最終更新日(updated) 2005.12.25 |
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白魚火平成18年1月号より転載 | |||||||||||||
白魚火創刊五十年通巻六百号記念東京 | |||||||||||||
期間:平成17年9月24・25日 於:東京 椿山荘 |
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平成18年1月号へ |
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全国大会参加の記録 |
内山実知世 |
私たち函館白魚火会一行八名は、修学旅行生になったような気分で寝台特急北斗星の乗客となりました。気楽に眠りながら行けるとの期待に反して、レールの軋む音に耳が慣れないことと、結構揺れることに驚きながらの旅の始まりでした。朝になって車窓を流れる本州の景色は、黄金の稲穂の稔りと棒稲架の整然と並ぶ刈田でした。事故の影響もあって東京到着は二時間余り遅れました。当日吟行予定の子規庵の見学は、残念ながら変更となり大会終了後と決めました。 六百号記念全国大会は、明治の宰相山形有朋ゆかりの椿山荘。二万坪の庭園が私たちを迎えてくれました。傘をさして少しの時間ほんの一隅を巡ってみました。室町時代に建立されたという三重の塔が移設され、夏には螢が飛び交う螢沢、羅漢石は京都から運ばれて来たと聞きました。国賓などをお迎えするという立派な日本庭園でした。歴史的文化財を配置し、四季折々の日本庭園の美しさを誇る椿山荘は、この日三十分ごとに結婚式が挙行されていました。私たちは、俳句の出来・不出来も気になりましたが、大会に参加して良かったことは、お名前だけ知っている白魚火の先生方とお会いしてお話する機会を得たことでした。 晩餐会では、俳句月刊誌上で拝見する結社の主宰の先生方と、各総合雑誌の編集長様もご出席されていらっしゃいました。ご挨拶の中で、俳人協会事務局長棚山波朗先生が「パワーをもって俳句をつくり、俳句からパワーをいただく」と言われたことが印象に残りました。若葉主宰の鈴木貞夫先生は、仁尾主宰の「木の葉髪わが抗帽に庇いくつ」「天心も湖心も凪げる良夜かな」の句について鉱山俳句の象徴的な作品と評されておられました。私も仁尾先生の作品から、生死を共にするお仲間と一緒に働く現場の句。そして深い絆と友情の作品など、私には理解の及ばない体験をされていて、豪快でありながら繊細な作句をなさる仁尾先生にあらためて尊敬と感謝を申し上げたいと思います。 初参加の誌友は、「これまではハンドバックを手にする趣味の範囲から、自分の中で俳句の占める位置が変わったのです。俳句漬の四泊五日の旅は貴重な時間でした。俳句が身体に融け込んでしまったようです。現実の世界に戻るのが惜しいような気がしました。」と感想を寄せてくれました。 大会後、鎌倉まで足を伸ばし、鶴ヶ岡八幡宮・寿福寺・長谷寺など巡ることができましたのは、旅馴れた佐藤美津雄さんのご案内のお陰です。 最後に、大会の要としてご活躍された、青木行事部長はじめ皆々様のお働きに感謝申し上げます。来年は浜松でまたお会いしましょう。 |
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椿山荘庭園吟行 |
清水春代 |
