別の一面を見てあらためて感じ入ったものでした。
 今年の作品の中から
 鯉幟見ながら授乳してをりし すみよ
 茶摘みどきの田園風景でしょうか、鯉幟の主人公と膝の中で乳を飲ませている赤ん坊を重ね合わせますと、母と子の幸せな一刻が浮んできます。鯉幟がその雰囲気を伝えます。
 水替へて色蘇る水中花  すみよ
 今年九月の白光集巻頭の一句です。仁尾主宰はこの句の鑑賞で「日常の主婦の目で水中花を慈しんだので水中花がそれに応えてくれた」と言われ「水替へて色蘇る」には日本人の日本人的なものを感じた」とも評されています。
 客観写生句はありのままをただ正確に写し取るだけでは物足らない、その中に作者の息づかいが感ぜられることが大事」とは三都夫先生の言葉ですが、これらの句を読むと良く理解出来ます。
 この受賞を機に更に高いところを目指して下さい。すみよさんお目出度うございます。


 
〈受賞のことば〉  森山 暢子

 出雲に神々が集う日、白魚火賞の通知を頂きました。
 白魚火の重鎮だった栗間耿史先生に、俳句の手解きを受けたのは、昭和四十八年でしたが、二年間お世話になったところで勤めましたので、平成三年迄の十六年間、句作を怠けてしまいました。
 そんな折り、富田郁子先生からお声を掛けて頂き、ご自宅での句会に仲間入りさせて頂き今に至っています。
 田口一桜先生、富田郁子先生を選者に月一度の松江白魚火会でも、お互の作品を忌憚なく話し合い充実した時間を過しています。
 俳句があって良かったと受賞のよろこびを噛みしめているところでございます。
 ここに厚く御礼申し上げ、更に精進して参りたいと思います。ありがとうございました。



  経歴
 本  名 森山暢子
 生    年 昭和十年
 住  所 松江市
 家  族 現在夫と二人
 俳  暦 昭和五十年 白魚火入会
      昭和五十三年白魚火同人

   
     〈森山暢子さんの横顔〉      渡邉春枝  

 森山暢子さん、白魚火賞受賞誠におめでとうございます。心よりお慶び申し上げます。
 暢子さんとの出会いは、昭和四十八年松江東津田公民館の俳句教室に入会させていただいた、三十二年前にさかのぼります。当時の先生は、栗間耿史先生、生徒は十二、三人いたでしょうか。俳句の世界に初めて足を踏み入れた私は、無季や川柳もどきの句ばかり作っていましたが、そんな中、暢子さんはずば抜けてお上手で、しっかり写生と具象の効いた句を発表され何時も感心していました。
 栗間先生の心のこもった御指導は言うまでもなく、教室の皆さんのやさしさに俳句の楽しさを知ることが出来たように思います。
 当時の暢子さんの句に
 ひざ掛けもうとき暑さや籐を組む
 かなぶんの芥をつけてあゆみをり
 栗間先生の指導の中に、「上手、下手は二の次、三の次にして、自分自身の句を前に押し出すこと、急がずゆっくり進んでほしい、そして、それぞれの生活を真向からみつめて、正直に俳句を作っていくことが大事である」とのお言葉を今も思い出します。
 暢子さんの句は先生の言葉そのままに、生活の中からすくい上げた事柄を素直な言葉で詩情豊かに完成されていくのです。何事にも真正面から取り組まれる彼女の几帳面な性格がそのまま一句に投影されています。当時、宮田澄介氏の尽力で、一年間の作品十五句を纏めた合同句集「鳥雲」一号が完成しました。一号から五号まで発行されましたが、私は一号完成の時点で岡山に転勤となり松江をはなれました。それ以後も変わりなく松江の皆さんとは親しくしていただき力になってもらっています。
 夕桜尼子の川に投網打つ
 海流の運びしものに鬼胡桃
 やさしい御主人の車で海や山、川や湖と吟行され、納得いくまで物と対峙され一句をものにされるのです。彼女にかかると燻し銀のような渋くて奥の深い秀句が誕生するのです。
 雪囲ひしてご赦免を待つごとし
 筒鳥や炊きたくなりし麦の飯
 彼女は頭脳明晰であることは言うまでもなく、決して自分を強く主張されないこと、何事も一歩さがって皆んなの意見を尊重される心ゆかしい方なのです。上げれば限りがありませんがとにかく傍に居て暖かさが伝わってくる人です。
 島根県は特別俳句に熱心な県と伺っております。「原 石鼎」の故郷でもあり「出雲俳句大会」には著名な先生方を招いての句会が毎年開かれます。その席上、暢子さんは決まって特選、入賞をものにされるそうです。「白魚火の森山暢子」は大変有名であって、結社白魚火にとっても大きな誇りであります。
 まだまだ言葉がたりませんが、この度の受賞を期に益々御活躍くださいますようお願いいたします。

