最終更新日(Update)'10.02.29

白魚火 平成17年3月号 抜粋

(通巻第654号)
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3月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
   平成21年度 「白魚火賞」・「同人賞」・「新鋭賞」発表
季節の一句    村上尚子
「猟犬」(近詠) 仁尾正文  
曙集鳥雲集(一部掲載)安食彰彦ほか
白光集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
       
鈴木敬子、江連江女 ほか    
白光秀句  白岩敏秀
句 会 報  旭川白魚火句会
白魚火集(仁尾正文選)(巻頭句のみ掲載)
          木村竹雨 、吉村道子 ほか
白魚火秀句 仁尾正文

季節の一句

(磐田) 村上尚子 


風花や目鼻やさしき孕牛 坂本タカ女
   (平成二十一年四月号 曙集より)
 ただでさえ動きのゆったりした牛が、大きなお腹を支えているのは見るからに大変そうである。見開かれた黒い目が濡れている。何かを訴えようとしているのだろうか。その貌は既に仔牛を思う母親の表情そのものに見える。
 よく晴れて雲ひとつない空から雪片がちらついている。十勝岳、旭岳、天塩岳と二千メートル級の山が連なる旭川は、上層の風に吹きおくられた雲が風花となって舞い落ちてくる。
 「風花」を見ている作者は、その思いを牛に重ね、春を待つ心をひときわ強めている。

なだめつつ猫の爪切る春隣 坂田吉康
   (平成二十一年四月号 白魚火集より)
 子供の頃捨猫を拾ってきて母に叱られたことがある。結局母が根負けしてしばらく飼ったことを思い出したが、爪まで切って可愛がった記憶はない。それに比べ「なだめつつ猫の爪切る」には感心してしまった。
 日当たりの良い部屋での作者の懸命な姿と、やさしい声が聞えてくる。
 「春隣」の季語には、作者の気持が一杯つまっている。この家に飼われて本当にしあわせな猫ちゃんである。

そのへんの梅を見に行く日和かな 横田じゅんこ
   (平成二十一年四月号 白魚火集より)
 梅の開花はその年の気候や、地方によって大分差があるが、早春の野山に咲く花としては最も待たれるものであり、身近かなものである。
 名園と呼ばれる場所へ遠出をするのもよいが、「そのへん」でも結構楽しめる場所は沢山ある。朝起きて、あるいは家事を済ませてあまりの良い天気につい「そのへんの梅でも見に行こうかしら」、となった次第。帰るまでにはしっかりと二、三句拾って…。


曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   

  関 守 石  安食彰彦

花石蕗や関守石の置かれたる
飛石の周りに落葉落葉かな
冬涛や征露の塔のありし宮
猪網の囲む代官家の畑かな
びんづる様落葉を入れし頭陀袋
閼伽桶に銀杏落葉の浮いてをり
仕合せな家族か二枚の干蒲団
一杯は湯豆腐が良し吾れ老けし


 冬 の 鳶  青木華都子

雲の上そのまた上に冬の鳶
手の届く高さに咲いて冬桜
戦場が原に誰あれもゐぬ寒さ
銀杏散る西洋館の赤い屋根
橡並木枯木通りとなりしかな
寄り添うて一つは蕾冬牡丹
冬の夜のまだついて来る靴の音
天気図は西高東低明日は雪


 重 ね 着  白岩敏秀

綿虫や火入れ待ちゐる素焼壷
霜月のひかり研ぎ出す手鎌の刃
木枯や汽車着くたびに駅膨る
重ね着てうつくしく齢とられけり
湯ざめして最も遠き星探す
喪の庭の山茶花紅く咲きにけり
時雨るるや日暮れて降す日章旗
触れみる紙のうすさの初氷


 雪 紅 葉  坂本タカ女

もの申す蟇の文鎮夜の秋
塒への鴉の群や雪ばんば
雪虫や狛犬石の眼して
をとこ茶会の軸の色気や神の留守
朱をつくす床敷霜月茶会かな
雪紅葉抹茶茶碗のよき歪み
お茶席のむかしは兵舎文化の日
バーバリーコート着て去るうしろかな