台風十七号が直撃するとの天気予報を心配しながら九月二十四日、午前八時三十分 群馬白魚火の一行がバスに乗り込み中之条町を旅発ち東京椿山荘へ向かった。出発する時には降っていなかった雨も渋川へ着かない内に降り出した。椿山荘へ着く頃には大したこともなく予定より少し早目に着くことが出来た。 荷物預り所へ旅の荷を預けて、早速庭園吟行に出る。粉糠雨が降っていた。東京にもこんなに廣くて、立派な庭園があることに目を見張る。池の周囲には咲き初めた彼岸花、まだ青い椿の実、色付き初めた柿の実等まるで季語が重なり合っているように見える。 配置良く、祀られた七福神、木食上人が旅人のために作ったといわれる丸形の水鉢など見て歩き、室町時代末の建築とされる三重の塔の前に出た。当時のままに美しい姿で何者をも寄せ付けない崇高な雰囲気を醸し出していた。簡単な柵をめぐらし、その柵に灸花の蔓が一本絡みつき小さな花を咲かせていた。 なだらかな坂を下り始めた石垣に大きな歯朶の葉が少し色付いている。良く見ると、葉の中央脈にじっとしがみついている一匹の虫が葉の色とまったく同じ色の保護色である。虫の苦手な私は、背中がゾットして飛び退いた。右手に回り坂を下りると楠の大木がゆったりと枝を廣げ、御神木だろうか、太い注連縄が張りめぐらされている。右手に簀で囲ってあるので覗いて見ると、何か工事をしている。考えたものだと感心しながら戻って行くと聴秋瀑の立札があり、水車があるのに、受ける水が少ないため回り初めては元に戻って止ってしまう。後を見ると、形ばかりの小さな釣瓶を残し古香井が流れのすぐそばにある。 今度は登り坂となり、左側に雨露を含む草の中に眠っているかのように羅漢石が何体か見える。ロビーへ戻ってみたが、まだ時間があるので芭蕉庵に行くことにし、道をきき、胸突坂を下りて左に入ると、芭蕉庵、小さな池があり、花茗荷「別名藪茗荷」が漆黒の実をつけていた。秋の蚊がすごい。奥へと進むと樹木におおわれた細い道があり「さみざれ塚」と立札があるので行って見ることにした。日中だというのに日暮れのように足元が暗く虫が鳴き、ちょっとした建物があるだけのようなので傘を杖にして足場の悪い道を引き返して来た。椿山荘へ戻り、受付けを済ませて会場へ入ると、会場の窓から三重の塔の全景が庭の樹木と相俟って何とも美しく見えた。それが黄昏時になるとライトアップされて六百号記念に相応しい景色となり、最高の大会であった。晩餐会も素晴らしいお客様を迎えての祝宴である。一泊ではあったが、有意義な吟行が出来、全国の誌友の方々や、先生方にお目にかかることが出来倖せである。 仁尾先生初め諸先生方、大会委員の皆様方に敬意と感謝を申し上げます。 |
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また一つの思い出 |
多久市 大石ひろ女 |
昨年の京都大会には、仕事の都合で急に出席出来なかった為、今年大会に出席出来る事の喜びは一入であった。 ひひな会他十二名の参加である。しかし、東京は初めての人が多く不案内の為、ガイドブックを購入し地下鉄路線図・近郊路線図を見たり、東京の安田青葉さんにもアドバイスを受けやっと行程表を作成した。大会の前日に東京に入り荷物を預けるべくホテルへと向かった。行程では、最初に新宿御苑を散策する予定であったが、ホテルへ向かうバスの中で高添すみれさんから、関口芭蕉庵の資料を見せて貰い、こちらの方が良いのではないか?と急遽予定を変更する。ホテルから新宿駅まで歩いて十分程、駅で(総武線で市ヶ谷に行き、有楽町線に乗り替え江戸川橋)で下車を確認し改札口へ向かう途中二名足りないのに気付いた。雑踏の中に紛れ込んでしまったと思うと一瞬青くなったが、携帯電話の御蔭で無事に見つかり先へ進む事が出来た。江戸川に添って芭蕉庵へ向かったが途中から神田川と川の名は変わっていた。今から三百年以上前に芭蕉翁が水道工事の監督としてこの地に住んでた頃は、どのような地形で有ったろうかと遠い昔に思いを馳せた。神田川には、もう桜紅葉が散りかけており友禅流しを見るようであった。芭蕉庵では、皆んな秋の蚊に攻められ手足を何ヶ所も刺されてしまった。 秋の蚊の八方攻めや芭蕉庵 すみれ 秋の蚊を句帖で払ふ芭蕉庵 みち女 芭蕉庵の後、椿山荘、護国寺と巡ったが、護国寺を出る頃にはすでに夕暮れが迫っていた。