   新鋭賞 
  川崎ゆかり

   ヒラケゴマ

見上げたる六尺太鼓淑気満つ
風花の中より蝶の生れにけり
春の泥つけて戻りし小さき靴
もう一度見たくて夜の桜かな
足跡にはだしもありて春の浜
三角田植ゑて立ち去る脛白し
覗き込む空の穴窯夏休み
裸子の次々来ては水に入る
父親に片足あづけ昼寝の子
恐ろしき顔して女水を打つ
冷房の効きし人形展示室
薄紅葉お茶を淹れなほしませうか
一山を顕にしたり稲光
冬の虫根元の痩せし百度石
牡蠣をわる慣れぬ手付きでヒラケゴマ

 中島啓子

   どんぐりころころ

ふるさとは田舎の田舎蓬餅
レトロバス花屑乗せて来りけり
春の昼無為に過してみたきかな
ポロシャツの往診医来る半夏生
町医者に人の少なき日の盛
暑気払い愚痴も一緒に飲み干せり
老人ホーム夜を鳴き通す月鈴子
開院の待合室に秋薔薇
血圧を測るも日課小鳥来る
赤チンも死語となりゆく暮の秋
どんぐりころころ団塊世代とくくられて
教会の小さき十字架冬に入る
無人駅降りてマフラー巻き直す
長引きし風邪に齢を知らさるる
待春やセピア色せし手紙焼く
    
-新鋭賞受賞の言葉、祝いの言葉- 
〈受賞のことば〉  川崎ゆかり

 この度は本当にありがとうございます。嬉しさについ、口元が弛んでおります。この賞に恥ずかしくない句を一つでも多く作るよう、また、改めて俳句と向き合う為の課題をいただいたのだと肝に銘じます。
 白魚火に入れていただき十年余、気長に見守って下さった仁尾主宰に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
 また、俳句と出会わせてくれた父に、協力してくれた母に、応援してくれた祖母に、今では句友となってくれた高知の母に、楽しい句会の皆様に、先輩方に、そして、いつも吟行につきあってくれる主人と子供達に、心から感謝を。皆様のお陰です。これからも、どうぞ宜しくお願いします。

  経歴〉
 本  名 川崎ゆかり
 生    年  昭和四十一年
 住  所 徳島県徳島市
 俳  暦 平成五年白魚火入会
      平成十五年白魚火同人

〈川崎ゆかり氏の受賞を祝う〉            石橋茣蓙留

 白魚火社から「平成十八年度の新鋭賞にあなたが決定しましたのでお知らせいたします。」との文書をいただいたと聞いた途端、ここ十年間の時が縮まってゆく思いがした。
 白魚火誌に夫君川崎孝文と共に川崎ゆかりの名が登場したのは、平成五年八月号の新誌友紹介欄であった。
 この年、徳島の若手を激励する旅行を計画した。みんなの希望で仁尾正文主宰・鈴木三都夫同人会長にお願いして、静岡で吟行句会を開いていただいた。静岡の皆様にあたたかく迎えていただいたことは一生忘れることのない感激であったと思う。その時のゆかり氏の喜びと緊張が次の俳句となった。
   爽やかや踵の高き今日の靴
 今は八歳児と四歳児の母親として、職業人としての毎日である。作句の時間が取れないであろうとは思うが結構がんばり屋である。
夫君が高知県の出身である関係から、高知の誌友拡大に努力してくれていることに改めて謝意を表したい。
 最近は菜央という上の子が句会に参加することがあり、親子で楽しませてくれる。
 ゆかり俳句は身近な題材を愉快にこなすところにある。白魚火誌を順に見てゆくと、夫君の様子や子供の成長が手に取るようである。
   じやんけんのちよきの出来たる五月晴
   手拍子に童唄へる春床几
   しやぼん玉寝たふりをして寝てしまふ
 何の変哲もないがこの平凡が好きである。最近作も少し挙げてみたい。
   おさがりの長靴脱げし雪合戦
   梨の花名前聞き合ふランドセル
   鳴かぬ蝉とらへて葉月終りけり
   観光の牡蠣剥くための薄軍手
   歳晩やくもり硝子のあみだくぢ
 このたびの新鋭賞受賞を契機として白魚火が標榜する「わが俳句足もて作る犬ふぐり 西本一都」をよりどころに、ますます精進し俳句人生を愉しんでいただきたい。
 