 箱根旅吟   鈴木三都夫

関所址老松今も色変へず
散り急ぐものに落葉松紅葉かな
笹鳴の径の尽きたる湖畔かな
遊船の水尾を遠くに浮寝鴨
大綿のさすらふ熔岩原地獄かな
硫気荒び賽の河原の冬ざるる
枯れ残るものを許さず硫気噴く
熔岩累々膝より上る山の冷え
 寒 日 和  水鳥川弘宇
強霜や友の画展は白づくし
潮煙立ち松原の寒日和
竪穴式住居の隅の大根畑
頬熱くなるまで佇ちて紅葉寺
入院の甥を励ます年の暮
三畳間膝歩きして冬籠
吊し柿終のひとつとなつてをり
日脚伸ぶ妻も子も留守猫も留守

 冬 帽   山根仙花
布施と書くだけの墨磨る夜寒かな
黙深くただ冬を待つのみの峡
幾度も音と去りゆく夜の時雨
水鳥の影の漂ふ夕あかり
地を低く冬蝶影もなく飛べり
冬木みな孤独の翳を纏ひ立つ
枯芝にふはりとありし日のぬくみ
断崖に立つ冬帽を鷲掴み

 炉 開 き  小浜史都女
炉開きの切り口美しき備長炭
果実酒の琥珀色なり冬はじめ
封筒の窓にわが名や十二月
冬菊や昏るるばかりの山ありぬ
木枯一号二号に雨のまじりけり
冬雲雀畑に減りゆく根野菜
二階まで日を引きよせて布団干す
荒畑に水仙の芽の出揃ひし

 白 砂   小林梨花
冬霧を脱ぎてあはあは神の嶺
神域の水もて洗ふ冬菜かな
ほこほこと杜の日射しや冬椿
末枯の道を抜け来て日本海
行く年の水滔滔と海へ落つ
国引きの浜に千鳥の爪の跡
白砂に我が影生まる十二月
怒涛音背に忘年句会かな

 大 志   鶴見一石子
凩が追ひかけて来る乱世かな
年の暮新宿駅の乗降者
右に浮き左に沈む雪蛍
杉襖天狗の杜のなめこ汁
足るを知り不足を知れる煤籠
意のまゝに桁を手繰りて紙を漉く
すきとほる寒き日を抱く日本海
月光の氷柱大志のあるごとき

 冬ざくら   渡邉春枝
満願の磴を一気に冬ざくら
結願の白衣に紅葉あかりかな
葛湯吹く百の石段登り来て
冬霧の深し色なき町通る
武家屋敷めぐる山茶花日和かな
襖絵にとどくや石蕗の花あかり
マネキンの武士の一礼受けて冬
神留守の順路に沿へば醢の香


鳥雲集
〔上席同人 作品〕   
一部のみ。 順次掲載  

 怒 涛 音  梶川裕子
波荒き美佐伎の宮の新松子
怒涛音きこゆ岬店鰯干す
影踏みの鬼に追はるる小六月
小春日の青空ほうと湖広し
竜神に導かれたる神集ひ
神等去出やお立ちお立ちと神立たす

 賀状書く  武永江邨
古川句碑静かに木の葉降つてゐし
追憶の一つ一つに木の葉舞ふ
落葉踏む音が孤独を誘ひけり
賀状書く妻に新たな友の出来
函館は忘れぬと言ひ賀状書く
妻の名を添へて賀状を書きにけり

 冬 紅 葉   上村 均
鵙鳴くや城址のせまき駐車場
探鳥を終へ稲刈を見てゐたり
内海の波尖るなり青蜜柑
引越しの荷の着く新居小六月
錐揉みの模型飛行機川原枯れ
ゴンドラの影が這ふなり冬紅葉

 おくのほそ道越中 加茂都紀女
冷まじや旧道海へ真つ逆様
明六つの鐘露座佛の空に雁
飛びつきし(おな)(もみ)裾を離さざる
小春凪波のリズムに歩を合はす
青首大根一分の隙も無く干さる
冬落暉火達磨となり海燃やす
 山 眠 る  桐谷綾子
沈黙を守りしごとく山眠る
芒野の涯に連なり眠る山
寒き音集めて芦の湖の眠る
炉開の火の色美しむらさきに
綿虫のにはかに舞ひし芒原
下草を取りて雪吊仕上げをり