皆歩き疲れて喉はからから、熱中症の一歩手前だ。ひとまず自販機でお茶等を買い水分補給をする。さて、これからホテルまでどうして帰ろうか?幸い護国寺の前に派出所が有り地下鉄が一番早いですよ、と教えて貰った。皆はタクシーに乗りたかった様だが、又地下鉄で新宿に向かった。ちなみに佐賀には未だ地下鉄は無いのである。 翌朝は新宿御苑を散策したが、余りの広さに道を迷い同じ所を二度も廻ってしまった。手入れの行き届いた松の緑が見事であった。 会場の椿山荘で昼食を取る事にして、少し早めに着いた。会場を確認すると大きな部屋に六百号記念大会の立派な横断幕が懸けられていた。一番乗りを記念してこっそり記念写真を撮って貰った。開会が近づくにつれ句友の方々が集まられ、再会の喜びを分かち合った。大会は、青木行事部長さんの細やかなお心配りと的確な進行で予定通りに終了し、晩餐会には沢山の来賓の方の御出席を頂きとても盛大に催された。来賓の方の挨拶にも有ったように、白魚火が六百号を迎えるまでに一度の欠号もなく続けてこられたという偉業には、代々の主宰、又現仁尾主宰や多くの諸先生方の御尽力のお蔭である事を痛感した。そして、この白魚火の一員として自分が居ることをとても嬉しく思った。 翌日の選者選には、隣席の谷山瑞枝さんが「一回ぐらい名前を名乗りたいですね」と話しかけたので、「そうね」と二人で頷き合っていた。ところが、一行のほとんどが入賞できて皆大喜びだった。 この大会で白魚火誌友の皆さんの熱い気力に接し、これからも自然との対話を大切により一層励んで行きたいと思った。 |
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通巻六百号の重み |
安澤啓子 |
仁尾主宰を先頭に初生句会の一行は、新幹線で式典会場の椿山荘に直行した。到着後直ぐ順路に沿い、椿山荘庭園の吟行に入った。生憎小雨が降ってきた。 秋雨傘我慢しやうか開かうか 正文 確かに句の通りである。大都会の喧騒はなく、虫の声、せせらぎに耳を傾けながら、広大な庭園を散策した。先ず二十体の苔むした羅漢石の優しいお顔を拝し、清清しく、爽やかな気持を頂いた。聴秋瀑からの小流れに掛けられた水車には、片田舎に佇んでいる錯覚に囚われた。 折々に水車の廻り虫の声 均 園内各所の椿の実は、艶やかな薄紅色をしていた。 紅淡く椿山荘の椿実に 仙花 なだらかな坂を上ると、木食上人、養阿正禅が旅人のために作ったと伝えられている丸形大水鉢は、湧き水が溢れていた。その前の敷石は牛車の轍が刻み込まれており、目を見張った。その先には、重厚な三重塔が聳え、さながら古都に足を踏み入れた感がした。一回りして外に出た。神田川沿いに進むと、川の反対側の胸突坂の登り口に芭蕉庵がある。庵内には、萩、芒、曼珠沙華等、秋の草花が咲いていた。 どんぶりに萩活けてあり芭蕉庵 建代 「古池や」の句碑が池の辺に建てられていた。 吟行の事はさて置き、六百号記念晩餐会を振り返ってみる。仁尾主宰の挨拶と来賓の方方の祝辞より「白魚火」の半世紀の歴史を拝聴した。昭和三十年九月創刊。ガリ版刷にて投句者は三十二名。選者は中村春逸氏。その後主宰は故西本一都先生から故荒木古川先生へと継承され、平成十二年六月より仁尾正文主宰が両主宰の遺志を受け継がれた。師系は「若葉」の富安風生先生。「白魚火」が五十年間一号の遅刊も欠刊もなく六百号を迎えられたことは、幾多の困難を乗り越えられた先師西本一都、荒木古川両先生、主宰仁尾正文先生の御指導の賜であり、諸先生方、諸先輩の「白魚火」に対する熱情の賜であると思う。来賓の方方のお話を拝聴しながら、「白魚火」の伝統の重み、偉大さを改めて知る事ができた。 祝辞の次は、乾杯、懇談、来賓紹介、演奏の次第。ヴァイオリン、オカリナ、ピアノ演奏には、恍惚として聴き惚れてしまった。来賓三十三名をお迎えしての晩餐会は、青木華都子行事部長の名司会により盛大の内に、二時間は瞬く間に過ぎて閉会となった。 結社「白魚火」の一員であることは誇りであり、ますます「白魚火」を慈しむ感を強くした。 六百号記念大会のご盛況おめでとうございました。役員の皆様、本当にありがとうございました。 |