〈受賞のことば〉  中島啓子

 句会にも吟行にも仕事の忙しさを理由に参加していない私にとって新鋭賞の知らせは嬉しさよりも恐縮してしまいました。
 富田郁子先生に油絵を習っていたのが縁で俳句を始めました。その時、歳時記というものを初めて知り、言葉のもつ意味の深さと情感に触れ俳句に興味が湧きました。
 これからも自分の生きてきた足跡を残すように俳句を作り続けていきたいと思います。
 仁尾主宰はじめ諸先生方、富田先生には今後ともご指導の程よろしくお願いいたします。
 本当にありがとうございました。

  〈経歴〉
 本  名 中島啓子
 生    年 昭和二十七年
 住  所 島根県松江市
 俳  歴 平成九年四月 白魚火入会
      平成十一年六月 白魚火同人

〈啓子さん新鋭賞おめでとう〉    富田郁子

 啓子さんをはじめ一門五人が県展洋画の制作に悪戦苦闘している最中に啓子さん新鋭賞の朗報が入った。同門の安達みわ子さんが既に新鋭賞を受賞しており、私も少し焦りぎみであったので嬉しくて涙ぐんでしまった。
  どんぐりころころ団塊世代とくくられて
 啓子さんは私の長男と同じ二十七年生まれ、団塊の世代に入る。仕事の上では中間管理職、家庭では子どもの進学、就職と一番大変な時期である。その中で啓子さんは勤めている介護支援センター、通称津田の里のケアマネージャー、部長として仕事をこなしながら、傍ら油絵、俳句と精進をしている人である。
 啓子さんは、私の小さな画塾に、小学一年生の長男、祥吾君を連れて来られた時、始めて会った人である。祥吾君は自由な発想で絵を描き、中央のコンクールにも何回か特選をとった事があるすばらしい子であった。そのうち、啓子さんも、啓子さんの実の父上もアトリヱに来られるようになった。父上は亡くなられたが啓子さんは洋画展、県展と百号大の油絵を出品、上位入賞が続いている。
 絵を始められてから三、四年たった頃、新聞の「私の作品」の俳句欄に啓子さんの名前があった。聞いてみると「津田の里」に入所しておられるお年寄の中に俳句の好きな人があり、その人を支援する為に職員が一句ずつ作句して添え、新聞に出したとのこと。すぐ施設全員に白魚火に入会して貰うよう話したが、結局、啓子さん一人が入会された。
 多忙な毎日で、吟行や句会出席は不可能に近く、従って作句はいつも仕事の場である。
   老人ホーム夜を鳴き通す月鈴子
   血圧を測るも日課小鳥来る
   赤チンも死語となりゆく暮の秋
 平成十二年、私の主人が脳神経麻痺という難病にかかり半歳入院した。年末、どうしても退院したいと言うので病院側に申し出たら「退院しても家族では看病できない。すぐ施設を探しなさい。どなたかケアマネージャーを知りませんか」と言われる。私も主人もそれまで病院とか医者とかの関りが全然なかったのでふと思いついて「津田の里の中島啓子さんなら知っていますが」とおずおず言うと、「それはすごい。あの人は今、県でも五本の指に入るんです。」とすぐ退院がきまった。主人が死ぬまで本当によく面倒をみて下さった。
 啓子さんは努力の人である。元、日赤の看護師であったが、「子どもと同じ土、日の休日が欲しい」と退職。数年後に今の資格をとり再就職。子どもさん達が成人された今は、土、日も会議や研修会に出かけられる事が多く夜も八時過ぎでないと自宅の電話が通じない。それでも夜中をかけて絵を描き、俳句を作り、一度の展覧会不出品はなく、毎月の白魚火投句も欠稿されたことはない。今回の受賞を機に更なる飛躍をされることであろう。受賞式には美人の啓子さんを皆さんに自慢したい。
〈受賞のことば〉

無断転載を禁じます