どんぐり  鈴木 夢
玄関のかざり団栗七八粒
山並みかそれとも雲か冬がすみ
参道に猪の足跡神渡し
自堕落に重ねし日日や神の留守
なつかしき遺影に供ふ葉つき柚子
友逝きて早一年を過ぎし暮

 冬 芽  関口都亦絵
絵のやうな冬の満月夫の声
蓮枯るるはす池繋ぐ一枚石
堂縁の小春にねむる野良の猫
水芭蕉一寸ほどの冬芽かな
信心の鐘の一打や枯木山
落葉焚く孤高の僧の長寿眉

 小 春 日  寺澤朝子
霜の花父の祥月迎へけり
さえざえと祝詞上ぐるは女禰宜
冬泉城の曲輪の馬溜り
ころがれるボールが笹子驚かす
北閉ぢて日にいくばくのわが時間
小春日の帽子をかろく被りけり

白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
仁尾正文選

  雲南  木村竹雨

冬立つや欅いよいよ孤高なる
十二月八日白菜真二つ
一葉忌重たき辞書を抱へ繰る
身ほとりの反古片づかず師走くる
靴紐を締むる手袋咥へけり


  中津川 吉村道子

持ち寄りの沢庵みんな違ふ味   
磴上りどつと銀杏の落葉かな
ふはと出ていつも目線に雪螢
一輪を残して惜しむ冬薔薇
錆色の鉄瓶に挿す冬の菊


白魚火秀句
仁尾正文
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靴紐を締むる手袋咥へけり 木村竹雨

 普段着のまま、打坐即刻に吐いた句であろうがうまい句だ。西本一都も石田波郷も「俳句はうまくなくてはならない」と何時も言っていた。表現が十全でないと作り手の思いが読み手に伝わらないからである。
 掲句は、ポジティブ(肯定的)で平穏、読者を癒やしてくれる。作者は八十六歳だが、弛まぬ作句精進により技倆はいささかも衰えてなく、高齢者に勇気を与えてくれる一句でもある。
 俳壇では、感動こそ一句生成の起因だとする説がある。このことに疑問をもった筆者はしばしばこの欄で批判してきた。「感動」を広辞苑では「深く物に感じて心を動かすこと」と説明している。心が動かねば確かに俳句はできぬのだが、世間一般では感動というと例えばオリンピックの金メダリストの喜びよう等が真先に浮かんでくる。毎月三十句、四十句作句する者にそれと同じ回数感動ができるだろうか。今筆者の周辺で月一回行っている席題句会は三十分に六句作る。とても感動する暇はない。筆者は「オヤッ」と思ったり「ほおう」という極く些細なことで十分作句できると思っている。「感動が作句の起因」という「感動」が大袈裟なのではないか。ぴったりする別の言葉がある筈だ。

持ち寄りの沢庵みんな違ふ味 吉村道子

 句会の後のお茶受けに毎回誰かが沢庵を持ってくる。そんなフランクな楽しい句会のようである。その沢庵が皆微妙に味が違うのである。大根の干し具合もあろうし、何よりもそれぞれの家伝の糠床が違う味を出しているのである。
 三陸で四年暮したことがある。寒い冬の間青物が少ないせいもあってこの地の人は漬物が上手である。ここでは職場へ昼食の弁当箱を二つ持ってくる人が多い。一つは普通の弁当もう一つの箱には、白菜漬や沢庵やキムチ漬が詰まっている。一箸ずつ取って廻させて味の評価を聞きたがる。いわば味自慢をしたいのである。筆者などは毎日味を褒めていただいてばかり居た。

編棒に魔法をかけて毛糸編む 藤田ふみ子

 毛糸を編んでいるひとを見ると指が勝手に動いているようだ。傍らに積木などして遊んでいる幼を目で繋ぎながらも毛糸編む手は休めない。きっと編棒には魔法がかかっているのにちがいない。

小春日やルーペを這はす古語辞典 村松ヒサ子

 古い古語辞典であろう。小さな字がびっしり詰っているので普通の老眼鏡では読みづらい。小春日の一刻腰を入れて古語辞典を見るのにルーペを持ち出してきた。「ルーペを這はす」が具体的で、うまい。

ためらはず八年日記求めけり 池田都貴

 単年日記では翌年の三月までの日にちと曜日が分かるが、五月とか十月に大事な行事があるときは不便。昨年二年日記を買ってみたらとても便利であった。この作者は「ためらはず」八年日記を買ったという。作者の気力体力の充実が羨ましい。