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お目にかかれて |
西田 稔 |
瓢箪から駒といった受賞で、東京大会に出席することになった。一人で上京するのは、この歳にして初めての体験だった。平素呉の片田舎に引き籠っている自分にとって、西も東もわからない東京へ行くことは不安であったが、新しい経験が出来るという期待もあって、その日を待った。 大会前日の二十三日午後遅く予約していた宿泊所へ何とか辿り着いた。近くに青山霊園や根津美術館があることをガイドブックで見ていたので、時間があれば行ってみたいと思っていたが、疲れてもいたし、雨も降り出していたので、どこにも出かけず大東京の空の下の狭い一室で翌日を迎えた。 大会当日。「白魚火」誌上での何度かにわたる案内の御蔭で、椿山荘へは比較的容易に到達出来た。 ここからがこの小文の本題である。 今回の大会に参加して何が一番印象に残ったか、と問われれば、祝賀会に出席されたゲストの俳人や、鳥雲集の同人に直接お目にかかれたこと、と答えたい。 平素テレビや誌上でしか知らない著名な俳人が何人も目の前におられ、その中の数人がスピーチもされた。白魚火五十年の歴史、それを刻んでこられた先達の業績、今後への激励等のお言葉は心に響くものがあった。 又鳥雲集でいつもお名前を拝見しながら、どのような方か想像するしかなかった多くの方々にお目にかかり、雲の上の人でない身近さを感ずることが出来た。その中の何人かは懇親会準備の休憩中に親しく声をかけて俳句のこぼれ話などをして下さった。懇親会のテーブルに鳥雲同人の同席を考えて下さった配慮も有難かった。 正直言って、私は決して「白魚火」の熱心な読者ではない。白光集や白魚火集の俳句に至ってはページをめくるだけのこともしばしばである。しかし名前を知っている野の花には自ずと足が止まるように、大会や鍛錬会等でお話する機会があったり知り合いになった方々のお名前に出くわすと思わず目が止まり親しい気持で俳句を読ませていただいている。今大会への出席でそのような人が増えたことをうれしく思っている。 最後に蛇足であるが、受賞式について。 今回は記念大会ということもあって受賞者は五部門で計三十名。その一人ずつが壇上にあがり主宰から表彰を受けた。私はそのことに感激しながらも、約二時間立たされたままである主宰や司会者のこと、座席で辛抱強く拍手を送って下さる人達のことを思った。白魚火誌上にも発表され大会式次第にも名前が載るのだから受賞式はもっと時間短縮を考えるべきではなかろうか。それによって浮く時間を主宰のお話や会員同志の交流に当てる方が全国からの参加者にはより有意義だと思うのだがいかがなものであろうか。 |
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選者詠集に学ぶ | ||||
安達美和子 | ||||
白魚火全国大会は、それぞれがそれぞれの目的を持って参加する。 仁尾主宰に会える。選者の方々に会える。親しい句友に会える。そして、皆が同じ場所で同じ時に同じものを共有し、そこから生まれる俳句を学ぶことができる。まだまだ目的はある。今年も、あるいは今年こそは、選者の短冊を持ち帰るぞという意気で参加するのも否めない。 外は折しも秋雨に烟っていたが、椿山荘に足を入れたとたん、その熱きものが伝わって来る。 各地域で吟行し、句会をし研鑽を重ねているものの二百七十名が集うのは規模が違う。同じ所で詠んだいろいろな人の句から、きっと得るものがある。 私は特に選者の玉章に関心があり、いつの時にも心待ちにする。今年も選者詠集が配られた。私が詠んだ場所、あるいは、詠みたかったがどうしても詠めなかったものに出合った時、身に沁みて感動を覚える。 俳句は季語が重要な部分を占めることはいうまでもないが、さすが選者の方々は、季語が内容と共鳴し、季節の香りに溢れている。そして、そこにはポエムがある。私はといえば季語がただ句の調子に紛れ込んでいるように思える。言葉の表現にしても、実に繊細で感覚的で美しい。季語も言葉も一つ一つ感じ入ったものを挙げたいが止むを得ず割愛する。 やはり、写生眼と感性、それに言語力を育てなければならない。気負わないで、素直に感じたことが人に分かるように伝えられたらと思う。私は、どうしてもひとりよがりのおもいに走ってしまいがちである。 今回の選者詠集は、下五が五十パーセント以上名詞止めになっている。上五、中七はどうか、そして、五、七、五のつながりはどうか、それを探ることにより俳句の趣、しらべもこれから学びたいと思う。 大会終了後、例年のごと一泊延ばし、鎌倉へと足を運んだ。 先ずは、鶴岡八幡宮、鎌倉大仏、長谷寺、銭洗い弁天(泉で銭を洗いよいことに使えば増える。)寿福寺(実朝、政子の五輪塔)東慶寺(女人救済の駈込寺)建長寺(臨済宗の大本山)の順に巡った。 吟行は先輩諸姉の口からついとこぼれる博学な故実や、俳句につながる言葉等に耳を傾け、いくつか句を作り、秋の鎌倉を満喫した。 寿福寺では、はからずも虚子の廟の前に出た。そこには、坊城中子先生や、お仲間の方々がお参りしておられ、お話する栄に浴した。 爽籟や虚子とのみある墓なりし 梶川裕子 まさに虚子の墓は素朴で侘びの中にあった。虚子のお墓にお参りして、源実朝、北条政子の廟へと向かった。親子でありながら少し離れた侘しい窟の中にあり、愁思を覚えた。 来年は仁尾主宰の浜松。いまだ行ったことのない未知なる地。楽しみである。 |
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新前裏方奮闘記 |
浜松 大城信昭 |
誌友となって二年足らずの新人であるが、ホームページの担当をしているためか、運営係を仰せ付かった。台風接近中の二十四日早朝、同役の浜松白魚火仲間三人と、新幹線で東京へと向かう。自分だけ、全国大会初参加のためにどんな服装が相応しいのか分からず、コロ付きの大きなスーツケースに衣類を多目に詰め込んで携えている。 小雨の東京では、時間的に余裕があったので銀ぶらをし、新江戸川公園の芭蕉庵を散策してから、華燭の典で賑わう会場に着いた。 運営係は約二十名で、私の名は同行の三名と同様、受付係と句会係にあった。事前打合せの後、既に多くの会員が開場を待ちかねている様子なので、福田勇さんを陣頭に定刻より早めに受付机に立った。白魚火誌やホームページで名前を目にする人が受付をするときには、育んで来たイメージと実際の人物とを、脳裏で照らし合わせて遊ぶ。中には性別が思い込みと逆であったりして、そんなことで、瞬く間に受付の二時間が過ぎた。 最初のイベントである開会式と各賞表彰式の席では、会の進行を上の空で見聞きしながら、句会のノルマである三句をなんとかひねり出し、所定の短冊にしたためた。 夜の二百八十人の大晩餐会では、ホームページ掲示板によく書込みをされる方々の席を訪ね歩いて、お礼の挨拶をし、お酌をする。長年の知己のようで、初対面の気がしない。 宴が終了すると、今度は句会係としての仕事が待っていた。奥田積リーダーのもと、集まった六百五十句ほどを三十名余の代表選選者のために、コピー機を駆使して選考用投句集として纏める訳である。八名でA4の台紙に一枚ずつ提出された短冊を貼って、一ページが出来上がる毎にコピーを取り、類別をする。この作業を会場の閉門時間十一時過ぎまで一所懸命、チームワーク良く続けた。 