冬紅葉子宝の湯を汲み帰り 水出もとめ

 平成十二年、群馬県伊香保温泉で白魚火の全国大会があった。「噛みて飲む子宝の湯や柿の秋 坂本タカ女」を特選でいただいた記憶がある。子供が欲しい若者の句であれば深刻だが、この時七十歳を越えていたタカ女さんの諧謔が愉快だったのである。頭掲句の作者も福寿であるが「汲み帰る」が少し気がかりでタカ女作の如く笑い飛ばせなかった。

日ざし濃きロビーにをれば小鳥来る 木下緋都女

 箱根温泉の女将の頃は一都先生に直接指導を受けていたこの作者も今は余生を静かに養っている。小鳥来る頃、日ざし一杯のロビーで打ちくつろいでいる。このような句を見ると選者もうれしい。

直江兼続着替中なり菊まつり 柴山要作

 昨年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公の直江兼続は、ドラマを見る迄は全く知らなかったが、戦国武将として智、仁、勇に優れたこの人物に惚れた。掲句はきっちり姓と名を誌したので成功した。名前だけでは辞典になく読者に広く解って貰えなかっただろう。

海苔(ひび)や海より広い吉野川 久次米誠至

 海苔篊の立った吉野川の河口は三百メートルも四百メートルもあり海との区別がつかぬ。「海より広い」と誇張しているが立派な写生句である。

    その他触れたかった秀句     
柚子たわわ五日も梯子掛けしまま
手廻しのオルゴール鳴る日向ぼこ
アトリエの一枚硝子冬薔薇
遠州の庭にこぼるる龍の玉
糶られゐる鮭ことごとく目が澄める
笹鳴やぴんと立てゐる猫の耳
朝鵙や薬缶が不意に笛を吹く
ファスナーの固き上げ下げ冬来る
余さずに鮭一本を捌きけり
風連れて爪立ち歩く落葉かな
手間どつて足袋はかせをり七五三
紅葉山一途の色となりにけり
良く動く我が身勤労感謝の日
亡き夫の酒が残つてゐて寒し
星 揚子
西川玲子
樋野久美子
大隈ひろみ
佐藤 勲
鷹羽克子
篠原庄治
加茂康一
甲賀 文
小沢房子
中曽根田美子
長谷川百々世
高木豊子
勝谷富美子


白光集
〔同人作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

      鈴木敬子

廃船の中の水音帰り花
夕暮の波は饒舌焚火跡
ふたみこと手話の通じて冬ぬくし
憂国忌夫にも言葉すくなき日
園児等の幕なく終はる聖夜劇


       江連江女

男体山と夕空のこし牧閉ざす
水揚げの烏賊の耳透く冬隣
蓮の実の飛びて吉祥天の笑み
しぐるるや盛塩光る先斗町
手焙りの灰の筋目や金火 


白光秀句
白岩敏秀

夕暮の波は饒舌焚火跡  鈴木敬子

 時化の海を前にして、焚火の輪を囲む漁師達。彼等は風向きや雲の流れを観察し、波の高さを目で測る。やがて今夜の漁を諦めた漁師が一人去り二人去り、砂浜に黒々とした焚火跡が残った。
 夜が近づくにつれて益々激しさを増す海の荒れ。湾内の波は大きくうねりそして砕ける。間断なく崩れる波音を「波の饒舌」と表現したのは眼前の景の的確な把握だ。
 饒舌な波を前にして、沈黙を守るしか手立てのない人間の小ささが語られている。
園児等の幕なく終はる聖夜劇
 言われてみるとなるほどと思う。可愛い句である。幕が引かれないだけに、劇を終えた園児達のほっとした表情が見えてくる。おそらく始まる前は小さな胸に緊張や不安があったことだろう。
 園児等の演技に感情移入することなく「幕なく終はる」と客観的に描写して、可愛い聖夜劇を印象づけている。