翌朝は七時半から昨夜の続きのコピーと、類別・ホッチキス綴じ作業である。それを終えて、選者の先生方が夥しい数の俳句と黙々格闘している間だけ、到着以来始めて安息の時間が持てた。だがしかし、三々五々に代表選結果が出始めると、司会者・被講係・選者そして参加者のための写しを作成すべく、再びコピー作業が始まった。 そうこうして、俳句大会は正午過ぎ、滞りなく終了。 解散後、総会用小物のパッキングを手伝ってから、浜松白魚火仲間十人ほどで椿山荘を後にし、台風が逸れて秋の日が覗く下、浅草寺と隅田川水上バスを楽しんでから帰途についた。 今回、我々当日限りの運営員は、決められたことをこなすだけであったが、青木華都子行事部長を始めとして企画立案から事前事後の大小諸業務を担当された方々は誠に大変だったと思う。深く感謝申し上げたい。 |
受付係の面々 |
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句会係の哀歓 |
奥田 積 |
六百号記念大会の句会係の指名にあずかった。京都大会の際にも大いに戸惑った。宮島大会の後、少なくとも十数年は大会の世話には無縁だということで、句会に関する資料などは旭川へ送り届け、その後は、大方の物をきれいに処分していた。 そんなところへ、京都大会の句会係の話が舞い込んできたのである。古いフロッピーを立ち上げては、あれこれを探し出したり、旭川に記録が残っていないかを照会したりした。幸いにも、京都大会では同じ句会の方達と共に臨めたこと、事前に会場の下見もできていたので、気分的には心配が少なかった、誌友の少ない地方での大会開催に道を開こうとする青木行事部長の熱意に大きく心打たれた大会であった。 六百号記念大会の句会係については、事前に行事部長よりの電話で、担当者の方の名前を聞いてはいたが、お顔を存じ上げない方がほとんどであった。しかし、次の開催地の浜松の方達をはじめ一騎当千の方々で、てきぱきとこなしてくださり句会の準備は万端整った。 もっとも、選者詠集をコピー中、コピー機が白紙を排出する状態となり、そんな中で晩餐会の時間を迎えてしまった。来賓の方々の祝辞や挨拶が終わるのを見届けて会場を抜け出し、リース業者と連絡を取っていると、同じく星田一草さんも抜け出して来てくださる。一ヶ所が直れば他が思わしくないで修復に時間を取ってしまった。そんなことで晩餐会中にはどなたにもご挨拶ができなかった。 六百五十句の投句である。事前に考えたことは、選句に時間を出来るだけ短縮していただけるように、これまでの回覧方式を改め、全ての句稿を選者の方々に配布するようにすることであった。そのためには、句稿の枚数を出来るだけ少なくし、短時間で句稿が作成できなければならない。印刷機の導入も考えたが、リースが難しいうえに、印刷面がコピー機に比べて狭いことが判明してこれは断念した。次には、事前に投句控え用紙に記入してもらい、披講後の名告を早めてもらうことと、特選句の賞を直ちに受けてもらうことである。京都では、賞の授与で大変にもたついたことからの反省であった。 披講係は定評のある松本さん、渡部さんが当たられる。特選句の句番を読み上げてもらう。見事な披講で、句会は無難に進行していくかに思われた。しかし、今度の大会はこれまでで最大の選者のご出席である。時間が押してきている。披講のスピードを速めてもらうように依頼し、主宰の講評をお受けする時間を行事部長に相談する。普通の大会なら、夜は長い、多少は後の予定に食い込んでも、主宰の選評や講話をじっくりとお聞きできるのであるが、名立たる会場椿山荘の泣き所は時間内に進めなければならないところだ。短い時間の講評で主宰にはもとより、全国から参集された誌友の皆様にはまことに申し訳ない進行になってしまった。 句会係を終えて、ジレンマはあるが、今後のこうした記念大会のような句会では、当日詠を重視する方式がよいのか、主宰の選評や講話の時間を十分に設定できる事前投句、事前選句の方式が良いのかの検討をしていただけたらと思うことである。 裏方としての特典がないわけではなかった。私は、来賓のお一人に櫂美和子さんがおいでではないかと予測し、新宿の紀伊国屋本店で、櫂さんの新著「食の一句」を購入して持参していた。来賓控室の裏手が句会係の溜場である。控室に向かわれるところへ行き会わせたので、サインをお願いすると、快く応じてくださり、一句を書いてくださった。それのみならず、実に驚いたことには「奥田さんて、あの俳句甲子園の随筆の……」と声を掛けてくださったのである。俳縁というにはあまりにもおこがましいが有難さを感じたことであった。 帰りの新幹線、発車間際に隣りの席に女性が飛び込んで来た。徳山までだという。女性はメールをひとしきり、そして小池真理子らしい文庫本に熱中の体である。 私は背もたれのテーブルを起こし、大会選者の選句用紙に、句稿から作者名を探して入れる作業を始める。昨年もこの作業を通して多くの誌友の名前を覚えたが、今年も同じ名前が多く埋まっていく。川端康成ではないが「いい人はいいな」と思う。隣りの女性は時々思い出したようにメールを打ち、また何事もなかったように読書の世界だ。随分読書慣れした人のようで、私が下車する福山では、もうほとんど一冊読破の勢いであった。私の作業は思いの外捗っていない。暗い明かりの町並みを確認し、隣りに騒がせたことを詫びて席を立ちあがった。 |
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北海道勢大会参加記 |
浅野数方 |
今年もまた、旭川の五嶋休光さんから「平成十七年度白魚火六百号記念全国大会参加旅行日程表」が送られてきた。 毎年私達の大会参加はここから始まる。行程・宿泊場所を確かめて準備にかかる。日常の雑事から離れる至福の旅なのである。 しかし、今年の私は旅行だと浮かれては居られなかった。記念大会である受賞者代表謝辞という、大役が当たった。悩んでもどうにもならず、一発勝負!頑張らなければならなかった。 大雪山初冠雪と記しけり 数方 九月二十二日(木) 旭川斑は、香都子・休光・純一・紀子さんと数方の五人。旭川の稔田の黄金色を蹴りながら東京に飛んだ。 札幌斑は、津矢子・美木子・布佐子さんの三人。新千歳空港の青空からの出発。 羽田空港のターミナルが二つに分かれていたが、札幌斑と旭川斑は無事に会えた。 新宿ワシントンホテルで、タカ女先生と青葉さんと合流。都庁展望台(四十五階)に上りビルの上からビル群を見た。生憎霧に包まれた東京三百六十度だったが、ビルの狭間の社の薄紅葉・都庁の最上階まで上がってきた黒揚羽に歓迎された。 山手線に乗り恵比寿の「旬鮮料理じょう」での夕食会。純一さんの後輩のお店だ。呑む前に……はい!句会です。 うつぼの鰭ほどよく焦しビール乾す タカ女 東京は積木の都秋高し 香都子 地下鉄を降り夕霧に紛れ込む 休光 邯鄲や念念無情と知りぬれば 純一 そびえ立つ新宿のビル秋の声 紀子 秋霞見上げきれざる都庁かな 津矢子 新宿の灯り初めたる霧の冷え 布佐子 念入りに旅の身支度秋うらら 美木子 吊革にもたれて釣瓶落としかな 青葉 夜食とるほど入念に旅支度 数方 九月二十三日(金) 朝の五時に長野を出発してきた野歩女さんを迎えて、小田急線に乗り伊勢原駅に到着。晴れ渡った大山参りに出発だ。 小判草お初にお目にかかります 津矢子 バスを降りてケーブル駅まで十五分の表示!いつもの事では有るが、何時間かかることやら……一歩進んで二歩下がる吟行に 草の間に日を集めては曼珠沙華 美木子 曼珠沙華見てゐる口の渇きけり 青葉 大山の秋をからめし女郎蜘蛛 布佐子 こま参道の土産屋やとうふ料理屋・独楽工房を覗きながら、九百年の歴史を重ねる寝釈迦様の居る茶湯寺で昼食を取り寝釈迦を拝観した。