しぐるるや盛塩光る先斗町 江連江女

 昨年の『主宰等を囲む吟行会』に参加した時、先斗町界隈を見て回った。七月の日中だったため、観光客を散見する程度で静かなたたずまいを見せていた。掲句は季節は違うが、やはり先斗町の情景。
 先斗町は文化十年(一八一三)に花街として公許されたという。加えて「時雨」は万葉集にも出てくる。この歴史の長い二つの言葉を使いながら、掲句を現代に生かせ得た言葉が「盛塩光る」。「高き」或いは「尖る」でも句としては成功するであろうが、句が無機質な平板なものになってしまう。「光る」ことによって先斗町が立体となり生動し華やぐのである。慎重に選び抜かれた「光る」だと思う。なお、触れなかったが「蓮の実の飛びて吉祥天の笑み」もイメージの飛躍があって感銘した。

十二月八日使はぬ灯を消して 新村喜和子

 『帝国陸海軍は本八日未明西太平洋においてアメリカ・イギリスと戦争状態に入れり』昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発を告げるラジオの臨時ニュースである。それから四年間の戦争を経て、昭和二十年八月十五日終戦。空襲を怖れて灯火管制の下で恐々と暮らした毎日であった。終戦から六十五年を経た今、使わない灯を消しながら戦争のない平和をしみじみと感謝している作者である。
 部屋の闇は十二月八日と違って、柔らかく作者を包んでいる。

人影の映りて障子引かれけり 三井欽四郎

 静かな雰囲気が静かに描写されている。
 客間に通されて、差し出されたお茶に一服する。そしてやおら、室内を見渡す。床があり、掛け軸がある。隣には違い棚がある。障子には冬日が明るく差している。何もかもきちんと整理して落ち着いた客間である。
 お茶を飲み終えて、落ち着いた気持ちになった頃に映った影がすっーと障子を開ける。待っているが、待たされていると感じさせない絶妙なタイミングでの「引かれけり」である。
 作者の伝えたいことを間違いなく伝え、しかも表現が簡潔。その力量に感心する。

北風や子を引き寄せて道渡る 川崎ゆかり

 中村汀女に「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」の句がある。夜寒の中で寝入っている子を見守る母の優しさがある。対して掲句は昼間の活発な子ども。
 母親が子を守るのは北風や交通災害のみではない。世の全ての危険に対して、身を楯にして守る。
 この句の北風から子を守る一事によって、子を守る母親の愛情の全てが見えてくる。この身体は自分一人で守って、成長してきたのではないことを気付かされる一句である。

誘はざることの淋しさ紅葉狩 塚本美知子

 どういう理由でか、親しい友を独りぼっちに置いて来ての紅葉狩。誘われなかった淋しさより誘わなかった淋しさの方が切ない。「ことの淋しさ」と断定に続く季語が楽しい紅葉狩だけに一層の切なさを誘う。

落葉踏む森の言葉を聴くごとし 中曽根田美子

 踏んだ落葉の音は森の言葉のようだと作者は言う。
 落葉が語りかけて来る言葉は「サヨナラ」ではない。芽吹きから落葉までのそれぞれの季節のそれぞれの楽しい思い出なのだ。あたかも、古老が目を細めて昔を語るように…。
 落葉を踏むかすかな音に豊かな想像を広げる作者を羨ましく思う。

鱈汁や両目はつしと鍋の中 奥村 綾

 鱈の目玉がわーっと大写しになつている。
 鱈は貪食な魚と言われているが、今は食われる立場になっている。狙った獲物を見つめた目が見つめられる目に変わっている。
 立場の逆転は人間世界にも通用しそうだ。

    その他の感銘句
一枚の水を掬ひて紙を漉く
薬師寺の暮色に塔の雪ばんば
枯蓮おのれの影に支へられ
松手入梯子そのまま暮れにけり
僧の去り一輪ふえし返り花
今川焼麻布十番角に売る
暮早し午後は喪服に着替へねば
番鴨水より上り水を飲む
綿虫に富士山頂の遥かなる
寒の水龍の口より受けにけり
初しぐれ一燭を足す弁財天
湖といふ大きな器冬夕焼
冬紅葉小さき村の美術館
列をなす小学生のマスクかな
銀杏散るバス停ひとつ歩いてみる
池谷貴彦
森井章恵
野澤房子
剣持妙子
久家希世
高島文江
若林光一
上野米美
大石越代
田久保峰香
坂東紀子
川島昭子
本田咲子
廣川恵子
浅見善平

禁無断転載