また、わらべ地蔵六体の仕種可愛い頭をくりくりと皆で撫でまわした。 縁側を借りて昼餉や秋の蝉 香都子 芋の露こま工房の削り屑 数方 安らかな寝釈迦を拝む秋彼岸 美木子 ようやくケーブル駅に着いたのが一時を過ぎていた。大山阿夫利神社下社で霊水をふふみ、祈願蝋燭を灯して、神妙に御神酒を戴いた。 萩の声一気に読まる般若経 野歩女 夜は鹿が遊びに来たる山の寺 香都子 参道の午後は売り切れ早生の柿 野歩女 十五時頃、この旅一番の?楽しみ。逸見先導師の蓬生亭に到着。昔を偲ばれる佇まいに感激をしていると、お抹茶のおもてなしを戴き、心落ち着かせることが出来た。また、疲れている私達に、タカ女先生から九州の松露まんじゅうの差し入れがあり、俳句を作る頭も回り始めた。 句会終了後は、懐石料理にたっぷり酔いしれた。 九月二十四日(土) 雨交じりの新宿を山手線に乗り、椿山荘に到着。記念写真を写して、いよいよ全国大会が始まる。一年ぶりにお会いする方々にご挨拶をしながら、青葉さんを探す。青葉さんは、大会お手伝いに張り切っていた。 秋天や背中合わせにビルとビル 青葉 時間まで、椿山荘の庭園を巡り、芭蕉庵を楽しんできた。由緒ある椿山荘には見るところが沢山あった。庭園を進むと羅漢石に出会い手を合わせた。七福神の顔を覗き、三重の塔を仰いだ。 生憎の霧雨となり、傘をさしての吟行となったが、芭蕉庵までの道は神田川沿いで、南こうせつの歌を歌いながら歩いた。芭蕉庵の庭からはみ出す見たことのある木!破れ芭蕉だ!と香都子さん。野歩女さんと数方はバナナだ!木も実もまったくバナナだ。と…… しかし、破れ芭蕉であった。今まで何回も寺院等で見たバナナと思っていたのは、破れ芭蕉だったのだ。誠に勉強不足。 関口芭蕉庵は、胸突坂を上る途中にある。木戸を開けて中に入った。踏み石沿いに庭を巡ると碑があった。真筆を模写した有名な句碑「古池やかわず飛び込む水の音」が萩に埋もれて座っていた。膝を突いて拝してきた。 往復がよろし胸突坂の秋 津矢子 参道の夕やけ小やけ彼岸花 布佐子 記念大会とあって、二百六十名の参加で始まった。 各賞(白魚火賞・新鋭賞・みづうみ賞・評論賞・随筆賞)の受賞者三十名の表彰があり、実桜からは、みづうみ賞秀作の奥野津矢子さんも、白いジャケットに黒のパンツの清楚で若々しい出で立ちで堂々と受賞された。私も白魚火賞とみづうみ賞秀作を戴き、晴れの舞台に立つ事が出来た。受賞者代表の謝辞も書面を読んだので、思っていたほどの緊張もなく終了した。 十八時から、六百号記念晩餐会がヴァイオリン・オカリナデュオ・ピアノの調べに包まれながら始まった。三十三名の来賓をお迎えしての盛大な晩餐会であった。 仁尾先生の満面の笑みは忘れられない。また、各テーブルに鳥雲集作家が座られたことも新しい試みで良かったと思う。 九月二十五日(日) 朝から、香都子さん野歩女さんは代表選の互選作業でご苦労されている中、私達は青葉さんの案内で、椿山荘周辺を歩いた。 カテドラル教会でパイプオルガンを聞き、外に出てルルドのマリア様を拝し、新江戸川公園に向かった。歩いていると、カリヨンの響きが流れて来た。優しい音色に歩を止めて聞き入った。 新江戸川公園では、鴨と亀が泳いでいた。素朴さの中に江戸時代の純日本式武家庭園の面影をとどめていた。 椿山荘に戻り、代表選に名乗りを上げる準備?……席に座って落ち着いた。 実桜の仲間の名乗りが何度も響き、大会が終了した。 椿山荘を後に、羽田空港へと向かった。今年も旭川白魚火の方々のお力添で、無事大会参加を終了することが出来た。感謝してお礼を申し述べたい。 どうにでもなること破れ芭蕉かな 香都子 花茗荷寝釈迦のころも薄埃 野歩女 |
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